●旅中日記 寺の瓦 其の三 【志賀直哉、木下利玄、山内英夫】
    初版2012年1月28日 <V01L02> 暫定版

 「旅中日記 寺の瓦 其の三」です。前回は熱田神宮、大須観音を中心に熱田駅から名古屋駅まで掲載しました。今回は明治41年3月27日午後の名古屋発から29日にかけての伊賀上野、月ヶ瀬、笠置を掲載します。三人は名古屋から奈良、京都へは直接向かわず、どういう訳か伊賀上野に向かいます。

 

【「旅中日記 寺の瓦」について】

  若き日の志賀直哉(東京帝国大学卒業)、山内英夫(学習院在学中、里見ク)、木下利玄(東京帝国大学在学中)の三人が明治四十一年三月から四月にかけて関西を旅した時に記した日記が、「旅中日記 寺の瓦」です。後の昭和十五年に里見クがあの甲鳥書林で「若き日の旅」として出版しています。又、原本の「旅中日記 寺の瓦」は昭和四十六年に中央公論社から出版されています。日時はかなり古いですが、旅行記としては非常に面白いので、この旅行記に沿って歩いてみました。





「伊賀上野駅」
<伊賀上野駅>
 志賀直哉(東京帝国大学卒業)、山内英夫(学習院在学中、里見ク)、木下利玄(東京帝国大学在学中)の三人は、半日の名古屋市内見学を終え明治41年3月27日、名古屋発13時40分の関西本線で伊賀上野に向かいます。大正元年9月の時刻表には13時40分発は鳥羽行でした(明治40年に関西鉄道は国有化されており、それ以前の時刻表は使えませんので、それ以降で入手可能な時刻表です)。亀山で湊町行に乗換えて上野着は17時1分です。伊賀上野は伊賀上野城、松尾芭蕉、鍵屋の辻が観光地なのですが、宿泊だけで観光はしていないようです。
 里見クの「若き日の旅」の伊賀上野に到着からです。
「     三

 静な、薄ら寒い夕方、田舎道を急ぐ。後年、直木三十五に名聲や稿料を提供した鍵屋の辻など、ひとに訊かうにも、どだいこっちが知らないのだから、人力や荷車の梶棒に繋がれて、骨惜みを知らないむきさで、前挽きを勤めてゐる筋骨逞しい犬どもを、もの珍しく、またいくぶん哀なものに眺めやりながら、靄の棚引く畑中の道を行き盡きで、やがて、白壁の家々を載せた丘へ、だらだら坂を登ったりする時、漠然とながら、「いかにも伊賀の上野だ」といふやうな威懐が滲み込んで來る……。
 (この時、この地に於いて、本書の出版元、甲鳥書林の矢倉年君は、生後一ヶ年、いまだ母上の乳房にむしゃぶりついてゐたとは、神ならぬ身の、お互に知るよしもなかったのである。)
 仝旅程中で一番の、ひどい商人宿、── といふとまだしも聞えがいゝが、眞實正銘の木賃宿、近江屋とて、今はなくなった由、そこにまだ眞新しい朴歯を脱ぐ。風呂がないから、錢湯へ案内しようと云ふのを断って、前夜の寝不足と疲れで、早く床へはいったが、忽ちもぞもぞもぞもぞと、ひどい蚤だ。志賀は、創案の、キャラコの大袋にすっぽりと體を入れ、巾着纈りに首ツ玉で締めて、さア、夜具の汚れだらうと蚤だらうと、ならば手柄に寄ってみろ、と云はんばかりの得意顔で、── 存外こんなことには神経質でない木下もそれに續いで、間もなくぐうぐう鼾をかき始めたが、取り残されると、私はなほぢりぢりしだして、枕の變りが気になったり、襖一重の隣室の話聾が耳についたり、輾轉反側し、自棄になって體中ぼりぼり掻くうちに、いつかそれでも寝入ったとみえる……。…」

