●旅中日記 寺の瓦 其の八 <奈良市内>
             【志賀直哉、木下利玄、山内英夫】
    初版2012年9月8日
    二版2012年11月3日 初代奈良駅舎の写真を追加
    三版2012年11月9日 <V01L01> 奈良郵便局跡と火打焼の写真を追加 暫定版

 「旅中日記 寺の瓦 其の八<奈良市内>」です。前回は明治41年3月31日〜4月1日の大津・琵琶湖・祇園歌舞練場でした。前回の掲載から少し時間が経ちましたが、継続して掲載していきます。今回は4月2日から1泊2日の奈良市内を歩いてみます。

 

【「旅中日記 寺の瓦」について】

 若き日の志賀直哉(東京帝国大学卒業)、山内英夫(学習院在学中、里見ク)、木下利玄(東京帝国大学在学中)の三人が明治四十一年三月から四月にかけて関西を旅した時に記した日記が、「旅中日記 寺の瓦」です。後の昭和十五年に里見クがあの甲鳥書林で「若き日の旅」として出版しています。又、原本の「旅中日記 寺の瓦」は昭和四十六年に中央公論社から出版されています。日時はかなり古いですが、旅行記としては非常に面白いので、この旅行記に沿って歩いてみました。




全 体 地 図



「奈良駅」
<奈良駅>
 2012年11月3日 初代奈良駅舎の写真を追加
 2012年11月9日 奈良郵便局跡の写真を追加

 明治41年4月2日、志賀直哉(東京帝国大学卒業)、山内英夫(学習院在学中、里見ク)、木下利玄(東京帝国大学在学中)の三人は四条小橋の宿を出て奈良に向います。奈良ー七条驛間の鉄道が全通したのは明治29年で、私鉄の奈良鉄道でした。国有化されたのは明治40年、奈良線の七条駅が京都駅に統合されたのは明治41年6月ですから、三人が乗車したころはまだ七条駅でした。

 里見クの「若き日の旅」からです。
「…     九

 九時半の汽車で發つつもりが、寝すごしたので、次のを調べると十時、 ── いつも急ッつき役は志賀で、木下は、今なら早速「スロモウ居士」とでも渾名されさうな質、私は丁度その中間ぐらゐのところ、── ひと汽車おくらしでゐるだけに、今朝の志賀と來たら、まるで火事場の騒動だ。大下がやつと帯を締めかけてゐる時分に、自分はもう、すぐにも出かけられるばかりに仕度を調へて、 ── 片手に荷物、片手に洋傘、むろん帽子もちゃんと被って了つて、座敷ぢう、爪先で座布團を蹴返し蹴返し歩き廻るのは、忘物の用心なのだ。…

 奈良の停車場前の通りには、いかにも行楽の土地らしく、土産物屋が竝んで、緑雨の書名でお馴染の「あられ酒」といふものなども賣つてゐた。まづ郵便局へ行き、留置を受け取る。出發前に、この地へ来るおよその日どりを云つて置いたのだ。早速封を切り、みんな往来を歩きながら讀む。母からの便に、弟が落第した由あり、二度目のことゆゑ、轉校しなければならないのだらうと、少し悄気る。…」

 当時の時刻表で三人が乗車した列車を少し調べてみました。乗車予定だった9時30分発奈良行の列車は10時57分奈良駅着、次の列車は10時40分発で、奈良駅着は12時42分です。到着はお昼を過ぎていますね、駅から三条通りを真っ直ぐに上三条町の郵便局までは約700m、徒歩で10分程です。郵便局は近鉄奈良線の新大宮駅近くに移転していて現在は奈良市観光センターになっています。
 上記に書かれている”あられ酒”を買ってみました。現在は奈良市福智院町の今西清兵衛商店のみが販売されています。ものすごく甘いです。冷して割って呑むといいかもしれません。因みに、女性は皆さんおいしいといいます。

