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最終更新日:2006年2月23日


●松本清張の「張込み」を歩く 前編
  初版2004年10月23日 二版2005年1月24日 <V01L02> 旧佐賀駅の写真に入替

 今週は東京からかなり離れて九州の佐賀を歩いてみました。松本清張の「張込み」が九州の佐賀市を舞台にしています。刑事二人が東京から犯人を追いかけて佐賀に向かいます。私も東京から佐賀に向かいました。「張込み」を読んだり、映画を見たりしていないと面白くないとおもいます。

 今回の取材は、原作と、昭和33年(1958)1月 出演:大木実、宮口精二、菅井きん、高峰秀子で映画化された「張込み」の撮影場所を下記の「日本映画を歩く」を参照しながら紹介します。映画の方は昭和32年撮影なので、撮影の建物等が残っているか期待しながら佐賀を訪ねました。

<日本映画を歩く>
 お馴染みの川本三郎氏が「日本映画を歩く」の中で『「張込み}の風景を追って佐賀から香椎、小倉へ』を書いていますので、映画の場面とこの本にしたがって歩いてみました。「松本清張の推理小説は「顔」(57年)から「彩り河」(84年)まで実に三十五本も映画化されているが、なかでも好きなのは、昭和三十二年(一九五七)に作られた野村芳太郎監督の「張込み」。原作は文庫本で三十頁に満たない短篇だがそれを脚本家の橋本忍がみごとなドラマに仕立てた。松本清張自身、この映画を高く評価していた。東京の下町の質屋で強盗殺人事件が起る。二人の刑事が事件を調べるうちに、犯人は九州から東京に働きに出て来た若い労働者だとわかる。しかし居場所がわからない。九州の佐賀市にいる昔の恋人(いまは結婚している)のところへ行く可能性がある。二人の刑事は佐賀市に行き、女の家の近くで張込みをすることになる。犯人役は田村高虞、刑事は宮口精二と大木実、そして犯人の昔の恋人が高峰秀子(美しい!)。…」。高峰秀子は本当に綺麗、美しい、の一言です。33歳ですね。妻の役がぴったりです。何故こんなに綺麗なひとがつまらない旦那の妻の役をやっているのかとおもいますが、映画なので・・・ですね。

【松本清張】
 1909(明治42)年12月、福岡県小倉市(現・北九州市)に生れる。1953(昭和28)年「或る『小倉日記』伝」で第28回芥川賞を受賞。56年、それまで勤めていた朝日新聞社広告部を退職し、作家生活に入る。63年「日本の黒い霧」などの業績により日本ジャーナリスト会議賞受賞。70年菊池寛賞、90年朝日賞受賞。「点と線」「波の塔」「日本の黒い霧」「現代官僚論」「昭和史発掘」「古代史疑」「火の路」「霧の会議」「草の径」など多方面にわたる多くの著作がある。1992(平成4)年8月死去。98年8月、北九州市に「松本清張記念館」が開館した。(文春文庫「松本清張の世界」より)

左上の写真が、川本三郎氏の「日本映画を歩く」です。1998年に書かれていますので、この本の書かれた時点と現在とは6年経過していますので現地は少し変わっているかとおもいます。

「張込み」佐賀市地図


<横浜駅>
 警視庁の刑事二人は犯人を追跡して、あえて東京駅から列車に乗らずに横浜駅で鹿児島行きの急行「筑紫」に乗ります。川本三郎氏の「日本映画を歩く」の中では、「…映画の冒頭、二人の刑事は横浜駅を二十三時六分に出る鹿児島行きの夜行列車「薩摩」に乗り、佐賀に向かう。岐阜あたりで夜が明け、その日の夜に佐賀に着く。えんえん一泊二日の旅である。(ちなみに、当時は、東海道本線は電気機関車。山陽本線に入ってからは蒸気機関車)。…」。二人の刑事が横浜駅で乗った列車は”二十三時六分に出る鹿児島行きの夜行列車「薩摩」”と書いていますが、松本清張の原作では、「柚木刑事と下岡刑事とは、横浜から下りに乗った。東京駅から乗車しなかったのは、万一、顔見知りの新聞社の者の眼につくとまずいからであった。列車は横浜を二十一時三十分に出る。二人はいったん自宅に帰り、それぞれ身支度をして、国電京浜線で横浜駅に出て落ちあった。列車に乗りこんでみると、締めていたとおり、三等車(現在の二等車)には座席はなく、しかもかなりの混みようである。二人は通路に新聞紙を敷いて尻をおろして一夜を明かしたが、眠れるものではなかった。…」、と書いています。川本三郎氏の「日本映画を歩く」の中で書いている急行「薩摩」は昭和31年11月に急行「筑紫」を改称して誕生した列車です。「張込み」が書かれたのは昭和30年ですから松本清張は急行「筑紫」を題材として書いたことになります。昭和30年の急行「筑紫」は東京駅を21時30分に出発していました。また、当時は一等から三等までありました。

