●旅中日記 寺の瓦 其の七 <大津・琵琶湖・歌舞練場>
             【志賀直哉、木下利玄、山内英夫】
    初版2012年5月19日
    二版2012年6月16日 <V01L01> 当時の歌舞練場を追加 暫定版

 「旅中日記 寺の瓦 其の七<比叡山>」です。前回は明治41年3月31日の比叡山登山です。白川口から徒歩で比叡山に登り、坂本に下り、大津市内に宿泊しています。今回は比叡山登山翌日の大津市内と琵琶湖観光を掲載します。

 

【「旅中日記 寺の瓦」について】

 若き日の志賀直哉(東京帝国大学卒業)、山内英夫(学習院在学中、里見ク)、木下利玄(東京帝国大学在学中)の三人が明治四十一年三月から四月にかけて関西を旅した時に記した日記が、「旅中日記 寺の瓦」です。後の昭和十五年に里見クがあの甲鳥書林で「若き日の旅」として出版しています。又、原本の「旅中日記 寺の瓦」は昭和四十六年に中央公論社から出版されています。日時はかなり古いですが、旅行記としては非常に面白いので、この旅行記に沿って歩いてみました。




全 体 地 図



「辨慶力餅」
<辨慶力餅>
 前日の明治41年3月31日は白川口から比叡山に登り、根本中堂を見学後、本坂から坂本に下り、船で大津までたどり着いています。31日は大津で宿泊し、翌日の4月1日は船で琵琶湖観光をしています。大津市内の三井寺を訪ねたときに「辨慶(弁慶)力餅」を食べています。「辨慶力餅」は比叡山の茶屋で昨日食していますから二度目になります。
 里見クの「若き日の旅」からです。
「…阿伽之井なども見て、力餅を食ひ、三度船に乗って、紺屋ケ關へ引き返して來た時には、だいぶもう午をすた。…」
 閼伽井(現在はこう書く)は金堂の西側にあり内部には井泉が湧いており、天智・天武・持統天皇三名の産湯に使われたことが三井寺の名前の由来になっています。
 「旅中日記 寺の瓦」からです。
「…志賀、山内両君モーバツサンをよむ。三井寺で力餅を食ふ。早稲田大学の帽子をかぶった書生が眼鏡をかけた細君か何かをつれて石段をのぼる。額堂の下迄くると、
「もうここらでやめませう」と女がいふ。
「もうそこだ、 バー、こい、ひっはつてやらう」と男が云つてた。松や椎の森の下を通って奥の院へ行く。…」

 額堂はよく分からなかったのですが、観音堂付近にある建物ではないかとおもいます。観音堂への階段はかなりきついので場面が合っています。

写真は現在の「辨慶力餅」です。お店は力軒で三井寺内の微妙寺前辺り、金堂正面からずっと歩いて観音堂に行く手前の左側にあります(午前中は開いていない)。お店の方に聞いたところ、元々は観音堂前の土産物屋のところにあったが修理等で現在地に移されたとのことです。ですから三人は観音堂の前で「辨慶力餅」を食べたことになります。観音堂からの大津市内は絶景です。昔の絵はがきと、現在の写真を見比べてください。尚、浜大津駅近くにも「力餅屋」がありますが、こちらは「三井寺力餅」で、”辨慶”が付いていません。大正3年の「名所旧趾大津市街地圖・商工業家案内」で三井寺観音堂前の「辨慶力餅」を確認しています。



