●サカトコ&マニアック (上)
    初版2014年2月15日  <V01L01> 暫定版

 今回はいつものテーマから離れて下北沢を取り上げます。昨年の夏にNHKBSで放送され録画しておいた坂崎幸之助さんと所ジョージさんが出演してる「サカトコ&マニアック」を見ていたら下北沢を歩きたくなって、放送された場面を一通り歩いてきました。今週から二回に分けて掲載したいとおもいます。当然ですがTVの画面は掲載できませんのでイメージで見ていただければとおもいます。




「東北沢6号踏切跡」
<「サカトコ&マニアック」の始まり>
 昨年の夏にNHKBSで放送された「サカトコ&マニアック」は坂崎幸之助さんがMCとなって単独もしくは所ジョージさんと一緒に下北沢のお店を廻ります。坂崎幸之助さんは昭和51年(1976)頃から下北沢に住んでいたようで、所ジョージさんがよく坂崎幸之助のところに来ていたと語っていました。当時、所ジョージさんが作詞作曲した”下北沢でお酒”という曲がカセットで残っており、映像で曲が流れていました。この曲は歌詞を少し替えて”JackPotでバーボンを”でCDになっているとおもいます(”JackPod”は(下)で登場します)。この曲は昭和56年(1986)8月にキャニオン時代の最後のアルバムとしてリリースされた「FUEL ALBUM」の中に入っています。吉田拓郎の”ペニーレインでバーボン”と名前がよく似ています。”ペニーレインでバーボン”は昭和49年(1974)のオリジナルアルバム「今はまだ人生を語らず」に収められている曲ですから、”JackPotでバーボンを”は後になるわけで、意識しているのだとおもいます。

上記は小田急の東北沢6号踏切跡です。この踏切の所まで小田急のプラットホームがあったとおもいます。NHKBSで放送された「サカトコ&マニアック」はこの踏切跡から始ります。坂崎幸之助さんが写真中央当たりにいると所さんが現れるわけです。下北沢の象徴的な踏切だったのだとおもいます。

「下北沢二丁目付近」
<よく通った茶店>
 小田急の東北沢6号踏切跡から坂崎幸之助さんと所ジョージさんは下北沢を歩きはじめます。次に登場するのが世田谷区北沢2丁目7−5と北沢2丁目9−25の間の道です(沖縄麺屋とGIORDANOの間)。この先のレコード屋(黄色いビル)の先の角にある喫茶店に良く行っていたそうです。残念ながら現在は無くなっていると語っていました。1980年代の住宅地図でお店を探しでみると、”ままびとや”、”だるま”、”みゆき”、”ひろ寿司”、”奥津”とお店が続くのですが、角だと推定ですが”ままびとや”ではないかとおもっています。

写真は世田谷区北沢2丁目7−5と北沢2丁目9−25の間の道(沖縄麺屋とGIORDANOの間)から北側方面を撮影したものです。左側先の黄色いビルは”鈴木ビル”のことだとおもいます。茶店があった附近の写真を掲載しておきます。

【坂崎 幸之助(さかざき こうのすけ、1954年4月15日 - )】
 ロックバンド・THE ALFEEのメンバーである。本名は坂崎 幸二(さかざき こうじ)。東京都墨田区出身。東京都立墨田川高等学校卒業、明治学院大学文学部英文学科中退。芸名は、自分の名前がインパクトがないため嫌だったことと、家の隣が電器屋だったことにより、パナソニックの創業者・松下幸之助にちなんでつけたそうです。アルフィーの初期のリーダーであり、今でもトークは坂崎が中心でギター、及びボーカル担当、ブルースハープ、パーカッション、マンドリン、ウクレレ、バンジョー、コードハープなども演奏する。実家は墨田区の酒屋・武蔵屋坂崎商店で、現在、坂崎の兄が経営しており、アルフィーのポスターなどが、貼られていることが、たけしのニッポンのミカタ!で紹介されたときに明らかになっている。アルフィーが売れない頃から、所ジョージと親交が厚く、所のアルバムでのアレンジ・ギター演奏の他、所とタモリのジョイントコンサートにギターで参加したり、映画『下落合焼とりムービー』での共演等もした。同じアパートで寝食を共にしていた時期もある。1970年代後半、『所ジョージのオールナイトニッポン』に2時半の男として登場。当時は「坂崎こうのとり」と呼ばれていた。番組当日、所と家で曲作りをして一緒にニッポン放送へ向かい、出来た曲を番組内で披露するということをしていた。所の初期の未発表曲で、本人が忘れている曲でも坂崎だけが憶えている曲があるという。後に、番組パーソナリティの座を譲られている。(ウイキペディア参照)


