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最終更新日:2006年2月20日


●司馬遼太郎と「藪下の道」を歩く 初版2001年3月10日 V01L02

 今週は司馬遼太郎が週間朝日に連載していた『街道をゆく』37号「本郷界隈」の中の”藪下の道”に沿って散歩をして見たいと思います。「藪下の道」については司馬遼太郎だけではなく、永井荷風が「日和下駄」の中で、木下順二が「本郷」で、近年では森まゆみが「鴎外の坂」等で多くの作家に書かれています。順次紹介していきたいと思います。

  『本郷台の束の縁辺の台上を歩いてみた。このあたりも、”海”にむかって、急勾配をなしている。本郷千駄木の団子坂も、そうである。その坂の上(本郷駒込千駄木町二十一番地)に、森鴎外(1862〜1922)が住んでいた。鴎外は、それより前、近所の本郷駒込千駄木町五十七番地にいたのだが、明治二十五年(1892)に越してきて、終生のすまいになった。ときに、満三十歳であった。・・・家は平家だったが、両親と祖母をひきとることになって、十二畳の二階を増築した。この十二畳の二階から、品川の海がみえたというのである。やがてこの家を、「観潮楼」と名づけた。いま鴎外旧居跡は、文京区の所有になっていて、区立鴎外記念本郷図書館になり、団子坂に面して門をひらいている。』は司馬遼太郎の「藪下の道」の書き出しです。ここに書かれている通り、現在は団子坂を上がった左側に森鴎外記念図書館があります。今は正面が団子坂に向かっていますが、「観潮楼」は団子坂を登り切る途中を左に曲がった「藪下の道」のほうが表門だったようです。今でも「藪下の道」の方に入口の跡があります。又、鴎外記念図書館は名前ばかりではなくて、なかに鴎外資料室がありますので一度見られるといいと思います。。

左の写真は「藪下の道」の「観潮楼」の表門跡から根津神社方面を撮影したものです。写真の右側が丁度「観潮楼」の表門跡で、左側が崖になっていて、崖の下が第八中学校です。「観潮楼」は昭和12年に火事で消失、一部残っていた建物も昭和20年1月の空襲ですべて消失しています。

yabushita2w.jpg この司馬遼太郎の”藪下の道” の中に森鴎外が明治42年に書いた「団子坂」が紹介されています。なかなか面白いので私も紹介したいと思います(明治42年に書いたとは思えません)。登場人物は男女の学生のみで、対話だけで進行します。主題は、男女に??清い交際″というものがありうるかということです。
 『藪下の道を歩きながらの対話です。女が、いう。「……でも、又あなたの処へ寄ったのは秘密よ」男が、いう。「あなたはこんな事をいつまでも継続しようと思っているのですか」 女は、とまどう。「そうならそうで好くってよ」 こういう会話体は、教育のある令嬢ふうである。さらに男は、いう。「……あなたが僕の傍に来て、いくら堅くしていたって、僕の目はあなたの体のどんな線をだって見ます。そしてあなたはそれを防ぐことが出来ないのです」 女、「随分だわね」と、下を向く。・・・「一体あなたのいつも言っている清い交際というものですね。僕の方でも云っていたのですが(註:以前、男のほうも、清い交際を唱えていたのだろう)、そんな事が不可能だということは、欧羅巴(ヨーロッパ)なんぞには一人だって知らないものはありますまい」 ヨーロッパでの恋愛の場合、肉交(明治時代の文学の言葉)が加わるというのである。やがて、女の家への曲り角にくる。女は、ついに言う。この一幕物の対話劇は、口説のあげく、この次のひとことを女にいわせるために、書かれているようです。「あしたはわたくしも決心して参りますわ」 女は、小走りに去る。』
 まあ現在の恋愛小説でも使えそうなフレーズですね!。一寸古くて、こんな事を今の時代の小説に書いても売れないかも知れませんが。

<永井荷風:日和下駄より>
絶壁の頂に添うて、根津権現の方から団子坂の上へと通ずる一条の路がある。私は東京中の往来の中で、この道ほど興味ある処はないと思っている。・・・