大津地図



「小林亭旅館跡」
<吉岡屋で紹介してくれたうち>
 志賀直哉(東京帝国大学卒業)、山内英夫(学習院在学中、里見ク)、木下利玄(東京帝国大学在学中)の三人が明治41年3月31日に大津で宿泊した旅館を探しました。
 里見クの「若き日の旅」からです。
「… 途中、唐崎の松へより、灯ともし頃、大津着、三條小橋の宿、吉岡屋で紹介してくれたうちを尋ねて行く。出迎へた女中の一人を、あゝ、どっかで見たやぅな、とは思ふのだが、初のぼりの、しかも大津に、そんな筈はない、とうも滑すそぼから、なんとなく気にかゝる。風呂のなかで、やつと思ひあたったのは、三條小橋の宿にゐた女中と、どこが、かしこが、といふわけではないけれど、なんとなく仝體の感じに共通なものがあるのだ。偶然晩飯の給仕に出たのも、その若い女中だったので、低聲で志賀にさう云ふと、「ふーん、成程、似てゐる、似てゐる」
「え。なに。誰が誰に似てゐるんだって?」
 内證話に聞き耳たでゝ、あとからの仲間入りに、體ごと摺り寄せて來る木下を、志賀は、無殘に無視して、すぐ女中の方へ、
「君、姉さんか妹さんがあるかい」
 だしぬけで、吃驚したやうに、また址かしさうに、膝頭をもじもじさせたりしながら、「へえ」と、微に領き返した。畳みかけて、
「姉さん、……かな、とにかく、京都に行ってる同胞がありやアしないか」
 今度は不思議さうに、── やゝ聲高に、行ってゐる由を答へる。さてこそ、とばかり、志賀は気負ひ立ったが、待てしばしと、一歩手前へ索りを入れて、
「三條へんにゐるんぢアないのか」
「へえ」
「ぢア、吉岡屋にゐるね、── さうだらう」
 図星だった。常の女中より、木下の方がよけい驚いたくらゐで、
「なんだい、どうしてそんなことがわかったのさ」
「それアもう、ちやアんと、……千里眼みたいなもんだ」
「あっちで、なんか聞いて來たのかい」
「なに、そんなことがあるもんか。勘でいったんだよ、勘で。……もっとも、
この勘は、山さんの發見にかゝる勘だがね」
「ふーん」
 女中の顔を見さへすれば、すぐ納得がいくものを、さうはしないで、不思議さうに、また自分だけ仲間ツばづれにされたのを不平さうに、黙つて、考へ込んでゐた。…」

 里見クの「若き日の旅」では旅館の名前は書かれていません。そんなことより女中のことのほうが気になっているようです。
 「旅中日記 寺の瓦」から同じ場面です。
「宿屋は吉岡屋で紹介してくれた小林と云ふのにした。ずいとはいると吉岡屋に居た女中にそっくりの女が居た。よく見るとそんなに似て居る譯ではないが何所となく似て居る。不思議に思って志賀君に話すと同感の由だ。そこで晩めしの給仕に来た時志賀君が「君に姉さんか妹があるか」と聞く。「あります」と不思議相に答へる。「京都に出て居るか」と聞く、「へえ」と答へる。「三條に居るか」と聞く。「へえ」 と答へる。「吉岡屋に居るか」と聞く。「へえ」と答へた。うらなひ〔占〕か、れ(Yes−no)〉みたいだつたが不思議な事もあるもんだ。(山)…」
 「旅中日記 寺の瓦」に旅館の名前が書かれていました。女中の件は”三条小橋の吉岡家”の女中と姉妹だったようです。

