●旅中日記 寺の瓦 其の四 【志賀直哉、木下利玄、山内英夫】
    初版2012年2月4日 <V01L02> 暫定版

 「旅中日記 寺の瓦 其の四」です。前回は明治41年3月28日の伊賀上野から月ヶ瀬を経由して笠置泊までを掲載しました。今回は3月29日の笠置から宇治、京都を掲載します。三人は修学旅行もどきで、現在と変わらない宇治の観光地を巡っています。明治も平成もさほど変わらないと云うことですね!

 

【「旅中日記 寺の瓦」について】

  若き日の志賀直哉(東京帝国大学卒業)、山内英夫(学習院在学中、里見ク)、木下利玄(東京帝国大学在学中)の三人が明治四十一年三月から四月にかけて関西を旅した時に記した日記が、「旅中日記 寺の瓦」です。後の昭和十五年に里見クがあの甲鳥書林で「若き日の旅」として出版しています。又、原本の「旅中日記 寺の瓦」は昭和四十六年に中央公論社から出版されています。日時はかなり古いですが、旅行記としては非常に面白いので、この旅行記に沿って歩いてみました。




全 体 地 図



「宇治駅」
<宇治駅>
 志賀直哉(東京帝国大学卒業)、山内英夫(学習院在学中、里見ク)、木下利玄(東京帝国大学在学中)の三人は、明治41年3月29日、関西本線の笠置から宇治に向かいます。大正元年9月の時刻表では笠置発8時42分、9時38分と二本ありますが、8時22分に乗車したものとおもわれます。(明治40年に関西鉄道は国有化されており、それ以前の時刻表は使えませんので、それ以降で入手可能な時刻表です)。宇治に向かうには関西本線から木津で京都線に乗換えなければなりません。木津着8時54分で、9時10分発の京都行きに乗換えます。宇治着9時45分となります(一本遅い列車でも11時1分着です)。名古屋や月ヶ瀬、笠置とは違う、本格的な観光地?巡りが始まります。
 里見クの「若き日の旅」の宇治到着からです。
「… 豫定どほり宇治で下車。平等院、宇治上神社、興聖寺、黄檗山と見めぐる。
繪や彫刻はともかくも、関東に育って、美しい自然のなかに、いゝ建物をしみじみ見たことのない私には、新たに一つの視界が展けて來たやうで、嬉しさ、樂しさ以上、何か、胸がわくわくしたり、ほっと溜息が洩れたりするやうな気拝だった。…」

 志賀直哉以外は初めての関西旅行だとおもいますので、”胸がわくわく”する気持ちはよくわかります。特に明治時代では、今のように簡単に旅行ができるわけでも無かったとおもいますので、胸の高鳴りはいかほどであったか、想像がつかないくらいです。

写真は現在の宇治駅です。JR京都線は元々は私鉄の奈良鉄道でしたが、明治38年に関西鉄道に買収され、明治40年には国有化されます。因みに京阪の宇治駅は大正2年の開業です。(古い駅舎の写真が入手できませんでした)



宇治付近地図



「平等院」
<平等院>
 宇治に着いて最初に訪ねたのが平等院です。駅から一番近い観光地が平等院なわけです。
 里見クの「若き日の旅」からです。
「 …わかりいゝせゐもあるだらうが、なかでも鳳凰堂の、どこに一つ實用的な要素のない點に恐れ入った。…」
 平等院を初めて見ると、屋根と柱だけで壁も何も無いのでびっくりします。どう見ても実用的には見えません。関東人から見ると、効率的な建物とは到底見えません。京の雅を理解するのは大変です。

【平等院(びょうどういん)】
 平等院は、京都府宇治市にある藤原氏ゆかりの寺院です。平安時代後期(11世紀)の建築、仏像、絵画、庭園などを今日に伝え、「古都京都の文化財」として世界遺産に登録されています。山号を朝日山と称します。宗派は17世紀以来天台宗と浄土宗を兼ねていましたが、現在は特定の宗派に属さない単立の仏教寺院となっています。
 京都南郊の宇治の地は、『源氏物語』の「宇治十帖」の舞台であり、平安時代初期から貴族の別荘が営まれていました。現在の平等院の地は、9世紀末頃、光源氏のモデルとも言われる左大臣である嵯峨源氏の源融(みなもと の とおる)が営んだ別荘だったものが宇多天皇に渡り、天皇の孫である源重信を経て長徳4年(998年)、摂政藤原道長の別荘「宇治殿」となったものです。道長は万寿4年(1027年)に没し、その子の関白藤原頼通は永承7年(1052年)、宇治殿を寺院に改めます。これが平等院の始まりです。(ウイキペディア参照)

