＜「明治四十一年三月廿六日出發 旅中日記 寺の瓦」＞
　志賀直哉（東京帝国大学卒業）、山内英夫（学習院在学中、里見�ｸ）、木下利玄（東京帝国大学在学中）の三人で関西旅行を企画し、明治４１年３月２６日夜、新橋を出発します。東京→名古屋→伊賀上野→笠置→京都→大津→奈良→吉野→和歌山→大阪と回った半月間の旅行でした。三人は旅行中、日記らしきものを記載しています。後に旅行記などで出版、掲載しようとするためだったとおも.われます。この当時の旅行記として有名なのは、「五足の靴」で、明治４０年に与謝野寛が、まだ学生だった太田正雄、北原白秋、平野万里、吉井勇の4人を連れて九州を旅した記録で、『東京二六新聞』の紙上に連載されています。”二匹目のドジョウ”ねらっていたのかもしれません。
　「旅中日記 寺の瓦」から、書き出しのところです。
「…　震災や戦前に會ひながらも、運よく、今日まで「寺の瓦」の原物を保存し得た私のもとへ、昨年初夏の頃だつたか、本書刊行の企畫がもち込まれた時、大正十四年二月、病のため早世した木下には、もとより相談のしやうがなかつたけれど、老來の気不精ゆゑに、十中八九の不同意が豫想されてゐた志賀が、存外すらりと承知してしまった、……
…　初めにまづ、執筆者三人の署名が、（志ノ）　（木ノ）　（山ノ）　となってゐるわけから話さう。木下はもちろんキシタではなく、キノシタと読まれる姓なので、中等科時代からの親しい友達の間では、（木ノ）或は（木ノス）とばかり呼び習はされてゐた。同じ理由でヤマノウチを名乗る私の（山ノ）はわかるにしても、シガでこそあれ、決してシノガとは讀まれツこない志賀までが、（志ノ）を用ひてゐるのはどうしたことか。はたの二人への「義理だて」と言っては強すぎようけれど、「おつきあひ」とか、「序のことに」くらゐの軽い気持で同調してしまったのだらう。……なんと、お仲のおよろしいことか………」
　「旅中日記 寺の瓦」の原文をもっていたのは里見�ｸです。かれは鎌倉にながく住んでおり、戦災にあっておらず、運良く原稿が焼けずに残ったものとおもいます。

＜三名の紹介＞
・志賀直哉については有名なので特に記することはないとおもいます。

・山内英夫は里見�ｸの本名で、有島武郎、有島生馬は実の兄で、山内家の養子に入ったため名字が変わっています。

・木下利玄は、明治19年（1886）岡山県賀陽郡足守村（現・岡山市北区足守）で、足守藩最後の藩主・木下利恭の弟・利永の二男として生まれています。利恭の死去により宗家・木下子爵家の養嗣子となり家督を継いでいます（2万5千石のお殿様です）。学習院初等科で武者小路実篤と同級、東京帝国大学では佐佐木信綱に師事して短歌を学び、竹柏会門下の逸材と呼ばれます。
明治43年（1910）には実篤や志賀直哉らと共に文芸雑誌「白樺」を創刊し、散文や短歌を発表。白樺派の代表的歌人の一人となります。大正14年（1925）肺結核により死去。享年40歳。（ウイキペディア参照）

