●佐多稲子の東京を歩く 4  【上野三橋町編】
    初版2010年10月2日 
    二版2010年11月23日  <V01L01> 「五條天神」、”「世界」の絵はがき”を追加

 「佐多稲子の東京を歩く」を継続掲載します。今回は「上野三橋町編」です。前々回は元黒門町、前回は池之端仲町でしたので、上野広小路付近はあと二回位で掲載できそうです。この付近は「雁鍋」、「永藤パン」、「三橋亭」など、明治、大正、昭和を通じて有名なお店が数多くありました。




「私の東京地図」
<佐多稲子の「私の東京地図」> [前回と同じです]
 堀辰雄の三橋亭について調べていて、偶然に佐多稲子の「私の東京地図」を読む機会があり、なかなか面白かったので、この本を参考にして、少し歩いてみました。東京の向島から浅草、上野、田端付近の地名が登場し、又、戦前のお店の名前が数多く登場しています。大正5年頃から昭和初期にかけての東京の下町の様子がよく書けています。
 佐多稲子の「私の東京地図」、”下町”の項からです。 
「下 町
 東京の街の中で、ここは私の縄張り、とひそかにひとりぎめしている所がある。上野山下の界隈で、池の端、仲町、せいぜい黒門町から御徒町まで。
 これは、私の感情に生活の情緒が、この辺りで最初に形づくられたからであろう。生れた土地を夜更けに出て来て、その後は古里に古里らしいつながりを失ってしまったものが、せめて、生活の情緒の最初の場所に、その故郷を感じょうとしているのである。それも縄張りなどと、厭な、古臭い言葉でしか言い得ない、厭な、古臭さを知った上で、わざとそう言う、この体を交した身ぶり、それがこの場所で、私の覚えたものであるかも知れない。…」。

 上野の山下、元黒門町から池之端仲町、広小路付近は関東大震災と東京空襲で、二度大火にみまわれ、昔の面影はほとんど残していませんが、昔のお店の名前から当時の所在地を探してみました。

写真は佐多稲子の「私の東京地図」です。講談社文庫です。この本は既に絶版となっており、古本でしか入手できませんでした。初版は昭和28年です。

【佐多稲子(さた いねこ) 明治37年 (1904)6月1日-平成10年(1998) 10月12日】
 明治三十七年(1904)、長崎市に生まれる。大正四年、一家をあげて上京し、キャラメル工場で働く。このあと、いくつかの勤めを経て、大正十五年、本郷のカフェー「紅緑」で、『驢馬』同人の中野重治、堀辰雄、窪川鶴次郎と遊近し、窪川鶴次郎と結婚する。昭和三年、処女作『キャラメル工場から』を『プロレタリア芸術』に発表。ナップに加盟。昭和四年、ナルプに所属。昭和十一年、初長篇『くれなゐ』を『婦人公論』に連載。昭和十五年、書下ろし長篇『素足の娘』を新潮社より刊行。昭和二十年、窪川と正式離婚し、筆名を窪川いね子から佐多稲子に変え、旺盛な作家活動に入る。婦人民主クラブの創設に尽力し、新日本文学会の活動に積極的に参加するなど、たえず文学者として、広い社会的視野に立ち、時代の誠実な批判者として創作をつづけてきた。昭和三十八年『女の宿』により女流文学賞を受賞。以後、野間文芸賞(『樹影』)川端康成賞(『時に仔つ』)毎日芸術賞(『夏の栞』)と続き、昭和五十九年、現代文学への貢献に対し、朝日賞を授与される。昭和六十一年、『月の宴』により読売文学賞を受賞する。平成十年死去。(中公文庫より)

「上野駅のガード」
<上野駅のガード>
 まず、上野駅から広小路へ向かいます。上野駅広小路口を出ると、右手に大きな山手線のガードが見えます。このガードをくぐる道は中央通りで、神田から日本橋、銀座通りまで繋がる東京一の通りとなります。
 佐多稲子の「私の東京地図」からです。
「…上野の駅の建物こそ、今のように立派な石造りではなかったけれど、と言っても今日の上野駅の激しさと険悪さは、平時のいつの時にも比べられはしないものと思うから、今昔の比較を、浮浪者の舞れている只今の様相の中に見ることは出来ない。まだ、上野と神田を結ぶ高架線の無かった時と、それが出来て、御徒町の裏どおりにコンクリートの橋の脚が建ち並んだ時との比較でいえば、停車場前というまとまった雰囲気は、大きな金字の看板をかかげた旅館が、駅の前と横を取りまくようにして並んでいた昔の方に強かった。この旅館の並んだ中に、大きな菓子屋で岡埜というのがあった。岡埜とただ名前だけを書いた看板も、幅の広い、大きな立派な板である。その路地の奥に、ここにもまた桂庵があって、私のこの町での生活が、ここから振り出される。…」
 上野駅前の”岡埜栄泉”が登場しています。この”岡埜栄泉”については「岡埜栄泉を歩く」を参照してください。”岡埜栄泉”は東京にはたくさんあります。
 上野駅のガードのお話なのですが、台東区教育委員会の「台東区の明治・大正・昭和」に少し書かれていましたので参照しました。
「…当時は国電がなくて、上野と秋葉原の間を貨物が一日に三、四回往復し、いなかにあるような踏切で、踏切番が
いて遮断織を降ろしてました。当時は秋葉原駅は独立駅で、隅田川、神田川の水道で集荷したものを、上野駅へ貨車で
運んでいたんです。…」