左上、左の写真はHOゲージの鉄道模型で昭和30年当時の横浜駅の風景を映画と同じアングルで作ってみました。映画が撮影された時期は昭和32年後半で、映画の画面をよく見ると、刑事二人が飛び乗った列車は急行「伊勢」でした(伊勢行です)。急行「さつま」は横浜駅を22時19分発で、急行「伊勢」は23時34分発で、急行「さつま」では時間が早すぎて撮影には向かなかったのかもしれません。当時の急行「さつま」の列車編成ではこのような写真になります。現在の横浜駅の写真を掲載しておきます。あまり大きくは変わっていないようです。

横浜駅から佐賀駅まで、映画では細かく映しています。原作でもこの列車での旅が大きなウエイトを占めています。

旧佐賀駅> 2005年1月24日 旧佐賀駅の写真に入替
 松本清張の原作では横浜駅を21時30分発で、翌日の夜遅くに佐賀に到着することになっています。「…夜遅くS市に着き、柚木は駅前の旅館で寝た。…」。急行「筑紫」の時刻表を見ると鳥栖着は翌日夜の22時過ぎ、鳥栖で長崎本線に乗り換えて佐賀までいくのですが、時刻表を見たら当日に乗り換えて佐賀にいく列車はありませんでした。映画では横浜駅を23時6分発となっていますが昭和31年12月の時刻表では急行「さつま」は横浜駅を22時19分発、鳥栖着翌日の23時9分着です。ここでも長崎本線で佐賀駅には乗り継げません。川本三郎氏の「日本映画を歩く」でも、「…岐阜あたりで夜が明け、その日の夜に佐賀に着く。えんえん一泊二日の旅である。…」、と書いています。実際は当時の列車では翌日中に佐賀に到着するのは難しそうです。

右の写真は、撮影された当時の佐賀駅です(TOさんよりお借りしています)。昭和30年代は高架になっておらず、平屋の駅舎だったようです。昭和50年(1975年)の佐賀国体開催に合わせて高架駅に建て直されたそうです(メール下さった方ありがとうございました)。ただ、私も知らなかったのですが、駅自体が200m北側に移動していました。頂いた新旧両駅の航空写真を掲載しておきます。当時の駅前は現在の駅南本町の佐賀駅南口交差点になるそうです。

佐賀県警本部>
 佐賀に夜遅く到着した刑事二人は翌日佐賀県警を訪ねます。「…東京から直行した身体は疲れ果てていたが、それでも一晩じゅうを泥のように眠ると、朝は元気が出ていた。まずS署に行って署長に会い、捜査協力の依頼状などのはいっている書類を封筒のまま出した。…… 「この事件はこの土地の新聞記者には絶対に勘づかれないようにしてください。その女は石井とは関係のない人妻です。女にとっては、今どき石井に釆られるのは災難なんです。もし新聞に書きたてられて、せっかくの家庭が滅茶滅茶になっては気の毒ですからね」女の夫は何も知ってない。女も夫に告白したことはないだろう。それはそれでいいのだ。善良で、平和な市民生活を営んでいる。女はその家庭生活に安心しきっている。そこにとつぜん、前に交渉のあった男が凶悪犯人として女のもとに立ちまわってくるかもしれぬと夫にも世間にもわかったら、どんなことになるか。過去が牙をならして立ち現われ女を追いつめるのだ。…」。S署とは当然佐賀県警です。松本清張の「張込み」の面白さはこの刑事の張り込む女性に対する思いやりです。その行いが実にシュールに思えるのです。個人的見解!!