写真は現在の浜大津駅から西側の交差点を撮影したものです。正面の角に小林亭旅館がありました。大正3年の「名所旧趾大津市街地圖・商工業家案内」で確認しました。

「石山寺」
<石山寺>
 三人は浜大津駅前の小林亭旅館に宿泊し、翌日、琵琶湖の遊覧船に乗船して観光に出かけています。当時の観光船は、太湖汽船と湖南汽船の二社が運行していました。この二社は乗場も違い、太湖汽船は浜大津駅海側(現在の大津港旅客ターミナル付近)、湖南汽船は紺屋関(浜大津駅から東に600m)にありました。
 里見クの「若き日の旅」からです。
「… 月が變って、今日は四月の朔日、汽船で湖水めぐりに出かける。田舎の團體客と乗り合せ、騒々しく、壓され気味に、こっちの三人は、珍しくも言葉少だ。志賀は、愛用の千金丹をとり出し、ピチリピチリ折って、「どうだい」と、われわれの前へも突きつける。貰って、甘く、苦く、ひりひりと舌を刺させながら、團體客についてゐる案内者の、八景の説明を聞いてゐると、比良の暮雪に來て、あれがさうだ、とその山を指さし示す。そばにゐた田舎の爺さんが、女房らしいのに、
 「あれが、比良の菩薩榛やさうな」
 どこにも俳優らしいものは見えないのだけれど、女房も別に不審は立てず、いゝ加減に、亭主の指さす方へ眼を向けたまゝ、
 「あゝ、さうだつか」
 と、いかにも納得がいつたやうな顔をしてゐる。
 右に膳所の城跡を見て、やがて瀬田の唐橋をくやり、石山寺の下に着く。ところころ黒ずんではゐるが、支那にでもありさうな、白い岩山のあちこちに、本堂や経堂が建ってゐる。あがって、見渡すと、眞正面、古綿雲の間に三上山が頂を窺かせ、汀にはたくさん白い鳥が泳いでゐる。新橋を、幌をかけた俥、傘をさした人が渡って行く、── と思ふと、ぼつりぽつり、こっちにも細いやつが落ちて來た。…」

 三人が乗船した琵琶湖の遊覧船は下記の順に廻っていったようです。
・浜大津駅海側(又は紺屋関)→膳所の城跡→瀬田の唐橋→石山寺(下船)→三井寺(下船)→浜大津駅海側(又は紺屋関)
 手元に在る琵琶湖の遊覧船のパンフレットは昭和初期の太湖汽船のものしかありませんので、参考に「八景めぐり」のルートを記載します。
・浜大津(10時発)→石山駅→南郷遊園地(上陸20分、大正14年開園の遊園地)→石山寺(上陸40分)→樫田(上陸30分)→坂本・唐崎→三井寺→浜大津(15時30分着)

写真は現在の石山寺です(秋の写真です)。東大門から右手に登っていきます。山頂には月見亭があります。山頂からの写真も掲載します(天気がよくなかったです)。

「武蔵坊辨慶の鐘」
<三井寺>
 三人は観光船で石山寺から三井寺に向かいます。ここも下船出来たようです。
 里見クの「若き日の旅」からです。
「… 同じ船で、今度は三井寺へ向ふ。英譯のモーパブサンを讀んでゐた志賀が、「キャップサイズつてなんだつけね。C−a−p−s−i−z−e……」
 まがよくも、その字を憶えてゐた私が、大下に云はれないうちにと、急き込んで答へ、五つも年上の兄貴分にものが教へられたことで、はち切れんばかり得意になる……。
 三井寺では、奥ノ院の、釣鐘の由來を話して聞かすつる禿の爺が、なかなかうまい。── 昔、叡山とこゝと喧嘩をした時、西塔の武蔵坊辨慶が、この鐘を分捕り、引きずつて行つて了つたが、この邊の疣がちびてゐるのは、そのためだ、さて突いてみると、もとゐた三井寺を戀しがつて、去のウ、去のウと鳴るのに、辨慶が業を煮やして、谷へ投げ込んだ時、この亀裂がはいつた。その後またこっちへ取り庚してからの、或る年のお盆に、狂女が来て、この鐘には鏡の性がある、と云って、人々が制めるのも聴かず、無理に取って行った跟がこれだ、── 小学校の先生が教場で使ふやうな、細い竹の棒で、その箇處々々を指し示しながら、節面白く、而も懶げに、のんびりと、かういった話をして聞かす、こんなことには、上方辯はもって來いだ。…」

 ”辨慶(弁慶)の引摺鐘”と呼ばれている弁慶鐘のお話しはなかなかおもしろいです。弁慶鐘は奈良時代の作ですが、三井寺にはもう一つ、新しい”三井の晩鐘”と呼ばれる梵鐘があります。この鐘は桃山時代の作で、通常はこちらの鐘を鳴らしています。
 「旅中日記 寺の瓦」から同じ場面です。
「…さうして辨慶がひきずった鐘を見る。そこの鐘楼の中に居る男が鐘の由来を説明する。叡山と三井寺とが喧嘩をした時、西塔の武蔵坊辨慶がこの鐘を分捕ってひきずつてかへ った時イボ〔痍〕がちびたので、さてついた所が 「イノー」 と鳴ったので辨慶が怒って谷へなげつけた時ひゞ〔罅〕が入った、その後いつかの盆に狂女が来てこの鐘には鏡の性があるから是非はしいと云つて鏡にとった跡があれですと抑揚をつけて面白くやってのける。案内者の口上もあの位にやるとよい。ねむたいやうな節をつけてやる奴はこれを見習ふべきである。…」
 口上が面白かったようです。

