kurenaidan30.gif kurenaidan-11.gif
 ▲トップページ著作権とリンクについてメール

最終更新日:2006年4月22日


●近藤勇墓所から旧中山道を歩く
   初版2000年8月19日 1版

 お盆はお休みさせていただきました。
 今日は旧道を歩くということで、埼京線の「板橋駅」から旧中山道を歩いてみました。

<近藤勇墓所>
 恵比寿で山手線から埼京線に乗り換えて、隣を走っている山手線の混雑を見ながら、渋谷、新宿、池袋とずっと座ったまま板橋の駅までいくことがてきました。板橋の駅を右側に降りてロータリーを超えるとすぐ正面に近藤勇の墓所があります。(大きな看板があります)近藤勇は天保5年(1834)武蔵の国多摩群上石原村に生まれ、すぐに近くの近藤家の養子になっています。天然理心流の剣法を学んだ後、京都に登って土方歳三らと新撰組を作ります。鳥羽伏見の戦いに敗れた後、江戸に戻り、流山で官軍に捕まります。慶応4年(1868)板橋処刑場で処刑(36歳)され、首は京都の三条河原にさらされています。(この首は後に密かに持ち出され愛知県の法蔵寺に埋葬されています)ここにある墓は、胴体のみ埋葬され、元新撰組の二番隊長の長倉新八が作ったものです。墓の中央には「近藤勇宜昌、土方歳三義豊之墓」と書かれており、墓の両側には新撰組110名の名前が刻まれています。(このほかにも、墓が近藤の生まれ故郷の三鷹市の竜源寺にもあります)結局近藤勇の墓は3つあることになります。

<平尾追分と中山道>
 近藤勇の墓の前を左に曲がり少し歩いて信号を又左に曲がると旧中山道です。板橋宿は日本橋から北へ、中山道一番目の宿場町です。東海道・品川宿、日光街道・千住宿、甲州街道・内藤新宿と並び、江戸四宿に数えられています。埼京線の踏み切りを越えた当たりから板橋の宿場町となります。手前から平尾宿、中宿、上宿と三つの宿場に分かれており、環状七号線までの約2.2kmが宿場町で、中心の中宿に本陣が一軒、脇本陣が三軒、旅籠屋が五十四軒ありました。踏み切りの先の商店街を少し歩くと国道17号線(中山道)となります。17号を越えたところが川越街道との分岐の平尾追分となります。

右の写真が平尾追分のところです。右側に旧中山道が左側に旧川越街道あります。正面の所には旧板橋警察署が明治16年に作られています。(今は銀行になっています)

  又宿場には遊廓がつきものですが、中宿にも板橋遊廓がありました。一番大手で最後まで営業していたのが新藤楼です。(昭和18年にはなくなっています)新藤楼の門が板橋区立郷土資料館に移設されています。

 
itabashu3w.jpg<板橋>
 板橋という地名はこの板橋に由来するといわれています。江戸時代の「江戸名所図会」等によると石神井川に架かる板橋は太鼓橋だったようです。橋のたもとには「日本橋二里二十五町三十三間」(約10.6km)と書かれた木標識が立っています。  。
  江戸時代は板橋の右側、石神井川沿いに加賀藩下屋敷(二十二万坪)が広がっていました。(天和3年に移ってきています)明治維新により、加賀藩下屋敷は新政府に没収され、昭和9年(1876)旧陸軍に移管されています。又加賀屋敷にあった朱塗りの山門が観明寺の山門となっています。戦前まではこのあたりは陸軍工廠関連の工場がたくさんあったそうです。この板橋を越えると上宿となります。

itabashu4w.jpg<縁切榎(えんきりえのき)>
 狭い境内に大穴天神が祀られていて、榎はその御神木です。昔からこの榎の下を嫁入りの行列が通ると必ず不縁になるといわれています。皇女・和宮が徳川将軍・家茂に嫁ぐ時に京都から東海道を避けて中山道を通って来たわけですが、この縁切榎の前を通るため、この榎をすっぽり布で覆い隠したそうです。

 江戸から京へ行くには、東海道と中山道の二つの道があり、両者は草津で合流しています。宿の数では山道でもある中山道が16も多く、距離にして40Kmほど長くなっています。関所では東海道の箱根に対して碓井峠が有名です。

JR板橋駅付近地図

【参考文献】
・江戸謎とき散歩:廣済堂出版
・歴史と旅 江戸東京歴史ウォーク(3/10 増刊):秋田書店

 ▲トップページページ先頭 著作権とリンクについてメール