下北沢付近地図


「カラオケASIAN」
<キャバレー跡>
 次に坂崎幸之助さんは下北沢駅南口から当時住んでいたアパートまでの道筋を紹介しています。南口の改札口を出ると、”マクドナルド”の手前を左に曲がります。”三井住友銀行下北沢支店”の前を通って、”築地銀だこ”の所を左に曲がります。京王井の頭線のガードの出前左側に”カラオケASIAN”を見つけることが出来ます。この前に坂崎幸之助さんが立ってアパートへの道筋と、このカラオケ店の以前はキャバレーがあって良く呼び止められたと語っていました。良く呼び止められるので顔なじみになってしまったとのことです。当時のお店は”築地銀だこ”の角からは、角のビル(八百銀、みかさ)、”サロン舞子”、”鮨勝”、”イガール”の順でした。場所からすると”イガール”なのですが、このお店がキャバレーかどうかは分りませんでした。

写真は現在の”カラオケASIAN”です。坂崎幸之助さんのアパートへは京王井の頭線のガードの手前を右に曲がります。

「劇団白鳥座2階」
<坂崎幸之助さんのアパート>
 ”カラオケASIAN”の前を右に曲がると細い路地です。路地の左側は京王井の頭線の工事中です。当時も何もなかったとおもいます。この路地を少し歩くと右側に二階に上がる階段があります。当時はこの階段を二階に上がって左側の青山プラザビルに行けたようです(繋がっていた)。現在は隣のビルとの繋がりはなくなっています。現在は劇団白鳥座が入居している青山プラザビル二階左端に坂崎幸之助さんは入居していたようです。この路地を坂崎幸之助さんは”ションベン横丁(所さんの歌にある)”と呼んでいました。この階段の向い側に電柱があってこの電柱に向って・・…していたようです。

上記は現在の二階に上がる階段と左隣の劇団白鳥座です。劇団白鳥座の青山プラザビル二階左端はもうアパートではないようです。

「アンティカーユ」
<アンティカーユ>
 今回の最後は坂崎幸之助さんの好きなアンティークショップです。この放送では二軒紹介しているのですが今回は最初の一軒のみ紹介します。上記のアパートの直ぐ傍になります。劇団白鳥座の先の角を右に曲がった二軒目です。坂崎幸之助さんがアンティーク好きは有名です。特にビンやカメラが好きなようです。私が訪ねたのは昼頃だったのですがお店はシャターが閉まっていました。アンティークショップは店主の好きなときに店を開いているようです。

 写真に京王井の頭線のガードが見えていますが、京王電鉄について”うんちく”を一つ、関東の私鉄の中で最初に冷房率100%を達成したのが京王井の頭線なのは有名な話しですが、京王井の頭線の線路幅は狭軌の1067mmを採用しています(JRと同じ)。京王線の他の路線はどういうわけか馬車軌間と呼ばれる1372mmです。世界の標準軌は1435mmです。因みに京成電鉄、京浜急行、阪急電鉄、阪神電鉄、京阪電鉄、近畿日本鉄道(一部除く)、西日本鉄道は標準軌の1435mmです。東武鉄道、西武鉄道、東急電鉄、小田急鉄道、相模鉄道、名古屋鉄道、南海鉄道はJRと同じ狭軌の1067mmです。なぜ京王電鉄が中途半端な1372mmとなったかというと、路面電車として都電(昔は市電)との直通運転も考えたためとおもわれます。都電は馬車軌間と呼ばれる1372mmです(荒川線も同じです)。

上記は現在の「アンティカーユ」です。正面の人が歩いてる所のシャッターの閉まっているところが「アンティカーユ」のお店になります。

 続きます。


坂崎幸之助年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 坂崎幸之助の足跡
昭和29年 1954 スエズ動乱 1 4月15日 東京都墨田区立花で生まれる
実家は酒屋・武蔵屋坂崎商店
昭和35年 1960 三池闘争
新安保条約を可決
7 4月 墨田区立中川小学校入学※1
昭和42年 1967 寺山修司「天井桟敷」創設
ベトナム戦争
文化革命
第3次中東戦争
13 4月 墨田区立立花中学校入学※1
昭和45年 1970 大阪で日本万国博覧会開催
ビートルズ解散
16 4月 都立隅田川高等学校入学
昭和48年 1973 ベトナム停戦
巨人軍9連覇
19 4月 明治学院大学入学(2年で中退)
昭和49年 1974 小野田寛郎少尉帰国
セブンイレブン開店
20 8月 ALFIEでデビュー
昭和54年 1979 米中が国交樹立
ソニー「ウォークマン」発売
25 1月 ALFEEで再デビュー
昭和58年 1983 「おしん」の放送開始
任天堂がファミコン発売
29 6月 シングル「メリーアン」がヒット
         
      ※1:学区から推定