●旅中日記 寺の瓦 其の六 <比叡山>
             【志賀直哉、木下利玄、山内英夫】
    初版2012年5月12日
    二版2012年5月16日 <V01L02> 下坂本の桟橋跡を追加 暫定版

 「旅中日記 寺の瓦 其の六<比叡山>」です。前回は明治41年3月30日の後半、京都国立博物館から三十三間堂、養源院、清水、高台寺、知恩院、南禅寺と廻った京都観光を掲載しました。今回は31日の比叡山登山です。ケーブルカーもロープウエーも無い頃ですから、白川口から徒歩で比叡山に登り、坂本に下りています。

 

【「旅中日記 寺の瓦」について】

 若き日の志賀直哉(東京帝国大学卒業)、山内英夫(学習院在学中、里見ク)、木下利玄(東京帝国大学在学中)の三人が明治四十一年三月から四月にかけて関西を旅した時に記した日記が、「旅中日記 寺の瓦」です。後の昭和十五年に里見クがあの甲鳥書林で「若き日の旅」として出版しています。又、原本の「旅中日記 寺の瓦」は昭和四十六年に中央公論社から出版されています。日時はかなり古いですが、旅行記としては非常に面白いので、この旅行記に沿って歩いてみました。




全 体 地 図



「二條大橋」
<二條橋>
 前日の明治41年3月30日、京都市内を一日掛けて徒歩で見物しています。その翌日に比叡山に徒歩で登ろうとするのですから本当に元気な若者達です。志賀直哉(東京帝国大学卒業)、山内英夫(学習院在学中、里見ク)、木下利玄(東京帝国大学在学中)の三人の若かりし頃のお話しの訳です。
 明治41年3月31日、この三人は三条小橋の旅館吉岡家から比叡山を目指します。
 里見クの「若き日の旅」からです。
「     七
 からりとはしないが、どうやら天気もち直す。茶代を置き、肩身廣く宿を出
たのが八時、今日は叡山登りだ。
 二條橋の欄干に倚りかゝつて、暫く友禅の布晒しを眺める。後年の客観歌人、木下は、かういふところでは、きまって根を生やして了ふ。
 学校街をぬけて、だんだん家竝が疎になると、しきりに大原女と行き合ふ。新京極あたりより、却って綺麗な女がゐる。或は、初めて生で見るこの装のゆゑに、もの珍しさが、特にさう思はせるのかも知れないが。…」

 三人が歩いた比叡山への道筋は、「若き日の旅」と「旅中日記 寺の瓦」から推測すると、
・三条小橋の旅館吉岡家→木屋町道り→二條大橋→鴨川左岸→荒神橋東詰→京都帝国大学正門前→(志賀越道)→地蔵谷→無動寺→根本中堂→本坂→坂本
ではなかったのかなとおもわれます。
 当時は明治41年ですからケーブルカーもロープウエイもありませんでしたので、すべて徒歩で歩いたと推測できます(当時は駕籠での登山もあったようです)。
「旅中日記 寺の瓦」からです。
「◎三月卅一日 京都より大津
〇二條の橋を渡ると清き瀬に友禅をさらして居る。川の中州〔洲〕には若草が萌黄に萌えて居て友禅の水紅色と相映じて居る。大學と高等學校の前を通って叡山詣の途にのぼる。大原女がぼつぼつ見える。宗近君と甲野さんが會話したのはこの邊かしらんと話しながら登つで行く。…」

 若い三人なので女性の話がでてきますね、その割には遊郭で遊んだというお話しは書かれていません。わざと書いていないのかはわかりません。”宗近君と甲野さん”とは夏目漱石の「虞美人草」の登場人物です。

写真は現在の二條大橋です。三人はこの二條大橋を渡り鴨川の左岸を荒神橋東詰まで行き、そこから右折して志賀越道に入ったとおもわれます。この志賀越道を900m歩くと京都帝国大学正門前です(反対側は第三高等学校正門)。そのまま志賀越道を歩き、地蔵谷で左折して山道にはいます。



