●旅中日記 寺の瓦 其の十二 <大阪 其の一>
             【志賀直哉、木下利玄、山内英夫】
    初版2013年1月12日
    二版2013年2月11日 肥後橋の写真を入替え、千秋楼の場所を訂正他
    三版2013年3月10日 <V01L02> 風呂屋、床屋の正確な場所の写真を追加 暫定版

 「旅中日記 寺の瓦 其の十二<大阪 其の一>」です。前回から少し時間が経ちましたが、今回は”大阪編 其の一”を掲載します。あと一回で「旅中日記 寺の瓦」は終了する予定です。和歌山から大阪難波に入り、道頓堀で観劇をします。明治41年4月6日の大阪です。


【「旅中日記 寺の瓦」について】
 若き日の志賀直哉(東京帝国大学卒業)、山内英夫(学習院在学中、里見ク)、木下利玄(東京帝国大学在学中)の三人が明治四十一年三月から四月にかけて関西を旅した時に記した日記が、「旅中日記 寺の瓦」です。後の昭和十五年に里見クがあの甲鳥書林で「若き日の旅」として出版しています。又、原本の「旅中日記 寺の瓦」は昭和四十六年に中央公論社から出版されています。日時はかなり古いですが、旅行記としては非常に面白いので、この旅行記に沿って歩いてみました。




全 体 地 図



「南海鉄道 難波駅」
<南海鉄道 難波駅>
 明治41年4月6日、志賀直哉(東京帝国大学卒業)、山内英夫(学習院在学中、里見ク)の二人は和歌山から大阪に向います。南海鉄道和歌山市駅11時30分発、大阪難波駅13時30分着の電車でした。南海鉄道が難波駅ー和歌山市駅間を開通させたのは明治36年(1903)です。南海鉄道ができるまでは、大阪から和歌山は王寺経由の紀和鉄道しかありませんでした。ちなみに国鉄(JR)の前身である阪和電気鉄道が天王寺−東和歌山(現 和歌山駅)間を開通させたのは昭和5年(1930)となります。

 里見クの「若き日の旅」からです。
「…  同じ和歌山でも、今日は「市」のつく方の停車場から、十一時半の汽車で大阪に向ふ。二時間にして、難波驛着。志賀も、三十六年の博覧會の時に一度來たきりで、一向に土地不案内だ。…」

 明治41年で大阪に向うには”王寺経由の国鉄(明治40年に関西鉄道を国有化)”か、”南海鉄道(南海電鉄の前身)”なのですが、国鉄は4時間6分(王寺乗換え天王寺行き)、南海鉄道が1時間50分(大正元年の時刻表)なので、南海鉄道しか乗る人はいません。

 「旅中日記 寺の瓦」から同じ場面です。
「…和歌山市の停車場から十一時半の汽車で大坂へ向ふ。二時間。一時半難波着。テンデ方ガク〔角〕が知れない。兎も角此なりでは宿屋でいゝ顔をしないといふので下駄屋へよって、山さんは九文七分、志賀は十文半の足袋を買って、猶、志賀は日和下駄を一足新調して、古きを捨てゝ新しきを着けた。何んとなくいゝ心持で、歩くと足が馬鹿に軽く、や1ともすると、家橘の歩き方になってこまった。横丁を一寸右へ折れて見る、所謂難波新地で女部屋がズラリと並むでゐる。青い顔をした女郎共が赤や青の混じった、うちかけを着て往來を見てゐる。其限には光がない。…」

 時刻表は明治40年と大正元年しかないので、大正元年で見ました(明治40年版だと上記に合わない)。この時刻表で和歌山市駅発11時25分で、難波駅着が一時間50分後の13時15分となります。

 ”難波新地で女部屋がズラリと並むでゐる”は、難波新地自体が広く、場所の特定が難しいです。ただ、”大川町の千秋楼”が宿ですので、難波駅から戎橋筋を通り、道頓堀を見てから心斎橋筋を北に向ったと推定できます。すると、難波駅から戎橋筋を少し歩いた一本目か2本目の横筋で女部屋を見たのではないかとと推定できます。大阪市中央区難波3丁目付近の写真を掲載します(写真に写っている松屋は千日前店ですので東から西を撮影しています)。当時の難波新地の寫眞も掲載しておきます。

写真は現在の南海難波駅、高島屋百貨店です。この建物は四代目で明治41年頃は二代目駅舎でした。明治44年には三代目駅舎が完成しています。高島屋百貨店が入ったのは四代目からです。(駅舎の寫眞はウイキペディア参照)

