●松本清張の「点と線」を歩く 香椎編
   初版2007年10月13日 <V01L02> 
 今週は『松本清張の「点と線」を歩く』に戻って第二回、香椎編を掲載します。「点と線」の事件の発端は博多駅の三つ手前(小倉寄)の駅「香椎駅」の近くでの情死とおもわれる死体の発見からです。東京駅15番線「あさかぜ」の目撃情報と微妙にからんできます。

「図録 点と線のころ」
<「点と線のころ」 松本清張記念館>
 福岡県北九州市にある松本清張記念館で平成12年から13年にかけて特別企画展「新たなる飛翔  ─  点と線のころ」が開催されています。この特別企画展の図録「点と線のころ」の中に「点と線」の謎解きが数多く掲載されていました。「 「点と線」は、昭和32年2月から翌33年1月まで雑誌『旅』に連載された。初の長編 推理小説の連載だった。同年2月、単行本として出版されるや大ベストセラーとなる。社会派推理小説の分野を開拓し、推理小説ブームの原動力ともなった。「点と線」を語るとき何より重要なのは、その誕生が、清張文学そのものの可能性をおし広げたことである。現実的な日常に密着し動機を重視した推理小説は、多くの新しい読者層を獲得した。推理小説的手法と社会的視点の導入は、複雑な現代社会を描くのに有効であることを示した。以後の、社会(犯罪)小説、ノンフィクション(現代史)などの分野へと、それは引き継がれていく。「点と線」の成功は戦後の推理小説の新しい方向を示した。(清張以後)日本の推理小説は変わった。水上勉氏は新聞のインタビューに答え、清張のことを「ブルドーザーで荒野」を切りひらき、「畑作可能な耕地」を作ってくれた人と述べた。同氏や佐野洋氏らの新しい作家たちがその新開地に鍬を入れ、耕し、種をまいていった。こうして、清張は「新たなる飛翔」への挑戦に成功し、国民的作家への道の第一歩を踏み出したのだった。…」。松本清張ファン方は一度は訪ねられているとおもいますが、杉並区高井戸の自宅の一部が移築されています。一見の価値はあります(「松本清張の小倉」を特集する予定なのですがなかなか取材が出来ません)。

左上の写真は平成12年12月15日〜平成13年3月31日まで北九州市小倉の松本清張記念館で開催された「新たなる飛翔──点と線のころ」の図録です。松本清張記念館は私も一度ですが訪ねています。

「香椎海岸」
香椎海岸>
 「点と線」の事件の発端は博多駅の三つ手前(小倉寄)の駅「香椎駅」の近くでの情死とおもわれる死体の発見からです。「…黒い岩肌の地面の上に、二つの物体が置かれていた。いつもの見なれた景色の中に、それは、よけいな邪魔物であった。…… 香椎署からの連絡で、福岡署から捜査係長と刑事が二名、警察医、鑑識係などが車で来たのは、それから四十分後であった。死体をいろいろな角度から撮影しおわると、背の低い警察医が、しゃがみこんだ。「男も女も、青酸カリを飲んでいますな」 医者は言った。「この、きれいなバラ色の顔色がその特徴です。このジュースといっしょに飲んだのでしょうな」ころがったジュース瓶の底には、飲み残しの橙色の液体がたまっていた。「先生、死後どれくらい経過していますか?」捜査係長がきいた。彼は小さな髭をたくわえていた。「帰ってよく見なければ分らんが、まず十時間内外かな」。 …」。香椎海岸は現在は埋め立てられており、当時の面影があるのは香椎花園付近だけではないでしょうか。下記の地図に昭和31年の海岸線を記載しておきました。当時の航空地図を参照しています(国土地理院の航空地図で昭和31年の香椎付近地図がありました。転載は出来ませんので皆様自身でご覧下さい)