 「旅中日記 寺の瓦」からです。
「… ◎三月廿九日 笠置より京都
○笠置館を八時出發。茶代をやらなかったもので白眼視しやがった、さもしいものだ。(どっちがさもしい)
宇治を見る、鳳凰堂は大きいといふ所は皆無だけれども、いかにも、ヌケ目なくつりやいよく出来てゐる、しかもそれに實用的の所がないのがよろしかった。……
…○泰西建築の要素の第一は「力」であると云ふ、又 「ゴルデネ シユニット」(三、五、八切り)の法を尊む、この見地からすると鳳凰堂の價はゼロになる、然し日本の建築の要素となって来た雅味とか繊巧とか云ふ點から見たら立派なものであらう。特に屋根のカーブは餘程面白いと思った。…」

 上記に書かれている”泰西”とは”西の果て”の意味で、”西洋”のことになります。「ゴルデネ シユニット」の意味がよく分かりません。ドイツ語だとおもうのですが?、何方か分かる方がいらっしゃいましたらご教授願います。

写真は現在の平等院です。絵はがきも、十円玉も正面だったので、横から撮影してみました。柱ばかりなのがよくわかります。

「宇治上神社」
<宇治上神社>
 平等院の次に訪ねたのが宇治上神社です。平等院からは宇治川に架かる宇治橋を越えていきます。宇治川の反対側に向かいます。宇治川の右岸は宇治上神社、興聖寺、黄檗山萬福寺と古い建築物が有名なのですが、近代の建築物として宇治上神社と興聖寺の間に宇治発電所(水力)が大正2年に完工しており、当時の建物がそのまま残っています。工事着手が明治41年12月なので、三人が訪ねた少し後になります。
 里見クの「若き日の旅」からです。
「…  豫定どほり宇治で下車。平等院、宇治上神社、興聖寺、黄檗山と見めぐる。
繪や彫刻はともかくも、関東に育って、美しい自然のなかに、いゝ建物をしみじみ見たことのない私には、新たに一つの視界が展けて來たやうで、嬉しさ、樂しさ以上、何か、胸がわくわくしたり、ほっと溜息が洩れたりするやうな気拝だった。…」

 この宇治上神社を訪ねてみると、”本当に古い神社だな”とすぐにわかります。建物が何ともいえず古いのです。この感覚は訪ねて見てみないとわからないとおもいます。特に本殿はとてもすてきな建物です。

【宇治上神社 (うじがみじんじゃ)】
 創建年代などの起源ははっきりしていないようです。すぐ下に宇治神社があり、明治維新前は両方を合わせて宇治離宮明神、八幡社と呼ばれ、宇治神社を下社・若宮とするのに対して、宇治上神社は上社・本宮と呼ばれています。『延喜式神名帳』には「山城国宇治郡 宇治神社二座」とあり、それぞれ宇治神社・宇治上神社を指しているようです。近くに平等院ができるとその鎮守社とされています。2004年2月、奈良文化財研究所や宇治市などの年輪年代測定調査によれば、本殿は1060年頃のものとされ、現存最古の神社建築であることが裏付けられるとともに、1052年創建の平等院との深い関連性が考えられています。(ウイキペディア参照)