右の写真は「藪下の道」の途中を撮影したものです。こんな小説を読みながら「藪下の道」を歩いていると、根津権現の裏門坂に出てきます。

yabushita5w.jpg<夏目漱石旧宅跡> 《区指定史跡》
 「藪下の道」から本郷通りの方に一筋上がった所に夏目漱石の旧宅があります。夏目漱石(本名、金之助 1867〜1916)は留学先のイギリスから帰国した明治36年3月から明治39年12月までの約4年間ここに住んでいます。この家は漱石の学友斎藤阿具(仙台の第二高等学校の教授)の家で、阿具のヨーロッパ留学中のみ借用するという条件で借りたようです。阿具が帰国した明治39年末に駒込西片十番ろ七へ移っています。夏目漱石がこの家に住んだ頃は、東京大学英文科と第三高等学校の講師でした。明治37年12月、初めて筆をとったのが『吾輩は猫である』です。旧居は丁度その舞台になっています。それから、『倫敦塔』『坊っちゃん』『草枕』や『二百十日』などの名作を次々に発表しています。特にこの旧居は『吾輩は猫である』を書いたことにより、通称”猫の家”と呼ばれるようになりました。この家は、明治23年頃牛込の中島吉利という人が、東大医学部に学ぶ子息の卒業後の住宅として建てたもので、すぐに斎藤家の持家となったようです。木造平屋138平方メートル、6畳・8畳(座敷) 6畳(書斎) 6畳(居間)・6畳(子供部屋) 3畳(お手伝部屋)でした。「我が輩は猫である」を読むと旧居の西側の裏は「落雲館と称する私立の中学校――八百の君子をいやが上に君子に養成する為に毎月弐円の月謝を徴集する学校である。名前が落雲館だから風流な君子ばかりかと思うと、それがそもそもの間違になる。」 とあり現在の郁文館中・高校です。南側には「「己れあ車屋の黒よ」昂然たるものだ。車屋の黒はこの近辺で知らぬ者なき乱暴猫である。」で”車屋の黒”のいた車宿。すぐ北側の路地には「新道の二絃琴の御師匠さんのとこの三毛子でも訪問しようと台所から裏へ出た。三毛子はこの近辺で有名な美貌家である。」とあり”三毛子”の飼われた二弦琴の女師匠の家。道路を隔てて東側には、漱石が??探偵習″と呼んだ学生下宿(現在駐車場になっている)など、静かな環境は、そこはかとなく当時の姿が思い出されます。又、漱石の住んでいた13年前、明治23年から1年3ヶ月位の間、森鴎外もこに住み、『文つかひ』を書いています。ここから、団子坂上の観潮楼へ移って行きました。(文京の史跡めぐりより)
 この旧居は「明治村」に移築 昭和40年のオープンと同時に移築公開されています。

左の写真が夏目漱石の旧居記念碑です。写真をクリックすると明治村に移設した旧宅の写真が見られます。

yabushita7w.jpg<根津神社>
 「小泉純一は芝日蔭町の宿屋を出て、東京方眼図を片手に人にうるさく問うて、新橋停留場から上野行の電車に乗った。目まぐろしい須田町の乗換も無事に済んだ。さて本郷三丁目で電車を降りて、追分から高等学校に附いて右に曲がって、根津権現の表坂上にある袖浦館という下宿屋の前に到着したのは、十月二十何日かの午前八時であった」は森鴎外の「青年」の書き出しです。「藪下の道」の片側が丁度、根津神社の裏門になります。根津神社は、昔は団子坂上の北側、通称保健所通りのすぐ右手にあり、今でも土地の人はここを元根津と呼んでいます。現在の境内は甲府中納言家徳川綱重(綱吉の兄)の山手屋敷の跡です。ここで六代将軍となる綱豊(家宣)が生まれ、根津神社はその産土神(幼児の守護神で一生を通じて繁栄を祈る)となっています。後、家宣は五代将軍綱吉の後つぎとなり江戸城に入りました。綱吉は宝永3年(1706)甲府屋敷の跡に根津神社を移し、今日見られる社殿を造営しています。

右の写真が根津神社の正面です。根津神社の中に明治39年、森鴎外が寄進した戦利砲弾があります。今は水飲み場に使っていますが裏にしっかり森林太郎と名前がかかれていますので一度見てください。

藪下通り付近地図



参考文献】
・本郷界隈:司馬遼太郎 朝日文芸文庫
・家風随筆集(上):永井荷風 岩波文庫
・本郷:木下順二 講談社文芸文庫
・ぶんきょうの史跡めぐり:文京区教育委員会
・文京ゆかりの文人たち:文京区教育委員会
・文人悪食:新潮社、嵐山光三郎
・鴎外の坂:森まゆみ 新潮社

【交通のご案内】
・営団南北線「東大前駅」下車徒歩10分
・営団千代田線「千駄木駅」下車徒歩5分

【住所紹介】
・森鴎外記念図書館:東京都文京区千駄木1-23-4
・根津神社:東京都文京区根津1-28-9

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