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●正岡子規の東京を歩く -1-
 初版2006年11月18日 <V01L04>
 正岡子規の岩波文庫版「筆まかせ (妙)」を読んでいたら、初めて上京してきたときの場面が面白かったので、そのまま同じ道を歩いてみました。今回から当時の地図をそのまま掲載しています。
<筆まかせ(妙)>
 正岡子規の「筆まかせ (妙)」は特に特集しようと考えて読んでいたわけではなくて、夏目漱石の特集を掲載するため、何かヒントはないかと読んでいただけでした。でも、面白いですね。最後の解説を読むと、「子規が東京にやって来たのは、明治十六年六月のことだが、翌十七年の二月十三日から随筆 『筆まかせ』を書き始めている。『筆まかせ』は、明治二十五年まで書き続けられ、全四編をなすが、明治二十五年といえば、子規が『日本』に「瀬祭事屋俳話」を連載し、大学中退を決意した年である。つまりこの頃から彼は文筆家として歩み始めるわけだが、『筆まかせ』は、東京という場所でこのような歩みを始めるまでの彼の精神の形成期とぴったり重なりあっている。さまざまな可能性がたぎり立つ子規の精神の活動の現場に立ちあえるという点で、この随筆は、子規の全作品中独特の位置を占めていると言っていい。 この随筆を読んでまず気付くのは、子規のとりあげている対象がまことに多岐にわたっているという点である。文明論、文学論、言語論、友人に対する論評や寄席の品評、回想や日常の見聞、野球の解説、さらに漱石その他の友人たちとの書簡の往復まで書きしるされている。他の人の随筆なら、対象の選択そのものを通して、その著者に固有の好みをうかがうことが出来るだろうし、その記述そのものも、著者の好みによって染めあげられているものだ。だが、子規の場合、その選択や記述から彼の好みを抽出することは、不可能とは言わぬまでも、きわめて困難なことなのである。…」、といろいろ書いていますが、面白いポイントは文明開化の明治初期の東京がよく分かることです。特に”田舎から出てきたばかりの大志を抱いた青年”が書いているのですから余計に面白いのです。

左上の写真が岩波文庫版の「筆まかせ (妙)」です。(妙)ではなくて、全て読んでしまおうとおもったのですが、全集でないと無理のようです。まだ正岡子規全集を手に入れていませんので、入手後は少し改版したいとおもっています。

【正岡子規(本名:常規。幼名は処之助でのちに升と改めた)】
 慶応3年(1867)9月17日、愛媛県松山市で父正岡常尚、母八重の長男として生まれる。旧制愛媛一中(現松山東高)を経て上京し、東大予備門から東京帝国大学哲学科に進学する。秋山真之とは愛媛一中、共立学校での同級生。共立学校における子規と秋山の交遊を司馬遼太郎が描いたのが小説『坂の上の雲』。東大では夏目漱石と同級生。大学中退後、明治25年(1892)に新聞「日本」に入社。俳句雑誌『ホトトギス』を創刊して俳句の世界に大きく貢献した。従軍記者として日清戦争にも従軍したが、肺結核が悪化し明治35年9月19日死去。享年34歳。

<正岡子規の東京地図 -1->

新橋停車場>
 松山教育委員会編の「伝記 正岡子規」から、上京の道のりを掲載します。「…明治十六年六月十日、子規は、家族や親類、友人たちに送られて、三津浜から、豊中丸という汽船で出帆した。叔父の加藤拓川から手紙を受け取って、早くもなか一日をおいた三日目である。思いこがれてきた上京に、思わずにこにことした子規ではあるが、船上から、見送ってくれた友人太田・森を見つめていると、母や妹の面影が浮んできて、別れの悲しさが、ふっと胸にこみあげてきた。次第に遠のいていく故郷の山の緑を、子規は思いをこめて見つめた。十七歳の子規は、一人旅という心細さもあったが、船が進むにつれて、日本の中心へ乗り出しそこで学問をするんだという大きな夢が、心を明るくしていった。 当時の汽船は神戸までである。上陸して一泊し、神戸・横浜航路に乗り換えて、横浜へ向かった。 横浜へ着いたのは、六月十四日であった。当時、鉄道は横浜から東京までしかない。子規は、生まれて初めての汽車で、新橋停車場に着いた。…」。明治16年に四国の松山から上京することは大変なことだったとおもいます。

左上の写真が新橋停車場跡です。現在は記念館が建てられています。新橋−横浜間が開通したのが明治5年6月で、東海道線の東京−神戸間が全通したのが明治22年7月ですから、松山から上京するには明治16年は船便か、歩いていくしか方法はなかったわけです。(ただ、東海道の鉄道網は明治10年神戸−京都等バラバラと開通していました)。
久松邸>
 子規は松山のお殿様であった久松家に厄介になります。当時としては当然の事だったようです。「○東京へ初旅 去年六月十四日余ははじめて東京新橋停車場につきぬ 人力にて日本橋区浜町久松邸まで行くに銀座の某を通りしかば 東京はこんなにきたなき処かと恩へり。…」。久松家は東京の浜町に大きな屋敷をもっていたようです。当時の地図で探してみましたら、久松邸と書かれた大きなお屋敷がありました。現在の日本橋浜町二丁目1番です。新橋停車場から3.5Km程の距離です。