写真は現在の宇治上神社の鳥居です。この奥に本殿があります。宇治神社はこの宇治上神社の下にあります。此方はそんなに古くは感じません。

「興聖寺」
<興聖寺>
 興聖寺についてはあまり知識がなかったのですが、今回かなり勉強しました。一度道元によって深草に宝林禅寺(興聖寺)を開創していますが、荒廃し廃寺しています。その後の慶安2年(1649)、淀城主の永井尚政が現在地に復興したのが現在の興聖寺です。
 里見クの「若き日の旅」からです。
「… 興聖寺の、爪先あがりの石甃道をなかば登ってから、振り返ると、山門を額縁に、川面ばかり、縦長の畫幅に切り放つて眺められる、これにもひどく成心したが、歸京の後、瀧博士の著書に、ちゃんとその點が推賞されてゐるのを讀んで、ひそかに意を強うしたことだった。
 花曇りに、時々陽の直射が消え、そのために一静、麥の青と、菜種の黄とが鮮かさを増したりするやうな、白く乾いた街道を歩きながら、木下が、胸のうちに、半分もう文章になりかゝつてゐるかと息はれるもの云ひで、 「大體、鳳凰堂は日本趣味だから、これに調和する木は櫻だね、それも一重さ。
反對に、支那趣味の黄檗は、どうしたって松だよ。實際また、たくさん生えでもゐたしね。そこでだ、興聖寺には何がいゝか、といふ問題なんだが、あの、白い砂に……」
 「木蓮かな」
「ところが、僕は、牡丹だと思ふんだ」
「いや、絶対に木蓮だね」
 例の意固地になりかけた志賀が、ふと笑ひだして、「ところで、實際には、何があったらう」
「いろんなものがあつたやうだな。たや、牡丹も木蓮もなかったことだけは慥だ」
 小賢しく立廻って、私がそんなことを云った。
「要するに……」
「また、どっちでもいゝ、と来るかね」…」

 興聖寺は上記にも書かれていますが、山門を入って少し登ったところから振り返ると、山門を額縁にして宇治川の流れを見ることができます。私も振り返って見たのですが、里見クほどには感激しませんでした。残念!!

 「旅中日記 寺の瓦」から同じ場面です。
「…こゝに書き洩らされてゐる興聖寺の山門内、琴坂といふ緩い坂道の途中、少し行ってから振り返って見ると、宇治川の流れだけが、ほかになんにも交へず、まるで山門を額縁にしたやうに、くっきりと現はれる。その見方に気づいたのは (志) で、大得意だった。それなのに、どうしたわけかなんらの記録も残されてゐない。つい先頃(四十五年四月)、六十年ぶりに再遊したところ、門の中央よりやゝ左よりにかなり太い木の幹がはいつてゐて、流ればかりといふわけにいかなかった。歸京後、志賀にその由を告げたところ、「さうかなア」とやはり、全然おぼえがない様子だったが、そのあとの感想がなかくよかった。……「記憶なんてものも、永年のうちには、自分に都合のい1やうに、だんだん變って行くかも知れないね」と。。…」
 感激しないとだめなようです。琴坂の途中から撮影した写真を掲載します。周りの木々が多くて、コントラストが強く、なかなかきれいな写真が撮れませんでした。

写真は現在の興聖寺石門(総門)です。この道を上がっていくと三門本堂になります。この興聖寺はもう一つ有名な物がありました。血天井です。三人も血天井を見たはずなのですが、書かれていませんでした(血天井については、この後の”養源院の血天井”で登場します)。

「黄檗山萬福寺総門」
<黄檗山>
 宇治で最後に訪ねたのが黄檗山萬福寺です。ご存知の方は多いとおもいますが、普通のお寺とは雰囲気が違います。中国様式ですべて建てられています。門前に立ったときに”あれ〜”何か違うとおもいます。
 「旅中日記 寺の瓦」からです。
「…萬福寺に行った時は空腹の極點に達して居たのでぼんやりしてよく分らなかつたが上品な朱の色、清い縁ショウ(ショウと云ふ字を聞くと木ノ君は青と云ふ字だらうと云ふ、志賀君は奨と云ふ字だらうと云ふ、僕がサビと云ふ字ぢやないかと云つて其字を聞くと志賀君がすまして 「カタナのサビと云ふ字かい」 と云ふ) の色、支那の様子をした四天王の像など面白かった。…」
 それにしても、三人は感性が鋭いです。当時の超エリートである東京帝国大学生ですがから、当然かもしれません。昼食はどこで食べたか書いていませんが、我慢してこの萬福寺までたどり着いているので、ひょっとしたら、この寺の普茶料理を食したのかもしれません。

【萬福寺(まんぷくじ)】
 萬福寺は、京都府宇治市にある黄檗宗(おうばくしゅう)大本山の寺院。山号は黄檗山、開山は隠元隆g(いんげんりゅうき)、本尊は釈迦如来です。日本の近世以前の仏教各派の中では最も遅れて開宗した黄檗宗の中心寺院で、中国・明出身の僧隠元を開山に請じて建てられました。建物や仏像の様式、儀式作法から精進料理に至るまで中国風で、日本の一般的な仏教寺院とは異なった景観を有しています。
 黄檗宗大本山である萬福寺の建築、仏像などは中国様式(明時代末期頃の様式)でつくられ、境内は日本の多くの寺院とは異なった空間を形成しています。寺内で使われる言葉、儀式の作法なども中国式です。本寺の精進料理は普茶料理と呼ばれる中国風のもので、植物油を多く使い、大皿に盛って取り分けて食べるのが特色です。