左の写真の左側に佐賀県警のビルがあります。映画では県警から出てきた二人の刑事は写真の横断歩道を左から右へお掘りの方に渡って、お掘りの道を歩きます(映画と同じカットです)。昭和32年の映画では古い県警のビルが映っていたのですが現在は建て直されて近代的なビルになっています。またお掘りの向こう側に見える佐賀県庁のビルも建て直されています。変わらないのはお掘りだけのようです。

松原神社>
 「…松原神社という大きな神社がある。クスノキの大樹がある。藩祖鍋島直茂(法号、日峰)を祀っているので地元の人にほ「日峰さん」と呼ばれている。春と秋に祭りがある。「男はつらいよ」シリーズ第42作「ぼくの伯父さん」(89年)では、渥美清の寅さんがこの神社の秋の祭りにやって来て商売をしている。……松本清張の原作には実は「佐賀市」と明記されていない。「S市」である。それでも九州の町で「堀がいくつも町を流れている」とあるのでそれと知れる。……松原神社の参道の商店街に松川屋という江戸時代から続いている老舗の旅館・料理屋がある。森鴎外「小倉日記」にも登場する。ここは実は、知人の映画評論家、西村雄一郎さんの実家である。「張込み」のロケ隊はこの旅館に泊まった。そのときのにぎわいを西村さんはよく憶えているという。…」。森鴎外の「小倉日記」には、「…三日。朝小倉を発す。沿道田圃間多く櫨樹を栽ゑ到処蔭をなす。午に近づきて佐賀に至る。新馬場松川屋に投宿し、午餐す。午後市役所に至り、壮丁を檢するを見る。此地河水を飲む。夜熱く戸を閉さずして眠る。…」。明治32年(1899)7月3日のことです。松川屋は松原神社の参道の先に昔のままにありました。森鴎外の明治32年から変わっていないとは信じられません。

右の写真が松原神社の鳥居です。この神社の周りには小さなお掘りがあり、このお掘りの名前が松原川なのだとおもいます。松川屋付近から鳥居方面を見た写真を掲載しておきます。

大町橋食堂>
 二人の刑事は犯人の昔の女の嫁ぎ先を見張り続けます。ある日、突然女は外出します。刑事は二人で必死で追い続けます。しかし女はバスに乗ります。「…大町橋というバス停で降りた。…… ところが「大町橋食堂」のおかみさんは、よく覚えているという。……ある日、高峰秀子が着物に着替えて外出する。バスに乗って市外の農村に行く。刑事二人がそれを追う。高蜂秀子は田圃のなかのバス停で降りて一本道を日傘をさして歩き出す。あたりには雑貨屋がぽつんと一軒あるだけ。その雑貨屋がここだという。建物ははとんど変わっていない。四十年以上も前の建物がまだ残っていたとは。思わず生ビールをもう一杯注文する。おでんも追加だ。…店の前を、バスが通る道から離れて一本道が北に伸びている。昔よりはだいぶ広くなっているとはいえこの同じ道を、着物姿の高峰秀子が日傘をさして歩いていったのかと思うと心躍る。「張込み」の高峰秀子は本当に美しい。当時、三十三歳。普通の主婦の役である。……高峰秀子はこの一本道を歩いて、農家で行なわれている葬儀に参列した。その家がいまもまだ残っているかどうか。それを知りたい。…」。まず最初に「大町橋食堂」は建て直されていました。仏壇屋になっていました。経営者は同じかどうかはわかりません。次に、葬儀のあった家ですが、残っていました。そのままです。農家なので残っていたのだとおもいます。

左の写真が、大町橋バス停留所です。この右側に「大町橋食堂」がありました。少し離れたところから撮影した写真を掲載します(右側の建物のところが大町橋食堂跡です)。

今回すべて紹介できませんでしたので、続編を掲載します。

●松本清張の「張込み」を歩く 後編
  初版2004年10月30日 <V01L01> 

 今週は松本清張の『「張込み」を歩く』 九州佐賀市の続編を掲載します。東京からやって来た刑事二人は犯人の昔の女の嫁ぎ先を張込みます。先週に引き続いて「張込み」を読んでいるか、映画を見ていないと面白くありません。超ローカルな散歩情報です。