 上記には駅から”だらだら坂を登った”と書かれていますので、宿はお城の付近だとおもわれます。宿屋の近江屋については場所が分かりませんでした。もう少し調べてみます。
 「鍵屋の辻」は有名です。現在は記念碑と茶店があります。現在の記念碑の写真と戦前の記念碑の絵はがきを掲載しておきます。茶店は昔と今で道路の反対側に移っていますので、現在の茶店の写真と、昔の茶店の絵はがきを掲載します。

【鍵屋の辻の決闘(かぎやのつじのけっとう)】
「鍵屋の辻の決闘は、寛永11年11月7日(1634年12月26日)に渡辺数馬と荒木又右衛門が数馬の弟の仇である河合又五郎を伊賀国上野の鍵屋の辻で討った事件。伊賀越の仇討ちとも言う。曾我兄弟の仇討ちと赤穂浪士の討ち入りに並ぶ日本三大仇討ちの一つ。」

写真は現在の伊賀上野駅です。関西本線は元々は関西鉄道という私鉄でしたが明治40年に国有化されます。国有化後は大阪−名古屋は東海道線がメインとなり、関西本線は寂れます。



伊賀市内地図 -1-



「浴花亭」
<月ヶ瀬 浴花亭>
 2012年1月1日 熱田駅の写真を追加
 明治41年3月28日、伊賀上野城下を尾山行馬車で発ちます。いまならバスですが当時はまだ馬車だったようです。当時の資料を見ると、
上野城→(一里25丁)→白樫→(10丁)→石打→(半里)→尾山(下記の「伊賀上野-月ヶ瀬-笠置地図」を参照)
で、10Km弱位です。
 里見クの「若き日の旅」からです。
「 朝、八時出發。橋板、稻村、に、霜がしろじろと置いてゐる街道を、チッテラッタテッテーの喇叭で、がたくり馬車に揺られて行く。チカチカと目を刺すやうな陽が、だんだん穏かに、高くなって、やがて小山といふ村で降ろされる。すぐたかって來た案内者のなかでは、まづ人がよささうに見える爺さんを頼んだが、「鹿飛びの谷」とか、「一目千本」とか、別に聞いたところで仕様のない名所の名を披露するだけのことだ。茶店の赤毛布に端座して、一人で眞面目くさつて謡をうたってゐる老人があり、そこから崕ツ縁をうねうねと、鶯谿におりで、五月川の渓流に臨んだ浴花亭といふので午飯にし、粗食が續いたからと、日向で、鶏を煮て食ふ。湯気が、鍋から一二寸ですぐに消え、皮肉のぶつぶつに残った白髪のやうな細い毛まではっきり見える。…」
 上記に書かれている”小山”は正しくは”尾山”です。月ヶ瀬(月瀬)は昔から梅林で有名なのですが、昭和44年のダム建設により、かなりの部分が水没しています。梅の木を移植したりして保存をはかったようです。三人が渡った明治20年に建設された月ヶ瀬橋(木造)、昭和6年完成の月ヶ瀬橋(昭和30年頃撮影)、現在の月ヶ瀬橋を見比べてください。
 「旅中日記 寺の瓦」からです。(志)は志賀直哉、(木)は木下利玄です。
「… ○伊賀の上野の町端れのきたない宿屋を出たのが八時、前夜隣室でのいやな話が耳についてねられなかつたといふ山内の話を出掛ける前に聞く。馬車で月ヶ瀬への道々は、霜があった。何んとかいふ所で馬車から下りて案内者を頼むで、鹿飛びの谷や何か色んな名所を見て、一目千本で話をやるおやぢに合ひ、直ぐ下の鶯だににの浴花亨で晝食。此所で春の気を充分にすった。本来ならばこれから島原の停車場へ出るつもりのがヤメにして、三里半を笠置へ向ふ、一寸くたびれた。月ヶ瀬といふ所は、思った程俗でもなく、川はあるし、岩はあるし、景色の變化も充分で、日本一の掛け聲をしてもいいだらう。
笠置山もいい。
天武帝駒繁の松といふ餘り太くないのがある、
山 「ウソいつてやがら」
そんなもんさ。…」

