●正岡子規の神戸を歩く
    初版2007年4月14日 
    二版2011年3月13日 古賀蔵人氏の「神戸病院から須磨へ」を追加 他
    三版2011年4月24日 <V01L02>  県立神戸病院への道の写真を更新

 「正岡子規散歩シリーズ」の第六回目になります。前回までは東京を中心に明治35年に死去されまでを歩きましたが、今回は明治28年に日清戦争の従軍記者としての帰路、喀血し療養生活を行った神戸を歩いてみました。




「敦盛蕎麦」
敦盛蕎麦>
 子規は天才特有の傲慢さがあり、特に食に関してはなみなみならぬ意欲があったようです。ですから今回はそばの話から始めたいとおもいます。
 参考図書としては子規の一番弟子である高浜虚子の「回想子規・漱石」を利用しました。
「「…保養院に於ける居士は再生の悦びに充ち満ちていた。何の雲翳もなく、洋々たる前途の希望の光りに輝いていた居士は、これを嵐山清遊の時に見たのであったが、たとい病余の身であるにしても、一度危き死の手を逃れて再生の悦びに浸っていた居士はこれを保養院時代に見るのであった。我らは松原を通って波打際に出た。其処には夢のような静かな波が寄せていた。塩焼く海士の煙も遠く真直ぐに立勝っていた。眠るような一帆はいつまでも淡路の島陰にあった。ある時は須磨寺に遊んで敦盛蕎麦を食った。居士の健峡は最早余の及ぶところではなかった。

  人 も 無 し 木 陰 の 椅 子 の 散 松 葉  子 規
  涼 し さ や 松 の 落 葉 の 欄 に よ る   虚 子

などというのはその頃の実景であった。初め居士の神戸病院に入院したのは卯の花の咲いている頃であったが、今日はもう単衣を着て松の落葉の欄によるのに快適な頃であった。居士がヘルメット形の帽子を被って単衣の下にネルのシャツを来て余を拉して松原を散歩するのは朝夕の事であった。余はかくの如く二、三日を居士と共に過ぐしていよいよ帰京することになった。…」

 虚子が蕎麦の話を書くのですからよっぽどですね。子規と虚子が食べた敦盛蕎麦は、「文学のふるさと-神戸とその周辺」よると明治39年の”須磨明石−そば屋”に、
「…不味いこと甚だしい。浅い丼一杯だけやっと食べた…」
 と書かれています。私は現在の敦盛そばを食べましたが、そこそこの味でした。この敦盛そばは蕎麦を食べにいくのではなくて、すぐ横にある「敦盛塚」を見た帰りに須磨浦の海岸を見ながら食べるお蕎麦なのです。また子規は近くの須磨寺にも遊んでおり、この須磨寺には昭和9年の正岡子規三十三回忌に合わせて弟子の青木月斗により句碑が建てられています。

須磨寺の句碑 「暁や白帆過ぎ行く蚊帳の外」

「蕎麦屋と敦盛塚」
左上の写真が「敦盛そば」です。500円でした。蕎麦としては普通の蕎麦です。
左の写真が当時の蕎麦屋と敦盛塚です。蕎麦屋はすぐ横にあります。現在の蕎麦屋敦盛塚の写真も掲載しておきます。
 子規が神戸で療養しなければならなくなった経緯については「評伝 正岡子規」を参照すると、
「「…五月十四日、大連湾から佐渡国丸という御用船で帰国の途に上った。霧の狭く立ち込めた中を、船は遅々として進む。「陣中日記」は十七日の条に「朝大なる鱶の幾尾となく船に沿ふて飛ぶを見る。この時病起れり」と簡単に記したのみであるが、後年の「病」といぅ文章を読むと、この間の事がよほど委しく叙されている。明治廿八年五月大連湾より帰りの船の中で、何だか労れたようであったから下等室で寝て居たらは、鱶が居る、早く来いと我名を呼ぶ者があるので、はね起きて急ぎ甲板へ上った。甲板に上り著くと同時に痰が出たから、船端の水の流れて居る処へ何心なく吐くと痰ではなかった、血であった。それに驚いて、鱶を一目見るや否や梯子を下りて来て、自分の行 李から用意の薬を取り出し、それを袋のままで著ている外套のカクシヘ押し込んで、そうして自分の座に帰って静かに寝て居た。これが大患のはじまりであった。…」
 と書かれています。元々体調が優れなかったのに日清戦争の従軍記者として出かけたのが病気を悪化させた原因でしょう。

