●正岡子規の東京を歩く -2-
  初版2007年3月3日
  二版2007年3月11日 <V01L01> 写真を入替
 「正岡子規 散歩シリーズ」は今週から東京に戻ります。先週は「子規の松山」を歩きましたが、今週から数回に分けて「子規の東京」を歩きます。
<「子規全集 第十巻 初期随筆」 >
 「子規の東京」についてはさまざまな本が出版されていますが、今回は講談社版「子規全集 第十巻 初期随筆」の中の『子規の「下宿がへ」に就て』を参照しながら歩いてみました。「子規全集第十一番(改造社版)「筆まかせ第一編」に「下宿がへ」と題する一篇がある。今それに就て自分は話さうと思ふから先づ其全文を示すことゝする。
       ○下 宿 が へ
 書生の下宿替の頻繁なるはいふまでもなきことにて、半年ぶりに朋友の虞より来た手紙には四五枚の附筆をつけて数週間の後に乗ることさへ屡とあるなり。余はさまでに下宿をかへることをきらヘビも(性懶惰にして動くことがきらひ故)動くとなると遠方へ動くが通例なり。故に余が出京已來寓居の地を數ふるに區をかふることしばしばなり。明治十六年出京して日本橋區に住し、一箇月許りにて赤坂區に轉じ、又二箇月徐にて日本橋に歸り、一箇月を経て神田區に移る。翌十七年夏牛込に轉じ、秋再び神田に來り、十八年夏歸省し、再び出京して麹町區にあること二三日、又も  や神田の下宿(前のと同じ虞)に至り十九年夏麻布に行き、一箇月許りの後又神田に行き後同區内駿河臺に轉じ、二十年四月一ツ橋外中学寄宿舎に入り、二十一年夏向島須崎村(今は本所區になれり)に寓する三箇月、遂に本郷に移轉し、本年十月又今の下谷區に來れり。其移轉恰も野欒人の水草を追うて轉居するが如く、檐端に立て廻り燈籠を見るに似たり。…」
、は講談社版「子規全集 第十巻 初期随筆」、の参考資料の中に子規の友人である柳原極堂により書かれています。子規の「筆まかせ」を解説したもので、松山生まれで同時期に上京し共立学舎に学んでいますので、当時の子規を最も良く知る立場に在ったとおもわれます。

左上の写真が講談社版「子規全集 第十巻 初期随筆」です。「筆まかせ」の第一篇から第四篇、参考資料(『子規の「下宿がへ」に就て』、他)、が掲載されています。子規の自伝とその解説としては良くまとまっているとおもいます。昭和21年に単行本として柳原極堂の『子規の「下宿がへ」に就て』が発行されています。

【正岡子規(本名:常規。幼名は処之助でのちに升と改めた)】
 慶応3年(1867)9月17日、愛媛県松山市で父正岡常尚、母八重の長男として生まれる。旧制愛媛一中(現松山東高)を経て上京し、東大予備門から東京帝国大学哲学科に進学する。秋山真之とは愛媛一中、共立学校での同級生。共立学校における子規と秋山の交遊を司馬遼太郎が描いたのが小説『坂の上の雲』。東大では夏目漱石と同級生。大学中退後、明治25年(1892)に新聞「日本」に入社。俳句雑誌『ホトトギス』を創刊して俳句の世界に大きく貢献した。従軍記者として日清戦争にも従軍したが、肺結核が悪化し明治35年9月19日死去。享年34歳。

正岡子規の東京年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 正岡子規の足跡
明治16年 1883 モーパッサン「女の一生」

岩倉具視没
16 6月 日本橋区浜町の旧松山藩主久松邸内に寄寓
7月頃 赤坂丹後町の須田学舎に入学
9月 久松邸内に戻る
10月 共立学校(学舎)に入学
10月末 神田区仲猿楽町19番地の藤野宅に下宿
明治17年 1884 森鴎外ドイツ留学
秩父事件
17 夏 東五軒町三十五番地 藤野宅に下宿
夏 進文学舎に通う
9月 東京大学予備門入学
秋 猿楽町五番地の板垣善五郎宅に下宿
明治18年 1885 清仏天津条約
18 夏 松山に帰省

須田学舎跡>
 2007/3/11 写真を入替
 前回の「子規の東京を歩く」では、新橋から下宿先である久松邸付近を歩きましたので、今回はその後の子規を歩いてみました。「…居士は次に「一箇月許りにて赤坂区に轉じ、又二箇月徐にて日本橋に歸り」と記してゐるが、赤坂区は丹後町九十九番地の須田学舎に入舎した事をいったもので、丹後町は赤坂見附より青山に向ふ途中豊川稲荷前より左に少し入ったところであるが、自分は同学舎に居士を一度たりともたづねたことなく同合に就ては全く知るところがない。…」。柳原極堂が子規の「筆まかせ」を解説しています。大学予備門に入学するため、子規は予備校に通い始めるわけです(大学予備門は後に第一高等学校になります)。須田学舎は予備校としては余り良くなかったのでしょう。一ヶ月で他に移ります。

