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最終更新日:2006年2月20日


●村上龍の東京を歩く 初版04/1/31 V01L01

 松本清張の「砂の器」をやっと終えましたので(三年かかった)、のびのびになっていました、「村上龍を歩く」を継続掲載します。前回は佐世保を歩きましたので、今週は昭和45年4月に上京してからを歩いてみたいとおもいます。

<龍がのぼるとき>
 村上龍の親父、村上新一郎氏が、自らのことと、息子の龍について書いています。新一郎氏は高校の先生であり、なかなかの文章力です。特に面白く読ましてもらったところは、村上龍が群像新人文学賞を受賞したときと、芥川賞を受賞したときの場面でした。「…五十一年四月十日午後七時五十分、群像新人文学賞受賞のしらせが入った。しかし、私はちかごろ文芸雑誌はほとんど読んでいなかったし、その価値については賞金十万円也だけしか分らなかった。久しぶりに「生徒会長」に選ばれた息子の父親ていどの控え目な悦びだった。「いつの間に小説なんか書いていたんだろう? 美術大学は小説も教えるのか、へんな奴」 ところが、さっそく新聞に五段抜きで書きたてられ、「文学」にくわしい人たちから昂奮した電話がかかってきたりして、周囲が騒がしくなった。新しく赴任したばかりの児童文化館はマスコミのインタビュー会場になってしまった。私や妻は息子のことで電話や訪問者があると、こんどは何をしでかしたのかとおびえるようになっていたから「受賞」にうまく対応できずに、記者諸君から「もっと嬉しそうな顔をしてください」とカメラをむけられても、やはり「犯人の父」みたいな表情になりがちだった。……七月五日、夜八時すぎ、息子の彼女から涙声による「芥川賞」受賞の一報が入った。折しも一日おくれで米軍基地からは独立記念日の打上げ花火が景気よく炸裂し、私たち家族三人は七年間の屈辱の日々を吹き飛ばすように肩を組んで狂喜乱舞した。……夢ではないかとNHKの荒川アナウンサーのニュースの録音をきいて、やっぱりほんとだと確めたり。「スタジオ一〇二」に出て高梨、山根アナウンサーと話している息子をみて娘といっしょに「かっこいい!」と叫ぶ。TVの伝達力のすごさもよく分った。放映中からはやくも「いまうつっていますよ」「いま、みてます」と電話が殺到するのだ。食事も出来ないし、トイレにも行けない。……」。 大拍手しばし止まずですね!!学校を封鎖したり、停学になるような息子でも、かわいくてしかたがないようで、やっぱり男の子は親父に似るようです!

【村上龍】
昭和27年(1952)長崎県佐世保生れ。学校教師の長男。佐世保北高校卒業後、45年上京、横田基地近くの福生に住む。47年:武蔵野美術大学入学、現在、造形学部基礎デザイン科在学中。「限りなく透明に近いブルー」で第19回群像新人文学賞を受賞した。本名村上龍之介 (講談社「限りなく透明に近いブルー」より)

左の写真が、村上新一郎氏の「龍がのぼるとき」の初版本です。絶版ですので、なかなか手に入りにくくなっています。

村上龍の東京 年表(一部推定)

和  暦

西暦

年    表

年齢

村上龍の足跡

作 品
昭和45年 1970 大阪万博
三島由紀夫割腹自決
17 4月3日 上京「美学校」に入学
西荻窪のアパートに転居
10月 東京都下の福生に転居
 
昭和47年 1972 日中共同声明 19 2月 西武新宿線下井草に転居
4月 武蔵野美術大学に入学
10月 東京都田無市に転居
 
昭和51年 1976 ロッキード事件
毛沢東死去
23 4月 中野区上高田に転居
4月 「限りなく透明に近いブルー」で群像新人文学賞を受賞
7月 同作品で第75回芥川賞も受賞
9月 高橋たづ子さんと結婚
限りなく透明に近いブルー

<美学校>
 昭和45年4月2日、村上龍は両親、友人たち達にに見送られて佐世保から上京します。美術大学を三校全部落ちた結果の、東京神保町の美術学校への入学でした。「…その一風変わった学校は御茶ノ水駅から歩いて十分ほどの、中小の出版社が並ぶ一角にあった。名前はシンプルで、ただの、『美術学校』というものだった。……当時すでに伝説的な存在となっていた寺山修司、唐十郎、澁澤龍彦、種村季弘、といった個性豊かな人々が講師を務める講義もあった。九州の田舎で、美術雑誌の広告ページにその『美術学校』の紹介を見つけた私は、親に黙ってすぐに申し込みのハガキを出した。その後、東京で話題になっている新しいタイプの美大専門の予備校だと嘘をついて、授業料を払い込んで貰い、入学資格を得たのだった。……とにかく佐世保という基地の町を出て、親と離れ、一人で生活したかったし、東京はきっと刺激に充ちているのだろうと思っていて、『美術学校』のような場所には個性的で面白い人間が集まつてきているのではないかという期待があったのだった。…」。村上龍が入学した御茶ノ水駅に近い美術学校とは、現代思潮社経営の「美学校」で、シルクスクリーン科に入学しています。しかし、残念ながら半年で除籍したようです。

