●旅中日記 寺の瓦 其の五 <京都市内 (上)>
             【志賀直哉、木下利玄、山内英夫】
    初版2012年2月18日
    二版2012年4月2日 <V01L01> 五條坂を修正

 「旅中日記 寺の瓦 其の五」です。前回は明治41年3月29日の笠置から宇治を経由して京都泊までを掲載しました。今回は3月30日の京都観光を掲載します。観光する寺社仏閣の数が多くて、修学旅行並の観光スケジュールになっており、とても一回では掲載しきれないため数回に分けて掲載します。先ずは四条通りから花見小路、建仁寺経由、五條坂、豊国神社までです。

 

【「旅中日記 寺の瓦」について】

  若き日の志賀直哉(東京帝国大学卒業)、山内英夫(学習院在学中、里見ク)、木下利玄(東京帝国大学在学中)の三人が明治四十一年三月から四月にかけて関西を旅した時に記した日記が、「旅中日記 寺の瓦」です。後の昭和十五年に里見クがあの甲鳥書林で「若き日の旅」として出版しています。又、原本の「旅中日記 寺の瓦」は昭和四十六年に中央公論社から出版されています。日時はかなり古いですが、旅行記としては非常に面白いので、この旅行記に沿って歩いてみました。




全 体 地 図



「四條大橋」
<四條大橋>
 志賀直哉(東京帝国大学卒業)、山内英夫(学習院在学中、里見ク)、木下利玄(東京帝国大学在学中)の三人は、明治41年3月29日、京都三條小橋の吉岡家に宿泊しています。翌、30日は朝からの雨でしたが、三人は雨の中、京都観光にでかけます。先ずは三條小橋から木屋町通を四条まで下り、四條大橋を東に渡ります。(当時は河原町通りは細い路地で、木屋町通りがメイン通りでした。河原町通りが拡張されたのは昭和初期になります。)
 里見クの「若き日の旅」の宇治到着からです。
「…     五
 起きてみると雨。京見物に春雨は却って風情だ、とばかり、勇んで出かける。
 どうした加減か、志賀の洋傘の開閉が利かなくなり、傘屋にこよって直させようとしたが、待ってゐる間といふわけにいかす、預けて、私と相合傘で行く。旅先なればこそ、だ。四條大橋を渡り、南座の前で、ちょっと足を止め、花見小路へ、一力は表構を横眼で素通り、建仁寺をぬけて、…」

 三人の歩いた経路を辿ります。三人は三條小橋から木屋町通を四條小橋まで下り、四条通を東に向かいます。当時の四条通はまだ拡張されていませんでしたが、道幅は十数メートルあり、当時としては広かったほうだとおもいます。市電が祇園石段下(後の祇園停留所)まで開通したのは大正元年です。
「旅中日記 寺の瓦」からです。
「◎三月卅日 京都
 ○蚤は思つたより居なかった。
 午前雨の中、祇園、─××町、を通って、四條の芝居、─ これにて其音名古や〔屋〕 山三と、出雲のお國とが歌ブキ〔舞伎〕を初めたといふ跡を見て、建仁寺の境内をぬけ、大佛様を見る。…」

 三人は南座の前も通って眺めています。当時の南座は木造で、現在の南座は昭和4年に建てられたものです。元々四条通りを挟んで南北二座(北座、南座)がありましたが明治26年に北座が廃座して、南座だけになっています。

写真は現在の四條大橋です。四條大橋は何度か架け替えられており、三人が渡った明治40年当時の四條大橋は明治7年に架けられた鉄橋でした。大正2年に道路拡張でコンクリート橋に架け替えられ、さらに昭和17年に現在の橋が架けられました。



京都地図



「一力」
<一力>
 四条通りを南座の前を通って東に歩くと、右手に「一力」が見えてきます。「一力」は「仮名手本忠臣蔵七段目・祇園一力茶屋の場」で有名な御茶屋さんです。京都を訪れる有名文化人は必ず訪れるところです(夏目漱石、谷崎潤一郎など)。
 里見クの「若き日の旅」からです。
「…四條大橋を渡り、南座の前で、ちょっと足を止め、花見小路へ、一力は表構を横眼で素通り、建仁寺をぬけて、…」
 若い三人ではこの「一力」には到底入れませんね。一見の客はお断りですし、費用的には不可能だったとおもいます(有名になってからは訪ねたことはあるとおもいます)。この「一力」手前の小路が花見小路です。この路を300m強歩くとあるくと建仁寺です。建仁寺の中をまた250m程歩くと勅使門で八坂通りになります。勅使門は重要文化財で平教盛の館門(平重盛の館門とも)を応仁の乱後に移築したものと伝えられています。

