<第二福眞亭に女義太夫を聞く>
志賀直哉(東京帝国大学卒業)、山内英夫(学習院在学中、里見ク)、木下利玄(東京帝国大学在学中)の三人は、明治41年3月29日、京都三條小橋の吉岡家に到着後と翌日の夜に新京極をぶらついています。京都の新京極とは、東京で云う”浅草”、大阪で云う”道頓堀”です。関西での初めての繁華街であり、演芸では初めて見る物があったようです。
里見クの「若き日の旅」からです。
「… 晩飯に、すぐきといふものが出る。こんなうまい漬物は食ったことがない、とひどく気に入って、遠慮がちに、お代りを申し入れると、たった二切しかつけてくれない。後日、志を得たらは、一遍、腹いっぱい食ってやらう、と思ふ。
第二福眞亭に女義太夫を聞く。ちっとも面白くない。「隊長」や「木ノス」が、どうしてこんなものを好くのか、わけがわからないくらゐだ。…」
”すぐき”は京漬物のひとつで、カブの変種である酸茎菜(すぐきな、すぐきかぶらともいう)を原材料としています。現代の日本では数の少ない乳酸発酵漬物で、塩を使わず、まったく味付けをしない、調味なしの日本唯一の自然漬物ともいわれています。京都の伝統的な漬物(京漬物)のひとつであり、「柴漬」、「千枚漬」と並んで京都の三大漬物と言われています(ウイキペディア参照)。
上記に書かれている”第二福眞亭”は、当時の新聞を見ると、劇場の名前では無くて、一座の名前のようです(京都日出新聞:第二福眞亭一座と書かれている)。劇場では第二福眞亭は無く、京極に”福眞亭”は見つけることが出来ました。
「旅中日記 寺の瓦」からです。
「…夜、第二福眞亭で女義太夫をきいた。柳の木やりのつれ引〔連弾〕がまあまあ面白かった。(木ノ)…」
【女義太夫(おんなぎだゆう)】
女義太夫とは浄瑠璃の一種で、簡単にいえば、物語性を重視した声楽です。複数の登場人物の詞(ことば)、背景説明、情景描写、心理描写などをすべて表現する「語りもの」です。太夫1名と三味線1名で演奏されるのが基本ですが太夫と三味線も複数になることもあり、ほかに箏が加わることもあります。娘義太夫での三味線は、太棹と呼ばれる三味線のなかでもっとも大型で、かつ音域が低いものが用いられます。演奏は、劇場、寄席などにおいて、人形などの団体と合同の公演もありますが、多くの場合、人形/歌舞伎などが伴わない素浄瑠璃にておこないます。衣装は、夏は白、冬は白の着物に、大夫/三味線ともに揃いの肩衣と袴をつけておこなうのが決まりです。(ウイキペディア参照)
前日の29日夜には”仁輪加(にわか)”を見ています。当時の新京極で”仁輪加(にわか)”を上演していた劇場は二館あり、どちらで見たかは不明です。一館は”大寅座(後の富士館)”でもう一館は”朝日座(後の天活倶楽部)”です。
【仁輪加(にわか)】
仁輪加(にわか)とは、俄(にわか)と書き、江戸時代から明治時代にかけて、宴席や路上などで行われた即興の芝居です。仁輪加、仁和歌、二和加などとも書くことがあるようです(またの名を茶番(ちゃばん))。内容は歌舞伎の演目の内容を再現したものや、滑稽な話を演じるものがあったようです。路上で突然始まり衆目を集めたために、「にわかに始まる」という意味から「俄」と呼ばれるようになったと伝えられています。(ウイキペディア参照)
【新京極(しんきょうごく)】
明治五年(1872)に京都府参事槇村正直によって作られた比較的新しい通りです。一つ隣の寺町通(寺町京極)に集まる寺院の境内が、縁日の舞台として利用されるようになり、人が多く集まったため、各寺院の境内を整理し、寺町通のすぐ東側に新しく道路を造ったのが新京極通のはじまりです。明治の中頃には見世物小屋や芝居小屋が建ち並び、現在の繁華街の原型ができでいます。(ウイキペディア参照)
★写真は現在の新京極蛸薬師通り下ルです。右側の角に”福眞亭”がありました。”大寅座(後の富士館)”は新京極錦小路下ル、”朝日座(後の天活倶楽部)”は新京極蛸薬師通り上ルにありました。地図を参照して下さい。