 今回の取材は、原作と、昭和33年(1958)1月 出演:大木実、宮口精二、菅井きん、高峰秀子で映画化された「張込み」の撮影場所を下記の「日本映画を歩く」を参照しながら紹介します。映画の方は昭和32年撮影なので、撮影の建物等が残っているか期待しながら佐賀を訪ねました。

<DVD 「張込み」>
 日本映画はビデオにしてもDVDにしても値段が高いです。洋画のように数千円で買えればもっと楽しめるとおもうのですが。どうしてもケーブルテレビで録画して見てしまいます。この「張込み」は松竹(大船撮影所)昭和32年(1957)製作、上映は昭和33年1月(1958)です。監督 野村芳太郎、脚本 橋本忍、原作 松本清張、二人の刑事役が大木実、宮口精二、犯人の昔の女役が高峰秀子となります。原作が昭和30年12月ですから、ほぼ2年で映画化しています。当然モノクロてすから季節感が出にくいのですが、高峰秀子が日傘を差したり、また刑事が列車の中や宿屋でランニングシャツ一枚になったりしているので夏ですね(本当は秋頃に撮影されたのだとおもいます)。DVDなので静止画や画面の拡大が自由にできるため、乗っている列車名や映し出される町並みや商店の名前などがよく分かります。佐賀の町並みも紹介したいとおもいます。

【松本清張】
 1909(明治42)年12月、福岡県小倉市(現・北九州市)に生れる。53(昭和28)年「或る『小倉日記』伝」で第28回芥川賞を受賞。56年、それまで勤めていた朝日新聞社広告部を退職し、作家生活に入る。63年「日本の黒い霧」などの業績により日本ジャーナリスト会議賞受賞。70年菊池寛賞、90年朝日賞受賞。「点と線」「波の塔」「日本の黒い霧」「現代官僚論」「昭和史発掘」「古代史疑」「火の路」「霧の会議」「草の径」など多方面にわたる多くの著作がある。92(平成4)年8月死去。98年8月、北九州市に「松本清張記念館」が開館した。(文春文庫「松本清張の世界」より)

左上の写真が、監督 野村芳太郎、脚本 橋本忍、原作 松本清張での「張込み」DVDです。

「張込み」佐賀市地図


護国神社>
 警視庁の刑事二人は佐賀県警を訪ねた後、犯人の昔の女の嫁ぎ先の家へ向かいます。「…映画では、二人の刑事は旅館の二階に部屋を取り、向いの家の女性、高峰秀子を見張るわけだが、あいにく旅館も家もセットなので場所は特定出来ない。ただ、高峰秀子が買物に行くシーソはロケされていて、その画面を見ると、この松原川の周辺のようだ (他に一部、柳川でもロケされている)。…」。川本三郎氏は上記のように撮影は松原神社付近と書いていますが、私が佐賀県立図書館で調べたところ(図書館の方に教えて頂いた)、嫁ぎ先の家の設定は護国神社の付近で、高峰秀子が買い物に行くシーンは佐賀市内の様々な場所が登場しています。松本清張の原本では、「…柚木は町を歩いた。電車もない田舎の静かな小都市である。堀がいくつも町を流れている。S市△△町△番地、横川仙太郎。同さだ子。 − 女の名前と夫の名と住所だった。裏通りであった。低い垣根のある平屋。門標に”横川”とあった。主人はここの地方相互銀行に勤めている。それらしい小さくてこぎれいな家であった。…… 柚木はぐるりを見まわした。斜め向こうに、”肥前屋”と書いた目立たない小さな旅館があった。あつらえむきだった。宿の二階から横川の家はまる見えであった。…」、と書かれています。備前屋と旅館名が出てきますが、残念ながらこの名前の旅館はありませんでした。撮影された場所については順番に紹介していきます。ただし、張込み場所の備前屋の場面は松竹大船のセットで撮影されていますので、この家とかは特定できません。