【建仁寺(けんにんじ)】
 建仁寺は、京都府京都市東山区にある臨済宗建仁寺派大本山の寺院で山号を東山(とうざん)と号します。本尊は釈迦如来、開基(創立者)は源頼家、開山は栄西です。京都五山の第3位に列せられ俵屋宗達の「風神雷神図」、海北友松(かいほうゆうしょう)の襖絵などの文化財を豊富に所持しています。山内の塔頭としては、桃山時代の池泉回遊式庭園が有名であり、貴重な古籍や、漢籍・朝鮮本などの文化財も多数所蔵している両足院などがあります。また、豊臣秀吉を祀る高台寺や、「八坂の塔」のある法観寺は建仁寺の末寺です。寺号は「けんにんじ」と読みますが、地元では「けんねんさん」の名で親しまれています。(ウイキペディア参照)

写真は現在の「一力」と花見小路です。祇園の中では一番の観光地になっています。当時の四条通から撮影した一力の写真を掲載しておきます(狭い四条通りと右側に「一力」が見えます)。当時の「一力」は四条通側に入口があったようです。現在は花見小路側に入口があります。

「五條坂」
<五條坂>
 2012年4月2日 五條坂を修正
 花見小路から建仁寺を抜けて八坂通りに出ています。ここから大和大路通りを五條に抜けます。下記に”五條坂の骨董屋”と書かれており、現在の五條坂は大和大路五條から東に東山五條までと、そこから清水に抜ける道が五条坂と呼ばれています。五條坂の次は豊国神社に向かっているので、順路からすると大和大路を通るのが順当な道筋になります。(五條坂の範囲を修正しました)
 「旅中日記 寺の瓦」からです。
「… 五條坂の骨董屋で歌麿の繪を二人がはり出した、志賀君のは南国花火の三枚つゞき、山内君のは美人の半身、三枚の方は一圓、一枚のは六十錢と云つたのを値ぎつて八十錢と五十錢で買った迄は何の事もない、志賀君の心配はこれからである。博物館の椅子で開いたのを手始めとして、晝食をくつた清水の旗亭でも、三條の宿へ歸ってからも、「御相談もんですが、これはほんもんだらうかね」と山内君に相談して首をひねってあやしむが如く喜ぶが如く悲しむが如く要領を得ぬ表情をやって腹藝を演じてる、その不得要領の表情が今日の降ったり照ったりする天気に最よく調和してる。…」
 五條坂は五條大橋から東を指す意味でも使われているようなので、何処から五條坂かとおもいましたら、大和大路五條の交差点に”これよりひがし五條坂”の石碑がありました。比較的新しい石碑です。ですから、三人は建仁寺を抜けて八坂通りに出てから西の大和大路を南に五條通りまで来たものと考えます。その上で五條通り(五條坂)の骨董屋にはいったものと推定します。

【五條坂 (ごじょうざか)】
 五条通の東端部分の別名であり、東大路通(五条坂交差点)から清水寺へ向かって清水道(松原通の東端部分の別名)までの坂道を指します。また、五条大橋東詰(清水五条駅)から東大路通に掛けての五条通(国道1号)も含めた区間を指していう場合もあります。(ウイキペディア参照)

写真は現在の五條坂です。大和大路五條を少し東に上がったところです。骨董屋は無く、清水焼のお店がたくさんありました。骨董屋から焼物の店に変わったのかもしれません。

「豊國神社」
<豊國神社>
 三人は五條坂の骨董屋から豊国神社に向かいます。豊国神社は大和大路通りにあるので、この道筋が順当だとおもいます。三人が訪ねたのは豊国神社というよりは方広寺なですが、豊国神社のほうが有名で、方広寺は豊国神社の一部のように見えてしまいますので困ったものです。
 里見クの「若き日の旅」からです。
「…大佛の胸像、肯だけの仁王といふ、あまり結構でもない大佛殿を見てから、三突き一錢で、「国家安廉」の、あの有名な釣鐘へ、撞木をぶヅつけてみる。恰幅だけに、志賀が一番大きな音をさせ、次は、小男ながらも私、蒲柳の質である木下は、網にぶらさがり、撞木の括れに引きずられて、あぶなツかしくひよろけたりしてゐた。それをまた志賀が、「春雨の京に調和してゐる」などと評して口惜しがらせる。…」
 志賀直哉(東京帝国大学卒業)、山内英夫(学習院在学中、里見ク)、木下利玄(東京帝国大学在学中)の三人が方広寺を訪ねたころは、”旧大仏を模した1/10の木造半身像”がありました(昭和48年焼失)。当時の大仏の建物の写真が(正面の建物です、左側に小さく鐘楼が見えます)がありましたので掲載しておきます。燃えてしまってのは非常に残念です。(詳細は下記参照)

