●旅中日記 寺の瓦 其の二 【志賀直哉、木下利玄、山内英夫】
    初版2011年12月24日
    二版2012年1月1日  <V01L01> 熱田駅の写真を追加

 今回も「旅中日記 寺の瓦」を掲載します。前回、東京から名古屋まで掲載しようとしたのですが、時間が無くて東京を出発するところで終ってしまいましたので、今回は名古屋を掲載します。新橋駅を最終列車で出発した志賀直哉(東京帝国大学卒業)、山内英夫(学習院在学中、里見ク)、木下利玄(東京帝国大学在学中)の三人は翌日の10時過ぎに名古屋駅手前の熱田で下車します。

 

【「旅中日記 寺の瓦」について】

 若き日の志賀直哉(東京帝国大学卒業)、山内英夫(学習院在学中、里見ク)、木下利玄(東京帝国大学在学中)の三人が明治四十一年三月から四月にかけて関西を旅した時に記した日記が、「旅中日記 寺の瓦」です。後の昭和十五年に里見クがあの甲鳥書林で「若き日の旅」として出版しています。又、原本の「旅中日記 寺の瓦」は昭和四十六年に中央公論社から出版されています。日時はかなり古いですが、旅行記としては非常に面白いので、この旅行記に沿って歩いてみました。





「海 1970/2」
<「海 昭和45年2月号」>
 昭和45年(1970)2月号の雑誌「海」で志賀直哉と里見クが「旅中日記 寺の瓦」で対談をしています。「旅中日記 寺の瓦」の発売を間近に控えて、宣伝の意味もこめて対談したものとおもわれます。ただ、対談後の10月に志賀直哉は亡くなっており、出版は翌年、昭和46年2月となっています。もう少し早く出版する予定が志賀直哉が死去したことにより、遅れたと考えています。
 「海」、昭和45年2月号から、書き出しのところです。
「明治の青春
    若き日の旅中日記『寺の瓦』をめぐって、
    両文豪が追想する明治の文学と青春の日々
    (対 談)志賀直哉、里見 弾

  『網走まで』没書のこと

志賀 僕らは、あのころ作家になる気はあったかな。
里見 それああったね。そろそろあったろうね。いや、あったよ。
志賀 そうかね。
里見 僕のは、母から遺産があるときいて、それでやる気になった。
── おかしな文学志望だね。でも、あれは用心深さからきてたんだよ。どういうわけかというと、僕はあんまり意志強固じゃないから、貧乏しながら文学やっていると、きっと売文家になっちゃうと思ったんだ。
志賀 いや、生馬(有島)は大反対なんだよ。
里見 僕がなること ──?……

…     武者小路・木下のこと

里見 『寺の瓦』に、大阪に留め置き郵便で送られてきていた、武者君の処女出版の『荒野』 ── あれはみんな『望野』に出したもので、それをまとめて一冊にしたんだね。
志賀 そうだね。武者はもともと文学者になる気はなくって、政治家になるつもりだったんだ。だから、僕らの文学に対する考えと武者のそれとは、だいぶ違うんだ。── なんといったらいいか、武者は、文学以外のなにかをやるだろうという気がしてた。
 木下は ── 僕は、木下の晩年、冷淡で、少し悪いことをしたと思っているんだけどね。木下は家庭的にはかわいそうな人だった。ちゃんとした乳母みたいな人はいなかった威らチャボ、チャボっていってたんだけど、小さな、なかなか気の強い男、── まあ、三太夫だな、そいつに育てられていたんで、本当の両親との縁はほとんどないんじゃないかな。岡山の足守の小大名の家なんだが、木下のところに秀吉の特別の古文書なんぞがあって、江戸時代にはずいぶん虐待されたらしいよ。どうも家庭的なあたたか味なんて、あんまり知らなかったらしいね。だから遊びにくると、もういいかげんに帰ったらいいと思うのに、ゆっくりやっているほうだった…」