★写真は三名のサインによる表紙です。（志ノ）、（木ノ）、（山ノ）については上記を参照して下さい。よく残っていたなとおもいます。

＜「旅中日記 寺の瓦」＞
　昭和４６年中央公論社から出版された、「旅中日記 寺の瓦」です。下記にも書いていますが、里見�ｸは昭和１５年に「旅中日記 寺の瓦」を自身で小説風に書き直して「若き日の旅」として出版しています。今回の「旅中日記 寺の瓦」は当時記載した日記にできるだけ忠実な内容にしたもののようです。
　「旅中日記 寺の瓦」の”あと書き”からです。里見�ｸが書いています。
「　　　註釋者のあと書き
　本書は、中央公論社の需めに應じて、本文冒頭の（志ノ）の「自序」にあるとはり、明治四十一年三月二十六日から半ヶ月間、志賀直哉、木下利玄（途中、和歌山で別れる）、山内英夫の三人が関西地方を旅した折、共同につけた日記の、出來るだけ忠實な寫本の刊行である。なぜ「出來るだけ忠實」で、「そっくりそのまゝ」でないかに就いて、最初に一言して置かう。
　大抵は晩着き、早發の宿屋か、揺れ動く乗り物のなかなどでの、所謂「忽卒の間に於ける執筆」とばかり、理由を轉嫁するわけにもいくまいけれど、原文には、可なり多くの誤記、當字、脱落、假名違ひなどが見出される。脱落の場合は、〔　〕で囲って補ったし、訂正・説明の要ある當字の場合は、〔　〕で囲った正字を九ポ活字で適當に挿入した。又、明らかな誤字、假名違ひなどはこれを訂正した。……
…昭和十五年に私の著はした自叙傳的手法のノンフィクション作品『若き日の旅』からの抜粋を、二・三次に掲げることにした。
　　『既に学籍を脱してゐたのは、當時二十六歳の志賀だけ、二十三になる　木下は東京帝國大学の國文科に、二十一歳の私は学習院の高等科二年級　に、それぞれ在学中だった…』…」
　本当に当字、旧漢字等が多くて、読むのが大変です。ただ、明治４３年当時に書かれたものですが、今読んで面白いので、やっぱり文才のある連中はたいしたものです。

★写真は昭和４６年1月発行の中央公論社版「旅中日記 寺の瓦」です。著者は志賀直哉、木下利玄、山内英夫となっています。山内英夫は里見�ｸの本名で、有島武郎の実弟です。

＜里見�ｸの「若き日の旅」＞
　里見�ｸは昭和１５年に「旅中日記 寺の瓦」を基にして小説風の旅行記として「若き日の旅」を甲鳥書林から出版しています。私が初めてこの本を手にしたのは、甲鳥書林の出版物だったからです。甲鳥書林の本は面白い本が多いので、古書を探していました。里見�ｸと甲鳥書林がマッチした本があり、きっと面白い本だろうと購入しました。中身が明治４１年の旅行記だったのでびっくりしましたが、志賀直哉も参加しており、非常に面白く読むことができました。「旅中日記 寺の瓦」より、「若き日の旅」の方が先立ったわけです。
　里見�ｸの「若き日の旅」からです。
「　明治四十一年、── 今から丁度三十二年前の春、志賀直哉、木下利玄、私の三人づれで、上方へ半月ばかりの旅行をした。これは、その時の、純粋な紀行とも云へない、多少潤色を加へた物語である。
　既に學籍を脱してゐたのは、常時二十六歳の志賀だけ、二十三になる木下は東京帝國大學の国文科に、二十一歳の私は學習院の高等科二年級に、それぞれ在學中だった。「白樺」創刊に先だつこと二年で、その前身とも云ふべき「望野」は、武者小路、正親町、志賀、木下、四人の間に回覧されてゐたが、私たち仲間の「麥」などまだ計畫もなく、「里見�ｸ」はおろか、それ以前の「伊吾」といふ筆名さへもってゐない私、餌ち山内英夫だった。そんなわけゆゑ、時期はむろん学校の休暇中といふことで、旅行の日程を志賀一人で勝手にきめた。もつとも相談されたところで、静岡より西へ足を伸ばしたことのない私には、どう日の出しやうもなかったし、木下はまた、志賀と正反封で、あまり主張をもたず、なんでもひとにやって貰へは、面倒がなくて大助り、といった質だった。…」
　上記にも多少脚色したと書いています。小説風で読んでいて非常に面白いです。昭和１５年の里見�ｸですから当然かもしれません。

★写真は昭和１５年５月発行の甲鳥書林版「若き日の旅」です。堀辰雄などは当時甲鳥書林に出入りしていましたからこの本も読んでいる可能性が高いとおもいます。「大和路・信濃路」につながっていくとおもいます。