「大川町の千秋楼跡」
<大川町の千秋楼>
 2012年11月3日 千秋楼の場所を訂正、床屋、風呂屋の写真を追加
 2013年3月10日 床屋、風呂屋の正確な場所の写真を追加

 志賀直哉(東京帝国大学卒業)、山内英夫(学習院在学中、里見ク)の二人が大阪で選んだ宿は大川町の千秋楼でした。大川町と云っても分からないとおもいますが、御堂筋淀屋橋南詰と云ったら分かるとおもいます。

 里見クの「若き日の旅」からです。
「…難波驛着。志賀も、三十六年の博覧會の時に一度來たきりで、一向に土地不案内だ。宿は、そのとき泊った大川町の千秋樓といふのにしよう、と、こっちだけではきめ込んでゐるやうなものゝ、有田屋の二の舞でも演じては、と、取敢ず足袋屋にはいって、志賀は十文半、私は九文七分、それぞれ新しいやつに穿き代へる。この地で私と別れて、須磨、明石、 ── 場合によっては、中國筋をもつと西まで行ってみよう、といふ気もある志賀は、更に朴歯をも新調したが、四日後には、もう学校の始まる私は、木鋏を借りてめくれあがりを、ヂヨキヂヨキと切ウ落すだけにして置いた。その店で別だん道を訊くでもなく、大體の方角を北へ向つてでたら砂に歩き出す。ぼかに足が軽くなって、やゝともすると羽左衛門の歩きつきになる、などゝ、志賀が羨しがらせを云ふ。
 偶然過りかゝつた或る横町についで、「寺の瓦」に、志賀がかう書いてゐる。
 所謂、難波新地といふやつだらう、ずらりと女郎屋が竝んでゐたが、青い顔をした女郎共が、赤や青の混ったうちかけを着て、往來を眺めてゐる。その眼には光がない。「眼の光」はともあれ、「うちかけ」の一語だけに徴しても、はや清教徒さ加減が知れるわけだ。
 道頓堀へ出て、ひと通り芝居見物のブランをたで、心齋橋筋を眞一文字に大川町への途次、もう武者の「荒野」が出てゐる時分と、本屋のある度に訊いたがない。「荒野」は、武者の處女出版であると同時に、仲間のうちでの最初の著書で、ひとごとならす待たれたのだ。
 無事、千秋樓に投宿。久振りで、さすがに都會だけのことはある、どこか垢ぬけのした、次の間つき、南向きの奥二階に通り、いゝ心持だ。…

 宿の近くで散髪してから、その筋向ふの銭湯へ行く。北側一面の硝子窓から、川向ふの豊太閤の銅像や図書館が見晴らせて、関西辨の所謂「はんなりした」風呂場だ。石鹸をつけた手拭で、ゴシゴシ志賀の脊なかをこすってゐると、鼠の糞のやうな、大きなやつがよれだした。…」


 御堂筋は、当時は「淀屋橋筋」と呼ばれており、道幅は僅か6mほどでした。その後の都市計画により、昭和2年に地下鉄御堂筋線と合わせて幅44mの幹線として完成しています。”大川町の千秋楼”は当時の呼び名では”淀屋橋筋淀屋橋南詰西入南側”でした。淀屋橋南詰西入北側から中之島を見た写真を掲載しておきます。

 二人が散髪した床屋と風呂屋が分かりました。風呂屋は淀屋橋筋を挟んで大川町の千秋楼とは反対側(写真の正面島ビルの左端付近)でした。風呂屋は「二葉湯」、床屋は2軒ありましたが、”筋向ふの銭湯”から「二葉湯」の向側の床屋(名称は不明、写真の左端付近)と判断しました。これらは「愛日小学校創立百年記念誌」に掲載されていた明治35〜36年頃の淀屋橋南詰付近の地図を参照しました。(大阪市立中央図書舘3Fで教えて頂きました、ありがとうございます)

写真は御堂筋淀屋橋南詰を西に撮影したものです。現在は道も拡張され北側の建物は全て無くなっていますが、当時は川岸に旅館が並んでいたようです。淀屋橋南詰から西、南側に5軒目になります。「千秋楼」の場所については職業別電話番号簿(大正12年)を参考にしました。「千秋旅館」として”大阪市東区大川町27”と記載されていました。芥川龍之介が大正10年に上海を訪問する時に大阪で宿泊した「北川旅館」は「千秋旅館」の西側になります。

「大阪中央郵便局跡」
<大阪中央郵便局>
 2013年2月11日 肥後橋からの写真を入替
 志賀直哉(東京帝国大学卒業)、山内英夫(学習院在学中、里見ク)の二人(昨日、木下がぬけた)は大川町の「千秋楼」に入った後、大阪中央郵便局に局留めの郵便を取りにいきます。

