●正岡子規の松山を歩く
  初版2007年2月17日 <V01L02> 暫定版
正岡子規 散歩シリーズ」から今週は子規の生まれ故郷 ”松山”を歩きます。東京を歩く予定だったのですが、まず松山から歩いて、次回から”正岡子規の東京散歩シリーズ”を掲載します。
<「正岡子規 故郷 松山平野の文学風景」 >
 正岡子規の松山に関する本についてはいろいろ出版されていますが、この「正岡子規 故郷 松山平野の文学風景」が一番良いのではないかと思いこの本に従って歩いてみました。「春や昔十五万石の城下哉」、JR松山駅前の句碑にに書かれている俳句です。松山に関しては沢山の俳句を残していますがこの俳句が一番有名のようです。駅におりて最初に見る句碑ですから仕方がないのかなともおもいます。私はこの二年で二回程訪ねました。余り時間が取れず、十分な取材では有りませんでしたが、参考にしていただければとおもいます。

左の写真が「正岡子規 故郷 松山平野の文学風景」、松山郷土史文学研究会発行です(昭和52年発行)。古本でしか手に入りません。上手く探せば安く手に入れることが出来るとおもいます。

【正岡子規(本名:常規。幼名は処之助でのちに升と改めた)】
 慶応3年(1867)9月17日、愛媛県松山市で父正岡常尚、母八重の長男として生まれる。旧制愛媛一中(現松山東高)を経て上京し、東大予備門から東京帝国大学哲学科に進学する。秋山真之とは愛媛一中、共立学校での同級生。共立学校における子規と秋山の交遊を司馬遼太郎が描いたのが小説『坂の上の雲』。東大では夏目漱石と同級生。大学中退後、明治25年(1892)に新聞「日本」に入社。俳句雑誌『ホトトギス』を創刊して俳句の世界に大きく貢献した。従軍記者として日清戦争にも従軍したが、肺結核が悪化し明治35年9月19日死去。享年34歳。
<戦前の松山市内>
 松山というと私は”夏目漱石のぼっちゃん”、”正岡子規”、新しいところで源田実中佐の指揮する”紫電改343航空隊”ぐらいしか頭に浮かびません。そこで、「正岡子規 故郷 松山平野の文学風景」の”あとがき”を参照すると、「松山は古来より詩の国、歌の国といわれ、明治になって正岡子規の出現によっていっそう文学の興隆を見ることができその門下から鳴雪、虚子、碧梧桐と有名な俳人を輩出し昭和に入って石田波郷、中村草田男、今井つる女、篠原梵らのすぐれた俳人を生み松山は俳都と称せられ文学の町として発展してきた。そして町を歩けば句碑にあたるといわれ現在二六〇基の文学碑が散在している。文学者のなかで子規はど故郷を愛し偲び書き残している人も少ない。本書は一昨年出版した伊予路の正岡子規文学碑散歩を改訂しその後建立された五墓もふくめ五十基余りの碑の解説とそのほか子規が故郷松山平野を詠んだ短歌、俳句のうち主なもの約百四十首をとりあげ写真を付け句の成った背景とその地名等の歴史について記した。特に子規没後七十六年後の松山平野がどのように移り変ったかを示すため写真は全て新しく昭和四十五年以降のものと本年改めて写し直したものを使用した。…」。昭和52年に書かれた本ですから現在は句碑も増えているとおもいます。”松山は俳都と称せられ文学の町として発展”、やっぱり松山は俳句の都ですね。

