●松本清張の「点と線」を歩く 東京編
   初版2007年9月29日 <V02L01> 
 松本清張の『点と線』と三島由紀夫、水上勉の『金閣寺』を平行して掲載していきます。今週は『松本清張の「点と線」を歩く』の第一回東京編を掲載します。東京駅15番線の謎と昭和32年の銀座を歩いてみました。

「時刻表」
<時刻表>
 松本清張の「点と線」といえば推理小説としてはあまりに有名です。書かれたのは昭和32年(1957)で旅行雑誌「旅」に昭和32年2月号から33年1月号まで掲載されています。昭和30年代に入ると戦後からの脱却が始まり、昭和31年11月には東海道線が東京から神戸まで電化され旅行プームが始まります。「安田辰郎は、一月十三日の夜、赤坂の割烹料亭「小雪」に一人の客を招待した。客の正体は、某省のある部長である。安田辰郎は、機械工具商安田商会を経営している。この会社はここ数年に伸びてきた。官庁方面の納入が多く、それで伸びてきたといわれている。だから、こういう身分の客を、たびたび「小雪」に招待した。安田は、よくこの店を使う。この界隈では一流とはいえないが、それだけ肩が張らなくて落ちつくという。しかし座敷に出る女中は、さすがに粒が揃っていた。安田はここではいい客で通っていた。むろん、金の使い方はあらい。それは彼の「資本」であると自分でも言っていた。客はそういう計算に載る人びとばかりであった。…」。書き出しはうさん臭い機械工具商社長 安田辰郎と某省官僚との癒着から始まります。戦後は昭和電工事件、造船疑獄等の政治家、官僚を巻き込んだ疑獄事件が相次いで発生しており、そのテーマも取り込んだ長編推理小説となったものとおもわれます。

左上の写真は昭和31年12月の日本交通公社発行の時刻表です。上記にも書きましたが、昭和31年11月19日、最後まで残っていた非電化区間 大津−米原間が電化され東海道線が東京から神戸まで電化されます。電化された最初の時刻表が上記の時刻表となります。「点と線」は「旅」の昭和32年2月号からですから1月には「旅」は発行されており、故に松本清張が原稿を書いたのは12月頃だったとおもわれます。ですから松本清張が「点と線」を書くために見た時刻表は12月号か翌年の1月号だとおもわれます。

「東京駅ホーム」
東京駅15番線>
 松本清張の「点と線」は東海道線が電化されて誕生した東京と福岡(博多)を結ぶ特急「あさかぜ」がテーマになっています。当時庶民は高価な特急にはなかなか乗れませんでした(急行か準急に乗っていた)。一種あこがれの特急が「あさかぜ」でした。「…「あれは、九州の博多行の特急だよ。《あさかぜ》号だ」安田は、女二人にそう教えた。 列車の前には、乗客や見送り人が動いていた。あわただしい旅情のようなものが、すでに向い側のホームにはただよっていた。 このとき、安田は、「おや」 と言った。「あれは、お時さんじゃないか?」え、と二人の女は目をむいた。安田の指さす方向に瞳を集めた。「あら、ほんとうだ。お時さんだわ」 と、八重子が声を上げた。 十五番線の人ごみの中を、たしかにお時さんが歩いていた。その他所行きの支度といい、手に持ったトランクといい、その列車に乗る乗客の一人に違いなかった。とみ子もやっとそれを見つけて、「まあ、お時さんが!」と言った。 しかし、もっと彼女たちに意外だったことは、そのお時さんが、傍の若い男と親しそうに何か話していることだった。…」。機械工具商の社長 安田は東京駅から横須賀線で鎌倉に向かうため13番線に向かいます(1月14日の18時頃)。どういうわけか13番線、14番線には列車は止まっておらず15番線に発車を待っている「あさかぜ」が見わたせ、ある二人連れを目撃します。

左上の写真は現在の東京駅9番線、10番線ホームです(昭和32年当時の7番線、8番線ホーム)。長距離列車ホームになっています。東京駅は東海道新幹線、東北新幹線等の開業、中央線ホームの二階化等により番線がすっかり変わってしまっています。「点と線」では13番線から15番線がテーマになっていますが、その当時の番線は新幹線ホームになっています。昭和29年当時の東京駅の構内案内図を掲載しておきます。