 「旅中日記 寺の瓦」からです。
「…◎四月二日 京都より奈良へ

〇九時半の汽車でたつつもりのが、わけもなく十時發と延びて、七條の停車場へ行ったのが十時三分過ぎ、即ち乗り遅れだ。それから東本願寺へ行き、ムギ〔麥〕湯を飲むで、西本願寺へ行った。此寺の隣りは華園の寺で、木ノが「御寺さんはどちらへ御出でゞすか」の「若法主は此方へ御田でゞすか」のと聞いてたが、聾の婆の取次で要領を得ない、再び尋ねて要領を得たと思へぼ、皆様御留守との事だ。それも本営に要領を得たのかどうか知れたものではない。今月の中央公論が見たいと思って雑誌屋を探したが所謂袈裟屋町でたまたま本を売る家があれば経文だ。…」

 ”華園の寺”とは西本願寺の南隣にある興正寺のことです。興正寺はかつて西本願寺の脇門跡でしたが、明治9年(1876)に真宗興正派として独立した時に、同派の本山となります。住職は門主の華園家です。(ウイキペディア参照)

写真は現在の奈良駅です。左奥が現在の駅舎で、正面に昭和9年完成の二代目駅舎が写っています。初代駅舎の写真を見つけることが出来ましたので掲載しておきます。

「大文字屋跡」
<大文字屋>
 明治41年4月2日の奈良での宿泊先は猿澤池横の大文字屋です。郵便局から650m程です。

 里見クの「若き日の旅」からです。
「…  親子井ぐらゐで、簡軍に午食をすませ、猿澤の池畔から五十二段をあがり、宿をきめて荷物を預ける。やれ、人力はどうだの、案内者が要るだらうのと、うるさく勤める番頭を黙殺して、鹿にやる煎餅だけ受け取つで出かけたが、志賀は、忽ちのうちにそれをやり盡し、あとからあとからと買ひ足しては、行く先々の鹿どもと親善を致してゐる。…」
 ”五十二段”は明治31年に作られた猿沢池の東北端、興福寺五重塔西南の下にある幅広い階段です。当時から有名な階段だったようです。

 「旅中日記 寺の瓦」から同じ場面です。
「…志賀君の所謂鹿が遊んでる筈の、春の目が照ってる筈の、緋の袴をはいた小さい巫女が下りて来べき等の猿澤池畔の五十二段から右に折れて大文字屋にとまる。番頭が出て来て此れから見物するならば俥にのるだらうの、案内者が入るだらうのとかんせふがましい事を云ふ。そんなものは入りませんと云ひ切ってぶらりと宿を出る。鹿が居る。宿からくれた煎餅をやる、喜んでくふ、投げろと云つて首をふる奴、さい促して頭で人の背をつゝく奴、恐れて近くよらぬ臆病な奴などいろんな奴が居る。…」
 ここで宿泊した旅館名がでてきます。「大文字屋」です。大文字屋着は奈良駅着が12時42分で、郵便局に寄り、食事をとっていますので、14時前辺りだとおもいます(駅から大文字屋まで1.35Kmで徒歩15分)。

写真は現在の大文字屋跡です。駐車場になっているところです。戦後も営業されていたようですが現在は廃業されています。

「春曰神社」
<春曰神社>
 2012年11月9日 火打焼の写真を追加
 三人は宿泊先の大文字屋に到着後、直ぐに観光に出かけます。ルートは事前に考えていたのかとおもったら、大文字屋のパンプレットに記載されているルートのままでした。下記の地図を参照して下さい。

 里見クの「若き日の旅」からです。
「…  春曰神社を見てから、若草山に登る。どこへ行っても、鹿はもう影さへ見せない。立小便をしに、叢の方へ行くと、ガサガサツと、葉末が揺れて、その隙間に、ちらりと白いものが見えたから、たぶん鹿の尻だったのだらう、 ── それだけだ。
 見おろすと、奈良は、柔な夕日を浴び、紫ッぽい青味に薄霞んで、今、静に暮れて行くところだうた。大空へ、鐘の音が惨み込む………。
 掛茶屋で名物の燧焼を食べ、あまういゝ夕方なので、宿を急がす、ぷらりぶらり東大寺をぬけて歸る。そちこち、もう灯がともってゐた。…」

