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最終更新日:2006年2月20日


●関東地区初詣トップ4
  
初版02/01/07 二版04/09/20 <V01L01> 

●参拝の作法について(参拝の作法についてよく聞かれますので、ここに記載しておきます)

1.手水の仕方について(心身浄化の心が大切です)
右手で柄杓(ひしゃく)を取ります。 水盤の水を汲み上げ、左手にかけて洗います。 柄杓を左手に持ち替え、水を汲み上げ右手を洗います。 再び柄杓を右手に持ち替え、左手のひらに水を溜めて、口をすすぎます(直接、口をつけないように)。水をもう一度左手に流します。

2.拝礼の仕方について(二拝、二拍手、一拝)
姿勢をただします。 背中を平らにし、腰を90度に折り、拝をします(二度行います)。 胸の高さで両手を合わせ、祈念をこめて右手先を少し下にずらします。 肩幅程度に両手を開いて、二度打ち合わせします。 指先を揃えます。もう一度拝をします(一回です)。

以上で終わりですが、心を込めて行いましょう。
 

●明治神宮 初詣の散歩情報 《初詣人出トップ1》

meiji1-w.jpg東急目蒲線から目黒でJR山手線に乗り換えて原宿に向かいました。原宿駅はいつもは真ん中のホームだけですが、正月は外回りの左側、明治神宮側にホームが出来ます。渋谷方面からの方はご利用されたらいいと思います。年に一度だけ利用出来るホームです。原宿駅を出ると左側は若者の集う街、右側は明治神宮の広大な鎮守の杜が広がります。明治神宮は大正9年11月1日に創建されました。明治神宮は近代日本の礎をお築きになられました明治天皇とそのお后であられる昭憲皇太后の二柱をお祭りしています。

まず明治神宮の南参道入口に向かいます。何年か前までは、入り口で着物会社の人が、着物の柄や帯び等をかなりの人数でチェックしていました。一の鳥居を抜けると、木々に囲また道を拝殿までかなりの距離を歩きます。明治神宮の創建以前は畑や雑木林ばかりで今のような木々は全くなく、境内に植わっている木々はそのほとんどが大正9年の創建以降に全国各地より奉納されたものだそうです。(総面積71万平米・東京ドーム54個分、365種10万本の献木)参道を進んで行くと、左側に江戸時代初頭に作られたという庭園「神宮御苑」が広がっています。この地は江戸時代、加藤家の下屋敷があり加藤清正の子忠広が住んでいたそうです。その後井伊家の下屋敷となりました。しかし井伊家の下屋敷になってからも清正にまつわる伝説が伝えられ、萩の庭には清正が朝鮮で虎を槍で突いた時の血しぶきが竹の幹に斑についたとされる「清正将来の虎斑竹〈とらふだけ〉」(本当は「雲紋竹」と言われる竹の種類)や清正が園内散歩の折り腰掛けて休憩したと言われる「清正の腰懸石」があり、この石に座ったり、さわったりすると瘧(おこり・一般にマラリアを指す)になるといわれます。「神宮御苑」内には、明治神宮創建以前からの雑木林が存在しており、当時の面影を今に伝えています。

meiji2-w.jpg参道を更に進んでいきますと、ひときわ大きな鳥居が見えてきます。いまある鳥居は二代目で、桧造りの鳥居としては日本一の大きさ、高さ12m、柱径1.2mというもので、原木は台湾にて伐採されたものです。一代目の大鳥居は明治神宮が創建された大正9年に完成しました。この鳥居の材木は檜(ヒノキ)ですが、国産の檜ではなく台湾産です。明治神宮御造営の時に台湾総督府より献木されたもので、阿里山(アーリーシャン)の西腹より伐採されたそうです。樹齢は1200年以上に達していたといわれます。ところが昭和41年7月、右側(北側)の柱に雷が落ち破損してしまいました。二代目の鳥居は、東京で材木商を営む篤志家・川島康資さんが、これも台湾の阿里山の連山で標高3300メートルの丹大山(タンターシャン)の中の大木を鳥居として納められています。さて元の大鳥居は、埼玉県の大宮氷川神社の鳥居として昭和51年4月に竣功式が行われて、第二のお役にたっています。
歩を進め楼門をくぐり、拝殿にて参拝をします。本殿は戦時中に被災し、昭和33年に再建されたものです。本殿・拝殿前には、回廊が囲むようして広場になっています。(右側の写真)ここでは、大相撲の横綱が、土俵入りを奉納したりするので、テレビ等でお馴染みかと思います。本殿向かって左側には神楽殿があます。広場で写真を撮っていると、結婚式を終えた新婚さんがこちらの方に来ました。(左下の写真)おめでたの御両人を見送り、今回の参拝を終えることにします。(明治神宮ホームページを参考にさせていただきました)