【正岡子規(本名:常規。幼名は処之助でのちに升と改めた)】
 慶応3年(1867)9月17日、愛媛県松山市で父正岡常尚、母八重の長男として生まれる。旧制愛媛一中(現松山東高)を経て上京し、東大予備門から東京帝国大学哲学科に進学する。秋山真之とは愛媛一中、共立学校での同級生。共立学校における子規と秋山の交遊を司馬遼太郎が描いたのが小説『坂の上の雲』。東大では夏目漱石と同級生。大学中退後、明治25年(1892)に新聞「日本」に入社。俳句雑誌『ホトトギス』を創刊して俳句の世界に大きく貢献した。従軍記者として日清戦争にも従軍したが、肺結核が悪化し明治35年9月19日死去。享年34歳。


子規の須磨付近地図(神戸市須磨区)



「神戸病院跡への道」
神戸病院>
 2011年4月24日 神戸病院跡への道の写真を更新
 子規は明治28年3月に従軍記者として日清戦争の取材に出かけますが、戦争はほとんど終わっており、5月14日、大連湾から佐渡国丸という御用船で帰国の途に着いています。
「…その時突として一つの電報が余の手に落ちた。それは日本新聞社長の陸鵜南氏から発したもので、子規居士が病気で神戸病院に入院しているから余に介抱に行けという意味のものであった。神戸の病院に行って病室の番号を聞いて心を躍らせながらその病室の戸を開けて見ると、室内は閲として、子規居士が独り寝台の上に横わっているばかりであった。余は進んでその傍に立って、もし眠っているのかも知れぬと思って、壁の方を向いている居士の顔を覗き込んだが、居士は眠っていたのではなかった。透明なように青白く、全く血の気がなくなってしまっているかと思われるような居士は死んだものの如く静かに横臥しているのであった。居士は眼を瞠いて余を見たがものを言わなかった。余も暫く黙っていたが、「升さん、どうおした。」と開いた。この時余の顔と居士の顔とは三尺位の距離はかなかったのであるが、更に居士は余を手招きした。手招きと言ったところで、けだるそうに布団の上に投げかけている手を少し上げて僅に指を動かしたのであった。余はその意をさとって居士の口許に耳を遣ると、居士は聞き取れぬ位の声で囁くように言った。「血を吐くから物を言ってはいかんのじゃ。動いてもいかんのじゃ。」…」
 子規が神戸病院に入院したのが5月22日、27日に京都から虚子が到着(陸鵜南氏の電報を受け取って)、6月4日には東京から碧梧桐氏が母堂を伴って到着します。
 又、古賀蔵人氏は子規全集の月報、「神戸病院から須磨へ」の中で下記のように書いています。
「 神戸病院の子規の病室の様子は「二階の二等室」(玄関上から約三十間隔たった部屋、七月初めにそこから玄関上に移る)、「四畳敷の天地」「白壁はきれいで天井は二間程の高さ」、「南枕」 のち「東枕」と、断片的に知られている。
 子規が従軍の帰路に御用船「佐渡国丸」上で発病、和田岬からつり担架に揺られあえぎながらここに担ぎ込まれたのは明治二十八年五月二十三日の火ともしごろであった。…」