 山手線が環状運転を開始したのは関東大震災後の大正14年(1925)11月1日ですので、上野駅−神田駅間の高架化が完成したのも同時期だとおもいます。それまでは上野駅−秋葉原駅間は貨物のみで、上記のように平地を通っていたようです。

写真は上野公園入口の階段付近から撮影した上野駅のガードです。高架化の完成時期からして撮影時期は昭和初期だとおもわれます。現在の写真と見比べてください。

「上野広小路」
<上野広小路>
 上野駅のガードを過ぎると、右に上野公園に入る階段があり、その先には京成電鉄の入口があります。京成電鉄の上野公園駅(地下化)が開業したのは昭和8年12月10日なので、京成電鉄上野公園駅入口が写っていないと、昭和8年12月以前の写真となります。
 佐多稲子の「私の東京地図」からです。
「 …上野の山は丁度お花見の季節であった。駅前から山下へ出てゆくあたり、今は京成電車の会社の建物の形だけ残っている、このあたりに、その頃は、五条様という神社を挟んで、間口の広い、とっつきに寛やかな梯子段のついた料理屋が並んでいたものだ。赤い衣の達磨の絵のある看
板は、二品料理屋の「だるま」、そのとなりは「鳥鍋」の支店、その先にずっと広く、奥の庭に鶴の遊んでいるのが見えるのは肉屋の「世界」。どこでも、半被に腹掛けの下足番が、きっちり脛をつつんだ黒股引の先に白い鼻緒の草履を突っかけて、独特のだみ声で、「いらっしゃイ」
 と、うたう受っに呼びつづけている。
 水を流した石畳の広土間には、紐をつけた下足札をおいて、客の下足がずらりと幾側にも並べてある。撃かけたいちょう返しの女中が、大きな通い盆を片手に肩の上でささげて、梯子段を上り降りしている。
「え、二百六十三番さん、おあがりイ」
 と、下足番が客をむかえると、今度はかん高い女の声で、「いらっしゃアい」
 と、答える。…」

 佐多稲子の「私の東京地図」は大正時代のお話が中心なので、京成電鉄上野公園駅が出来る前と考えたほうがよいとおもいます。上記は大正初期の時代の上野広小路左側の上野駅を過ぎてから直ぐの町並みを書いています。

写真は上野公園(西郷さんの前辺りから)から撮影した上野広小路です。京成電鉄上野公園駅がまだ無いので、昭和8年12月以前の写真とおもわれます。同じ場所から撮影した写真と比べてください。

「雁鍋跡」
雁鍋>
  2010年11月23日 五條天神と世界の絵はがきを追加
 上野広小路と書けば必ず名前が登場するのが上野山下に在った料理屋『雁鍋』、『松源』、『揚出し』です。『松源』、『揚出し』は元黒門町ですので、そちらに任せて今回は『雁鍋』を紹介したいとおもいます。残念ながら佐多稲子の「私の東京地図」には登場していませんので、台東区教育委員会の「台東区の明治・大正・昭和」も参照したいとおもいます。
 先ずは佐多稲子の「私の東京地図」からです。
「…赤い衣の達磨の絵のある看板は、二品料理屋の「だるま」、そのとなりほ「鳥鍋」の支店、その先にずっと広く、奥の庭に鶴の遊んでいるのが見えるのは肉屋の「世界」。どこでも、半被に腹掛けの下足番が、きっちり脛をつつんだ黒股引の先に白い鼻緒の草履を突っかけて、独特のだみ声で、
「いらっしゃイ」
 と、うたう受っに呼びつづけている。
 水を流した石畳の広土間には、紐をつけた下足札をおいて、客の下足がずらりと幾側にも並べ
てある。撃かけたいちょう返しの女中が、大きな通い盆を片手に肩の上でささげて、梯子段を上り降りしている。
「え、二百六十三番さん、おあがりイ」
 と、下足番が客をむかえると、今度はかん高い女の声で、「いらっしゃアい」
 と、答える。…」

 上野駅のカードから中央通り左側を佐多稲子の「私の東京地図」で次の角まで順次紹介していくと、「だるま」、「鳥鍋支店」、「世界」となります。時期的には大正中期とみていいとおもいます。明治から大正初期まで有名だった『雁鍋』の場所を探します。
「五條天神跡」
 台東区教育委員会の「台東区の明治・大正・昭和」からです。
「… 京成酒楽を上野駅の方からくると、山下のカーブになっているところは、だるま、甲子、世界、米久、これらの間に五条天神があったんです。今の旧跡碑はうしろ側です。世界は雁鍋のあとで、菜漬け飯で売り、池に鶴がいて、そこの帳場の人が、のちに鳥鍋を開店したといいます。
 不忍池側は、揚出し、そこから表通りに二軒待合があって、次に丸万に入る石畳、その先がみやこ座、少しして山下がありました。丸万は大阪からきた料亭で、二階が座敷になっていて、池が見渡せたんです。…」

