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最終更新日:2006年4月22日


●旧島津侯爵邸(清泉女子大学本館)2000年2月11日

shimazu3-w.jpg 五反田駅(JR山手線と東急池上線)を山手線の内側に降りて、東急プラザを右手に見て御殿山の方面に数百メートル歩いて左に折れ、少し登ると清泉女子大学です。現在はあまり環境も良いとはいえませんが、大正時代から昭和初期にかけては高級住宅街でなかったのではないかと思います。女子大ですので、事前の申込みが必要です。インターネットのホームページに見学可能日が掲載されていますので電話で申込むと見学案内が送られて来ます。必要事項を記載して送付します。入り口の守衛さんはなかなか堅くて、一度申込み無しで訪問しましたら断られました。(見学可能日は月に1〜2度です)建物自体は今も大学で教室等に使用しており、蛍光灯等で少し変わってしまっています。ただ全体の雰囲気はそのままで、よく残しているなという感じです。案内していただいた女性の方が「今の学生は建物自体を大切にしない」とぼやいていました。
 昔の話になりますが、江戸時代この地は、品川領下大崎村字袖ケ崎といわれていたそうです。寛保3年(1743年)仙台伊達藩の下屋敷となっています。敷地面積が22,670坪と広かったので、江戸で9ヶ所あった下屋敷の中では、別荘として使われていました。邸内には霧島つつじが群生し、景勝地「映山」の雅名がつけられています。幕末の儒者大観磐渓による紀行文の漢詩も残っています。伊達藩邸として約130年を経た後、明治6年(1873年)に島津家の所有に移っています。建物は伊達藩邸の日本家屋がそのまま使用されています。袖ケ崎という地名から、伊達藩時代は「袖ケ崎御屋敷」と呼ばれ、島津家時代は「袖ケ崎邸」と呼ばれていました。
shimazu2-w.jpg明治17年(1884年)に、島津忠義に公爵位が授けられ、袖ケ崎邸は島津公爵邸となりましたが、本邸は桜田にあった旧島津藩上屋敷で、袖ケ崎邸は公式行事の開催場所として使われ、本邸となったのは大正12年(1923年)の関東大震災後のことです。袖ケ崎邸は、伊達藩邸の木造家屋をそのまま使用していましたが、老朽化が著しくなったので、英国風の洋館に改築することを計画し、明治39年(1906年)に英国人J.コンドルに設計を委嘱しました。改築計画は明治40年代に進められましたが、設計は二度、三度大幅な変更があり、途中明治天皇の崩御等もあって建物が最終的に竣工したのは、大正4年(1915年)です。その後館内の設備や調度等が整えられ、落成披露は2年後となっています。
 昭和初期に金融恐慌のあおりで島津家の財政は甚大な打撃を受け、昭和4年(1929年)には、約3万坪あった敷地は中央部の8千余坪を残し、箱根土地に売却されました。さらに昭和19年(1944年)には、太平洋戦争の苛烈化に伴い、財政面、使用人難等により、大邸宅の維持が困難となり、袖ケ崎邸は日本銀行に売却されています。戦争中邸宅の周辺は空襲による被害で大半が焼失しましたが、西洋館は奇蹟的に焼失を免れることができました。戦後は昭和21年(1946年)1月から、GHQの管理下に入り、昭和29年(1954年)5月に接収が解除されるまで、駐留米軍の将校宿舎として使用されています。 一方清泉女子大学は、昭和25年(1950年)4月横須賀で開学しています。東京進出は昭和37年(1962年)4月です。

shimazu1-w.jpgジョサイア・コンドル(Josiah Conder 1852-1920)
日本の近代洋風建築の普及に最も功績のあった英国人建築家。ロンドンに生まれ、東京にて没。
明治10年1877年日本政府の招きにより来日。工部省技師、工部大学校(現東京大学工学部)教師等をつとめています。建築教育の制度を整え、日本人建築家の育成に力を注ぎました。弟子に辰野金吾(東京駅の設計者)等がいます。作品には鹿鳴館(1883)、ニコライ堂(1891、現存)、綱町三井倶楽部(1913、現存)等があります。
左のステンドグラスの上の真ん中に『丸に十文字』の島津家の紋が入っています。


【参考文献】
・清泉女子大学本館(旧島津侯爵邸)

【交通のご案内】
・清泉女子大学:JR山手線、東急池上線五反田駅下車徒歩10分

【見学について】
・清泉女子大学:東京都品川区東五反田3-16-21 清泉女子大学ホームページ


●旧熊本藩細川家下屋敷薬医門(品川区 戸越公園内)
   
1999年10月17日

熊本藩細川家が寛文2年(1662)に幕府から拝領して下屋敷としていました。この戸越屋敷は、江戸滝の口の上屋敷及び芝白金の下屋敷とは異なり、鷹狩りやきじ狩り、あるいは茶会等を行う別荘用の邸宅あったとされています。したがってこの屋敷門は長屋門とは異なり薬医門、冠木門等の簡素なものが中心であったと考えられます。薬医門のいわれは医師の門として使われたことからこう呼ばれたようです。延明6年(1678)に火災で焼失、天明4年以降は他の大名家を転々とし、明治23年(1890)に三井家の所有となりました。昭和7年に荏原町に寄付しています。

【交通のご案内】
東急大井町線戸越公園駅下車徒歩5分
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