●松本清張の「点と線」を歩く 北海道編
   初版2007年12月4日
   二版2007年12月12日<V01L01>旅客名簿を入替
 今週は『松本清張の「点と線」を歩く』に戻って第三回、北海道編を掲載します。警視庁の三原刑事は安田のアリバイを崩すため、上野発急行「十和田」に乗り、青森から青函連絡船、函館から急行「まりも」で札幌に向かいます。

「青函連絡船 摩周丸」
<青函連絡船 摩周丸>
 青函連絡船は昭和63年(1988)3月、青函トンネルの開通に伴い廃止されています。「点と線」の昭和32年頃は一日四便往復で運行されていたようです。安田のアリバイ崩しではこの青函連絡船の旅客名簿がポイントになります。「 …青森到着は九時九分。連絡船が出るまでには四十分の間があったが、船までの長いホームを旅客がいい席を取るため、気ちがいのように競走していた。三原は背中を何度もこづかれた。…」。私も一度だけ青函連絡船に乗船したことがあります。歳が分かりますね。上記に書かれているように青森駅で列車を降りると、顧客がプラットホームから乗船場に分かってものすごいスピードで走っているのを見た記憶があります。青函連絡船でよい場所を取る為なのですが、私は初めてだったので唖然としました。皆さん、すごい量の荷物を抱えながら走っていました。

左上の写真は函館で青函連絡船記念館として保存されている「摩周丸」です。ビートたけしの「点と線」では青函連絡船の場面として使われていました(写真の所です)。青函連絡船が保存されているのは青森(八甲田丸)、函館(摩周丸)、東京お台場(羊蹄丸)の三隻です。私は函館(摩周丸)、東京お台場(羊蹄丸)を見学しています。東京お台場の船の科学館に係留されている羊蹄丸は中が改造されていて、昭和20年当時の青森の風景がよかったです。

「青函連絡船旅客名簿」
<青函連絡船旅客名簿>
 安田のアリバイ工作は青函連絡船の旅客名簿がキーポイントになっていました。安田が書いて青森駅と函館駅で出したことになっている旅客名簿の謎を解決しなければアリバイは崩せません。「…車掌がはいってきた。入口に立って、お早うございますと乗客に挨拶した。 「まもなく終着駅青森でございます。長途の御旅行お疲れさまでした。なお青函連絡船で函館にお渡りの方は、旅客名簿にご記入を願います。ただいま、お手もとに用紙を持ってまいります」 車掌は、手をあげた乗客に用紙をくぼりはじめた。北海道に渡るのは、三原ははじめての経験だった。三原もその用紙を一枚もらった。名簿は一枚の用紙だが、どういう理由か、甲・乙と二つの欄に同じことを書かねばならなかった。これは改札口で渡した。 …」。私もこの青函連絡船旅客名簿を書いた覚えがありました。青森に到着する前に列車の中で貰いました。上下二つに分かれていて、全く同じ内容で、甲・乙二つ書いたように覚えています(映画の中では左右に分かれていました)。安田が書いたのは筆跡で間違いないのですが、青森駅や函館駅で実際に渡したのは安田では無かったようです。

右上の写真が青函連絡船旅客名簿です。本物ですが、昭和30年代の旅客名簿とは違うようです。昭和49年(1974)7月から単片式に変わっていますので、それ以前の二片式の旅客名簿です。特急用と書かれていますので比較的新しいと思います。

【松本清張】
 1909(明治42)年12月、福岡県小倉市(現・北九州市)に生れる。1953(昭和28)年「或る『小倉日記』伝」で第28回芥川賞を受賞。56年、それまで勤めていた朝日新聞社広告部を退職し、作家生活に入る。63年「日本の黒い霧」などの業績により日本ジャーナリスト会議賞受賞。70年菊池寛賞、90年朝日賞受賞。「点と線」「波の塔」「日本の黒い霧」「現代官僚論」「昭和史発掘」「古代史疑」「火の路」「霧の会議」「草の径」など多方面にわたる多くの著作がある。1992(平成4)年8月死去。98年8月、北九州市に「松本清張記念館」が開館した。(文春文庫「松本清張の世界」より)


「点と線」日本地図



「国鉄 上野駅」
<国鉄 上野駅>
 警視庁の三原刑事は安田のアリバイを崩すため、安田が乗車したと言っている上野発19時15分の急行「十和田」に乗り全く同じ経路で札幌に向かいます。「…三原は上野駅発の急行(十和田)に乗った。 安田が乗ったという同じ〈十和田〉であった。北海道に行くには便利のよい理由もあったが、安田の「実地検証」のつもりでもあった。 三原は平を過ぎたころから睡りにはいった。前に腰かけた二人が、東北弁でうるさく話しあっていたので、それが耳について神経が休まらなかったのだ。が、十一時近くなると、昼の疲労で睡気が緩慢におそってきた。仙台で、周囲がちょっと騒がしくなったので目がさめたほか、浅虫にとまるまでおぼえがなかった。…」。昭和30年代は、東海道線には特急が走っていましたが、東北本線、常磐線には特急は無く、急行のみでした。上野発19時15分の急行「十和田」は常磐線経由です。