京都地図



「虞美人草」
<虞美人草(夏目漱石)>
 三人は夏目漱石の「虞美人草」の話をしています。この小説は明治40年(1907)6月23日から10月29日まで、朝日新聞に連載された新聞小説です。ものすごく人気があったそうです。
 里見クの「若き日の旅」からです。
「…  白河口を、そろそろ山路へかゝる頃には、自然、漱石の「虞美人草」が話題になり、それへ好きな芝居が絡みついて、新派でやつたら、舊劇でやつたら、と、役の振當ての評定が始まる。高田の甲野、喜多村の藤尾、伊井の小野、河合の絲公、村田の宗近、木下の小夜子、── 舊役者と、なるとなかなかむづかしく、羽左衛門の甲野、高麗藏(幸四郎)の宗近、猿之助(先代)の「謎の女」あたりまで來て面倒臭くなり、話題が變る……。…」
 一年程前の新聞小説をしっかり読んで内容を把握しています。登場人物の名前を覚えているのには感心しました。”白河口”は”白川口”の間違いですね!
 夏目漱石の「虞美人草」からです。
「       一
「随分遠いね。元来どこから登るのだ」
と一人が手巾で額を拭きながら立ち留った。
「どこか己にも判然せんがね。どこから登ったって、同じ事だ。山はあすこに見えているんだから」
と顔も体躯も四角に出来上った男が無雑作に答えた。
 反を打った中折れの茶の廂の下から、深き眉を動かしながら、見上げる頭の上には、微茫なる春の空の、底までも藍を漂わして、吹けば揺くかと怪しまるるほど柔らかき中に屹然として、どうする気かと云わぬばかりに叡山が聳えている。
「恐ろしい頑固な山だなあ」と四角な胸を突き出して、ちょっと桜の杖に身を倚たせていたが、
「あんなに見えるんだから、訳はない」と今度は叡山を軽蔑したような事を云う。
「あんなに見えるって、見えるのは今朝宿を立つ時から見えている。京都へ来て叡山が見えなくなっちゃ大変だ」
「だから見えてるから、好いじゃないか。余計な事を云わずに歩行いていれば自然と山の上へ出るさ」……

「おい、君、甲野さん」と振り返る。甲野さんは細い山道に適当した細い体躯を真直に立てたまま、下を向いて
「うん」と答えた。
「そろそろ降参しかけたな。弱い男だ。あの下を見たまえ」と例の桜の杖を左から右へかけて一振りに振り廻す。
 振り廻した杖の先の尽くる、遥か向うには、白銀の一筋に眼を射る高野川を閃めかして、左右は燃え崩るるまでに濃く咲いた菜の花をべっとりと擦り着けた背景には薄紫の遠山を縹緲のあなたに描き出してある。
「なるほど好い景色だ」と甲野さんは例の長身を捩じ向けて、際どく六十度の勾配に擦り落ちもせず立ち留っている。
「いつの間に、こんなに高く登ったんだろう。早いものだな」と宗近君が云う。宗近君は四角な男の名である。…」

 夏目漱石の「虞美人草」を読んで興味を抱いた比叡山登山だったのでしょうか。また、高濱虚子も明治40年3月に国民新聞に連載された「叡山詣」を元にして「ホトトギス4月号」に「風流懺法」を掲載しています。

写真は新潮文庫版の「虞美人草」です。当時は比叡山観光が流行だったのかもしれません。 ただ、夏目漱石の「虞美人草」の登山ルートは白川口ではなくて、八瀬から延暦寺西塔に向かう松尾坂ルートでした。