 月ヶ瀬から笠置までは徒歩で約15Km、上りもありますので3時間以上掛かったとおもいます。本当に昔の人はよく歩いています。

写真は現在の浴花亭です。浴花亭は現在は営業されていませんが建物はのこっていました。たまたま浴花亭の方がいらっしゃったのでお話しをお聞きすると、この建物はダム(昭和44年)が出来たため建て直された物だそうです。昔の建物はもっと下にあったそうです。



月ヶ瀬地図 -1-



「後醍醐天皇御在所」
<笠置山 後醍醐天皇行在所奮跡>
 月ヶ瀬、浴花亭で昼食を済ませてから笠置に向かって歩いていますから、笠置に到着したのは16時前後ではないでしょうか。笠置山に登るのは、かなりきつい上りですので30分は掛かります(標高290m)。日が暮れる直前に笠置山山頂の笠置神社に着いたとおもわれます。
 里見クの「若き日の旅」からです。
「… 笠置へ着くと、またもやうるさく勤め寄る案内者を、前の経験から、振り向さもしないことにして、さっさと山へ登る。夕霧にかすんで、遠くひとむらだった村落を指さして、
 「あゝ、あれがきつと×××村だ」
 「なんだい、それア」
 「一村、××ばかりだつて……」
 「ふーん。さう開くと、バチルスの蚊柱が立ってるやうな気がするね」
 ひと擁へあるかなしの松の根方に、「天武帝駒繋之松」といふ立札がたでゝある。
 「なんだ、嘘にきまってるぢアないか」
 「でなきやア、本物の子か孫の松だね」
 麓の茶店で見た繪葉書に、「行在所奮跡」といふのがあったが、と捜すけれど、なかなか見あたらない。やっぱり案内者も必要かな、と思ふ時分に、左手に石段が見えて來た。
「あ〜、あれだ、あれだ。あれに達ひない」
「いくら隠さうたって駄目だ。たうとう見出されねらう」
「かう見出されちやアわきやアねえ」
 と、すぐもう假聲で、「ほんのたでエまのお笑ひ種さア、かね」
「かう、案内者さん、どなたも眞ヅ平ごめんなせえ」
 どうしたつて、修学旅行の気分ではない。──抜け参りだ。いや、それ以上、
「膝栗毛」じみて來る時さへあった。…」

 この笠置山は鎌倉時代末期に後醍醐天皇が三種の神器を保持して笠置山に篭城して元弘の乱の発端となったことで勇名です。ですから後醍醐天皇の行在所があったわけです。

笠置山の戦い(ウイキペディア参照)
元弘元年(1331)8月、後醍醐天皇の側近である吉田定房が六波羅探題に倒幕計画を密告し、またも計画は事前に発覚した。六波羅探題は軍勢を御所の中にまで送り、後醍醐天皇は女装して御所を脱出し、比叡山へ向かうと見せかけて山城国笠置山で挙兵した。後醍醐の皇子・護良親王や、河内国の悪党・楠木正成もこれに呼応して、それぞれ大和国の吉野および河内国の下赤坂城で挙兵した。(9月に笠置山は陥落)

 「旅中日記 寺の瓦」からです。
「…笠置山もいい。
天武帝駒繁の松といふ餘り太くないのがある、
山 「ウソいつてやがら」
そんなもんさ。
笠置、行在所奮跡といふ、碑の繪ハガキを見て、それを探す、中々ない、暫くして、左に石段〔碑〕を見る。
「いくら隠したって、駄目だ。どうだい、とうく見出されたらう」
案内者のうるさくすヽめるのを断って此調子、それもいい。(志の)