左上の写真は二人の刑事が嫁ぎ先の家に向かう途中に撮影されているところです。護国神社の太鼓橋?の所から手前方向に歩いてきて掘割に沿って左に曲がります。高峰秀子が買い物に出かけるシーンでもこの逆が使われています。

佐賀劇場跡近くのバス停留所跡>
 前回掲載した葬儀に行く場面で大町橋バス停留所までバスに乗るのですが、バスを待っていたバス停留所がこの佐賀劇場前です。「…それから奥の方へ立っていったままで四時ごろまで姿を見せなかった。現われたときは買物寵を手に提げて裏口から通りに出てきた。夕食の買物であろう。顔がはっきり見えた。整っているが、乾いた顔である。年齢よりは老けた身装をしていた。どこか元気がない。四十分ばかりで彼女は帰ってきた。買物籠には新聞紙で包んだものがはいっている。片手には五合瓶を抱えていた。亭主は晩酌をするらしい。…」。松本清張の原作では、買物の場面ばかりで葬儀へ行く場面は書かれていません。映画のみの演出だとおもいます。

右の写真は映画に使われていた佐賀劇場跡近くです(劇場は掘割の右手にあった)。バス停留所は写真の左側の建物付近にありました。バス停留所は今は無く、バス停留所の映像に映っていた佐賀劇場も無くなっていました。古い木造の洒落た建物で見たかったのですが残念でした。

本願寺会館横>
 犯人の昔の女は嫁ぎ先から毎日買物に出かけるだけでしたが、5日目に変化が現れます。「…石井からの”連絡”はどの方法であるだろう。郵便か、電報か、人を使っての伝言か。この家には電話がない。どこか近所の電話を借りて、さだ子を電話口に呼びだすか。それとも本人が訪ねてくるだろうか。柏木はいろいろな場合を想定してみる。……郵便局の簡易保険係が自転車をとめて、近所を二三軒集金に回っていた。そのあと手鞠をもった洋服の男が、一軒一軒を訪問して歩いている。何かの集金人か、物売りかもしれない。横川の家にもはいっていった。……さだ子が出てきた。白い割烹着だが、スカートがいつもの色と変わっているのを柚木は気づいた。セーターも着かえている.腕時計を見た。十時五十分。市場の買物ではあるまい。それなら早すぎる。柚木は階段をかけおりた。こんな場合のため宿料はいつも前渡しにしてある。あいつだ。柚木の頭の中には、さっきの集金人か物売りらしい洋服男の姿が閃いていた。…」。一軒一軒回っていた集金人か物売りが犯人だとはなかなか面白い設定です。さすがの松本清張だとおもいます。細かい状況の描写が最高です!!

女は家を出て駅まで歩いていきます。この駅までのかなり長い道のりに佐賀市内の各所が使われています。左の写真は家を出てから直ぐの場面に使われています。堀の左側を向こう側からこちら側に歩いてきます。当時は舗装もされていな道を歩いていました。また、佐賀県庁前の大木の横を歩いている場面もありました。その大木は現在は県立図書館の横に移されていました。

松竹世界館跡>
 女は昔の男に会うために自宅から佐賀駅に向かって歩いていきます。松本清張の原本では。「…柚木が道路に出た時は、さだ子の姿は見えなかった。彼は、たかをくくって足早に歩いていった。すぐ追いつけるものと思ったのである。ところがこれが間違いだった。道は三叉路になっていた。右の道に市場が見えた。妙なことに柚木の頭は、さだ子の割烹着姿と市場とをくっつけてしまった。彼女が毎日、この姿で市場通いをしていたのを見つづけたことが頭にそれをつくっていたのである。 柚木は躊躇なく右へ曲がった。市場は細い路が店をはさんでいくつもあった。女の客が多い。白い割烹着がうろうろしている。柚木の眼は血眼になった。いない。柚木の心があわてている。「駅はどっちの方に行ったらいいのですか?」 と人をつかまえてきいた。わかりにくい教え方であった。やっと駅に出た。本能的に掲示の時間表のところに行って見上げた。今が十一時二十分。一時間前に上りが一本あっただけで、以後の発着はない。柚木は、ほっとした。それから、ゆっくり待合室などを見まわした。いなかった。待合室は閑散で子供が遊んでいる。汽車はもうー時間しなければ出ないのである。駅前に出た。陽だまりに鳩が群れている。柚木は煙草をロにくわえた。バスがきた。客をぞろぞろ降ろした。空になると走り去った。眼を追うと向こうの方に発着所があり、三台ばかりバスがならんでいた。…」、書かれています。女は列車ではなくてバスに乗ったのです。