写真は現在の三井寺霊鐘堂です。この中に弁慶鐘が安置されています。

「二葉亭跡」
<二葉亭>
 その日の昼食のお話しです。三人は三井寺を見学後、観光船で大津に戻っています。
 里見クの「若き日の旅」からです。
「…三度船に乗って、紺屋ケ關へ引き返して來た時には、だいぶもう午をすぎた。久し振りに牛鍋でもつツ突かうといふことになり、気をつけながら街を歩くと、牛屋らしいのが、どこもみんな「精肉」といふ看板をあげてゐる。
「精肉とはなんだい」
「まさか、精神と肉體ぢやあるまい」
「精力のつく肉、これをつやめて精肉かな?……なんにしろ、下素張った言葉だ」
 その精肉屋の一つに、二葉亭といふのがあったので、同じことなら、四迷の由緒でと、そこにはいって食ふ。…」

 ”三度船に乗って、紺屋ケ關へ引き返して來た”と書いてありましたので、ここで「湖南汽船」に乗船したことが分かりました。”紺屋ケ關”は上記にも書きましたが「湖南汽船」の乗場なのです。

写真は現在の浜大津三丁目2番付近です。二葉亭は写真の少し先右手、牛乳販売店の手前付近にありました。 大正3年の「名所旧趾大津市街地圖・商工業家案内」で確認しました。

「大津の疏水」
<和船で疏水をくだる>
 三人は京都に戻るため、疏水を浜大津から京都まで下ることにしています。

【琵琶湖疏水(びわこそすい)】
琵琶湖疏水(びわこそすい)とは、琵琶湖の湖水を、京都市へ通ずるために作られた水路(疏水)で、明治23年(1890)4月9日に完成し、明治24年(1891)11月には貨客を運ぶことができる蹴上のインクラインが運転を開始しています。開通から十数年は客貨とも大いに利用されます。旅客は明治24年(1891)に大津−蹴上の下りが1時間22分30秒で4銭、上りが2時間20分で5銭と並行する鉄道の京都−馬場が運賃上等50銭(往復75銭)、中等30銭(往復45銭)、下等15銭よりはるかに安く、馬車も8銭を6銭に値下げして競争したといわれています。明治44年(1911年)には渡航およそ13万人を数えましたが、翌年8月の京津電気軌道(現京阪京津線)の古川町−札ノ辻開業でおよそ4万7千人に減少しています。大正4年(1915)の京阪本線五条−三条の延長により電車で大津−京都市内−伏見が直結されると3万人台になり、唯一の渡航船会社、京近曳船は廃業します。戦後の昭和26年(1951)に新会社が設立され屋形船が姿を現しましたが、同年冬の第1疏水取入口改造工事のため運航を停止し、そのまま廃止となっています。(ウイキペディア参照)