「無動寺明王堂」
<無動寺>
 志賀越道(しがごえみち)は、京(京都)の七口である荒神口から、近江に至る街道です。無動寺に向かうには途中の地蔵谷から左折し山道に入ります。このルートは鳥居がいくつかあり、昔は無動寺への主要な参道だったとおもわれます。現在は、地獄谷から音羽川上流の合流点まで荒れ放題、道無き道という感じで、整備されておらす、慣れていないと迷います(昔は整備された道だったような痕跡はありました)。私はGPSを持っていたので何とかなりましたが初めての人は止めた方がいいとおもいます。又、お寺へのルートの鳥居はおかしいとおもったら、無動寺の中に大弁財天がありました。明治時代の神仏分離令以前の形態をそのまま維持しているようです。
 里見クの「若き日の旅」からです。
「… 初め、きらりと一線だけ見せた琵琶湖が、登るに従ってその面積を廣げて行く。無動寺も過ぎて、辨慶の力餅屋にひと憩みしてゐると、淺葱の衣を着た小僧さんが登って來て、茶店の婆さんと、ひと言ふたこと言葉を交はしで、そのまゝすたすた行って了ふ。今度は、虚子の「風流懺法」を思ひ出して、
「今の、一念さんぢやないかな」
「いや、それほど可愛らしい子でもなかったせ」
「婆さんに訊いてみようか」
「よせよせ、くだらない」
 「そオら、また隊長さんに叱られちゃった」…」

 上記に書かれている”辨慶の力餅屋”を探したのですが、よく分かりませんでした。”辨慶の力餅屋”というと三井寺となるのですが、比叡山にもあったようです。昭和初期の比叡山の地図で茶店を探すと、地蔵谷から根本中堂までは、無動寺手前の桜茶屋(現在は無い)、無動寺に茶屋(現在は無い)、根本中堂前に茶屋(現在もある)の三軒ありました。”辨慶の力餅屋”は上記の書き方からすると根本中堂前の茶屋かなとおもっています。ただ、”辨慶の力餅”はなく、”ごま大福”でした。

写真は現在の無動寺明王堂です(敷地が狭くて全体の写真が撮れませんでした)。千日回峰行の根拠地として有名です。この他に、弁天堂(鳥居がある)、大乗院が有名です。

「根本中堂」
<根本中堂>
 三人はやっと比叡山延暦寺根本中堂にたどり着きます。三人とも下駄で登ったようで、足はまめで酷かったのではないでしょうか。現在では到底考えられません。
 私もほぼ同じルートを辿ってみました。三条京阪からバスで地蔵谷まで乗り、そこから徒歩で無動寺経由根本中堂まで歩きました。計15.5Km、バスと合わせて3時間半掛かりました。
三条京阪(9:15比叡平行)→(バス)→地蔵谷(9:46)→(徒歩)→無動寺(12:12)→根本中堂(12:48)
途中、写真を撮りながら歩いたので少し時間が掛かりましたが、同じルートをすべて徒歩で歩くと、5〜6時間かかるのではないでしょうか。
 里見クの「若き日の旅」からです。
「… 根本中堂の、北側の屋根や、崕の蔭などには、だいぶまだ雪が残ってゐた。
 階段のあがりはなに机を据ゑ、たくさんの印が出しツばなしのまゝ、しんかんと、人気がない。
「もしもし、もしもし」
「お頼み申します」
 やっとのことで出て來たよぼよぼの老僧に、印を捺してくれと頼むと、勝手にお捺しなさい、ですぐ奥へ引ヅ込んで了ふ。「寺の瓦」のあちこちへ、十二の印をべたべた捺し、その気欒さの引き續きから、なんの気もなく内陣へはいって了つたが……。すっと、程経て後に聞けば、府知事や、こゝとは特別馴染の深い高濱虚子などでさへやかましく云はれるとか、知らぬが佛で、廷暦七年の開基以來、千百二十年間、油を注ぎ足し注ぎ足して、たヾの一度も消したことがないと云はれる常燈明の、ほの暗い火影に、耳が鳴りだすほどの静寂に、身うちの引き緊る冷たさに、やゝ暫く、三人、茫然として立ちつくしてゐた。
 (この時の、なんとも云ひやうのない戚じ、── 強ひて言葉にするなら、「底知れず深い安らげさ」は、永く私の心の、どこかの片隅にこびりついてゐたものとみえて、逗子と東京で、別れわかれにあの大震災に會ひ、妻子の安否を思ひ煩って、悶々の一夜を明すうち、萬が一にも、五人そっくり死んでゐたら、── その假想と同時に、いきなり眼前に彷彿として來たのがこゝだった、── 根本中堂の内陣だった……。)…」