左上の写真の坂を下りて少し歩いた左側が赤坂丹後町99番地になります。写真の上部に少し見えている工事中の建物は赤坂でお馴染みのTBSのビルです。現在の番地で赤坂四丁目4−13辺りになるようです。
共立学校(学舎)跡>
 須田学舎の次に入学したのがこの共立学舎(共立学校)でした。この共立学舎は島崎藤村が通った学校でも有名です。藤村が通ったのは明治19年ですから子規からは3年ほど後になります。「…須田塾を退舎したる居士は大学予備門に入学を志し、其の予備校でありし神田の共立学校に転入した。高橋是清にバーレーの萬国史を教へられたなどいふは此時のことである。…」。藤村の共立学校は「島崎藤村の東京を歩く 第一回」を参照してください。

右上の写真の左側が当時共立学校のあった神田淡路町二丁目三番地です。大学予備門に入学するための予備校については夏目漱石の「落第」を参照すると、「…其頃地方には各県に一つ宛位中学校があって、之を卒業して来た者は殆んど無試験で大学予備門へ入れたものであるが、東京には一つしか中学はなし、それに変則の方をやった者は容易に入れたけれど、正則の方をやったものだと更に英語をやらなければならないので、予備門へ入るものは多く成立学舎、共立学舎、進文学舎、――之は坪内さんなどがやって居たので本郷壱岐殿坂の上あたりにあった――其他之に類する二三の予備校で入学試験の準備をしたものである。…」。正則科とは中学で学業を終了するということで日本語で授業を行っていました。一方変則は大学予備門入学を前提として英語で授業を行っていたそうです。
仲猿楽町19番地の藤野家跡>
 共立学校に入学した頃、日本橋の久松邸から神保町に近い仲猿楽町の下宿に移ります。「…「一箇月を経て神田区に移る」と記されゐるは、神田仲猿楽町の藤野氏に寄食したるをいふものにて、須田学舎を九月二十二日に退合して後、一箇月を経たといへば十月の下旬であったであらう。竹村鍛宛居士の書簡に、「小生両三日前表記の番地へ移轉致候」とありて、今回の轉居を報じたるものなれど、封筒を失はれ居り為に其の日附を知るに由なきは遺憾なり。藤野氏宅は仲猿楽町十九番地であり、水道橋の方から云へば右側の中ほど、東向きに門あり門を入れば敷歩にして玄関に達すべき中庭がある。今日にては此遽全く商店街と成ってゐるが、常時は住宅が主で商店は家々たるものであった。…」。久松邸から仲猿楽町の下宿に転居できたのは現代で言う奨学金を貰えるようになったからです(当時は返さなくて良かったようです)。

左上の写真中央の右角を曲がった左側辺りが仲猿楽町19番地にあります(現在の住居表示で神田神保町一丁目18辺り)。関東大震災の後の区画整理と空襲で昔の面影は全く有りません。「…舊藩主久松家が、育英事業として新に設けし常盤会給費生に選ばれし時をいふ。久松家には明治十六年六月以来舊藩内に於ける優秀なる子弟にして、学資乏しきものに給費せんとの議起り、其準備中なりしが十七年に入て愈ヒ貫施さるることゝなり、居士も清水もこれに選ばれて其年三月より毎月七円づつを給興せらるることになった。これは仲猿楽町時代である。…」。とあります。四円五十銭が食事付きの下宿代だったようですから少し余裕があります。
東五軒町三十五番地 藤野家跡>
  2007/3/11 写真を入替
 下宿先の藤野家が転居したため子規も共に移ります。「…居士は次に「翌十七年夏牛込に轉じ」と記してゐる。これは東五軒町三十五番地をいったもので、藤野氏の轉居と共に居士も清水も行李を其虞に移した次第である。竹村鍛宛六月七日附の居士の端書に、「小生表記之場所へ轉居致候此段御報知中上候」と記されてゐる。ハッキリ何日に輯居したとは無いが、同じく竹村宛五月二十二日附居士の端書は、伸猿楽町藤野内よりとなってゐるから、推測して六月初旬の轉居であったらう。自分は一度東五軒町へ居士をたづねたことを覚えてゐるが、今日の市電東五軒町停留所の近くであったと思ふばかりで、其町並や屋敷に就ては全く思ひ出せない。磯子刀自は常時の追憶を左の如く語ってゐる。次ぎは牛込の東五軒町の角の家でした。こゝも四百坪もある大きな樺へであったが、建坪はさう磨くもなかったので、升さんは玄関の二畳に机をかまへてゐた。しばらくゐてから下宿をするやうになったのです。…」。転居先の牛込東五軒町といえば、大正4年に江戸川乱歩が隣の町の牛込小川町(東に50m)に住んでいます。明治25年には島崎藤村が牛込区赤城元町三十四(南に200m)に下宿しています。

左上の写真の正面の区画全体が牛込東五軒町35番地です(現在の新宿区東五軒町4〜5)。400坪もあったそうですからこの一区画全部が藤野家だったとおもわれます。

次回も子規の東京を歩きます。

旧猿楽町付近地図