 里見クの「若き日の旅」からです。
「…  和船で疏水をくだる。長いトンネルのなかでも、舶の薄暗いランタン以外には、蝋燭一本ともしてはくれない。行く手は闇、はいつて來た口が、だんだんその馬蹄型を縮めて、見る間に景色が滑え、凝色の雨空も、いつか、自色白光の太陽が常闇の國の巣にでも現はれたやうな錯覚へ陷入れる。白光は、眞黒な水の面に、銀の蛇となってのたうち、天井からの點滴を金剛石にし、洞内に籠る水蒸気に散じては、白夜のまぶしさだ。夏の青空ならば、カプリの琅?洞を見本に見せてくれるだらう。が、金剛洞もまた美しい。まだ見える、まだ見える、と云ってゐるうちに、針の目どほどになった一點が、遂につぶれて、地獄めいた闇黒に鎖されで了ふ。と同時、今が今まで威じられてゐた船の速度といふものが、全く失はれで、たぷりたぷり、同じところで、左右に括られてゐるやうにしか思はれない。いくら見詰めてゐでも、行く手に針の目どがあかず、進んでゐない、といふ威じがますます、確實性を帯びて來る。……何にしても暗く、何にしても永い。……心細くなつてか、面白がつてか、乗り合せた田舎の團體連中が、だみ聲を張りあげて、唄をうたひだした。日と耳との、距離の観念さへ曖昧になり、今にも耳朶へ息がかゝりさうで、やりきれない……。…」
 大津−蹴上の下りが1時間22分30秒で4銭ですから、時間が掛かりすぎますが、とにかく安いです。現在の京阪電車京津線浜大津ー蹴上間は19分です。因みに大正12年の時刻表で見ると、大津ー三条京阪間が30分でした。電車が開通すると時間で電車を利用することになります。

写真の左が「大津閘門(おおつこうもん)」で右が堰門(制水門)です。当時と変わっていないとおもいます。ここを船で通って京都の蹴上に向います。



比叡山地図



「現在の歌舞練場」
<歌舞練場>
 2012年6月18日 当時の歌舞練場を追加
 4月1日、三人は疏水を船で下って京都に戻ります。今夜の宿は四条小橋の橘館です。三条小橋の吉岡家は気に入らなかったようです。そして直ぐに「都おどり」を見に行きます。
 里見クの「若き日の旅」からです。
「… 前のうちは失敗だつたといふので、その近くで、今度は別の宿をとり、荷物だけ擲り込んで置いて、すぐ歌舞練場へ行く。まだ窓口をあけない切符賣場から、既にもう十間ばかりの列になってゐる、その尾について、一時間、更に三十分、やがて二時ちかくも立ン坊だ。その間には、われわれの位置も、鰻にすれば鰓のあたりになったわけだが、あとさき見廻して、どこに一つ、苛だつたり、不平がつたりしてゐるやうな顔は見あたらない。こゝにかうして立ってゐることそれ自身が、都踊りを見る樂しみの一部分として、京都人には既に一種の享樂なのだらう。
 やつと雪崩こんで、舞臺に近く席を占めてから、.また小半時も、鐵道廳寄贈の鍛帳と睨めブくらだ。すぐ前の、藝妓や茶屋の女将をつれて來てゐる中年の男が、のべつ、くだらないことばかり喋り立て、ふた言目には、肩を叩くとか、頻ツべたをつヅ突くとか、膝へ手をかけて揺るとか、とかく肉體を接触させないと気がすまないらしく、気色を害することおぴたせしい。…」

 現在の「都おどり」は祇園甲部歌舞練場で毎年4月1日から30日まで開催されています。三人が「都おどり」を見たのは4月1日ですからピッタリの日だったわけです。都おどりが現在の歌舞練場に移ったのは大正2年です。それ以前の明治6年からは建仁寺塔頭清住院が歌舞練場として使われていました。当時の建仁寺塔頭清住院は花見小路沿いにあり、その後に現在地に移っています。ですから、志賀直哉(東京帝国大学卒業)、山内英夫(学習院在学中、里見ク)、木下利玄(東京帝国大学在学中)の三人が見た「都おどり」は花見小路沿いの建仁寺塔頭清住院で行われていたわけです。
<今日のルート>
・小林亭旅館→紺屋関(湖南汽船に乗船)→膳所の城跡→瀬田の唐橋→石山寺(下船)→三井寺(下船)→紺屋関(下船)→二葉亭(遅い昼食)→疏水(インクライン)→四条小橋の橘館→建仁寺塔頭清住院(都おどり)→四条小橋の橘館

写真は現在の祇園甲部歌舞練場です。当時の地図を掲載しておきます(演舞場と記載されている)。

 次回は立原道造の比叡山を歩きます!!



京都地図