左上の写真の坂を上がった途中から県立神戸病院がありました(当時のこの道は県立神戸病院入口への道でした)。現在は移転して神戸市中央区楠町にある神戸大学付属病院になっています。宮崎修二朗の「文学の旅・兵庫県」によると、当時の住所で下山手八丁目四十番地(現在の住所で下山手八丁目3〜5付近)でしたが、現在は何も残っていませんでした。
「…二十一日の夕方、とにかく和田岬の検疫所まで行くことになって、船は徐に動き出した。和田岬へは翌日午後着いたけれども、その日は上陸出来ない。二十三日の午後に至って、漸く放免された。居士は直に人力車で神戸病院へ行くつもりであったが、肩に鞄をかけた上、かなり重い行李を右手に提げなければならぬ。左の手に刀をついて、喘ぎ喘ぎ行こうとすると、歩くたびに血を喀く。もう声を揚げて人を呼ぶ気力もない。折よく同行者が来たのに頼んで、釣台を周旋してもらうことにした。二時間ばかり待った後、漸く釣台に載せられて検疫所を出た。油単をかけた釣台は、土地の祭礼らしい混雑の中を通ったりしながら、灯ともしごろ神戸病院に辿り著いたのである。…」
和田岬から下山手八丁目までは4.5Km程ありますから病人にとっては大変な距離です。”土地の祭礼”は和田岬にある和田宮神社のことだそうです。

「須磨花壇跡(須磨保養院跡)」
須磨保養院>
 2011年3月13日 古賀蔵人氏の「神戸病院から須磨へ」を追加
 明治28年7月23日、療養のため神戸病院から須磨保養院に移ります。
「…いよいよ須磨の保養院に転地するようになったのはそれから間もないことであった。病院を出て停車場に行く途中で、帽のなかった居士は一個のヘルメット形の帽子を買った。病後のやつれた顔に髭を蓄え、それにヘルメット形の帽子を被った居士の鳳来は今までとは全然異った印象を余に与えた。保養院に於ける居士は再生の悦びに充ち満ちていた。…」
 停車場に向かっていますので現在の神戸駅に向かったようです。すでに山陽本線下関までは開通しており、須磨駅も明治21年には開業していましたので、子規一行は須磨駅で下りたものとおもわれます。

右上の写真の左側辺りに須磨保養院がありました。須磨保養院はその後、須磨花壇(料理旅館)となり、昭和10年には神戸市に明け渡します。
 この付近には同じような名前の病院が二つあり、紛らわしくなっていました。宮崎修二朗の「文学の旅・兵庫県」を再び参照すると、二つは「須磨保養院」と「須磨療養院」であり、この二つは全く別の病院であり、保養院とは健康人も入る保養所だったようです。子規は保養院に滞在して療養院で診察を受けていたのでしょう。現在の須磨浦病院のホームページを参照すると明治22年に結核療養施設として須磨浦療病院を開設したとありますので、宮崎修二朗の言う「須磨療養院」は「須磨浦療病院」のこととおもわれます。
 古賀蔵人氏は子規全集の月報、「神戸病院から須磨へ」の中で下記のように書いています。
「… 命拾いをした子規は、七月二十三日に虚子に付き添われて「須磨保養院」に移り、そこで八月二十日まで養生した。……
… わたしが昭和六年にここの跡を訪ねた時は、看板は「須磨花壇」と変わっていたが、「東新」「西新」は呼び名もそのままに、旧状をしのばせた。しかしその二階の空き室に上がって見ると、中は痛ましいほどに荒れていた。…」

 昭和10年4月28日の神戸新聞によると、”須磨花壇(須磨保養院)の土地は一ノ谷御料林を借りていたもので、国は神戸市に払い下げた”とあります。この結果、神戸市の所有となり、須磨浦公園となるわけです。


子規の神戸病院地図(神戸市中央区)



