<伊賀上野駅>
志賀直哉(東京帝国大学卒業)、山内英夫(学習院在学中、里見ク)、木下利玄(東京帝国大学在学中)の三人は、半日の名古屋市内見学を終え明治41年3月27日、名古屋発13時40分の関西本線で伊賀上野に向かいます。大正元年9月の時刻表には13時40分発は鳥羽行でした(明治40年に関西鉄道は国有化されており、それ以前の時刻表は使えませんので、それ以降で入手可能な時刻表です)。亀山で湊町行に乗換えて上野着は17時1分です。伊賀上野は伊賀上野城、松尾芭蕉、鍵屋の辻が観光地なのですが、宿泊だけで観光はしていないようです。
里見クの「若き日の旅」の伊賀上野に到着からです。
「 三
静な、薄ら寒い夕方、田舎道を急ぐ。後年、直木三十五に名聲や稿料を提供した鍵屋の辻など、ひとに訊かうにも、どだいこっちが知らないのだから、人力や荷車の梶棒に繋がれて、骨惜みを知らないむきさで、前挽きを勤めてゐる筋骨逞しい犬どもを、もの珍しく、またいくぶん哀なものに眺めやりながら、靄の棚引く畑中の道を行き盡きで、やがて、白壁の家々を載せた丘へ、だらだら坂を登ったりする時、漠然とながら、「いかにも伊賀の上野だ」といふやうな威懐が滲み込んで來る……。
(この時、この地に於いて、本書の出版元、甲鳥書林の矢倉年君は、生後一ヶ年、いまだ母上の乳房にむしゃぶりついてゐたとは、神ならぬ身の、お互に知るよしもなかったのである。)
仝旅程中で一番の、ひどい商人宿、── といふとまだしも聞えがいゝが、眞實正銘の木賃宿、近江屋とて、今はなくなった由、そこにまだ眞新しい朴歯を脱ぐ。風呂がないから、錢湯へ案内しようと云ふのを断って、前夜の寝不足と疲れで、早く床へはいったが、忽ちもぞもぞもぞもぞと、ひどい蚤だ。志賀は、創案の、キャラコの大袋にすっぽりと體を入れ、巾着纈りに首ツ玉で締めて、さア、夜具の汚れだらうと蚤だらうと、ならば手柄に寄ってみろ、と云はんばかりの得意顔で、──
存外こんなことには神経質でない木下もそれに續いで、間もなくぐうぐう鼾をかき始めたが、取り残されると、私はなほぢりぢりしだして、枕の變りが気になったり、襖一重の隣室の話聾が耳についたり、輾轉反側し、自棄になって體中ぼりぼり掻くうちに、いつかそれでも寝入ったとみえる……。…」
上記には駅から”だらだら坂を登った”と書かれていますので、宿はお城の付近だとおもわれます。宿屋の近江屋については場所が分かりませんでした。もう少し調べてみます。
「鍵屋の辻」は有名です。現在は記念碑と茶店があります。現在の記念碑の写真と戦前の記念碑の絵はがきを掲載しておきます。茶店は昔と今で道路の反対側に移っていますので、現在の茶店の写真と、昔の茶店の絵はがきを掲載します。
【鍵屋の辻の決闘(かぎやのつじのけっとう)】
「鍵屋の辻の決闘は、寛永11年11月7日(1634年12月26日)に渡辺数馬と荒木又右衛門が数馬の弟の仇である河合又五郎を伊賀国上野の鍵屋の辻で討った事件。伊賀越の仇討ちとも言う。曾我兄弟の仇討ちと赤穂浪士の討ち入りに並ぶ日本三大仇討ちの一つ。」
★写真は現在の伊賀上野駅です。関西本線は元々は関西鉄道という私鉄でしたが明治40年に国有化されます。国有化後は大阪−名古屋は東海道線がメインとなり、関西本線は寂れます。