meiji3-w.jpg●三三九度
結婚式のお話が出ましたので明治神宮のホームページに三三九度のお話が掲載されていましたので紹介します。三三九度は、歴史的にはだいたい室町時代に伊勢流・小笠原流などの武家礼法によってその基礎ができたとされ、しかもこのころは結婚式だけではなく他のおめでたい儀式のときにも三三九度が行われていたようです。ではなぜ三三九度(献)というのでしょうか?これは本来、三三九度の作法が
  一盃 新郎→新婦→新郎
  二盃 新婦→新郎→新婦
  三盃 新郎→新婦→新郎
の順でつぎますが、要するに三つの盃で三献ずついただくので合計九献(三×三=九)となるわけです。ところが現在ではこの三三九度の作法は一般の神前結婚式ではほとんどおこなわれていません。一般の神社では
  一盃・新郎→新婦
  二盃・新婦→新郎
  三盃・新郎→新婦
の順序でおこなわれ、これを「三献の儀」もしくは「誓盃の儀」と称しています。昔から「三三九度」と言い習わされているため神前結婚式では必ず「三三九度」が行われているように勘違いしますが、実際に行われているのはまれですから、ハッキリと区別しておきましょう。
●ちなみに新郎新婦が御神酒をいただく作法ですが御神酒を盃に受けましたら三口で飲みますが、一、二は口につけるだけで三口目でいただくのが通例です。(明治神宮ホームページより)

〔交通のご案内〕地図
・小田急線 参宮橋駅 西参道口 徒歩5分
・山ノ手線  代々木駅 北参道口 徒歩8分、原宿駅(JR/営団千代田線) 南参道口 徒歩1分

[参拝について]
所在地: 〒151-8557 渋谷区代々木神園町1−1
問い合わせ先:明治神宮ホームページ
 


●成田山新勝寺
     初詣の散歩情報 《真言宗智山派大本山》 《初詣人出トップ2》

naritasan3-w.jpg成田山に初詣するには東京からはJR成田線、京成電鉄が中心になります、京成成田駅前から成田山門前に至る表参道。赤い欄干の開運橋を渡って表参道に合流します。ここには、創業百年以上という貫禄を見せる老舗も珍しくありません。随所に土蔵造りの漢方薬店、見上げるばかりの三階建木造建築の大型旅館などが見られます。また成田名物のようかん(米屋の栗羊羹です)、鉄砲漬、川魚の佃煮、地酒などの土産ショッピング、そして手焼きせんべいをパリパリやりながら参道を歩いたり、こってりとしたウナギの蒲焼に舌鼓を打つのも門前町ならではの醍醐味です。国際都市成田だけに、外国人観光客が表参道を闊歩する姿が多く見うけられます。また外国エアラインのクルー(乗務員)がグループで利用するため、ほとんど外国人専用食堂と化してしまっているラーメン店や洋食店などが不思議に門前町にとけこんでいます。