右上の写真の交差点の所が当時の中の橋です(神田川まで繋がった掘割が在ったのですが埋め立てられています。下記の地図を参照)。正面のビルの所から北側が久松邸があった所です。一区画全てが久松邸でした。水天宮前の交差点から東に300m程の所です。「…余はさきに今までの中にて心苦しきこと二度ありたりといひしが 能く考ふれば三度なりその一度といふは明治十六年に始めて出京の際、十日ばかりは気楽に遊びくらせしが 到底遊びゐらるる身の上ならねば 浜町のお邸中の書生小屋に入りて自炊せしことなり そもこの書生小屋といふは邸中長屋のつづきなれば 南北ハ同じ長屋にて壁一重が隔てなり 入り口は東にありて西は格子をうちたる三尺ばかりの高窓あるのみ 間口二間ばかり奥行き四間ばかりきたなき部屋二間と台所様の流しもと一坪ほどあり 家は幾年掃除せずやと衛生係が苦情いひそうな、ふすぼりたる、昼も薄暗きところ、畳は焼け跡もあり、水、醤油などに煮しめられたるあとも見ゆ、ただ見てさへ、いぶせき処へはいりこみたる時は 牢屋へ行きしもこれほどにはあらじと思はれたれどせんすべもなし…」。下記の久松邸の地図でも長屋らしき物が書かれています。なにか、生きていくだけで精いっぱいの下宿だったようです。大変だ!

<正岡子規の東京地図-2->

大伝馬町、小伝馬町>
 子規はその日の内に本郷の弓町まで訪ねます。「…やしきにつきて後川向への梅室といふ旅宿に至り柳原はゐるやと間へば 本郷弓町一丁目一番地鈴木方へおこしになりしといふ 余は本郷はどこやら知らねど いい加減にいて見んと真直に行かんとすれば 宿の女笑ひながらそちらにあらずとい云により その教えくれし方へ一文字に進みたり 時にまだ朝の九時前なりき それより川にそふて行けば小伝馬町通りに出づ、ここに鉄道馬車の鉄軌しきありけるに余は何とも分らず これをまたいでもよき者やらどうやら分らねば躊躇しゐる内傍を見ればある人の横ぎりゐければこはごはとこれを横ぎりたり。…」。”川向こうの梅室とい旅館”については場所が不明です。”川向こう”とは隅田川の事なのか、久松邸の前の掘割なのかよく分かりませんでした。

左上の写真が大伝馬町通りです。上記に書かれている小伝馬町の鉄道馬車とは、大伝馬町通りの鉄道馬車のことではないかとおもいます。当時は大伝馬町通りと小伝馬町通り(現在の江戸通り)の両方の通りに鉄道馬車が走っていました(下記の地図参照)。下記の地図の真ん中の掘割は久松邸前の掘割です。久松邸からこの掘割を北に上がってくると、最初に大伝馬町通りに当たります。次に小伝馬町通り(現在の江戸通り)となります。

<正岡子規の東京地図-3->

和泉橋>
 大伝馬町通りから次は和泉橋となります。「…これをまたいでもよき者やらどうやら分らねば躊躇しゐる内傍を見ればある人の横ぎりゐければこはごはとこれを横ぎりたり その後ハどこ通りしか覚えねど大方和泉橋を渡り(眼鏡かも知れず)湯島近辺をぶらつき…」。和泉橋は何処にある橋かとおもったら、神田川に架かる昭和通りの橋でした。この橋から次は湯島となります。

右の写真が神田川に架かる和泉橋です。大正5年と書いてありましたので、子規が渡った橋はこの前に作られた橋です。
弓町一丁目一番地>
 初めての東京で日本橋浜町から歩いて本郷弓町まで訪ねるのは大変です。「…巡査に道を間ふすべをしらねば店にて道を間ひながらやうやう弓町まで来り一番地といふて尋ねしに提灯屋ありければ ここに鈴木といふて尋ねしに この裏へまわれ 小き家なりといふ 裏へまわるにどの家やら分らず 鈴木といふ名札を出したる処なし 遂にそこにある一軒の家に入りて間ふて見んと「お頼み」と一声二声呼べば「誰ぞい」といびつつ出で来りしは思ひもよらぬ三並氏なれば 互に顔を見合してこれはこれはといふばかりなり 余ハはじめこの家より出てくる人は知らぬ貝なり 若シ知りたる貝ならば柳原ならんと思ひしに 事不意に出でたり 三並氏も余の出京の事は露知らねば驚きて「まづ上れ」といふ 上りて後柳原はと間へば 今外出せりといふ その時は最早十二時近かりしならん 色々の話の中に柳原も帰り来り ここではじめて東京の菓子パンを食ひたり…」。菓子パンを初めて食べたようです。味はどうだったのでしょう。

左上の写真は壱岐坂下交差点です。正面が壱岐坂になりますが、この壱岐坂は新しい壱岐坂です。下記の地図のやや右側の上下の道が当時の壱岐坂でした。当時の弓町一丁目一番地は新しい壱岐坂の坂下の道の真ん中辺りになります(写真中央辺りです)。

正岡子規の東京も詳細に歩いていきます。

<正岡子規の東京地図-4->
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