＜歌舞伎座＞
　旅の初めは、東京築地の歌舞伎座です。このあたりは、「旅中日記 寺の瓦」にはほとんど書かれていません。旅日記ですから旅が始まってからになりますから当然かもしれません。
　ここでは里見�ｸの「若き日の旅」からです。
「　三月二十六日、旅の振出しに、芝居見物が豫定されてゐたので、志賀の同窓で、やはり芝居好きだった細川、米津を加へた五人が、歌舞伎座の土間で落ち合った。上方から市川團藏が來て、仁木を出してゐたが、松助の外記と共に、息もつかせないやうな「刃傷場（にんじゃば）」を見せてくれた。「白洲」で、贔層の羽左衛門が、勝元を演て、食はれず、壓されないのを、東京者らしい根性から、私は心ひそかに喜んだりしたが、併し、なんと云っても、初めて見る團藏の藝には感服させられた。すっぽんからせり出して、口に銜へた一巻を懐中に納め、ちよつと塵を拂って、ぐいとひとつ睨み、悠々と揚幕へはいる、──　たったそれだけのことで、欒々と、深い感銘を残すことの出來る老優が、むしろ妬ましく、憎らしいくらゐだった。それ以前にも、片岡市藏の獨鈷の駄六や、寶生九邸のなんだつたかで、全身的にもつて行かれるやうな、不思議に強い藝の力を、まんざら知らないわけでもなかったのだが。…」
　”市川團藏が來て、仁木を出してゐた”は、”『伽羅先代萩』（先代萩）の仁木弾正”のことだとおもいます。市川團藏の、仁木弾正は当たり役の名演で有名だったようです。明治４４年に亡くなられていますから、晩年の素晴らしい名演の市川團藏を見ています。里見�ｸの「若き日の旅」には歌舞伎座に同行したのは三名の他に”細川、米津”と書いていますが、「旅中日記 寺の瓦」の”註釋者のあと書き”には”細川護立と米津某”となっています。細川護立は肥後熊本旧藩主細川家第16代当主です。村上春樹で有名な目白台の和敬塾は細川家の邸宅だったところです。米津某は米津政賢だとおもいます。なぜ某かは不明です。米津政賢も出羽国長瀞藩1万1千石の大名の末裔で子爵です。

★左上の写真は現在の歌舞伎座です。現在といっても歌舞伎座は現在改築中ですので少し前になります。「若き日の旅」に登場する歌舞伎座は明治４１年３月ですから、初代歌舞伎座になります。第二代歌舞伎座は明治４４年、第三代歌舞伎座は大正１３年、第四代歌舞伎座は昭和２５年となります。

＜新橋駅＞
　歌舞伎座で”市川團藏の天下一品と折紙つきの仁木弾正”見てから新橋駅に向かいます。初代の新橋駅は明治５年（1872）開業、山手線の烏森駅（現在の新橋駅）は明治４２年に仮本屋で開業していますので、「旅中日記 寺の瓦」では初代の新橋駅に向かったことになります。新橋─神戸間が全通したのが明治２２年です。
　里見�ｸの「若き日の旅」からです。
「…　　閉場るとすぐ新橋驛へ駈けつけ、終列車の一番尻の客車に乗り込んだ。がらがらにすいてゐたのも、あとで気がつけばその筈で、常時の不完全さでは、前は熱すぎ、中程で丁度よく、尻の客車などは、まるっきりスティームが利いて來ないのだから、夜が更けると共に、しんしんと身に滲みる寒さだった。うつかり眠ると風邪をひくぞ、──　それもさうに違ひなかったが、全團藏に依る亢奮から、また、楽しい旅を前に控へてのはしやぎから、眠ようにも眠つかれなかったのだ。おまけに、気を兼ねる乗合とて、遠く離れてぼつりぼつりだし、私たちは、早速いつもの「七義」を始めた。この「七義」は、禅語の「第一義」から割り出して、自分たちの勝手気儘な、暢気至極なお饒舌を指す、仲間うちの合言葉だった。そして、木下は、なかんづく、その道の名人と稱せられてゐた。地口、しゃれなどでも、今日の青年とは比べものにならないほど気の利いたことを云った。…」
　新橋駅から名古屋に向かう最終列車に乗っていますので、明治４０年３月の時刻表を見ると、２３時発、下関行が最終になっています。熱田着は午前１０時２７分です。

★写真は旧新橋駅跡にある鉄道歴史展示室です。旧新橋駅と同じ場所にあります。