 「旅中日記 寺の瓦」の対談なのですが、余り記憶にないのか、「旅中日記 寺の瓦」の話がほとんど出てきません。少しでも関係があるところを掲載しておきます。又、目次のタイトルと本文のタイトルが違います。目次には「若き日の旅日記「寺の瓦」をめぐって、遠い明治の文学と青春の日々を追想する」、となっていますが、本文には、「若き日の旅中日記「寺の瓦」をめぐって、両文豪が追想する明治の文学と青春の日々」、となっています。多分、どちらかを修正しきれなかったのだとおもいます。木下利玄は大正14年(1925)に肺結核で死去していますので、三名の対談とはなりません。

写真は昭和45年2月号の「海」です。本文のタイトルは、「対談 明治の青春、若き日の旅中日記『寺の瓦』をめぐって、両文豪が追想する明治の文学と青春の日々」、です。このタイトルの次に”未発表資料 旅中日記 寺の瓦”となっています。確かに未発表資料です。

「熱田駅」
<熱田駅>
 2012年1月1日 熱田駅の写真を追加
 明治41年3月26日、新橋駅を23時発の下関行最終列車で出発した志賀直哉(東京帝国大学卒業)、山内英夫(学習院在学中、里見ク)、木下利玄(東京帝国大学在学中)の3人は翌日の10時27分、名古屋駅手前の熱田駅で下車します。11時間27分の乗車時間です(殆ど半日です、丹那トンネルも無いですから当然かも!)。
 「旅中日記 寺の瓦」の書き出しです。(志)は志賀直哉、(木)は木下利玄です。
「◎三月廿七日 歌舞伎座より 〔伊賀〕 上野
○ヒル 〔午〕名古屋でキシメソ〔棊子麺〕といふ、サナダ蟲〔條蟲〕のやうなウドソ〔饂飩〕を食ふ。(志)
○大井川あたりから夜が明ける。熱田で下りて熱田神宮に詣りまする。(その前に誓願寺と云ふのにある頼朝誕生地を見る) これより白鳥御陵へ参拝して、きたない名古屋の町をぬけまする。この間大須の観音を見物する、午後一時四十分名古屋發の汽車で上野についたのは午後五時、高原の春は寒い。(木)…」

 明治時代の名古屋での観光地は東京人から見ると、熱田神宮と名古屋城、大須観音ぐらいだったのでしょうか。当時の観光案内では、名古屋停車場、広小路通り・栄町通り(ビル街)、東西の本願寺、愛知商品陳列館、等です。余り、見たいのはありませんね。
 里見クの「若き日の旅」から、同じ部分です。
「… さすがに疲れて、一二時間もとろとろとしたかと思ふと、もう夜があけて、大井川の鐵橋を渡ってゐた。熱田で降りて、誓願寺に頼朝の誕生地を、熱田神宮を、白鳥御陵を、といふ風に、旅の初めではあり、根を洗へばやっぱり学生で、修学旅行めくばかり克明に、丹念に歩き廻り、やがて薄汚い名古屋の町はづれにかゝると、小さな劇場の繪看板に、泉鏡花原作、「靈象」と出てゐる。…」
 「旅中日記 寺の瓦」がオリジナルで、「若き日の旅」は里見クが脚色して旅行記風に小説化したものです。較べるとよく分かりますね。又、スケジュールはかなり細かく設定されています。最初は事細かく準備していますから、逃さず観光地を回りますが、だんだん疲れてきて適当になります。仕方が無いですね。

写真は現在のJR熱田駅です。高架にもなっていないので、路線自体は昔のままとおもいます。私鉄の名鉄神宮前駅が熱田神宮の東門前に大正時代に完成し、此方の方に乗降客は取られてしまったようです。