 燧焼(ひうちやき)については、現在は”火打焼”と書くようで、春日大社の手前にあった荷茶屋(にないじゃや)が江戸の末期に「火打焼」という餅菓子を売り出したのが始まりのようです。現在の春日荷茶屋では販売しておらず、明治時代は「千代乃舎本家竹村」という東向南町にあるお店の茶店が春日大社にあり、その茶店で火打焼をだしていたようです(現在はありません)。

 火打焼を買ってきました。東向南町の「千代乃舎本家竹村」でお話しをうかがったところ、秋の正倉院展が開かれている期間だけの販売だそうです。火打焼きの入った箱箱を開けたところ火打焼の写真を掲載しておきます。

 「旅中日記 寺の瓦」から同じ場面です。
「…春日神社は株の松の奥に丹塗の殿があるのがそれである。美しい宮である。名物火打焼と云ふのをたべて小鍛冶宗近の子孫の家の前を通って若草山に登る。若草山を見上げてHofimannの感じだと志賀君が云ったが成程さうだ。」
 「若き日の旅」では燧焼は若草山の登ってから食べたことになっていますが、「旅中日記 寺の瓦」では春日大社付近で食べたことになっています。”小鍛冶宗近の子孫の家”は三条小鍛冶宗近本店となっていました。
明治41年4月2日午後に三人が観光したルートです(推定)。
・奈良駅→(三条通り)→郵便局→昼食→猿沢池→大文字屋(旅館)→掛茶屋で名物の燧焼(ひうちやき)?→春日大社→小鍛冶宗近の子孫の家→若草山→鐘の音(興福寺の夕方6時の鐘?)→東大寺→大文字屋

写真は現在の春日大社です。観光客が多いです。



大文字屋観光案内図



「奈良国立博物館」
<博物館>
 明治41年4月3日です。この日は神武天皇祭です。初代天皇である神武天皇の崩御日にあたる4月3日に毎年行なわれ、神武天皇の天皇霊を祭ります。崩御日は『日本書紀』によれば神武天皇76年(紀元前586年)3月11日ですが、これをグレゴリオ暦に換算して4月3日としています。宮中の皇霊殿と神武天皇陵に治定される奈良県橿原市の畝傍山東北陵で儀式が行われます。(ウイキペディア参照)

 里見クの「若き日の旅」からです。
「… 神武天皇祭、いかにもさういふ祭日に適はしい、日本晴で、花もまづ四分どほりである。
 いざ出かけようといふ矢先に、木下が、瀧教授の講座、「日本美術史」のノートが見えないと云つて、風呂敷包をひツくり返し、信玄袋のロを明けたり締めたり、いつもの、もの静かな裡にも、だいぶ慌てゝゐる様子は隠しきれなかつた。…

 博物館にはいる。名は博物館でも、實は美術館、むしろ彫刻館で、大部分國寶だから、初めての私など、たヾもう呆気にとられるばかり、それでも、京都の時より、いくらか馴れても来たし、點數も少いので、わからないながらも面白かつた。傅空海作の、十二神将の浮彫、興福寺出陳の力士像、古い舞楽の面、いづれも素晴しく、日本もえらい國なんだなア、と、自分たちの生れた國に對する、 ── 今風に云へば「認識を新た」にしたことだつた。…

 出て、昨日の掛茶屋へよつて訊くと、
「あゝ、御本だつしやろ?……へえ、もう、ちんとなほしてござりやツせ。お宿がわかつてよしたら、すぐにお届けいたしますのんやけど、……どうせ今に取りに見えるやろ思てましてん。……へえ、唯今もつて參じます」…」
…」