 naritasan1-w.jpg表参道の第一信徒会館前から門を入ると成田山境内です。参道の右側に土産物店が軒を並べる広場を堂庭といいます。客殿の光輪閣を左に見て、石段を登ると大提灯が下がる仁王門(重要文化財)をくぐります。さらに石段を登り切ると、左右に翼殿を持つ重層入母屋造り大本堂の雄姿が視界に入ってきます。ここには弘法大師が彫ったという本尊の不動明王がまつられています。その内陣の広いことといったら、畳296枚分もあります。内陣中央に焚かれている護摩の香煙は1日も絶えたことがないといわれています。大本堂右手には三重塔(重要文化財)と一切経堂、鐘楼があります。まず大本堂前の広場左手に釈迦堂(重要文化財)が鎮座しています。釈迦堂は安政5年(1858)に建立された前本堂で、仏教を開いた釈迦如来がまつられています。堂の周囲には「二十四考」の彫刻などが施され、江戸時代末期の特色を示しています。 大本堂左手から順次、大塔への道を巡っていきましょう。石段を上ると正面に光明堂(重要文化財)、左手には額や絵馬が並ぶ額堂(重要文化財)が建っています。入母屋造りの額堂の軒下には、成田山に奉納された額や絵馬が掲げられています。大日如来をまつる光明堂(重要文化財)は、釈迦堂の前の成田山の本堂で元禄14年(1701)に建立された貴重な建物です。毎年5月に光明堂の前で、薪能が催されます。光明堂の右手には清滝権現の社殿が、光明堂裏には奥の院があります。三重塔の右手の一切経堂があります。ほの暗い堂内には、一切経全巻を納めた巨大な一切経蔵(回転台)があります。現在は、文化財保護のため回すことができなくなってしまいましたが、願い事を唱えながら3回まわすと、不思議に願い事がかなうといわれています。

naritasan2-w.jpg受験生は正月の七草(1月7日)に成田山をおまいりしてください。大本堂で不動明王の印紋(スタンプ)をひたいに、ポンと押してもらえます。これは「七草のご印紋」といって、身体健全、学業成就の功徳があります。
護摩の修行を行った参詣者には、本坊の光輪閣で「坊入り」が供されます。坊入りは、小鉢や皿に盛り付けられた豪華な精進料理。これにお神酒は一本付きますが、不思議なことにご飯は付きません。なぜかというと、ご飯でお腹をいっぱいにしないで、お中食(成田では、お昼をこう呼びます)は参道の食事処で召し上がってくださいという配慮なのだそうです。料理の中でも珍品中の珍品は大浦ゴボウ。輪切りの直径が20cmもあります。一般の料亭や食堂ではけっして食べることができない成田山独自のものです。なお大浦ゴボウは八日市場市大浦地区の10軒の農家でだけ栽培されており、同市の天然記念物に指定されています。

 成田屋の屋号を名乗る市川団十郎が、代々、成田山とは深くて強い縁(えにし)で結ばれているのは有名なお話ですね。初代市川団十郎は江戸時代の万治3年(1660)に生まれましたが、その父・堀越重蔵は下総国埴生郡幡谷村(成田市幡谷)出身でした。子宝に恵まれなかった初代団十郎は、一途に成田不動尊を念じたところ子ども(二代目団十郎)が授かりました。その後、初代団十郎は不動尊の霊験をテーマにした歌舞伎を打つようになり、親子で「兵根元曽我(つわものこんげんそが)」を演じたところ、これが大ヒット。二代、三代も不動尊の熱心な信者で、代々不動尊が衆生を利益(りやく)する「利生記(りしょうき)」を演じて、江戸庶民の間に成田不動の話題が沸騰しました。歌舞伎でのPR、また成田山が深川永代寺で不動尊を出開帳をしたことで江戸庶民の成田山への関心は、いやが上にも高まっていきました。いつしか成田山詣でが江戸庶民の憧れになったのです。初めは花柳界や豪商など一部の豊かな層に限られていましたが、江戸から成田までわずか16里、3泊4日の楽しい遊山道中だったこともあって、文化文政期(1804〜1829)から一般庶民の間にも成田山参詣が広がっていきました。(成田市のホームページより)