 現在は観光客でいっぱいです。ケーブルカーは戦前から在りましたが、ドライブウエイが昭和33年に開通して便利になったのが一番の原因です。京都側からは八瀬からケーブル、ロープウエイを乗り継いでも、バスで10分、徒歩で30分歩かないと根本中堂にはたどり着きません。滋賀の坂本側からもケーブルがありますが、此方も少し歩かないとだめですので、やはり車が便利です。

 「旅中日記 寺の瓦」から同じ場面です。
「…今朝は茶代を置いたので大威張りで出で来てやった。根本中堂の印を押す處で一念さんは居るかと聞いた、志賀君がすまして 「何でも西久保の方に居た人で」などと云ふので可笑しかった。…」
 ”一念さん”は無動寺の項にも書かれていますが、高浜虛子の「風流懺法」に登場する小僧さんです。それにしても志賀直哉はユーモラスですね!!

高浜虛子の「風流懺法」からです。
「風 流 懺 法

      横  河

 今朝阪東君が出立するのを送られて和尚サンもあまり行けぬ口に山杯過ごされた。阪東君が出立した後で和尚サンは暫く火燵櫓に顎を乗せて居られたが、其内、「一寸一睡るりしますわ」とこりと横になられね。
 叡山の横河中堂の政所に余はもう四五日滞在してゐる。偶々京都に來た阪東君は昨日余を尋ねて登山して昨夜は和尚サンと三人枕を並べて寝たが、今朝東塔西塔を一見して無動寺から白川口に下つて京に歸る筈で出立した。余も明日は下山して阪東君と一両日京都で同遊することに約束したのである。
 横河は叡山の三塔のうちでも山番奥まってゐるので淋しい事も亦格別だ。二三町離れた……

と余は最中を三つやる。
「有難う」
と早速一つ頬ばる。余の飲みさして置いた茶碗の上に冷たい茶を注ぎ足して飲む。
 和尚サンは、
「ア、よく寝たこっちや」
と欠びをしながら起き上られる.
「一念、來てゐたか。お客様の邪魔をしてはいかぬぞ」
「邪魔なんかするものですか」            、
と手帳の上に和尚サンの欠びの圖を書いて顔中口にする。さうして其口から棒をひいて「一念キテイタカ・オ客サマノジヤマシテハイカヌゾ」と書いて、又耳から棒を引いて「コノ耳ウゴク」と書く。余は覚えず噴き出す。…」

 高浜虛子の「風流懺法」は比叡山延暦寺の横川でのお話しですので、根本中堂からは少し遠いです。歩くと大変です。

写真は現在の比叡山延暦寺根本中堂です。延暦寺は、滋賀県大津市坂本本町にあり、標高848mの比叡山全域を境内とする寺院です。延暦寺の名より比叡山、また叡山(えいざん)と呼ばれることが多いようです。平安京(京都)の北にあったので北嶺(ほくれい)とも称されています。平安時代初期の僧侶最澄(767年 - 822年)により開かれた日本天台宗の本山寺院です。「延暦寺」とは比叡山の山上から東麓にかけた境内に点在する東塔(とうどう)、西塔(さいとう)、横川(よかわ)など、三塔十六谷の堂塔の総称です。(ウイキペディア参照)