【豊国神社(とよくにじんじゃ)、方広寺(ほうこうじ)】
 豊国神社は、京都市東山区に鎮座する神社。豊臣秀吉を祀ります。主祭神が大名として統治した地である大阪市の大阪城公園(中央区)や滋賀県長浜市、石川県金沢市のほか、出身地の名古屋市中村区にも豊臣秀吉を祀る同名の神社があります。
 方広寺は、京都市東山区にある天台宗の寺院です。天正14年(1586)、秀吉により奈良・東大寺に倣った大仏殿の造営が開始され、文禄4年(1595)に完成します。東大寺の大仏より大きい18mの大きさであったといわれています。しかし慶長元年(1596)に地震により倒壊しています。その後豊臣秀頼により再建されますが、寛政10年(1798)に落雷による火災で焼失します。江戸時代の天保年間、焼失した旧大仏を模した1/10の木造半身像(肩より上、頭部のみ)が寄進されたが、昭和48年(1973)に失火による火災により焼失しています。豊臣氏当時ものとしては梵鐘が残っていますが、この鐘に刻まれた「国家安康」「君臣豊楽」の銘文(京都南禅寺の禅僧文英清韓の作)が徳川家康の家と康を分断し豊臣を君主とし、家康及び徳川家を冒瀆するものと看做され、大坂の役による豊臣家滅亡を招いたとされています。この鐘は重要文化財に指定されており東大寺、知恩院のものと合わせ日本三大名鐘のひとつになっています。
 豊国神社は豊臣秀吉の死去の翌年の慶長4年(1599)遺体が遺命により方広寺の近くの阿弥陀ヶ峰山頂に埋葬され、その麓に方広寺の鎮守社として廟所が建立されたのに始まります。この時、秀吉は東大寺の大仏に倣い、自身を八幡として祀るように遺言したが、結果として方広寺とは別の存在となり、別に神宮寺が建てられ、神号も大明神となっていました。後陽成天皇から正一位の神階と豊国大明神の神号が贈られ鎮座祭が盛大に行われています。しかし元和元年(1615)に豊臣宗家が滅亡すると、徳川幕府により方広寺の大仏の鎮守とするために廃絶され、大仏殿裏手に遷されています。神宮寺や本殿は残されましたが、それも後に妙法院に移されています。明治元年(1868)明治天皇が大阪に行幸したとき、秀吉を、天下を統一しながら幕府は作らなかった尊皇の功臣であるとして、豊国神社の再興を布告されます。明治6年(1873)別格官幣社に列格しています。明治13年(1880)方広寺大仏殿跡地の現在地に社殿が完成し、遷座が行われ、現在の様になりました。(ウイキペディア参照)

 「旅中日記 寺の瓦」から同じ場面です。
「…大佛様を見る。大佛様はBustだ、いたって御そ末なもので、前だけの後やぐら〔櫓〕組といつたやうなもので、門を守る仁王の首程も (此仁王が又首だけだから面白いぢやないか)それだけも價値のないへマなものだ。
其前に例の国家安康のメイ〔銘〕ある、狸めがいひがかりに使つたといふ鐘がある。一銭で三つツカセルといふハリ札がある。三人共ついて見る、志賀のは流石にからだだけの書は出して見せたが木下のは小さい山内のよりかへつて書が小さかった、シモク〔撞木〕のナワ〔縄〕へブラ下ってヒヨロケた姿はたしかに春雨の京に調和して居った。…」

 方広寺が有名なのは”国家安康の銘”がある鐘がからです。この鐘は明治初期まで鐘楼も無く地べたに置かれていました。江戸時代には鐘楼を造ることはできなかたのでとおもいます。明治になってやっと鐘楼ができ、現在のようになっています。三人は鐘楼ができてから訪ねています。

写真は現在の豊国神社です。方広寺は豊国神社に入って直ぐ左側にあります。”旧大仏を模した1/10の木造半身像”が建てられていたところは現在は駐車場になっています(鐘楼の東側)。現在の方広寺の写真を掲載しておきます(右側に「国家安康」が書かれている鐘楼、左側が現在の方広寺、正面の駐車場のところが”旧大仏を模した1/10の木造半身像”が建てられていたところです)。

 次回に続きます!!