●成田山新勝寺開山縁起
成田山新勝寺は、天慶3年(940年)寛朝大僧正によって、開山されました。寛朝大僧正は、朱雀天皇より平将門の兵乱平定の密勅を受け、弘法大師が敬刻開眼された不動明王を奉持し難波の津の港(現大阪府)より海路を東上して尾垂ヶ浜(現匝嵯郡光町)に上陸、更に陸路を成田の地に至り兵乱平定のため平和祈願の護摩を奉修し成満されました。大任を果たされた大僧正は再びご尊像とともに都へ帰ろうとしましたが不思議にもご尊像は磐石のごとく微動だにしません、やがて「我が願いは尽くる事なし、永くこの地に留まりて無辺の衆生を利益せん」との霊告が響きました。これを聞いた天皇は深く感動され、国司に命じてお堂を建立させ「新勝寺」の寺号を授与し、ここに東国鎮護の霊場として「成田山」が開山されました。(成田山新勝寺ホームページより)

●智積院は真言宗智山派の総本山であり、京都市東山七条にあります。
成田山新勝寺、川崎大師平間寺、高尾山薬王院の大本山を始め、東京都の高幡山金剛寺、栃木県の出流山満願寺、名古屋市の大須観音宝生院を別格本山として全国に三千余りの寺院教会を擁し、総本山智積院は全国約三十万人の檀信徒の信仰のよりどころとして総菩提所、総祈願所と位置付けられています。

〔交通のご案内〕
◆京成電鉄
京成成田駅下車 徒歩10分(平常時)
京成上野から特急で約65分
 スカイライナーで約50分
京浜急行→都営地下鉄→京成電鉄と乗り入れ接続もあります。
(羽田空港より特急・急行の直通運転あり)

◆JR線
成田駅下車 徒歩10分(平常時)
横須賀線・総武線直通の「快速エアポート成田」で東京駅から約70分
上野から我孫子経由で約80分

 大晦日には、鉄道の終夜運転が実施されます。

[参拝について]
所在地: 〒286-0023 成田市成田1 番地 電話(0476)22-2111 (代)FAX 0476-24-2210
問い合わせ先:成田山新勝寺ホームページ
 


●川崎大師[川崎大師平間寺]
     初詣の散歩情報 《真言宗智山派大本山》 《初詣人出トップ3》

kawasakitaishi5-w.jpg 初詣の人出が全国で第3位の川崎大師を紹介したいと思います。東京からJR東海道線、京浜東北線、又は京浜急行で川崎まで行き、そこで京急大師線に乗り換えます。京急川崎大師駅を出ると、左手に見えてくるのが厄除門です。その門をくぐると商店街で、そのまま少し歩いて信号を右に曲がると仲見世です。両側には久寿餅屋、だるま屋など、いろいろなお店が軒を連ねています。お土産屋さんの呼び込みの声や、「トントコ、トントコ」と調子を取りながら、飴を切っている音など、独特の風景と音があります。初めての人はびっくりしてしまうかもしれません。これこそが川崎大師なのです。

川崎大師の正式名称は真言宗智山派大本山金剛金乗院平間寺です。総本山は京都東山七条の智積院。平間寺が智山派の別格本山となったのは、明治三十一年(1898)で、それから成田山新勝寺、高尾山薬王院とともに関東の三山といわれるようになりました。

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 平間寺創建には、次の伝説があります。今を去る870余年前、崇徳天皇の御代、平間兼乗(ひらまかねのり)という武士が、無実の罪により生国尾張を追われ、諸国を流浪したあげく、ようやくこの川崎の地に住みつき、漁猟をなりわいとして、貧しい暮らしを立てていました。兼乗は深く仏法に帰依し、とくに弘法大師を崇信していましたが、わが身の不運な回り合せをかえりみ、また当時42歳の厄年に当たりましたので、日夜厄除けの祈願をつづけていました。ある夜、ひとりの高僧が、兼乗の夢まくらに立ち、「我むかし唐に在りしころ、わが像を刻み、海上に放ちしことあり。已来未(いらいいま)だ有縁の人を得ず。いま、汝速かに網し、これを供養し、功徳を諸人に及ぼさば、汝が災厄変じて福徳となり、諸願もまた満足すべし」と告げられました。兼乗は海に出て、光り輝いている場所に網を投じますと一躰の木像が引き揚げられました。それは、大師の尊いお像でした。兼乗は随喜してこのお像を浄め、ささやかな草庵をむすんで、朝夕香花を捧げ、供養を怠りませんでした。その頃、高野山の尊賢上人が諸国遊化の途上たまたま兼乗のもとに立ち寄られ、尊いお像と、これにまつわる霊験奇瑞に感泣し、兼乗と力をあわせ、ここに、大治3年(1128)一寺を建立しました。そして、兼乗の姓・平間をもって平間寺(へいけんじ)と号し、御本尊を厄除弘法大師と称し奉りました。これが、今日の大本山川崎大師平間寺のおこりであります。法灯をかかげて、悠久ここに870余年、御本尊のご誓願宣揚と正法興隆を目指す根本道場として、川崎大師平間寺は、今、十方信徒の心からなる帰依をあつめています。(川崎大師ホームページより)