左上の写真は松山城楼閣からみた松山市内です。撮影時期は不明ですが大正から昭和初期ではないかと推測しています。松山中学がお掘端から持田町の現在地に移転したのが大正5年ですからその前後だとおもいます(あくまでも推測です)。その後のお掘端の写真も掲載しておきます。NTT(当時は電電公社?)のビルが写っています。松山は終戦近くの昭和20年7月26日に空襲を受けて市街地は殆ど焼けてしまっていますので、昔の建物は殆ど残っていませんでした(郊外に移転していた松山中学校は空襲を免れています)。
子規堂>
 JR松山駅をおりて最初に訪ねるのが子規堂です。駅前からは伊予鉄道にのって伊予鉄松山市駅で降ります(休日だとぼっちゃん列車に乗れます)。松山市駅からは徒歩200m位です。「…正宗寺の境内にある子規堂は愛媛県指定史跡になっている。子規堂は、はじめ中の川の子規旧宅が取りこわされた時に記念のため用材の一部を用いて大正十五年三月境内に建てられたが昭和八年二月正宗寺の火災の際に類焼したため再建同十年九月落成した。昭和二十年七月松山空襲のため本堂庫裡などと共に類焼した。現在の子規堂は三度目の建物であるが正岡家旧宅そのままを再現して昭和二十一年十二月竣工した。…」。二回も火災に遭っては当時の遺品はなにも残りませんね。再建された現在の子規堂は当時の正岡子規旧宅を正確に再現していますので生活の様子がよく分かります。

右上の写真が子規堂のある正宗寺の正面です。この看板の右側に子規堂があります。休日は観光客で一杯でした。

松山市中心部地図

子規誕生の家跡>
 子規が生まれた所も松山市駅や子規堂の直ぐ近くにありました。「…子規は慶応三年九月十七日松山藩士御馬廻り加番正岡隼太常尚の二男として生れた。当時の子規誕生の家は温泉郡藤原新町となっており現在の花園町の電車通り西側の中井薬局前あたりであった。戦前近所に住んでいた古老二色別之翁の話しでは「表はオロ垣(竹の枯枝の方言)を結ひ垣の内には珊瑚樹の木が並んでいた、曽祖母に当るお婆さんが「処さん」を抱いてその垣の外に立っているのをよく見うけた」といっている当時子規はところさんと呼ばれていた。明治元年正岡家は俗に中の川と称する湊町四丁目に転居した、子規が二歳のときであった。何のために正岡家は移転したかこれは到底判断がつかぬ、古賀蔵人氏の子規の居蹟と題する文中に「御一新に際し一部士族の屋敷香へを行なったようなことが藩中にあったのかと思ふ」と書いているが柳原極堂はこれは彼の想像に過ぎぬだろうといっている。碑は昭和二十六年九月子規五十回忌に建てられた。…」。子規が生まれた慶応三年は10月には大政奉還、11月には坂本龍馬、中岡慎太郎が暗殺されています。翌年の慶応四年には鳥羽伏見の戦いが起こっていますからまさに時代が動いていたころです。

左上の写真が「子規誕生の家跡」の記念碑です。伊予鉄松山市駅から電車通りをお掘りの方へ100m少し歩いた左側歩道の上に建てられていました。
子規生ひたちの家跡>
 明治元年、正岡家は南東に700m程離れた湊町新町に転居します。「…子規の一家は明治元年彼の誕生の地、藤原村よりここに転居して来た。湊町四丁目一番地で当時は湊町新町といっていた。この家は子規の三歳のとき焼失してのち建てられた。柳原極堂は当時の様子を次のように書き記している。「中の川の流れを南境となして生垣があり、東は土の塗り塀が十数間あって其中央に門が出来ている、門を西向して入れば正面が玄関である……一軒おいて隣が高浜虚子の家でありその隣りは子規の再従兄弟の三並良の生家である、坪数は約百八十坪で表門を入りて十数歩で入口に達し少々土間があって正面が玄関四畳、其のすぐ奥が八畳の客間、客間の北側六畳が居間で玄関から北側に当るところに、板敷の凡そ四畳か四畳半の台所、其の東が土間で炊事場が附いていた。玄関からも客間の南縁からもいけるように三畳の小部屋があり、これが子規の書斉であり庭には老桜の大木があった。…」。子規はこの湊町で明治24年まで過ごします。子規堂もこの時の勉強部屋を再現したものです。子規の家は南側が中の川に面していましたからこの道路上北側にあったものとおもわれます。また高浜虚子生誕の家は子規の家の北側にありましたから、歩道上から北側に在ったものとおもわれます。