「熱田神宮」
<熱田神宮>
 熱田神宮はJR熱田駅から450m位で東門にたどり着きます。近さから言うと、名鉄神宮前駅の方が真ん前で近いのですが、明治41年当時は名鉄の神宮前駅は無く、駅が出来たのは大正2年になってからです。
 里見クの「若き日の旅」からです。
「… さすがに疲れて、一二時間もとろとろとしたかと思ふと、もう夜があけて、大井川の鐵橋を渡ってゐた。熱田で降りて、誓願寺に頼朝の誕生地を、熱田神宮を、白鳥御陵を、といふ風に、旅の初めではあり、根を洗へばやっぱり学生で、修学旅行めくばかり克明に、丹念に歩き廻り、やがて薄汚い名古屋の町はづれにかゝると、小さな劇場の繪看板に、泉鏡花原作、「靈象」と出てゐる。…」
 訪問した順が、誓願寺、熱田神宮、白鳥御陵となっています。下記の地図を見て貰うとわかりますが、熱田駅からは熱田神宮よりも誓願寺の方が近いわけです。

写真は現在の熱田神宮です。熱田神宮の祭神は熱田大神(あつたのおおかみ)で、三種の神器の一つである草薙剣(くさなぎのつるぎ。天叢雲剣)を神体としています。剣は壇ノ浦の戦いで遺失したとも神宮に保管されたままとも言われています。相殿に天照大神(あまてらすおおみかみ)、素盞嗚尊(すさのおのみこと)、日本武尊(やまとたけるのみこと)、宮簀媛命(みやすひめのみこと)、建稲種命(たけいなだねのみこと)を祀っています。113年(景行天皇43年)創建とされ、2013年(平成25年)に創祀1900年を迎えます。官幣大社、式内社(名神大)で、建物は伊勢神宮と同じ神明造ですが、1893年(明治26年)までは尾張造と呼ばれる独特の建築様式でした(氷上姉子神社に尾張造の建築様式が残っています)。社務所に当たる組織は熱田神宮宮庁と呼んでいます。その他施設に、熱田神宮文化殿(宝物館、熱田文庫)、熱田神宮会館、龍影閣があり、敷地内には愛知県神社庁、神職養成機関の熱田神宮学院があります。(ウイキペディア参照)

「誓願寺」
<誓願寺>
 三人が熱田駅で降りて最初に訪ねたのが誓願寺です。上記に書きましたが熱田駅からは熱田神宮よりも誓願寺の方が近かったからです(事前に地図も見ているようです、たいしたものです)。
 ここでは里見クの「若き日の旅」からです。
「… 熱田で降りて、誓願寺に頼朝の誕生地を、熱田神宮を、白鳥御陵を、といふ風に、旅の初めではあり、根を洗へばやっぱり学生で、修学旅行めくばかり克明に、丹念に歩き廻り、…」
 このお寺の正面、左側に名古屋市教育委員会の立て札がありました。

【源頼朝出生地】
この地は平安時代末期、熱田大宮司藤原氏の別邸があったところで、藤原季範の娘由良御前は、源義朝の正室となり、身ごもって久安三年(1147)熱田の実家に帰り、この別邸で頼朝を生んだといわれている。亨禄二年(1529)別邸跡に、妙光尼日秀、世にいう善光上人により誓願寺が建てられた。妙光山と号し、西山浄土宗の寺で、本尊は木造阿弥陀如来座像である。(名古屋市教育委員会)

左上の写真が現在の誓願寺です。写真は門だけですが奥にお寺があります。門の後は駐車場になっていて、すこし残念です。

「白鳥御陵」
<白鳥御陵>
 三人が最後に訪ねたのが白鳥御陵です。熱田神宮からは少し離れたところにあり、川沿いの道から入っていきます。
 この御陵は日本武尊(やまとたける)の御陵といわれています。能褒野(三重県亀山市)で亡くなった後、宮簀媛を慕い白鳥となってこの熱田の宮に飛び来り、降り立ったところといわれています。このため白鳥御陵と呼ばれているわけです。ヤマトタケル(やまとたける)は、記紀(「古事記」、「日本書紀」)に登場する皇子です。ヤマトタケルノミコト(やまとたけるのみこと)とも呼ばれ、諱は小碓尊(命)(おうすのみこと)。第12代景行天皇の皇子・第14代仲哀天皇の父とされます。津田左右吉の説では、実際には4世紀から7世紀ごろの数人の大和(ヤマト)の英雄を統合した架空の人物とされます。(ウイキペディア参照)