kawasakitaishi2-w.jpg[名物]

久寿餅,せき止め飴,さらし飴,開運ダルマ

[参拝について]
所在地: 〒210川崎市川崎区大師4−48
問合先: 電話044-266-3420川崎大師平間寺(川崎大師ホームページ)
交 通 : 京浜急行大師線「川崎大師駅」下車徒歩5分、JR「川崎駅」より市バス[川03,04,05]系統で「観音二丁目川崎大師口」下車
 


●大宮氷川神社 《初詣人出トップ4》  

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大宮氷川神社は人出では全国では第九位で、トップ3と比較すると少々見劣りしますが大宮氷川神社の敷地の大きさは川崎太師より大きく、沿道の出店は相当の数になります。出店の数では全国一位がもしれませんね!参道がまっすぐ伸びているのでお店がたくさん出店できるのだと思います。一の鳥居から氷川神社鳥居までの約2kmの参道は、旧中山道だったと考えられています。寛永5年(1628)、関東郡代伊那忠治は現在の所に中山道を通し、当時の氷川神社参道の両側に住んでいた住民を新中山道に移し宿場町として整備しています。

左の写真は 大宮氷川神社の"一の鳥居"と"二の鳥居"の間の参道です。氷川参道は、大宮駅周辺では都心に残された唯一の並木道です。昔は「並木十八丁鉾杉つづき」と言われ杉並木でしたが、残念ながら現在ではケヤキ等の木々に変わってしまっています。

oomiya-hikawa2w.jpg<大宮氷川神社>
 大宮氷川神社は”武蔵一の宮氷川神社”と呼ばれおり、関東地区に数ある氷川神社の本拠として、二千年以上の歴史を持っています。大宮の名前は、”武蔵一の宮氷川神社”「大いなる宮居」とあがめたことからついた名前のようです。氷川神社は平安時代の「延喜式神名帳」に記載されている格式の高い古社で、大宮の発祥はその門前町から始まったと伝えられています。
 祭神は須佐之男命(すさのうのみこと)、奇稲田姫命(くいなだひめのみこと)、大己貴命(おおなむちのみこと)の出雲三柱で、源頼朝、北条氏、足利氏等の諸将も相次いで敬い、江戸時代には徳川幕府から300石の社領が寄せられています。

楼門と楼門手前の神橋(たいこ橋)がすばらしいです。特に神橋は鮮やかな朱色で池に映る姿がすばらしいです!鳥居は本殿に一番近い所にあるのが三の鳥居で、市立博物館前にあるのが二の鳥居、一の鳥居は少し遠くて、旧中山道と氷川神社参道が分岐している所(さいたま新都心駅前)にあります。一の鳥居から本殿まで歩くとかなりの距離です。

oomiya-hikawa3w.jpg<十日市>
 十日市は氷川神社の伝統行事である「大湯祭(ダイトウサイ)」の神事にあわせて行われる酉の市で、神社の境内や参道には縁起物の熊手、神棚などを商う露天商が連なり、大宮の師走の風物詩として市民に親しまれています。

左の写真は今年の12月10日の十日市です。ものすごい人出で、かき分けながら本殿まで辿り着きました。




大宮氷川神社付近地図

【交通のご案内】
・JR高崎線/東北線「大宮駅」下車

【見学について】
・大宮氷川神社:大宮市高鼻町4-407
 

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