●旅中日記 寺の瓦 其の五 <京都市内 (下)>
             【志賀直哉、木下利玄、山内英夫】
    初版2012年4月1日 <V01L01> 暫定版

 「旅中日記 寺の瓦 其の五<京都市内(下)>」です。前回は明治41年3月30日の四条大橋から方広寺までを掲載しました。今回は3月30日の後半、国立博物館から三十三間堂、養源院、清水、高台寺、知恩院、南禅寺と廻った京都観光を掲載します。

 

【「旅中日記 寺の瓦」について】

 若き日の志賀直哉(東京帝国大学卒業)、山内英夫(学習院在学中、里見ク)、木下利玄(東京帝国大学在学中)の三人が明治四十一年三月から四月にかけて関西を旅した時に記した日記が、「旅中日記 寺の瓦」です。後の昭和十五年に里見クがあの甲鳥書林で「若き日の旅」として出版しています。又、原本の「旅中日記 寺の瓦」は昭和四十六年に中央公論社から出版されています。日時はかなり古いですが、旅行記としては非常に面白いので、この旅行記に沿って歩いてみました。




全 体 地 図



「福眞亭跡」
<第二福眞亭に女義太夫を聞く>
 志賀直哉(東京帝国大学卒業)、山内英夫(学習院在学中、里見ク)、木下利玄(東京帝国大学在学中)の三人は、明治41年3月29日、京都三條小橋の吉岡家に到着後と翌日の夜に新京極をぶらついています。京都の新京極とは、東京で云う”浅草”、大阪で云う”道頓堀”です。関西での初めての繁華街であり、演芸では初めて見る物があったようです。
 里見クの「若き日の旅」からです。
「… 晩飯に、すぐきといふものが出る。こんなうまい漬物は食ったことがない、とひどく気に入って、遠慮がちに、お代りを申し入れると、たった二切しかつけてくれない。後日、志を得たらは、一遍、腹いっぱい食ってやらう、と思ふ。
 第二福眞亭に女義太夫を聞く。ちっとも面白くない。「隊長」や「木ノス」が、どうしてこんなものを好くのか、わけがわからないくらゐだ。…」

 ”すぐき”は京漬物のひとつで、カブの変種である酸茎菜(すぐきな、すぐきかぶらともいう)を原材料としています。現代の日本では数の少ない乳酸発酵漬物で、塩を使わず、まったく味付けをしない、調味なしの日本唯一の自然漬物ともいわれています。京都の伝統的な漬物(京漬物)のひとつであり、「柴漬」、「千枚漬」と並んで京都の三大漬物と言われています(ウイキペディア参照)。
 上記に書かれている”第二福眞亭”は、当時の新聞を見ると、劇場の名前では無くて、一座の名前のようです(京都日出新聞:第二福眞亭一座と書かれている)。劇場では第二福眞亭は無く、京極に”福眞亭”は見つけることが出来ました。
「旅中日記 寺の瓦」からです。
「…夜、第二福眞亭で女義太夫をきいた。柳の木やりのつれ引〔連弾〕がまあまあ面白かった。(木ノ)…」
 
【女義太夫(おんなぎだゆう)】
 女義太夫とは浄瑠璃の一種で、簡単にいえば、物語性を重視した声楽です。複数の登場人物の詞(ことば)、背景説明、情景描写、心理描写などをすべて表現する「語りもの」です。太夫1名と三味線1名で演奏されるのが基本ですが太夫と三味線も複数になることもあり、ほかに箏が加わることもあります。娘義太夫での三味線は、太棹と呼ばれる三味線のなかでもっとも大型で、かつ音域が低いものが用いられます。演奏は、劇場、寄席などにおいて、人形などの団体と合同の公演もありますが、多くの場合、人形/歌舞伎などが伴わない素浄瑠璃にておこないます。衣装は、夏は白、冬は白の着物に、大夫/三味線ともに揃いの肩衣と袴をつけておこなうのが決まりです。(ウイキペディア参照)

 前日の29日夜には”仁輪加(にわか)”を見ています。当時の新京極で”仁輪加(にわか)”を上演していた劇場は二館あり、どちらで見たかは不明です。一館は”大寅座(後の富士館)”でもう一館は”朝日座(後の天活倶楽部)”です。

【仁輪加(にわか)】
 仁輪加(にわか)とは、俄(にわか)と書き、江戸時代から明治時代にかけて、宴席や路上などで行われた即興の芝居です。仁輪加、仁和歌、二和加などとも書くことがあるようです(またの名を茶番(ちゃばん))。内容は歌舞伎の演目の内容を再現したものや、滑稽な話を演じるものがあったようです。路上で突然始まり衆目を集めたために、「にわかに始まる」という意味から「俄」と呼ばれるようになったと伝えられています。(ウイキペディア参照)

