<豊國神社> 三人は五條坂の骨董屋から豊国神社に向かいます。豊国神社は大和大路通りにあるので、この道筋が順当だとおもいます。三人が訪ねたのは豊国神社というよりは方広寺なですが、豊国神社のほうが有名で、方広寺は豊国神社の一部のように見えてしまいますので困ったものです。
里見クの「若き日の旅」からです。
「…大佛の胸像、肯だけの仁王といふ、あまり結構でもない大佛殿を見てから、三突き一錢で、「国家安廉」の、あの有名な釣鐘へ、撞木をぶヅつけてみる。恰幅だけに、志賀が一番大きな音をさせ、次は、小男ながらも私、蒲柳の質である木下は、網にぶらさがり、撞木の括れに引きずられて、あぶなツかしくひよろけたりしてゐた。それをまた志賀が、「春雨の京に調和してゐる」などと評して口惜しがらせる。…」
志賀直哉(東京帝国大学卒業)、山内英夫(学習院在学中、里見ク)、木下利玄(東京帝国大学在学中)の三人が方広寺を訪ねたころは、”旧大仏を模した1/10の木造半身像”がありました(昭和48年焼失)。
当時の大仏の建物の写真が(正面の建物です、左側に小さく鐘楼が見えます)がありましたので掲載しておきます。燃えてしまってのは非常に残念です。(詳細は下記参照)
【豊国神社(とよくにじんじゃ)、方広寺(ほうこうじ)】
豊国神社は、京都市東山区に鎮座する神社。豊臣秀吉を祀ります。主祭神が大名として統治した地である大阪市の大阪城公園(中央区)や滋賀県長浜市、石川県金沢市のほか、出身地の名古屋市中村区にも豊臣秀吉を祀る同名の神社があります。
方広寺は、京都市東山区にある天台宗の寺院です。天正14年(1586)、秀吉により奈良・東大寺に倣った大仏殿の造営が開始され、文禄4年(1595)に完成します。東大寺の大仏より大きい18mの大きさであったといわれています。しかし慶長元年(1596)に地震により倒壊しています。その後豊臣秀頼により再建されますが、寛政10年(1798)に落雷による火災で焼失します。江戸時代の天保年間、焼失した旧大仏を模した1/10の木造半身像(肩より上、頭部のみ)が寄進されたが、昭和48年(1973)に失火による火災により焼失しています。豊臣氏当時ものとしては梵鐘が残っていますが、この鐘に刻まれた「国家安康」「君臣豊楽」の銘文(京都南禅寺の禅僧文英清韓の作)が徳川家康の家と康を分断し豊臣を君主とし、家康及び徳川家を冒瀆するものと看做され、大坂の役による豊臣家滅亡を招いたとされています。この鐘は重要文化財に指定されており東大寺、知恩院のものと合わせ日本三大名鐘のひとつになっています。
豊国神社は豊臣秀吉の死去の翌年の慶長4年(1599)遺体が遺命により方広寺の近くの阿弥陀ヶ峰山頂に埋葬され、その麓に方広寺の鎮守社として廟所が建立されたのに始まります。この時、秀吉は東大寺の大仏に倣い、自身を八幡として祀るように遺言したが、結果として方広寺とは別の存在となり、別に神宮寺が建てられ、神号も大明神となっていました。後陽成天皇から正一位の神階と豊国大明神の神号が贈られ鎮座祭が盛大に行われています。しかし元和元年(1615)に豊臣宗家が滅亡すると、徳川幕府により方広寺の大仏の鎮守とするために廃絶され、大仏殿裏手に遷されています。神宮寺や本殿は残されましたが、それも後に妙法院に移されています。明治元年(1868)明治天皇が大阪に行幸したとき、秀吉を、天下を統一しながら幕府は作らなかった尊皇の功臣であるとして、豊国神社の再興を布告されます。明治6年(1873)別格官幣社に列格しています。明治13年(1880)方広寺大仏殿跡地の現在地に社殿が完成し、遷座が行われ、現在の様になりました。(ウイキペディア参照)
「旅中日記 寺の瓦」から同じ場面です。
「…大佛様を見る。大佛様はBustだ、いたって御そ末なもので、前だけの後やぐら〔櫓〕組といつたやうなもので、門を守る仁王の首程も (此仁王が又首だけだから面白いぢやないか)それだけも價値のないへマなものだ。
其前に例の国家安康のメイ〔銘〕ある、狸めがいひがかりに使つたといふ鐘がある。一銭で三つツカセルといふハリ札がある。三人共ついて見る、志賀のは流石にからだだけの書は出して見せたが木下のは小さい山内のよりかへつて書が小さかった、シモク〔撞木〕のナワ〔縄〕へブラ下ってヒヨロケた姿はたしかに春雨の京に調和して居った。…」
方広寺が有名なのは
”国家安康の銘”がある鐘がからです。この鐘は明治初期まで鐘楼も無く地べたに置かれていました。江戸時代には鐘楼を造ることはできなかたのでとおもいます。明治になってやっと
鐘楼ができ、現在のようになっています。三人は鐘楼ができてから訪ねています。
★写真は現在の豊国神社です。方広寺は豊国神社に入って直ぐ左側にあります。”旧大仏を模した1/10の木造半身像”が建てられていたところは現在は駐車場になっています(鐘楼の東側)。
現在の方広寺の写真を掲載しておきます(右側に「国家安康」が書かれている鐘楼、左側が現在の方広寺、正面の駐車場のところが”旧大仏を模した1/10の木造半身像”が建てられていたところです)。
次回に続きます!!