 里見クの「若き日の旅」からです。
「… 茶を飲むと、すぐまた梅田の郵便局まで、留置きになってゐる筈の手紙を受け取りに行く。志賀へは八通、私には、正親町の弟、實慶からのが一通きり持ったのは、聊か面白くなかつたが、「荒野」が届いてゐたので、代るがはるそれをひねくり廻してゐるうち、すぐそんなことも忘れて了ふ。…」
 
 明治41年当時の大阪中央郵便局は現在の場所とは違い、肥後橋北詰東側にあったようです。中央郵便局は明治10年開局。4年、前身の駅逓司大阪郵便役所が淀屋橋北語に設けられ、その後東区近江町、同区八軒家に移転。明治25年中之島2丁目に佐立七次郎・中島泉次の設計で新築・移転し、分離・廃合の末大阪中央郵便局と改称。昭和11年大阪駅西隅に移転っています。(大阪市立図書館のホームページ参照)

写真正面が建て替えられたフエスティバルホールです。この場所に大阪中央郵便局がありました。橋は肥後橋で、左端に写っているのが朝日新聞です。



大阪市梅田・中之島付近地図



「千日前電気館跡」
<千日前電気館>
 志賀直哉(東京帝国大学卒業)、山内英夫(学習院在学中、里見ク)の二人はその日のうちに大阪一の繁華街である千日前から道頓堀に向います。

 「旅中日記 寺の瓦」から同じ場面です。
「… 東京にすらまだない乗合自動車なるものが通つてゐると聞いて、それの停留所のある淀屋橋の袂に行つて待つ。やつと日が沈みきつた頃で、夏の夕涼みのやうに爽かな気持だ。
 ブッブツ、と不景気な喇叭の音をたてながら、今にして思へばちつぽけな、十二三人も乗れもか乗れないの、とにかべそれでも、生れて初あてお目にかゝる乗合自動車がやつ来た。 ── これより先、華族の子弟に興味をもたせたら、うちへ歸つて親父を説き伏せるかも知れない、と、ぞこへ気のついた自動車輸入商でもあつたのか、放課頃を見計つて、一週間はど毎日のやうに、學習院の門前に來て、代りばんこに、二三町の往復を、ただで乗せてくれるのがあって、自動車の乗り心地については、私は既に経験すみ、志賀は、臍の緒きって初めてだった。
「ふーん、存外、これア、速いもんだね」
「それアさうさ」
一日の長あるが故に、私は、自分の發明したものででもあるかのやうな、得意顔で答へた。
 日本橋で降りて、千旦前をひと廻りしてから、角座へはいる。…」


 淀屋橋南詰から乗合自動車に乗っています。天王寺行きなので道筋は推定ですが、御堂筋(当時は淀屋橋筋)を少し南に走って、今橋町か道修町を左に曲がって谷町筋まで出て、南に下って日本橋に向ったとおもいます。

 「旅中日記 寺の瓦」から同じ場面です。
「… 此宿は一體に小ザツパリと誠に居心地のよい所で、快く食事をする。二三枚端書を書いて、河岸へ出る。夕涼みのやうないふにいはれぬ愉快を覺える。馬鹿に気分がよかつたので乗り気になつて、こんなキタナイものなんか捨てちまへといふので、二人のヨゴレふんどし、ヨゴレ鼻布を橋の上から川へ流す、所謂ふんどしの川流れだ。間もなく、待つてゐた、天王寺通ひの乗合ひ自働車が来る。山さんは、廣告に持つて来た自働車へ乗つた事があるさうだが自分は初めてだ。(志)

○ブツブと云ふ不景気な喇叭をならして自働車が走る、せまい道を走る。存外早い。日本橋で下りて千日前へ行く、浅草のもつと下卑た様な處だ。電気カン〔館〕でカン板のイルミネーションをつけたり消したりして居た。
大坂趣味だ、などと云つて通る。所謂「大坂の喧嘩」をやつて居た
が、物になり相もながつた。…」


 ”電気カン〔館〕”は千日前に明治40年、大阪で最初の活動写真の常設館として開場しています。明治45年に南の大火がありその際に焼失してしまします。

写真は現在の千日前通りから千日前筋南側を撮影したものです。右側にビックカメラがあります。この付近に電気館があったとおもわれます。千日前通りは明治45年の大火の後の拡張と、戦後の再度の拡張で道路幅が大幅に広がっており、当時の電気館は千日前通りの上とおもわれます。丁度ビックカメラの前の道上といったところかなとおもいます。