 奈良国立博物館のお話しは知識が無いので割愛します。もう少し勉強しないとだめです。掛茶屋の位置がよく分かりません。春日大社参道手前の現在の春日荷茶屋付近とおもったのですが、若草山の入口付近かもしれません。

 「旅中日記 寺の瓦」から同じ場面です。
「…ノートブックを気にかけて博物館に入る。いゝ彫刻が澤山ある。大抵国宝になってる。空海作と傳へらるゝ十二神将の中には面白いと思ふのがあった。又天燈鬼と龍燈鬼もよかった。志賀君はその龍燈鬼のふんどしのたるみ工合が気に入ったと云ふ。後で絵はがきを買ふ時も龍燈鬼の後姿のはないかときいて居た。ふんどしのたるみ工合をあく迄も賞玩する気と見える。ふんどしの低徊趣味とはふるつてる。博物館を出て火打焼の爺さんの家へ行って「お爺さん、昨日ね、ここに本を忘れときやしなかったかしらん」ときくと「アー、本でせう、わたしやきつといらっしゃるだらうと思ってちゃんと取つといたんです」 と火打焼を並べてた腰をのして奥へとりに行く。余はやれ嬉しやと恩ふ。お内儀さんが「もういつ迄お置きなすつても大丈夫なんです」とか云つてる。爺さんはノートをもって出て来て「お所がわかってりやとゞけようと思って居ましたんや」 とか云つてた。「マーどうぞ一服」 と云ふ。そこで一俵に及ばず休んで火打焼をく今日は朝から人出が多い。 これに反して鹿は少しゝか見えぬ。(木)。…」
 ”火打焼の爺さんの家”は何処なんでしょうか、もう少し地名が書いてあると判るのですが。

写真は現在の奈良国立博物館です。入口は裏門からです。正面は閉ざされたままでした。昔も裏門から入ったかはわかりませんでした。

「東大寺」
<東大寺>
 明治41年4月3日です。三人は昨日見学できなかったところを廻っています。基本的には大文字屋の観光コースそのものです。
 本日のコース(東大寺まで)
・大文字屋→博物館傍の茶店(荷物を預ける)→博物館→掛茶屋→若草山の前→三月堂→二月堂→東大寺

 里見クの「若き日の旅」からです。
「… 二月堂は内陣へはいれたが、三月堂の方は、坊主につてがないと見せて貰へないとのことゆゑ割愛して、大佛殿へ行く。普請中で、櫓組の間に、大佛が顔だけ窺かせてゐるせゐか、思つたほど大きいといふ気がしなかつたので、それを云ふと、
「これについちゃア、いろいろとまたやかましい議論があるんだがね……」
と、木下がわざと先輩ぶつてみせて、「大きな伽藍を見た目が、肝心の大佛を小さく咸しさせるんだから、須らく露佛にすべし、といふ高山林次郎の一派と……」
「併し……」
 別だん反對したい気もないのだが、言葉の組合せを面白くしようと、こつちもわざといツぱしの學説らしく、「併し君、自然は伽藍なんぞと比べものにならないほど大きいんだぜ。だから、露佛にしたら、周圍の大自然と比較されることに依つて、大佛は一肩小さく見えるわけぢやないか」…

 ミルク・ホールにはいり、麪包(パン)と珈琲で簡単に中食をすませた。鬢附のやうな牛酪(バタ)、蜻船印の角砂糖の中心に、少しばかり珈琲の粉がはいつてゐるやつを、湯で溶しただけの飲料、 ── 常時としては、とは云へ、なかなかこんなことでは貧乏族行の部にははいらない。…」

 三人はやっぱり理屈っぽいですね! でも面白いです。上記の”ミルク・ホール”は東大寺大仏殿入口の交差点から博物館までのところではないかと推測しています(歩いているルートを考えるとココしかありません)。それにしてもこのミルク・ホールのコーヒーは凄いですね、コーヒー色つきの砂糖湯と言った感じでしょうか!!