左上の写真が現在の黄檗山萬福寺の総門です。見るからに中国風です。総門の次が三門天王殿大雄寶殿(「だいおうほうでん」と読み、本堂のこと)、法堂(「卍くずし」の勾欄(「こうらん」と読み、欄干のこと)が美しい)と続きます。他に齋堂(食事をする所)等があります。なかなか見応えがありますので見学されることをお勧めします。

「七條停車場」
<京都の停車場>
 黄檗山萬福寺を見学した後、予定では醍醐寺を訪ねるつもりだったようですが、時間が無かったのか直ぐ京都に向かいます。醍醐寺も庭等がいいので訪ねなかったのが残念です。
 ここでは里見クの「若き日の旅」からです。
「…京都の停車場へ着いた時は 「吾々の舞臺だ」 と云ふ様な気がした、電車に乗った時も嬉しかった、三條小橋で下りた時は日も暮れて居た、地下室(志賀君は二度目の部屋だ相だ)に入れられたが、暫くの間にノミが五六匹隠見出没の藝當をやった、或る時は手の甲から火鉢を飛び越し或る時は頭の上から火鉢の灰の中へ落ちる。
要するに「京都の感じ」は餘りよくない。…」

 此処では三人のスケジュールを追ってみたいとおもいます。あくまでも推定です。
・8時22分:笠置駅発
・9時45分:宇治駅着
・10時00分〜14時00分:平等院、宇治上神社、興聖寺見学
・14時00分〜14時30分:徒歩、宇治橋〜萬福寺(2.5Km)
・14時30分〜16時00分:黄檗山萬福寺、昼食
・16時00分〜16時20分:徒歩、黄檗山萬福寺〜木幡駅(1.5Km)
・16時54分:木幡駅発(15時53分発に乗り遅れた?)
・17時17分:京都着、三条小橋の宿着は18時過ぎ頃(当時の日の入りは18時15分)
 黄檗駅は昭和36年開業で当時はありませんでした。ですから京都線宇治駅の次駅の木幡駅まで歩いたとおもわれます。

左上の写真は明治10年に造られた七條停車場(京都駅)です。大正3年に改築されていますが、志賀直哉(東京帝国大学卒業)、山内英夫(学習院在学中、里見ク)、木下利玄(東京帝国大学在学中)の三人が下りた京都駅は写真の七條停車場になります。

「旅館吉岡家」
<三條小橋の宿>
 明治41年3月29日夕方、日も暮れた頃に三條小橋の宿に到着しています。当時の日の入りの時刻を計算してみると、18時15分ですから、ほぼこの時刻に到着したものとおもわれます。
 ここでは里見クの「若き日の旅」からです。
「… 夕方、三條小橋の宿に着く。志賀は、前にも一度泊ったことのある宿屋の由、おまけに偶然その時と同じ部屋に案内される。はいり口の平面から云へば地下室だが、そこの出窓に倚ると、高瀬川が三四尺下を流れてゐ、対岸の電車や、橋の上の通行人は、またよほどの上眼使ひに見あげなければならない、といふ、まるで石垣の隙間の、蟹の住居のやうな部屋だ。──もの珍しく、私は、欄干に肘を托して、暮れ行く三條の、蟹仰圖を楽しむ。…」
 この時点では、宿屋の名前は分からなかったのですが、大津の項で、”宿屋は吉岡屋で紹介してくれた小林と云ふのにした。”とあり、三條小橋の宿屋の名前が分かりました。三條小橋の宿というと、三條万屋が有名ですが、庶民的な旅館としては旅館吉岡家だったのだとおもいます。

左上の写真が昭和初期とおもわれる三條小橋の旅館吉岡家です。左端に自動車が写っているので昭和初期と推定しました。現在の写真も掲載しておきます(雨の日であまりきれいな写真ではありません)。三人が七條停車場から三條小橋まで乗った電車は、私鉄の京都電気鉄道、木屋町線です。木屋町線は京都市に京都電気鉄道が買収後の昭和初期に総て廃止されています。細い木屋町通りを電車が走るのは無理だったとおもいます。当時の四條木屋町上ル付近の絵はがきを掲載しておきます。



京都市内地図 -1-