   * 小山

○笠置山上から遠く飛鳥路村を望んで木ノ君が 「あれが癩病村だよ、きつと」と云ふ、志ノ君が「バチルスの蚊柱が立てらア」われ等の仲間で云ふと「癩病のうだつがあがってらア」と云ふ處だと思ふと特に可笑しい。…」

 文章を読んでいると、明治41年に書かれたとは到底おもえません。昨日書いたと云われても疑いませんね。三人の文才はたいしたものです。

写真は現在の笠置山行在所です。戦前の行在所の絵はがきがありますので現在の写真と比べて下さい。全くかわらないのがわかります。月ヶ瀬から来ると笠置山の登山口の分岐があります。この分岐から笠置山に登ります。車でも笠置寺の直ぐ傍の駐車場までいけますが、上り坂が急で道が細くすれ違いが大変ですので大きな車では無理だとおもいます。笠置寺には一周30分での笠置寺境内の行場めぐりコース(1周約800m)がありますので入場料を払って見られればとおもいます(300円)。

「笠置館」
<笠置館>
 笠置山から下りてきた三人が宿泊したのが笠置館です。前を通ったときは営業されているようだったのですが、ホームページ等もなく、本当に営業されているかどうかは不明です。建物は残っていました。
 ここでは里見クの「若き日の旅」からです。
「…ぶらぶらと下りて笠置館に投ず、臭い温泉にはいる、晩めしの時、下女が大坂辯で芝居の話をする、大坂辯をつかって居るのを障子越しなんかで聞くときれいな女が云つて居る様で至極いゝ。今日は昨夜からのノミの攻撃が續いて随分困った、月ヶ瀬で晝めし後一匹志ノ君の手つだひでつかまへた時は嬉しかった。青蜩 雨村に別れて出かける時は何だか淋しくつていやな様な気持もしたが来て見れば矢張り面白い、今日なんか馬鹿に心持がよかった。(山坊主)

○「旦那はん東京だつか」
「さうだつか」 と云ふ會話がある。
福太郎(市川福之助)の母が東京人である事や、それが今大坂で待合をひらいてる事などをその女中がはなす。梅の花白き月が瀬は風あたゝかき晝寝ころんで見て一層よく、木立小ぐらく石多き笠置山は肌さむき夕めぐって一層の哀を覚える、そして吾々は晝の月の瀬と夕の笠置を見たのである、吾人は時を得たんだ。(木ノ)…」

 私も泊ってみればよかったかなとおもいました。スケジュール的に見ると、やはりピッタリです。

左上の写真が現在の笠置館です。写真の奥に昔からの建物があります。川の向こう側から撮影した戦前の絵はがきと、現在の写真を掲載しますので見比べてください。

「笠置駅」
<笠置駅>
 明治41年3月29日朝、三人は笠置から宇治を経由して京都に向かいます。大正元年の時刻表では8時22分、9時38分と二本ありますので、どちらかの列車に乗ったものとおもわれます。
 ここでは里見クの「若き日の旅」からです。
「…      四

 翌朝、茶代を置かすに、帳場の前を通ると、番頭が、机の前を立たないのは勿論、碌すツぽ挨拶もしずに、じろじろこっちを見てゐる。出てから、それを話題にして、
 「さもしい奴だ」
 「もっとも、三人で泊って、一錢もやらずに、急ぎ足で玄関を出て來るなんぞ、あんまりさもしくないこともないがね」
 「まったくだ。これから、少しつゝでも、茶代はやっぱり置くことにしようぢやないか」…」

 三人は旅慣れしていないようです。茶代をおいていくのは現在のチップと同じように常識でした。明治40年頃の宿泊費は一人50銭から1円位で、その上に茶代というチップが必要でした。茶代としては一人20〜30銭位だとおもいます。伊賀上野の宿屋はもっと安かったかも!

左上の写真が現在の笠置駅です。関西鉄道の駅として明治30年に開業、明治40年に国有化しています。駅舎は昭和30年に建て直されていますので、昔の駅舎ではありません。



伊賀上野-月ヶ瀬-笠置地図




全 体 地 図