写真は現在の東大寺です。奥が大仏殿です。東大寺についても説明は省きます。

「博物館本館裏門前の茶店」
<博物館前の茶店>
 博物館付近には二軒の茶店があります。一軒は本館の南側にある”茶店にしぐち”、もう一軒は本館の裏口にある””永野鹿鳴荘(会津八一に因んだ?)”です。

 里見クの「若き日の旅」からです。
「… 荷を預けて置いた博物館前の茶店により、繪端書や寫眞など見ながら、發って来るまへ園池に頼まれた、戒壇院の四天王のうち、右に槍を突き、左を腰にあてがつてゐるやつはないか、と訊くと、猿澤ノ池のそばの、工藤といふ店なら、「どないなと好いたのがござりやす」との答に、荷を提げて、そこへ行く。…」
 仏像写真で有名な”工藤精華堂”を紹介したことから考えると本館の裏口にある”永野鹿鳴荘”が正解かなと考えます。工藤精華堂の後を引き継いだのが永野鹿鳴荘といわれています(ウイキペディア参照)。ただ、当時からお店があったかは不明です。上記の”戒壇院の四天王のうち、右に槍を突き、左を腰にあてがつてゐるやつ”は戒壇院の増長天です。

写真が現在の「永野鹿鳴荘」です。左側に「永野鹿鳴荘」の看板があります。



奈良市内主要地図



「工藤精華堂跡」
<猿澤ノ池のそばの工藤>
 4月3日午後、三人は博物館本館裏口傍にある茶店で紹介された”工藤”に向います。博物館から興福寺を通って五十二段を下った左側に”工藤”がありました。正式な名前は「工藤精華堂」です。

 里見クの「若き日の旅」からです。
「… 荷を預けて置いた博物館前の茶店により、繪端書や寫眞など見ながら、發って来るまへ園池に頼まれた、戒壇院の四天王のうち、右に槍を突き、左を腰にあてがつてゐるやつはないか、と訊くと、猿澤ノ池のそばの、工藤といふ店
なら、「どないなと好いたのがござりやす」との答に、荷を提げて、そこへ行く。店番をしてゐた五十恪好の、でつぷり肥つた婆さんが、眞鍮縁の眼鏡越しにぢろりと見迎へて。
「いらつしやい」
 故郷を出て、もちと大袈裟すぎるが、いつかもう九日目、「おいでやす」に馴れた耳へ、いきなりこの関東辯は、ばかに歯切れよく、 ── それ以上、懐しくさへ聞きなされた。成程、寫眞は、大抵なんでも揃へてあつたし、どこそこの何々と、習はぬ經にもせよ、建築、彫刻、、繪書、悉く現物の名稱も暗記してゐたが、これが、清教徒のわれわれにとつては、少々どぎつすぎる代物で、あとで、「自然派婆」と名づけられることになったが……。…」

 「工藤精華堂」は工藤利三郎氏が明治24年に開業した仏像写真専門のお店で、奈良ではで有名なお店でした。工藤利三郎氏自身が仏像写真家としては本邦初のようです。お店は大正時代に入る頃に無くなりますが建物自体は戦後もあったようです(現在は無くなっています)。

写真は猿沢池東側から”よしだや”を撮影したものです。この正面角に「工藤精華堂」がありました。(「奈良いまは昔」参照)