東京駅13番線から15番線を見渡せる時間帯



「あさかぜの時刻表」
<あさかぜ>
 機械工具商の社長 安田は連れの二人と共に、あたかも偶然のように15番線で「あさかぜ」に乗ろうとしていた二人を目撃します。「…「何時の電車にお乗りになるの?」 八重子がきいた。「十八時十二分か、その次に乗りたい。今、五時三十五分だからな、これから行けばちょうどいい」安田はそう言いながら、せかせかと勘定を払いに歩いた。 車は駅に五分ぐらいで着いた。草のなかで、安田は、「すまんなあ」とあやまっていた。八重子もとみ子も、「いいわよ。ヤーさん。これぐらいのサービスしなきゃ、こちらが悪いわ」 「そうよ、ねえ」 と言っていた。 駅につくと安田は切符を買い、二人には入場券を渡した。鎌倉の方に行く横須賀線は十三番ホームから出る。電気時計は十八時前をさしていた。「ありがたい。十八時十二分にまに合うよ」と安田は言った。だが、十三番線には、電車がまだはいっていなかった。安田はホームに立って南側の隣のホームを見ていた。これは十四番線と十五番線で、遠距離列車の発着ホームだった。現に今も、十五番線には列車が待っていた。つまり、間の十三番線も十四番線も、邪魔な列車がはいっていないので、このホームから十五番線の列車が見とおせたのであった。 「あれは、九州の博多行の特急だよ。《あさかぜ》号だ」安田は、女二人にそう教えた。…」。なぜ13番線から15番線を見とおせたのか、当時の時刻表を見ながら謎を説いてみます。

左上の写真が日本交通公社時刻表 昭和31年12月号から「あさかぜ」の時刻表です。東京18:30発、博多翌日11:55着になっています(12月号には「あさかぜ」は14番線発車になっていました。1月号も調べてみます)。この時刻表でもう少し詳しく調べてみると14番線は18:35発の静岡行普通列車が18:05に入線していました。そうすると13番線(横須賀線)、14番線(東海道線)の到着を調べてみる必要がありそうです。横須賀線の18時前後の到着時刻表発車時刻表を掲載しておきます。安田が乗る18:12発の横須賀線は18:01着で、一つ前の横須賀線は17:57に発車していますから4分間の空白があります。安田は18時前にホームに着いていますから十分に「あさかぜ」を見とおせたわけです。18時〜18時30分の間に「あさかぜ」を見とせる時間帯は一回のみです。


松本清張記念館の特企画展で出版された図録「点と線のころ」に東京駅15番線の謎解きが書かれていました。
「…岡田喜秋氏(「点と線」連載当時の担当編集者) 「湘南電車のホームにはよく行っていた。『あさかぜ』の発着はその隣のホームで、その間にはレールが二本ある。湘南電車は十二番線だが、十三番線の横須賀線ホー ムから十五番線の『あさかぜ』の客を見ることができるか。(中略) まだ当時は、『時刻表』にも、列車の『入線』時刻は出ていなかった。そこで、私は『ア ナウンス室できいてみよう』と思い、(中略)聞いてみた。(中略)その結果、午後六時前後は、十四番線に中距離列車が入って、十三番線からは十 五番線の『あさかぜ』が見えないことがわかった。この事実を私はさっそく氏に伝えた。『見えるのは、十七時五十七分から十八時〇一分までの、わずか四分間だけですよ』これを聞いて、氏は『これを謎解きに使おう』と言った。連載直前におけるこの事実の発見が、『点と線』のスタートを一ケ月遅らせた」(「松本清張の旅心」平成9年8月・『松本清張研究3号』砂書房)…」。旅行雑誌「旅」での「点と線」の掲載は一月号からの予定だったのですね。又、ここに書かれている通り折り返しでない限り着番の時間は当時の時刻表には書いてありませんでした(後から書かれるようになった)。ですから「あさかぜ」の15番線への着番時間は国鉄に聞かない限り分からなかったわけです。

【松本清張】
 1909(明治42)年12月、福岡県小倉市(現・北九州市)に生れる。1953(昭和28)年「或る『小倉日記』伝」で第28回芥川賞を受賞。56年、それまで勤めていた朝日新聞社広告部を退職し、作家生活に入る。63年「日本の黒い霧」などの業績により日本ジャーナリスト会議賞受賞。70年菊池寛賞、90年朝日賞受賞。「点と線」「波の塔」「日本の黒い霧」「現代官僚論」「昭和史発掘」「古代史疑」「火の路」「霧の会議」「草の径」など多方面にわたる多くの著作がある。1992(平成4)年8月死去。98年8月、北九州市に「松本清張記念館」が開館した。(文春文庫「松本清張の世界」より)



