<「海 昭和45年2月号」>
昭和45年(1970)2月号の雑誌「海」で志賀直哉と里見クが「旅中日記
寺の瓦」で対談をしています。「旅中日記 寺の瓦」の発売を間近に控えて、宣伝の意味もこめて対談したものとおもわれます。ただ、対談後の10月に志賀直哉は亡くなっており、出版は翌年、昭和46年2月となっています。もう少し早く出版する予定が志賀直哉が死去したことにより、遅れたと考えています。
「海」、昭和45年2月号から、書き出しのところです。
「明治の青春
若き日の旅中日記『寺の瓦』をめぐって、
両文豪が追想する明治の文学と青春の日々
(対 談)志賀直哉、里見 弾
『網走まで』没書のこと
志賀 僕らは、あのころ作家になる気はあったかな。
里見 それああったね。そろそろあったろうね。いや、あったよ。
志賀 そうかね。
里見 僕のは、母から遺産があるときいて、それでやる気になった。
── おかしな文学志望だね。でも、あれは用心深さからきてたんだよ。どういうわけかというと、僕はあんまり意志強固じゃないから、貧乏しながら文学やっていると、きっと売文家になっちゃうと思ったんだ。
志賀 いや、生馬(有島)は大反対なんだよ。
里見 僕がなること ──?……
… 武者小路・木下のこと
里見 『寺の瓦』に、大阪に留め置き郵便で送られてきていた、武者君の処女出版の『荒野』 ── あれはみんな『望野』に出したもので、それをまとめて一冊にしたんだね。
志賀 そうだね。武者はもともと文学者になる気はなくって、政治家になるつもりだったんだ。だから、僕らの文学に対する考えと武者のそれとは、だいぶ違うんだ。──
なんといったらいいか、武者は、文学以外のなにかをやるだろうという気がしてた。
木下は ── 僕は、木下の晩年、冷淡で、少し悪いことをしたと思っているんだけどね。木下は家庭的にはかわいそうな人だった。ちゃんとした乳母みたいな人はいなかった威らチャボ、チャボっていってたんだけど、小さな、なかなか気の強い男、──
まあ、三太夫だな、そいつに育てられていたんで、本当の両親との縁はほとんどないんじゃないかな。岡山の足守の小大名の家なんだが、木下のところに秀吉の特別の古文書なんぞがあって、江戸時代にはずいぶん虐待されたらしいよ。どうも家庭的なあたたか味なんて、あんまり知らなかったらしいね。だから遊びにくると、もういいかげんに帰ったらいいと思うのに、ゆっくりやっているほうだった…」
「旅中日記 寺の瓦」の対談なのですが、余り記憶にないのか、「旅中日記 寺の瓦」の話がほとんど出てきません。少しでも関係があるところを掲載しておきます。又、目次のタイトルと本文のタイトルが違います。目次には「若き日の旅日記「寺の瓦」をめぐって、遠い明治の文学と青春の日々を追想する」、となっていますが、本文には、「若き日の旅中日記「寺の瓦」をめぐって、両文豪が追想する明治の文学と青春の日々」、となっています。多分、どちらかを修正しきれなかったのだとおもいます。木下利玄は大正14年(1925)に肺結核で死去していますので、三名の対談とはなりません。
★写真は昭和45年2月号の「海」です。本文のタイトルは、「対談
明治の青春、若き日の旅中日記『寺の瓦』をめぐって、両文豪が追想する明治の文学と青春の日々」、です。このタイトルの次に”未発表資料 旅中日記
寺の瓦”となっています。確かに未発表資料です。