「新薬師寺」
<新薬師寺>
 工藤精華堂の紹介で三人は新藥師寺に向います。工藤精華堂からは当時の道なりで2Km弱ですから徒歩で30分程です。

 里見クの「若き日の旅」からです。
「… 南向きの裏門からはいる。方十二間ほどの、古ぼけた堂が、午後三時すぎの陽光を浴びて、人気なく、ぽつんと建つてゐた。寺だか、院だか、庵だか、左手にある粗末な建物の、薄暗い土間の這入口から案内を乞ふと、やゝ暫くして、濡手をタオルで拭きながら、子供が出て来た、 ── と思はれたのも、明るみで見れば、堅肥りの、二十二三と覺しい、醜婦の尼さんで、丈が、四尺あるかなしなのだ。白然派婆に云はれたとほり、工藤の紹介で来た旨を告げると、気軽に承知して、一旦奥へはいり三分角ほどの鐵を、雷文風に折り曲げただけの、よく稲荷の狐が銜えてゐる原始的な鍵と、その柄のもとの方へ紐で繋がれてゐる、文字も讀めないほど古び黒ずんだ木札とを、カタリ、コトリと打ち合せながら出て来るまで、私は、陽に輝く白壁を見詰めたきり、瞬きがとまつてゐた、 ── うつとりとしたいゝ心持なので、さう勞れたとも思はなかつたが…
 本尊の薬師如来、四天王、寺傅によれば、共に行基の作とか、それとは段違ひによく思へたのが、ひと足お先に寫眞で馴染になつてゐた十二神将で、 ── 無論歸京後に調べた名だが、なかにも、迷企羅大将、珊底羅大将、招杜羅大将、など實に活々としたものだつた。…」

 新藥師寺を訪ねると、期待していたより小さなお寺なのでガッカリします。お寺の規模は小さいですが中の仏像は凄いです。本堂も小さいのですが、その小さい本堂の中にすばらしい仏像があります。私のような知識の無い素人が見ても感激します。是非訪問して下さい。お寺や仏像の細かい説明は今回はしません。

 「旅中日記 寺の瓦」から同じ場面です。
「…新薬師寺で工藤の紹介で来たと云うたら、尼さんが宜敷云うてくれと云うたから、歸つてさう侍へると、「あの尼はね、姉さんの寶を持ち出して情人にやったのが見つかってね、追ン出されたんですが、家の親爺が口を利いてやって又寺に歸つて居るんですぜ」とかうだ。又大文字屋に泊って居たと云ふと「あすこでは此の間心中があったんですよ」と云ふから、あすこで死んだのかと思ふと大文字屋に泊った人が鉄道往生をしたのだ相で、「男は死にやがつて女は牢死さ」と云ふ。夫でも木バサミ〔鋏〕を借りて下駄の歯のまくれた處を切つたので、こればかりは大助りをした。(こんな事で自然派の筆を納める)
新薬師寺の白壁には三時頃の日が温くあたって居た。(此の壁の落書に自然派な文句があったのだが一旦自然派の筆を納めてしまったのだから省く) 裏へ廻って僧坊の暗い土間の入口で案内を乞ふと、タオルで手を拭ひながら四尺位の二十歳前後の尼さんが出て来た。来意を告げて佛前へ供物をすると早速鍵を持って本堂を明けてくれた。床は例の禅寺にあるたゝきの様なので、十二間四万位の建物だ。本尊は行基作と伝ふる薬師様である。四天王も行基作である相だ。餘り感心しない。此の十二神将の像は度利の作で立派なものである。ねば土の様なものでこねて作ったらしく彩色は大分はげて居るが、残って居る庭はよい色である。志賀君は自然派婆の處で珊底羅大将、迷企羅大将、招杜羅大将、波良夷羅大将の四枚を鶏卵紙の四つ切りの写真で買った。…」


<今日のルート>
・大文字屋→博物館傍の茶店(荷物を預ける)→博物館→掛茶屋(忘れ物)→若草山の前→三月堂→二月堂→東大寺→ミルク・ホール(昼食、12時頃?)→博物館傍の茶店→工藤精華堂(2時間滞在、荷物を預ける)→新藥師寺→工藤精華堂→郵便局→奈良駅→法隆寺駅→大黒屋(宿泊)
 一日にしてはすごい数のコースです。現在は徒歩では無理で、レンタサイクルかなとおもいます。私も奈良駅のレンタサイクルを借りてまわりました。坂道が多いので電動が良いとおもいます。

写真は現在の新藥師寺本堂です。現在も南側の門から入ります。昔は東側にある門から入っていたのかとおもいました。明治時代から変らぬ入口ということです。

 次回は法隆寺を歩きます!!