右上の写真が「子規生いたちの家跡」の記念碑です。道の真ん中に有ります。当時はこのように広い道ではなかったのでしょう。住所は上記には湊町四丁目一番地と書かれていますが現在の住居表示で港町三丁目3番南側道路上です。
正岡子規母堂令妹住居跡>
 子規は明治16年、上京します。「…子規の上京後、約四年経った明治十九年末頃正岡家はここえ移転した。子規の生ひ立ちの家湊町四丁目一番地より西へ約百メートルも寄った同十六番地のこの家はさゝやかな平家建てで柳原極堂の想い出によると「引あけ戸を開いて中庭に入り、左側の障子を開けると其処は玄関兼居間ともいふべき六畳で、其西奥の間が四畳である。室といっては此二間だけらしい。南は中の川の流れを真下に見て格子窓になっており、北は大原の家裏を望みて少々の庭がある。井戸も廟も皆この庭にある、多少の花組もこゝにある、記録には建坪十八坪五合二勺となっている」これを見ると子規の母の実家、大原家の屋敷に建てられており、当時子規は上京していなく妹の律は今治の出身の中城家へ婚嫁され、曽祖母の久女が死去して母一人となり旧宅は売り払われたのでこゝえ移った。明治二十五年大学生の漱石が訪ずれたのもこの家である。…」。母親一人になったためやむを得ず実家に移ったのだとおもわれます。

左上の写真が「正岡子規旧宅母堂妹住居跡の記念碑です。此方も道路の真ん中に有ります。現在の住居表示で港町四丁目2番南側道路上です。
子規旅立ちの像>
 子規は当初私塾に通いますが明治六年には小学校?に通い始めます。この勝山学校の紹介は「伝記正岡子規」から引用します。「…明治六年、七歳になった子規は、また、良と二人で学校に通い始めた。学校は、末広町の法龍寺の本堂を校舎とした殺風景なもので、先生は二名生徒は百名ばかりであった。畳の間に文庫を置き、机のかわりとした。文庫というのは、木製の箱で、この中に、すずり、筆、草紙、書物いっさいを入れ、めいめいが家からかついで行くのである。今でいえば鞄で、それが木製のため机にも使われたのである。小柄だった子規には、これが大変な荷物で、それをかついで歩くさまは、”おっちりよっちり”だと言われた。二人が入学した末広学校は、二年足らずで、智環学校と改称された。当時の教科は習字が中心だった。やがて、「習字ばかり教えていても仕方がない。数学も読み方も教える正式の小学校が必要である」ということが、県でもいわれるようになった。そうして、大阪師範学校出身の安岡珍麿を招き、明治八年、勝山孝校を教員伝習所の附属小学校として、種々刷新改善に努めさせたため、当時、「勝山は新しい教育をする山という評判がたったりした。間もなく、二人はここに転校したが、秋山真之もまた転校してきて、子規と真之との交友が始まるのである。…」。明治初期はまだ教育制度が整っておらず、やっと出来た小学校です。それにしても松山で一校しかない小学校に通えるのですからたいしたものです。

右上の写真は勝山学校跡の裏手にある番町小学校です。学校の中に「子規旅立ちの像」があります。勝山学校は現在のNTTの所、松山中学校跡の所です。
松山中学校>
 子規は勝山学校から松山中学校に入学します。「…青びょうたんと呼ばれたひ弱な少年升さんは、明治十三年、あこがれの松山中学に入学した。生き生きとした彼の青春時代が訪れた。子規を中心として、太田正躬・竹村鍛・三並良・森知之らの五人が中心メンバーになって、学習会が開かれ、やがて五友の会と名づけられた。そのころ、愛媛県の中学校はこの松山中学一校だけであった。それも子規の入学する前年に正式の中学校となったばかりの、歴史の新しい学校であったから、生徒の気風も、将来は日本を背負っていくのだという誇りに燃、え、活気に満ち満ちていた。入学して間もなくの秋の試験で優秀であった子規たちは、ほうびとして、学校から、頼山陽選『謝選拾遺』という漢文を贈られた。…」。この松山中学校も松山に一つだけですからすごいエリートだったとおもいます。この後の明治16年、子規は松山中学校を中退し東京に旅立ちます。

左上の写真はNTT四国のビルの前にある夏目漱石の記念碑です。松山中学校の跡地に建てられています。

まだまだ不十分ですので順次追加していきます。