
子規は天才特有の傲慢さがあり、特に食に関してはなみなみならぬ意欲があったようです。ですから今回はそばの話から始めたいとおもいます。
参考図書としては子規の一番弟子である高浜虚子の「回想子規・漱石」を利用しました。
「「…保養院に於ける居士は再生の悦びに充ち満ちていた。何の雲翳もなく、洋々たる前途の希望の光りに輝いていた居士は、これを嵐山清遊の時に見たのであったが、たとい病余の身であるにしても、一度危き死の手を逃れて再生の悦びに浸っていた居士はこれを保養院時代に見るのであった。我らは松原を通って波打際に出た。其処には夢のような静かな波が寄せていた。塩焼く海士の煙も遠く真直ぐに立勝っていた。眠るような一帆はいつまでも淡路の島陰にあった。ある時は須磨寺に遊んで敦盛蕎麦を食った。居士の健峡は最早余の及ぶところではなかった。
人 も 無 し 木 陰 の 椅 子 の 散 松 葉 子 規
涼 し さ や 松 の 落 葉 の 欄 に よ る 虚 子
などというのはその頃の実景であった。初め居士の神戸病院に入院したのは卯の花の咲いている頃であったが、今日はもう単衣を着て松の落葉の欄によるのに快適な頃であった。居士がヘルメット形の帽子を被って単衣の下にネルのシャツを来て余を拉して松原を散歩するのは朝夕の事であった。余はかくの如く二、三日を居士と共に過ぐしていよいよ帰京することになった。…」。
虚子が蕎麦の話を書くのですからよっぽどですね。子規と虚子が食べた敦盛蕎麦は、「文学のふるさと-神戸とその周辺」よると明治39年の”須磨明石−そば屋”に、
「…不味いこと甚だしい。浅い丼一杯だけやっと食べた…」
と書かれています。私は現在の敦盛そばを食べましたが、そこそこの味でした。この敦盛そばは蕎麦を食べにいくのではなくて、すぐ横にある「敦盛塚」を見た帰りに須磨浦の海岸を見ながら食べるお蕎麦なのです。また子規は近くの

須磨寺の句碑 「暁や白帆過ぎ行く蚊帳の外」