<南海鉄道 難波駅>
明治41年4月6日、志賀直哉(東京帝国大学卒業)、山内英夫(学習院在学中、里見ク)の二人は和歌山から大阪に向います。南海鉄道和歌山市駅11時30分発、大阪難波駅13時30分着の電車でした。南海鉄道が難波駅ー和歌山市駅間を開通させたのは明治36年(1903)です。南海鉄道ができるまでは、大阪から和歌山は王寺経由の紀和鉄道しかありませんでした。ちなみに国鉄(JR)の前身である阪和電気鉄道が天王寺−東和歌山(現
和歌山駅)間を開通させたのは昭和5年(1930)となります。
里見クの「若き日の旅」からです。
「… 同じ和歌山でも、今日は「市」のつく方の停車場から、十一時半の汽車で大阪に向ふ。二時間にして、難波驛着。志賀も、三十六年の博覧會の時に一度來たきりで、一向に土地不案内だ。…」
明治41年で大阪に向うには”王寺経由の国鉄(明治40年に関西鉄道を国有化)”か、”南海鉄道(南海電鉄の前身)”なのですが、国鉄は4時間6分(王寺乗換え天王寺行き)、南海鉄道が1時間50分(大正元年の時刻表)なので、南海鉄道しか乗る人はいません。
「旅中日記 寺の瓦」から同じ場面です。
「…和歌山市の停車場から十一時半の汽車で大坂へ向ふ。二時間。一時半難波着。テンデ方ガク〔角〕が知れない。兎も角此なりでは宿屋でいゝ顔をしないといふので下駄屋へよって、山さんは九文七分、志賀は十文半の足袋を買って、猶、志賀は日和下駄を一足新調して、古きを捨てゝ新しきを着けた。何んとなくいゝ心持で、歩くと足が馬鹿に軽く、や1ともすると、家橘の歩き方になってこまった。横丁を一寸右へ折れて見る、所謂難波新地で女部屋がズラリと並むでゐる。青い顔をした女郎共が赤や青の混じった、うちかけを着て往來を見てゐる。其限には光がない。…」
時刻表は明治40年と大正元年しかないので、大正元年で見ました(明治40年版だと上記に合わない)。この時刻表で和歌山市駅発11時25分で、難波駅着が一時間50分後の13時15分となります。
”難波新地で女部屋がズラリと並むでゐる”は、難波新地自体が広く、場所の特定が難しいです。ただ、”大川町の千秋楼”が宿ですので、難波駅から戎橋筋を通り、道頓堀を見てから心斎橋筋を北に向ったと推定できます。すると、難波駅から戎橋筋を少し歩いた一本目か2本目の横筋で女部屋を見たのではないかとと推定できます。大阪市中央区難波3丁目付近の写真を掲載します(写真に写っている松屋は千日前店ですので東から西を撮影しています)。当時の難波新地の寫眞も掲載しておきます。
★写真は現在の南海難波駅、高島屋百貨店です。この建物は四代目で明治41年頃は二代目駅舎でした。明治44年には三代目駅舎が完成しています。高島屋百貨店が入ったのは四代目からです。(駅舎の寫眞はウイキペディア参照)