【宮簀媛】
 日本神話に登場する尾張国造の乎止与命(オトヨ)の娘。『日本書紀』では宮簀媛、『古事記』では美夜受比売。父の乎止与命は天火明命(アメノホアカリ)の子孫。日本武尊(ヤマトタケル)の東征の帰路、尾張滞在の際に娶(嫁をもらう)られています。日本武尊が能褒野(三重県亀山市)で亡くなると、日本武尊より預けられた天叢雲剣(草薙の剣、三種の神器の一)を奉斎鎮守するため熱田神宮を建立したとされています。(ウイキペディア参照)

左上の写真が現在の白鳥御陵です。白鳥御陵は。此方も名古屋市教育委員会の立て札があります。



名古屋市内地図 -1-




「大須の観音」
<大須の観音>
 三人は熱田で下車し、誓願寺、熱田神宮、白鳥御陵と回った後、大須観音に徒歩で向かいます。
 里見クの「若き日の旅」からです。
「…旅の初めではあり、根を洗へばやっぱり学生で、修学旅行めくばかり克明に、丹念に歩き廻り、やがて薄汚い名古屋の町はづれにかゝると、小さな劇場の繪看板に、泉鏡花原作、「靈象」と出てゐる。むろん先生は、夢にも御存知ないことだろう、などゝ話しながら、大須の観音にはいり、裏へぬけて、二階三階の家並、落語家の謂ふ「錦の裏を返したやうな」畫の静閑、── すぐ、はゝアと勘は働いたが、黙ってゐた。年嵩の志賀さへ「遊廓だね。そっちイ曲らうか」などゝ、すまし込んで云ふくらゐのわれわれだった。…」
 熱田から大須まで約4Km弱の距離です。名古屋駅発午後1時40分発の列車に乗りますから、10時27分に熱田に着いて、1時間位で誓願寺、熱田神宮、白鳥御陵を見て、大須まで1時間で歩くと、12時半位になります。後、約1時間の余裕しかありません。凄い時間ピッタリのスケジュールです。

写真は現在の大須観音です。戦前の大須観音の写真を掲載しておきます。写真の左側、伏見通りのところに遊郭(旭遊郭)がありました。伏見通りは当時はありませんでした。当時の地図を掲載しておきます。

「きしめん」
<棊子麺>
 三人は大須から名古屋駅に向かう途中で昼食にきしめんを食します。大須観音で12時30分頃ですから、余り時間がありません。
 里見クの「若き日の旅」からです。
「… 蕎麦屋で午飲、── 初物の棊子麺を、なんだか絛蟲みたいだな、と云ひながらも、空腹に任せてがつがつ食ふ。繁華な街筋へ出ても、何やらひどく埃ツぽい感じで、気に入らず、金の鯱鉾などは、全然無視することにして、一時四十
分、再び汽車に乗り、伊賀の上野へと向つた。…」

 大須観音から名古屋駅まで約2.5Kmですから30分の距離です。大須観音で15分、食事で15分なら名古屋駅発13時40分は間に合います。

 熱田駅からのスケジュールをまとめると(推定です)
熱田駅(10時27分着)→誓願寺・熱田神宮・白鳥御陵見学(推定約1時間、11時半)→大須観音(徒歩:1時間、約4Km、12時半)→大須観音・旭遊郭見学(推定15分)→食事(きしめん:15分、13時)→名古屋駅(徒歩:30分、約2.5Km、13時半)、名古屋駅発13時40分。
 間に合いますね!! それにしてもすごいスケジュールです。分刻みです。

写真は大須観音近くの麺屋さんです。昔からのお店らしいので、入って食しました。なかなか美味しかったです。お店の写真を掲載しておきます。

 この後、関西本線で伊賀上野に向かいます。



名古屋市内地図 -2-