右上の写真は現在の香椎海岸から北側を撮影したものです。「点と線」で死体が発見されたのは少し遠いですが、正面左側付近だったのではないでしょうか(推定です)。

「国鉄 香椎駅」
<国鉄 香椎駅>
 「点と線」で登場するのは国鉄時代の香椎駅です。香椎駅は二度建て直されているようで、「点と線」で登場するのは一代目です。「…鹿児島本線で門司方面から行くと、博多につく三つ手前に香椎という小さな駅がある。この駅をおりて山の方に行くと、もとの官幣大社香椎宮、海の方に行くと博多湾を見わたす海岸に出る。 前面には「海の中道」が帯のように伸びて、その端に志賀島の山が海に浮び、その左の方には残の島がかすむ眺望のきれいなところである。この海岸を香椎潟といった。昔の「橿日の浦」である。太宰帥であった大伴旅人はここに遊んで、「いざ児ども香椎の潟に白妙の袖さへぬれて朝菜摘みてむ」(万葉集巻六)と詠んだ。…… 彼らは、二十日の夜九時二十四分香椎駅着の上りで博多から来たのだ。すると博多駅は九時十分ごろに乗車したことになる。ここまでは十五分ぐらいで着くはずだからだ。 佐山が女からの電話をうけて宿をとび出したのが、午後八時すぎとみて、博多駅から汽車に来るまでの約「時間、二人はどこで会い、何をしていたのだろう?この調査はたいへん困難で、おそらく絶望である。広い博多の街では、空漠として当りようもない。…」。劇場版「点と線」で香椎駅が登場しているのですが、明らかに写真の香椎駅とは違います。撮影で使用した駅は佐倉駅のようです(別途掲載します)。ただ、C58に引かれた列車が香椎駅のホームに入ってくる場面は迫力がありました。現在の香椎駅はホームは昔のままのようですが、駅舎はビルになっていました。

左上の写真は当時の香椎駅です。「香椎タウンストーリー」のホームページからお借りしました。ありがとうございました。撮影日時がはっきりしていませんが初代香椎駅ですので昭和30年代は間違いないようです。

「JR香椎駅前」
香椎駅前の果物店>
 国鉄香椎駅で重要なポイントは駅前の果物屋でした。重要な目撃者(本当に重要?)になります。「…鳥飼重太郎は、香椎駅前の果物屋の前に立った。「ちょっと、おたずねします」 りんごを拭いて艶を出していた四十ばかりの店主がふり向いた。およそ、ものをきくと商店の主は無愛想なものだが、重太郎が警察の者だが、と言うと、店主はとたんに真顔になった。…… 「ええ、見ました。どうして覚えているかというと、翌日、心中騒ぎがあったからですよ。そうですな、あの晩の九時二十五分の客は十人ぐらいしか駅から出ませんでした。いったいにその時刻は汽車から降りる人が少のうございましてね。その中に、今、おっしゃったような洋服の男と和服の女の二人連れがありました。私は、果物を買ってくれそうな気がしたので、その二人ばかりをこちらから見ていましたよ」 「で、果物を買いましたか?」 「買いませんでした。そのまま、さっさと西鉄香椎駅の方へ行く通りを歩いて姿が消えたものですから、がっかりしましたよ。ところが、その翌朝があの巌ぎでしょう。私は、もしやあの二人が心申したのではないかと思いましたから、それはおぼえています」…」。店主が夫婦連れの二人を見た時間を覚えていたのがポイントです。劇場版「点と線」では果物屋は駅前の左側角のお店になっていました。

左上の写真は現在のJR香椎駅前です。劇場版「点と線」では果物屋は左側ですので、写真正面の木造の建物になります。現在は自動販売機のみを置いたたばこ屋になっていました。当時の駅前の写真を掲載しておきます(西鉄 香椎駅方面から国鉄 香椎駅方面を撮影しています)。