 台東区教育委員会の「台東区の明治・大正・昭和」で上野駅のカードから中央通り左側を順次紹介していくと、「だるま」、「甲子」、「世界」、「米久」、間に五条天神となります。添付の「明治40年代上野三橋付近図」によると、「だるま」、「?(読めない)」、「五条天神入口」、「大黒や?」、「甲子」、『雁鍋』、「金や」…となっています。
 手元には昭和10年の火保図がありますので、同じように紹介すると、「京成聚楽」、「米久支店」、「甲子本店」、「丸高ストア」、「世界本店」、「不動貯蓄銀行支店」となります。

上記の写真は正面、右から二番目のビルのところが『雁鍋』跡です。上記に書かれているとおり、雁鍋の跡は「世界」になっており、昭和10年の火保図で場所が特定できます。下記の地図を参照してください。「世界」の絵はがきがあるのですが、ひょっとしたら建物は「雁鍋」そのままかもしれません。
下記の写真はヨドバシカメラの裏側(アメヤ横町)にある五條天神跡の記念碑です。関東大震災や山手線の貫通に伴い、上野の山に転居しています。

「永藤パン、三橋亭跡」
「永藤パン」、「三橋亭」>
 中央通り、左側、昭和10年の火保図で「不動貯蓄銀行支店」の角から次の角までを紹介します。この一角には有名な「永藤パン」、「三橋亭」があります。
 佐多稲子の「私の東京地図」からです。
「…公園下の停留所の前は「永藤」パン店。ミルクと砂糖の焼ける匂いが何かを憧れさせるような新しさで、いつも客が店の中に詰めている。その左となりには古風な看板に「寛永
寺御用」と書いた、駿河屋という仕出し屋がある、右となりは洋食屋の 「三橋亭」。私はこの三軒の店の、どこかへ使いに行くところであろう。ガラス戸のある洋食屋の「三橋亭」には、たまに、「洋食が食べたい」と言い出す主人の子供たちの使いで、シチュウをあつらえにゆく。私の奉公先も料理店で、そこは「永藤」の側に向い合った池の端側にあったが、やっぱり花見客で料理場はごった返しているので、「奥」の子どもたちの食事をつくる暇がない。それでシチュウを三橋亭へあつらえにゆくこともある。その頃のシチュウは、今ではどこのレストランでも見かけない。肉と馬鈴薯と玉葱を、どろりとした汁ものに煮て、井ようのものに盛ってあった。白い帽子に白い前かけ姿の三橋亭の出前持が、すべて粋風の料理店の入口に入ってくるのはもの珍らしくさえあった。
 永藤パン店には殆ど毎日、餉パンや甘食パンや、ビスケットやキャラメルを買いに走る。また、「寛永寺御用」の駿河屋は、私の主人の家と親類の間柄であったから、ここへも毎日のように出入りした。…」

 中央通り左側を「不動貯蓄銀行支店」の角から佐多稲子の「私の東京地図」で次の角まで順次紹介していくと、「駿河屋」、「永藤」パン店、「三橋亭」となります。
 昭和10年の火保図がありますので、同じように紹介すると、「三河屋パン店」、「永藤ランチルーム」、「駿河屋」、(間に3軒)、「永藤パン店」、「三橋サロン」、2軒で角となります。

写真正面の一番大きいビルが「永藤パン店」(今は永藤ビル)、右隣が「三橋亭」跡、左隣の”みはし”という看板があるビルが「駿河屋」跡となります。

続きます。

 下記の地図は現在の地図に昭和10年の火保図を重ねたものです(カラーは現在の地図)。


佐多稲子の上野三橋町地図


佐多稲子年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 佐多稲子の足跡
明治37年  1904 日露戦争 0 6月1日 長崎市八百屋町四番戸に、田島政文、高柳ユキの長女として生まれる
明治44年 1911 辛亥革命 7 4月 長崎市勝山尋常小学校に入学
8月 母、結核で死去
       
大正4年 1915 対華21ヶ条、排日運動 11 11月 一家をあげて上京、本所小梅町に住む
12月 キャラメル工場に勤める
大正5年 1916 世界恐慌始まる 12 上野清凌亭の小間使いになる
         
大正9年 1920 国際連盟成立 16 再度上京、上野清凌亭の女中となる
大正10年 1921 日英米仏4国条約調印 17 日本橋丸善に勤める
大正12年 1923 関東大震災 19  
大正13年 1924 中国で第一次国共合作 20 4月 小堀槐三と結婚、蒲田に住む
大正14年 1925 関東大震災 21 2月 自殺未遂の後、離婚
昭和元年 1926 蒋介石北伐を開始
NHK設立
22 3月 .本郷道坂のカフェー紅緑に勤める