東京駅構内図 昭和29年10月14日現在



「レバンテ」
レバンテ>
 松本清張は「点と線」で昭和30年代の東京を描いています。「…「どうだい、君たち、明日、飯をご馳走してやろうか?」 と言ったとき、そこにいた、八重子ととみ子が、一も二もなくよろこんで承知した。「あら、お時さんがいないわ。お時さんも連れて行ってあげてよ」とみ子が座敷を見まわして言った。お時さんは、何かの用事で出て行っていた。「いいよ。君たち二人でいいよ。お時さんはこの次にしよう。あまり大勢で空けたら悪いよ」それはそのとおりだった。女中たちは四時には店にはいらねばならない。夕飯をおごってもらえば遅くなる。三人も遅れたのではまずいにきまっていた。「じゃ、明日、三時半に、有楽町のレバンテにこいよ」安田は、目もとを笑わせながら言った。翌日の十四日の三時半ごろ、とみ子がレバンテに行くと、安田は奥の方のテーブルに来て、コーヒーを飲んでいた。 「やあ」 と言って前の席をさした。店で見なれている客を、こんな所で見ると、気持がちょっとあらたまった。とみ子はなんとなくほほを上気させてすわった。「八重ちゃんはまだですの?」 「もうすぐ来るだろう」安田は、にこにこして、コーヒーを言いつけた。五分もたたないうちに、八重子も、妙に恥ずかしそうにしてはいって来た。近くには若いアベックが多く、一目でその方の勤めと知れる二人の和装の女は目立った。…」。松本清張は昭和28年12月、朝日新聞西部本社(博多)から朝日新聞東京本社に転勤しています。朝日新聞東京本社は当時有楽町にありましたから有楽町から銀座辺りはよく知っていたでしょう。

左上の写真が有楽町駅前のレバンテです。現在は再開発され無くなっています(国際フォーラム1Fに移っています)。古き良き時代の建物だったのですが、残念ながら再開発で無くなってしまいました。

「コックドール跡」
コックドール>
 銀座五丁目のコックドールも登場しています。「…「何をご馳走しよう。洋食か、天ぷらか、鰻か、中華料理か?」安田はならべた。「洋食がいいわ」二人の女はいっしょに返事した。日本食の方は、店で見あいているらしかった。 レバンテを出ると、三人は銀座に向った。この時間なら、銀座もそう混んではいない。天気はよかったが、風は冷たかった。ぶらぶらと歩いて、尾張町の角から松坂屋の方に渡った。三週間前の年末と打って変って、銀座も閑散だった。「クリスマスの晩はすごかったわねえ」安田のすぐ後ろで、二人の女はそんなことを言いあっていた。 安田は、コックドールの階段をのぼった。ここも空いていた。「さあ、なんでも好きなものを言いたまえ」 「なんでも結構だわ」八重子もとみ子も、いちおう遠慮したが、やがてメニューをかかえて相談しはじめた。なかなか決らなかった。安田は、腕時計をそっと見た。八重子がそれを目ざとく見つけて、「あら、ヤーさん、おいそがしいの?」と日を向けた。「いや、いそがしくはないが、夕方から鎌倉に行く用事がある」安田が卓の上で指を組んで言った。「あら、悪いわ。じゃ、とみちゃん、早く決めましょうよ」 それでようやく決定した。 スープからはじまったから、料理が終るまで、かなりな時間をとった。三人はとりとめのないことをしゃべりあった。安田はたのしそうだった。フルーツが出たとき、彼は、また時計を見た。 …」。「コックドール」は元々「月ヶ瀬」という甘味所で「あんみつ」を最初に作ったお店です。昭和22年に「月ヶ瀬」の二階に「コックドール(COQDOR)」というフランス料理店をオープンしています。当時は資生堂レストランと並ぶほどだったのではないでしょうか。残念ながら一度倒産しています。銀座五丁目のお店も閉店し西銀座デパートに移っています。

右上の写真は銀座五丁目の銀座通りです。銀座コアビルの右隣のビルの所に「月ヶ瀬」と「コックドール」はありました。当時の銀座五丁目地図を掲載しておきます。

次回は事件の起こった博多 香椎を掲載します。


銀座、有楽町、東京駅付近地図