【新京極(しんきょうごく)】
 明治五年(1872)に京都府参事槇村正直によって作られた比較的新しい通りです。一つ隣の寺町通(寺町京極)に集まる寺院の境内が、縁日の舞台として利用されるようになり、人が多く集まったため、各寺院の境内を整理し、寺町通のすぐ東側に新しく道路を造ったのが新京極通のはじまりです。明治の中頃には見世物小屋や芝居小屋が建ち並び、現在の繁華街の原型ができでいます。(ウイキペディア参照)


写真は現在の新京極蛸薬師通り下ルです。右側の角に”福眞亭”がありました。”大寅座(後の富士館)”は新京極錦小路下ル、”朝日座(後の天活倶楽部)”は新京極蛸薬師通り上ルにありました。地図を参照して下さい。



京都地図



「京都国立博物館」
<博物館>
 三人は方広寺の大仏を見た後、直ぐ隣にある京都国立博物館を訪ねています。方広寺の大仏とは偉い違いです。
 里見クの「若き日の旅」からです。
「… 豊國神社をぬけて博物館。鳥(或は「止利」とも書く。)、定朝、空海、運慶、湛慶、繪では傳金岡の十二天、──國賓級もかうざらにあると、一々丁寧に見てはゐられない。「貧僧のかさね齋」とがつついてみたところで、味はわからず、消化れツこもないと、私は、なかば諦めた態で、反響の起り易い場内に、尻切れの竹草履を引きずって歩く。さすが後年の、「座右寶」の編者だけあって、志賀は、生々と眼を光らせながら、大きな陳列棚のなかを窺き廻っては、鼻息で硝子を翳らせてゐた。、…」
 京都国立博物館には良い作品が多いようです。それにしても建物がいいですね。外から眺めていても飽きません。じっくり一日掛けて見るのもいいとおもいます。

写真は現在の「京都国立博物館」です。工事中であまり綺麗ではありませんでした。

「三十三間堂」
<三十三間堂>
 京都国立博物館の南側前にあるのが三十三間堂です。三十三間堂の入口前に駐車場があり、非常に便利なお寺です。以前に「芥川龍之介の京都」で紹介した「わらじや」も直ぐ近くにあります。
 里見クの「若き日の旅」からです。
「… 次は三十三間堂、はいつたばかりの眼には、何が何やら見當もつかない暗がりに聲あって、「……後白河法皇の建立でございまして、今を去ること三百三十年、……(どうのかうのいろいろあって、)……右が五百×體、左が五百×髄、合せて千と×體、……(いろいろあって、)…‥の観世音でございます」
 これが、いやにモアンモアンと響き返ってゐる。承諾もなくやりだして、あとから案内料を請求する気か、なに、そんな手に乗るものかと、さっさとそいつの前を通り過ぎて、……だんだん馴れて來た眼に、斜の十列、丁度菊花壇くらゐの傾斜で、びヅしり立ち並んだ観音像の、金色の手足、光背、冠物などが、けむったやうに浮きあがる。やゝ明るい裏の廊下へ廻ると、運慶作と稱する二十八像がある。…」

 三十三間堂になって、書いている行数がかなり増えています。つまらないところは数行で飛ばしていますので、かなり印象が強かったのではないでしょうか!!(説明員の印象が強かっただけかも!!)。

写真は現在の三十三間堂です。中に入ってじっくり見られるのがいいとおもいます。三十三間堂の説明は省きます。あまりに有名なので!!

「養源院」
<養源院の血天井>
 三十三間堂の東隣にあるのが養源院です。三人がこの旅で血天井を見るのは二回目となります。一回目は宇治の”興聖寺”で見たはずです。”はず”なのは、興聖寺の項では血天井について書かれていませんでした。養源院の項で興聖寺について書かれているかとおもったのですが、記述はありませんでした。
 里見クの「若き日の旅」からです。
「… 養源院の血天井を見る。歴然たるこしらへもの。それより杉戸の、寺傳、法眼元信(現今では宗達と伝はれる。)の飛び獅子、見返り獅子がいゝ。…」
 血天井とは、関ヶ原の戦いの直前、伏見城の戦いで徳川家康の家臣鳥居元忠らが石田方に攻められ落城したときに鳥居元忠や家臣らが自刃した建物の血痕の残る床板が供養のために京都などの寺の天井に貼られたのを血天井といいます。天井に貼られたお寺は、養源院(京都市)、 宝泉院(京都市)、正伝寺(京都市)、源光庵(京都市)、興聖寺(宇治市)、天球院(京都市、妙心寺の塔頭)、神応寺(八幡市)、栄春寺(京都市)です(ウイキペディア参照)。