「子規、虚子句碑」
子規、虚子句碑>
 須磨には昭和9年に須磨寺に建てられた句碑がありましたが、昭和28年には新たに保養院の近くの鉢伏山の中腹に子規と虚子の句碑が建てられています。
 体力が回復した子規は明治28年8月20日神戸を立ち松山に向かいます。
「「…いよいよ明朝出発するという前の日の夕飯に居士は一つか二つか特別の皿をあつらえた。それから居士は改まって次のような意味の事を余に話した。「今度の病気の介抱の恩は長く忘れん。幸に自分は一命を取りとめたが、しかし今後幾年生きる命かそれは自分にも判らん。要するに長い前途を頼むことは出来んと思う。それにつけて自分は後継者という事を常に考えて居る。折角自分の遣りかけた仕事も後継者がなければ空なってしまう。御承知の通り自分には子供がない。親戚に子供は多いけれどそれは大方自分とは志を異にしている。そこでお前は迷惑か知らぬけれど、自分はお前を後継者と心に極めて居る。……」
 ここで初めて虚子に後継者の話をしたようです。虚子はここに二日宿泊して翌日の朝東京に戻ります。

左上の写真が鉢伏山の中腹に建てられている子規と虚子の句碑です。

「虚子の東帰にことづてよ須磨の浦わに晝寝すと 子規」
「子規50年忌 月を思い人を思ひて須磨にあり 虚子」

須磨寺の句碑の方が重みがありますね!!


正岡子規年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 正岡子規の足跡
明治16年 1883 モーパッサン「女の一生」

岩倉具視没
16 6月 日本橋区浜町の旧松山藩主久松邸内に寄寓
7月頃 赤坂丹後町の須田学舎に入学
9月 久松邸内に戻る
10月 共立学校(学舎)に入学
10月末 神田区仲猿楽町19番地の藤野宅に下宿
明治17年 1884 森鴎外ドイツ留学
秩父事件
17 夏 東五軒町三十五番地 藤野宅に下宿
夏 進文学舎に通う
9月 東京大学予備門入学
秋 猿楽町五番地の板垣善五郎宅に下宿
明治18年 1885 清仏天津条約
18 夏 松山に帰省
明治19年 1886 谷崎潤一郎誕生
19 4月 清水則遠の葬儀
4月 予備門が第一高等中学校と改称
ベースボールに熱中
夏 永坂の別邸に一時奇遇
明治20年 1887 長崎造船所が三菱に払下
20 9月 第一高等中学校予科進級
一橋外の高等中学校に寄宿
12月 常盤会寄宿舎に転居
明治22年 1889 大日本帝国憲法発布
パリ万国博覧会
22 1月 夏目金之助と交遊が始まる
第一高等中学校本郷に移転
7月 新橋−神戸間が全通(東海道線)
10月 不忍池畔に下宿
明治23年 1890 慶應義塾大学部設置
帝国ホテル開業
23 1月 常盤会寄宿舎に戻る
7月 大阪経由で松山に帰郷
9月 東京帝国大学文科大学哲学科入学
明治24年 1891 大津事件
東北本線全通
24 12月 本郷区駒込追分町30番地奥井方に下宿
明治25年 1892 東京日日新聞(現毎日新聞)創刊 25 2月 下谷区上根岸88番地に転居
      港町−奈良間が全通(大阪鉄道)
10月 東京帝国大学を退学
11月 母八重、姉律を東京に呼ぶ
12月 日本新聞社入社
明治27年 1894 東学党の乱
日清戦争
27 2月 上根岸82番地に転居
6月 広島−神戸間が全通(山陽鉄道)
明治28年 1895 日清講和条約
三国干渉
28 4月 日清戦争へ従軍
5月 県立神戸病院に入院
8月 松山の夏目漱石の下宿に移る
10月19日 松山を発って上京
10月21日 神戸の須磨保養院で診察
10月22日 大阪着
10月24日 奈良を訪ね、対山楼に宿泊
10月30日 大阪から東京に向かう
明治29年 1896 アテネで第1回オリンピック開催
樋口一葉死去
29 1月 子規庵で鴎外、漱石参加の句会開催
明治33年 1900 義和団事件 33 9月 漱石ロンドンへ出発
明治35年 1902 八甲田山死の行軍 35 9月19日 死去