「角座跡」
<角座>
 明治41年4月6日の最後は道頓堀の角座です。
 角座は江戸時代は「角の芝居」とも呼ばれた芝居小屋でした。道頓堀の戎橋側から東に浪花座、中座、角座、朝日座、弁天座の5つの芝居小屋を「五つ櫓」(いつつやぐら)又は「道頓堀五座」と呼んでいました。宝暦8年(1758)、歌舞伎の舞台に不可欠である「回り舞台」が初めて採用され、以降全国的に広まります。大正9年(1920)に松竹の経営に移ります。以降松竹系の演劇興行が行われていましたが、戦災で焼失。戦後「SY角座」となり洋画専門の映画館として復興しています。(ウイキペディア参照)


 里見クの「若き日の旅」からです。
「… 日本橋で降りて、千旦前をひと廻りしてから、角座へはいる。右團次父子(後、父は齋人、子は團式を襲名。)我當(後、先代仁左衛門。)等の一座だ。花道の附け方、桟敷の取り具合など、なんとなく東京のと違ひ、殊に、出方がみんな女なのが珍しい。「お茶子」と云ふ由。
 前狂言は、「乳姉妹」をちょん髷でいったものゝ由、それは承知で敬遠したのだが、半分まですんでゐた中幕の「大徳寺焼香」も、我當の久吉が、自分に臺詞や科(しぐさ)のある間とない時と、隔段に気を入れたり抜いたりするのが、看客(けんぶつ)にはもとより、はたの役者に封しても無作法で、反感が湧くくらゐ、ちっとも面白くない。切狂言は、「お染久松」の「質店」から「蔵前」まで、右團次の久作、徳三郎の久松、どっちも初めて見る役者だが、東京なら、さしづめ時蔵
(後、歌六。)と歌昇の芝居といった威じ、 ── といふことは、歌昇はともかくも時藏の方は、源之助とおツつかツつに好きだった私とすれば、大いに認めたわけ、芝雀のお染、それほどでなく、我當の油屋後家はひどい。「蔵前」の人形振り
で、初めてたんのうする。右團次のお染人形、素晴らしくよく、右之助(後の右團次)の善六人形も、吉三郎の源右衛門人形とは比べものにならない上出来で、追出しには勿態ないくらゐの見物だった。…」


 当時の角座の様子は三田純市の「道頓堀 川/橋/芝居」を参照します。
 「…明治十七年三月十七日、角座の改築落成披露式は、大阪府知事などの貴顕紳士を招待して盛大に開かれた。その序幕の『寿式三番叟』で、頭取が「これより三番叟をごらんにいれます」と口上をいうと、舞台に所作台を敷きつめたままで、舞台がぐるりと回り、さすがは並木正三以来の回り舞台の本家本元と、見物たちに舌を巻がせた。
開場式のもうひとつの話題は、このときはじめて、角座の売店でアイスクリームが売れられたということである。値段は一ケ五銭、といってもそのころの道頓堀では氷水が一杯五厘だったそうだから、そのときの五銭。
── まさに貴顕紳士の食物である。
市川右団次、のちの斎人は主として角座を本拠地にして、中村宗十郎などの拠る戎座や中座に対抗した、ある時期の名優である。新作やケレン、舞踊に名のある実力派だったが、その十八番のひとつに〈鯉つかみ〉がある。
早替りと、本水を使って大鯉と格斗するところを見せるものだが、その初演は明治二十九年九月の中座で、芸題は『花舞台清水群参』。右団治は舞台の前面に大きな水槽を作らせ、そこヘザンブと飛込んで鯉と格斗したあと、花道のスッポンがら若衆姿でせり上がるという趣向である。
〈鯉っかみ〉には、もう一人、右団治の先輩がある。明治八年八月の竹田の芝居では『涼狂言・鯉水勢浮名粉色』という外題で中村千太郎という俳優が演じ、「千太郎水芸大当り」として記録されている。〈鯉つがみ〉は近年、実川延若によって復活されたが、この実川延若の家には、やはり本水を使用した早替りの『怪談乳房榎』という、先代延若がらの家の芸がある。
先代延若がまだ延二郎を名乗っていた大正三年八月の中座に、この『乳房榎』が出ている。延若の延二郎は、この狂言で、狩野晴信、久六ヽ。蟒三次という三役を早替りで見せ、水中で派手な立廻りを演じる。
『乳房榎』や『鯉つかみ』、それに『四谷怪談』などが代表的な夏狂言といえよう。…」


 歌舞伎には全く知識が無いのであまり書けません。

写真は少し前の「角座」です。この後、建物は取り壊されています。当時の角座とおもわれる繪端書を掲載しておきます。



大阪市難波・道頓堀付近地図