「鶴喜そば」
<坂本で、だいぶ晩い中食>
 その日の昼食のお話しです。三人は根本中堂を見学した後、坂本へ本坂を下っていったとおもわれます。根本中堂付近は現在は食事ができますが、当時は茶店しかなかったのではないかとおもわれます。坂本に下る本坂はかなり荒れた道になっています。昔は車も通れるくらいに綺麗に整地された道だったとおもうのですが、現在は酷いものです。滋賀県・大津市がメンテをするのか、延暦寺がするのか分かりませんが何とかしてほしいです。
 里見クの「若き日の旅」からです。
「… 坂本で、だいぶ晩い中食の後、桟橋へ駈けつけ、汽船に乗った。…」
 坂本に創業290年の蕎麦屋があります。あくまでも推定ですが三人はこの蕎麦屋で昼食をとったのではないでしょうか。

写真は現在の「鶴喜そば」です。本坂を坂本まで下りてそのまま参道を下って京阪電気鉄道石山坂本線の坂本駅手前を右に折れて直ぐにあります。角の「日吉そば」と間違わないでください。そばの写真も掲載しておきます。

「下坂本の桟橋跡」
<桟橋>
 2012年5月16日 下坂本の桟橋跡を追加
 坂本での三人の行動がよく分からなかったのですが、戦前の地図を参照したら理解できました。本坂から坂本の参道に出た後、坂本駅手前を右に曲がり「鶴喜そば」に入ります。坂本の参道は現在はJR比叡山坂本駅まで繋がっていますが当時は繋がっていませんでした。当時は鉄道が無くすべて船便でしたので、下坂本の桟橋までの道が本通りでした。「鶴喜そば」の前の道をそのまま500m程南に下り、左折して松ノ馬場駅前を通って真っ直ぐ琵琶湖まで出ます。出たところが下坂本の桟橋となります。
 里見クの「若き日の旅」からです。
「… 坂本で、だいぶ晩い中食の後、桟橋へ駈けつけ、汽船に乗った。鴨がたくさん浮いてゐる。動物好きの志賀は、暫くぢヅと見てゐたが、船が近づいて、ばツとたつ時、必ず二羽づゝ一緒で、おりるのも必ず同じところ、それが、ごちやごちやにたくさんゐるなかだらうと、初めツからのつれが、ほかのと取り變ることは絶對にない、といふ發見を、さも一大事のやうに私たちに披露し、その實例を示さうとして、話なかばにも、「ほオら、あすこあすこ」とか、「みゝ、またまた、あれもさうだ」などゝ、むきになって、あちらこちらへ指先を向ける。われわれも、「あゝ、ほんとだ」とか、「なアるほどね」とか、 ── この騒ぎに、近在の人らしい乗合などは、なんだ、馬鹿々々しい、と云はんばかりににやにやしてゐるが、なかには、何事が起ったかと、志賀の指先から、視線のもって行きどころを、一生けんめい索つてゐるやうな、いかにもおのぼりさんらしいおのぼりさんもあった。
 途中、唐崎の松へより、灯ともし頃、大津着…」

 坂本付近の鉄道駅は江若鉄道の叡山駅が開業したのが大正10年、現駅よりも大津京寄りの下坂本にあり、現在のJR比叡山坂本駅の場所には日吉駅がありました。坂本駅は琵琶湖鉄道汽船の坂本駅として昭和2年に開業、昭和4年に京阪電気鉄道石山坂本線となっています。(ウイキペディア参照)
<今日のルート>
・三条小橋の旅館吉岡家→木屋町道り→二條大橋→鴨川左岸→荒神橋東詰→京都帝国大学前→志賀越道経由→地蔵谷→無動寺→茶屋→根本中堂→本坂→坂本→鶴喜そば→下坂本の桟橋→船→唐崎の松→大津着
<距離>
・三条京阪←15.5Km(標高差約630m)→根本中堂←3.7Km(標高差約600m)→鶴喜そば←1.5Km→桟橋

写真は現在の下坂本の桟橋跡です。何も残っていません。

 次回は立原道造の比叡山を歩きます!!



坂本付近地図(昭和3年)



比叡山地図