【松本清張】
 1909(明治42)年12月、福岡県小倉市(現・北九州市)に生れる。1953(昭和28)年「或る『小倉日記』伝」で第28回芥川賞を受賞。56年、それまで勤めていた朝日新聞社広告部を退職し、作家生活に入る。63年「日本の黒い霧」などの業績により日本ジャーナリスト会議賞受賞。70年菊池寛賞、90年朝日賞受賞。「点と線」「波の塔」「日本の黒い霧」「現代官僚論」「昭和史発掘」「古代史疑」「火の路」「霧の会議」「草の径」など多方面にわたる多くの著作がある。1992(平成4)年8月死去。98年8月、北九州市に「松本清張記念館」が開館した。(文春文庫「松本清張の世界」より)


香椎駅付近地図



「西鉄 香椎駅」
<西鉄 香椎駅>
 夫婦連れの二人連れは二回目撃されます。一回は上記の通り国鉄 香椎駅前の果実店です。二回目は西鉄 香椎駅でした。「…「あの心中死体が発見された前の晩、つまり二十日の夜ですが、私も心中の男女らしい二人を見かけました。私のは、九時三十五分の西鉄香椎駅着です」 「ちょっと」重太郎は手で、待った、のまねをした。「それは電車ですか?」 「はあ、競輪場前を九時二十七分に出る電車です。ここまで八分ぐらいしかかからないのです」競輪場前というのは、博多の東の端にあたる箱崎にある。箱崎は蒙古襲来の古戦場で近くに多々羅川が流れ、当時の防塁の址が一部のこっている。松原の間に博多湾が見える場所だ。「なるほど。それで、あなたはその男女を電車の中で見たのですか?」 「いや、電車の中ではないのです。そのときの電車は二両連結で、私は後部に乗っていました。乗客は少なかったですから、後部にいれば目についていたわけです。きっと前部に乗っていたに違いありません」…」。国鉄 香椎駅を下りた二人と西鉄 香椎駅を下りた二人は同一人物なのか、情死体はどちらの二人なのか、謎は深まるばかりです。

左上の写真は西鉄 香椎駅です。少し前まで当時のまま実在したのですが現在は高架線になり駅舎も変わってしまいました。唯一「点と線」では現存していた駅だったのですが、残念です。劇場版「点と線」の西鉄 香椎駅は電車の色から西武鉄道の駅のようです。電車の色が茶色と黄色のツートンカラーなので分かります。新宿線の東伏見駅のようですが取材中です。

「西鉄 香椎駅前」
西鉄 香椎駅前>
 西鉄 香椎駅で下りた夫婦連れの二人は駅前の道を香椎海岸の方に歩いていきます。「…「改札を出て、私の家の方に歩いてゆくときです。その晩私は博多で飲んで少し酔っていましたから、歩く速度が遅かったのです。すると、私の後から同じ電車で降りた人が、二三人追い抜いて行きました。それは土地の者ですから、私も見知っています。ただ、知らない男女の一組が、やはり後から来て、かなり急ぎ足で先に行きました。男はオーバーで、女は防寒コートの和装でした。その二人が浜の方へ出る寂しい道を歩いてゆくのです。私は、そのときは気に止めず、自分の家のある横丁にまがりましたが、あくる朝、あの心中でしょう。新聞によると、前夜の十時前後の死亡とあったから、もしやあの男女ではなかったかと思いあたったわけです」…」。西鉄 香椎駅を下りた目撃者は二組の二人連れを目撃します。最初の一組は9時35分に西鉄 香椎駅を下りた夫婦連れで、後から追い抜いて行った二人連れは国鉄 香椎駅を9時25分に下りた夫婦連れだとおもわれます。ただし、国鉄 香椎駅と西鉄 香椎駅間は350m 歩いて5分ほどです。どう見ても国鉄 香椎駅を下りた二人が先に歩いているようにおもえるのですが、どうでしょうか!!

右上の写真が西鉄 香椎駅前です。当時の香椎海岸に行くにはこの道を60m歩いて次の角を右に曲がり、200mで国道3号線御島橋を渡り海岸にでます。殺害現場は御島橋より西に400mから500m先ではないかと想定しています。

次回の「点と線」は青森から札幌を歩きます。