左上の写真は当時の上野駅です。”絵はがき”からです。当時は写真の通り上野駅前にロータリーがあったのですが、現在は取り除かれています。高速道路を造るために取り除いたのかもしれません。現在の上野駅の写真を掲載しておきます。

「青森駅 プラットホーム」
<函館駅>
 青森から青函連絡船で4時間30分、函館に到着します。「…函館に着いたのは午後の二時二十分であった。三十分待って、急行ノ〈まりも〉が出た。連絡はすべて鎖をつなぐようだった。 それからの五時間半、はじめて見る北海道の風景であったが、三原はさすがにうんざりした。…」。私の記憶ではここでも旅客の皆さんは思い切り走ります。函館発の列車の座席を取るために必死の形相で列車に向かって激走します。まだまだ戦後が終わっておらず、座席指定などはほとんど無く、ゆっくり歩いていると席も取れず、札幌までの5時間44分(急行まりも)は大変です。1月なので雪の中の蒸気機関車に接続された客車ですから疲れ切りますね。今だと蒸気機関車と聞いて喜んで乗る方が多いと思いますが、当時は煤煙と混雑、隙間風等で決して楽な旅行では無かったとおもいます。

左上の写真は函館駅のプラットホームです。終点ですから前方が長万部方面となります。駅舎は新しくなっており、当時の面影は全くありません。現在の函館駅の写真を掲載しておきます。

「国鉄 札幌駅」
<国鉄 札幌駅>
 函館から急行「まりも」で5時間44分、やっとの思いで札幌に到着します。「…夜の札幌の駅に着いたときは、くたくたになっていた。安田はおそらく、上野から二等寝台か特二で悠々と来たのであろう。刑事の出張旅費の少なさは、そんな贅沢を望むべくもなかった。三原は尻が痛くなっていた。 駅前で三原は、なるべく安い宿をきいてとまった。丸惣に投宿すれば、安田の調査と一挙両得だが、切りつめた旅費では我慢せねばならなかった。 その夜から雨が降りだした。三原は雨の音を聞きながら、疲労のはて、欲も得もなく眠りこけた。 朝、十時すぎになって、あわてて起きた。昨夜の雨はあがっていて、畳の上に陽がさしていた。少し寒い。やっぱり北海道だなと思った。 三原は飯を食うと、まず札幌中央署に行った。これはいちおうの仁義である。このあいだの依頼調査の礼を言って挨拶した。…」。上野からなんと24時間19分掛かっています。丁度、一日ですね、若くないと旅行は出来ません!!

右上の写真が四代目、国鉄 札幌駅です。昭和27年に建設されたもので、当初は四階建てでしたが、昭和40年に五階建てとなります。ですから写真は昭和40年以降となります(写真はTOさんよりお借りしています)。現在の札幌駅の写真を掲載しておきます。

「名寄市に移設された丸惣旅館」
<丸惣旅館>
 安田が札幌で泊まった宿が丸惣旅館です。「…「どこか不備なところがありましたか?」 警視庁からわざわざ捜査に出張したというので、出てきた向うの捜査係長は不安なような顔をした。三原は、そうでないことを断わり、別の、独自な調査に来たことを弁明した。 丸惣に行くというと、案内に刑事を一人つけてくれた。これは便利だからべつに謝絶しなかった。 旅館では、前に調査をうけているので、事は簡単に運んだ。係りの女中が出てきて、すぐに保存の楕泊人名簿の安田辰郎の記入の分を見せてくれた。 「ここにお着きになったのは、一月二十一日の夜の九時ごろでした。二十二日と二十三日におとまりでしたが、昼間は仕事だといってお出かけになり、夕方早くお帰りでした。べつに変った様子もありません。静かな方でございました」 係り女中の言う人相と、安田の特徴とは合っていた。三原は安田の記帳した宿泊人名簿を念のために押収した。…」。丸惣旅館は札幌では有名な旅館でした。時刻表の最後には必ず旅館案内が掲載されていますが、当時の時刻表の全国国鉄推薦旅館/交通公社協定旅館一覧の札幌の項の一番最初に丸惣旅館は掲載されていました。場所も札幌時計台の西側にありました。現在はビルになってしまっています。

左上の写真は移転された丸惣旅館の建物です(写真は拡大しません)。つい最近まで名寄市に個人の住宅として移築された丸惣旅館の建物が残っていたのですが、残念ながら現在は取り壊されていました(私は名寄市まで建物を見に行ったのですが取り壊されてありませんでした)。この写真は「都市風景への旅 」さまよりお借りしました。