 女は佐賀駅から男と会うためにバスに乗って川北温泉に向かいます。この川北温泉の名称は川上温泉のことをもじって名付けたとおもわれます。佐賀駅の北8Kmの嘉瀬川付近に川上温泉があります。川本三郎氏の「日本映画を歩く」の中では、「…その夜は、佐賀市近郊の川上峡温泉に泊まった。松本清張の原作では、犯人が姿をあらわし、元の恋人と「K温泉」で密会する。この「K温泉」が川上峡温泉といぅ。映画では、二人が会う場面は、大分県の宝泉寺温泉で撮影された。当時すでに、川上峡温泉は、ひなびた感じがなかったからだという。…」、と書かれています。原本では刑事は二人を追いかけてこの川北温泉に向かい、二人の泊まった旅館に踏み込み、男を逮捕します。普通はこの逮捕でお話が終わるのですが、この逮捕後の刑事の振る舞いが松本清張らしく、小説を面白くしています。「…柚木は石井を送りだすと、ひとりで部屋に残った。煙草を出して喫った。懸軸の絵を眺めた。腕時計を見た。四時五十分。さだ子の夫が、長身の猫背で、眉に巌をよせながら、こつこつと歩いて帰ってくる六時前にはまだ一時間あまりある。入口の襖が開いた。さだ子である。柚木を見てびっくりし、部屋が異ったかと惑ったふうをした。宿の着物がまた別人のようになまめかしく見せた。「奥さん」 と柚木が呼んだ。 さだ子が表情を変えた。柚木は名刺を出した。「石井君は、いま警察まできてもらうことになりました。奥さんはすぐにバスでお宅にお帰りなさい。今からだとご主人の帰宅に間に合いますよ」…… この女は数時間の生命を燃やしたにすぎなかった。今晩から、また、猫背のけちな夫と三人の継子との生活の中に戻らなけれほならない。そして明日からは、そんな情熱がひそんでいようとは思われない平凡な顔で、編物器械をいじっているに違いない。」最後の数行がこの小説の出来具合を決めているようにおもいます。

右上の写真の駐車場が松竹世界館の跡地です。女が駅まで歩いていく場面で,町の風景が出てきます。最初が「理容みくりや」と「トクヒサ文具」で「トクヒサ文具」がまだ残っていました。次に「藪内写真館」の広告看板が見えて、その次には映画館街になり「松竹世界館」が映し出されます。上記の写真の向こう側からこちら側に歩いてきて右へ曲がります。その先の「ヨコオ美容室」も残っていました。

左上の写真は川上温泉の入り口のゲートです。鄙びた温泉宿の雰囲気は全くなく、団体旅行の温泉宿でした。上記にも書いてありますが、実際の撮影は大分県の宝泉寺温泉で行われています。

今後松本清張関連は時をみて順次掲載していきます。


【参考文献】
・日本映画を歩く:川本三郎、JTB
・張込み:松本清張、新潮文庫
・DVD 張込み:監督 野村芳太郎、原作 松本清張、松竹株式会社
・松本清張の世界:松本清張、文藝春秋臨時増刊号
・松本清張事典:歴史と文学の会、勉誠出版
・成長日記:松本清張、日本放送出版協会
・新潮日本文学アルバム 松本清張:新潮社
・松本清張の世界:文春文庫
・半生の記:松本清張、河出書房
・朝日新聞時代の松本清張:吉田満、九州人文化の会刊
・松本清張記念館図録:松本清張記念館
・証言─朝日新聞時代の松本清張:松本清張記念館
・新たなる飛躍-点と線のころ:松本清張記念館
・松本清張の残像:藤井康栄、文春新書
・松本清張 その人生と文学:田村栄、啓隆閣新社
・時刻表復刻版 戦後編:日本交通公社




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