 「旅中日記 寺の瓦」から同じ場面です。
「…此所を出て、ドシャブリの中を養源院の血天井を見に行く、あの天井の廊下で、人の死むだといふ事實は疑はぬけれども、今残ってゐる、あの血のあと、其の死體のあとなどはアヤシイものである、疑ひもなく偽りであるといへよう。法眼元信筆、飛び獅子、兄かへり獅子 (杉戸へ) 及び象の繪は一寸注意を惹いた。…」
 天井の板は本物のようですが”血のあと”については信じていないようです。天井の板の色が経年変化で黒くなっており、私が見てもよく分かりませんでした。ただ、説明を聞いて、このところが”血のあと”と云われると、そうかなともおもってしまいます。

写真は現在の養源院です。血天井の写真を撮影しようとおもったのですが、撮影禁止でした。宇治の”興聖寺”は撮影できたので残念です。養源院の全体の写真を掲載しておきます。昔は左側の入口から入ったのではないかとおもいます(現在は右側の入口から入ります)。

「高台寺」
<高台寺>
 三人は養源院を見た後、清水に向かい、五條坂の上で昼食を済ませます。その後はまさに観光コースを歩いて行きます。当時は観光バスもないので、全て歩いています。かなりの距離ですから昔の人は健脚なわけです。
 里見クの「若き日の旅」からです。
「… 清水に向ひ、坂をあがりきったあたりの、おのぼりさん目あての安料理屋で午飯にする。まづい上に、誂へもしない品を、間違へたふりで、うやむやに押しっけて了はふとするなど、われわれのもつ「京都」の概念を損ふことおびただしく、不愉快だ。木下が、午前中に見て了ふ筈の清水、八坂神社、南禅寺などが午後にはみ出し、この分では、午後の金閣、銀閣など所詮むづかしからう、と、なかば獨語のやうにぶつぶつと云ってゐるのに、私は、憶えたでの上方辯、「ぼやく」といふのを早速利用して、
「さうまア、ぼやきなさんなよ」
「ほんとだよ。一體未ノは、とかくどうも、御見物主義、御参詣主義でいかんね。われわれの旅は、もつと瞬間主義でいつていゝんだ、── 何もさう窮屈に、一々日程どほりやらなくつたって……」
「それアさうだけど、折角來たもんなら、やっぱり、見られるだけは見たいものね」
「だから、見られるだけは見てるぢアないか。これ以上忙しく駈ずり廻つたところで、くたびれるだけでなんにもなりやアしないよ。……どうだね、山さんの御意見は」
「さうね。……一體、日程が少し慾張りすぎ.てたんぢアないのかい」
「だからさ、ちっとも、日程なんぞに抱泥る必要はないつて云ふんだよ。……
とにかく、今後は、御見物、御参詣主義はやめようぢやないか」
 清水の舞臺から、濡色の赤松の美しさに見惚れ、三年坂をおりて、高臺寺、八坂神社をぬけて、圓山公園にはいる頃には、雲は切れないが、どうやら降りやんでゐた。待望の舞妓が、四五人ひとつれに、手をつないだり、放したり、笑ひ聲をあげたり、だらりの帯に横揺れを見せて逃げたり、追ひさうにして急によしたり、まるでそこをわが家の如くに振舞ってゐる。…」

 志賀直哉(東京帝国大学卒業)、山内英夫(学習院在学中、里見ク)、木下利玄(東京帝国大学在学中)の三人が予定したルートと、実際に歩いたルートを記載します。
<当初予定>
・午前の予定:三条小橋→四條大橋→南座→花見小路→建仁寺→五条坂(骨董屋)→豊国神社(方広寺)→博物館→三十三間堂→養源院→清水寺→八坂神社→南禅寺→昼食(湯豆腐?)
・午後の予定:昼食(湯豆腐?)→永観堂→哲学の道→銀閣寺→(これからは推定)→下鴨神社→大徳寺→金閣寺→北野天満宮→三条小橋
<実際は>
・午前:三条小橋→四條大橋→南座→花見小路→建仁寺→五条坂(骨董屋)→豊国神社(方広寺)→博物館→三十三間堂→養源院→昼食(清水)清水寺
・午後:昼食(清水)→清水寺→高台寺→八坂神社円山公園知恩院南禅寺→三条小橋
 実際に見学すると時間が掛かります。最初の予定はやはり無理な予定でした。

 「旅中日記 寺の瓦」から同じ場面です。
「…ここを出て、清水寺へ向ふ。
途中で晝めしを食ふ、 マヅイ事此上なし。
清水の舞臺は明治座の書割とはソツクリ同じではなかった。
これから八坂神社、知恩院、南禅寺を廻り四時頃びしよぬれの足袋を三條小橋に脱ぐ。(志)…」

 知恩院辺りから雨はやんだようですが、朝からの雨で疲れたようで、四時には三条小橋の宿に戻っています。

写真は現在の高台寺です。実際に見学したところは写真を掲載しておきます。

 次回は比叡山に登ります!!