左上の写真が入学した現代思潮社の「美学校」です。神保町の交差点のすぐそばです。

<井之頭公園北側のボロアパート(推定)>
 村上龍が上京後、最初に友人たちと一緒に住んだのが、この井之頭公園北側のアパートでした。「…十八歳の頃だった。九州の基地の街から上京したばかりで、井之頭公園の北側にある木造のボロアパートに数人の仲間と一緒に住んでいた。ブルースバンドを組んでいた連中で、東京でプロとして成功するという目標を持っていた。私もドラムスをやっていたのだが、田舎のブルースバンドを続けていくことに情熱はなかった。とにかく親元を離れたくて、予備校に行くという条件で上京し仕送りを貰っていた。他の仲間は、ディスコやライブハウスのボーイをしたり、キャバレーのウエイターをやりながら、プロとしてデビューできるきっかけを捜していた。一緒に住むことにしたのは、自分でアパートや下宿を捜すのが面倒だっただけだ。…」。村上龍は誰よりも早く、東京に染まっていったようです。

右の写真左側が井之頭公園北側のアパートです。写真の右側が井之頭公園になります。昭和45年の当時に、井之頭公園北側でアパートがあったところはこの付近しかなく、数軒建っていました。いまはすべて建て直されて、小綺麗なアパートに変身しています。。


●西荻窪のアパート(所在不明)
 村上龍は友人たちと一緒に住む事をあきらめ、西荻窪にアパートを借ります。「…アパートはすぐに見つかって、場所は西荻窪と近かったのでタクシーを使って少ない荷物を運んだ。四畳半の小さな部屋で…」。所在が不明です。


●米軍基地のある福生へ
 昭和45年10月、村上龍は西荻窪から福生へ移っていきます。「…西荻窪の狭いアパートに住んでいた当時十八歳の私は、ある出会いをきっかけにアメリカ空軍の基地の街である福生へと移っていくことになる。…」。別途「福生」を特集します。


●西武新宿線下井草へ(所在不明)
 昭和47年2月、村上龍は福生から西武新宿線下井草へ転居します。「…。私は西武新宿線の下井草に小さな部屋を借りていて…」。所在が不明です。


<田無 蓬莱荘>
 村上龍は昭和47年4月、武蔵野美術大学に入学し、秋に田無に転居します。「…四十七年秋の二十六回二紀展に三年ぶりに上京した。三年間上京しなかったのは息子がタメになっている東京へは行きたくなかったからだが、春の決定的事件後、さすがのパケモノ息子も神妙な大学生になったらしいのでようすを見ようと出かけたわけだった。 田無のアパートは画材やガラクタの山で、預をぶっつけたり、灰皿につまづいたりの狭い部屋だったが、やっと落着いた感じの息子と男同士の三日間はホノポノとしたものだった。同じ長崎出身の「一力」というトンカツ屋さんで、橋口君(私の教児で竜の武蔵美の先輩の好青年)も招き、三人で飲んだビールもうまかった。…」。父親の新一郎氏が東京の息子を訪ねます。

左の写真が、現在の蓬莱荘です。当時のまま建っていました。玄関に古い看板がそのまま架かっていました。田無市は保谷市と合併し、平成13年1月、西東京市となっています。

<中野区上高田 東ビル>
 昭和51年、村上龍は、群像新人文学賞を受賞しますが、既に中野区上高田の東ビルに移っていました。現在の奥様の高橋たづ子さんとは同じ年の9月に結婚していますが、この上高田は奥様の実家の近くです。昭和48年頃、奥様が浜松町の貿易センタービルでヤマハ音楽教室のエレクトーンを教えていたときに、村上龍が警備員のアルバイトをしていて、出会ったようです。奥様の実家は西武新宿線沿線にあります。

右の写真が中野区上高田の東ビルです。このビルの3Fの2DK家賃5万3千円に住んでいました。

次回は福生を歩く予定です。


村上龍の東京地図 -1-


【参考文献】
・限りなく透明に近いブルー:村上龍、講談社
・69:村上龍、集英社
・映画小説集:村上龍、講談社
・龍がのぼるとき:村上新一郎、講談社
・群像日本の作家「村上龍」:小学館
・ジャズと爆弾:中上健次、村上龍、角川文庫
・ユリイカ 村上龍:青土社
・村上龍自選小説集:村上龍、講談社
・村上龍全エッセイ:村上龍、講談社文庫


 
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