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最終更新日:2006年2月20日


●村上龍の佐世保を歩く 初版04/1/4 V02L01

 2004年の初回の掲載は「村上龍を歩く」から始めたいとおもいます。村上春樹の掲載を始めたときから、両村上で、村上龍を取り上げなくてはいけない、とおもっていたのですが、タイミングが遭わずに、2004年になってしまいました。今回の”村上龍取材”には全国の方々に協力して戴きました。ご協力頂いた皆様ありがとうございました。

<昭和51年上期芥川賞受賞>
 村上龍が「限りなく透明に近いブルー」で芥川賞を受賞したときの衝撃を今でも覚えています。最初は、こんな小説が芥川賞かとおもったのですが、読んでいるうちに、のめり込んでいった覚えがあります。中上健次が村上龍との対談の中で、「…それで、きちんと僕はここへ出てきて批評しなくちゃいけないというのは、村上さんの小説で、これは十年前の新宿といってもいいんだけど、福生と新宿の違いみたいな形がある。僕も経験したことだけど。それを十年間のカルチャー・ラグとでも言おうか?(笑)大江・石原を第一のアプレゲールとすると、僕なんかが第二のアプレで君が第三のアプレ。(笑)村上 …………。(笑)…」、と発言しています。第三のアプレとは、”戦後の民主主義的人間の三番目のタイプで、資本主義的影響の濃いティーン・エイジャー等の若い世代”を表していると考えていいとおもいます。アプレとは、”戦後”と訳すのがピッタリです。中上健次と村上龍との対談本は、「中上健次VS.村上龍、俺たちの船は、動かぬ霧の中を、纜を解いて」、という角川の本で、途中から文庫本になり、「ジャズと爆弾」という名称に変わっています。再発行されておらず、中古市場でも数千円の高値が付いています。芥川賞に戻りますが、前年に中上健次が「岬」で芥川賞を受賞しています。下記に当時の紹介文を載せておきます。当時、第三のアプレにピッタリの小説家が出てきたという感じです。

【村上龍】
昭和27年(1952)長崎県佐世保生れ。学校教師の長男。佐世保北高校卒業後、45年上京、横田基地近くの福生に住む。47年:武蔵野美術大学入学、現在、造形学部基礎デザイン科在学中。「限りなく透明に近いブルー」で第19回群像新人文学賞を受賞した。本名村上龍之介 (講談社「限りなく透明に近いブルー」より)

左の写真が、村上龍の「限りなく透明に近いブルー」の初版本です。発行部数が多いので手に入りやすいです。

村上龍の佐世保 年表

和  暦

西暦

年    表

年齢

村上龍の足跡

作  品
昭和27年 1952 「君の名は」大ヒット 0 2月19日 長崎県佐世保市に生れる
昭和33年 1958 東京タワー完成 6 4月 佐世保市立御船小学校入学
 
昭和39年 1964 東海道新幹線開業
東京オリンピック開催
12 4月 佐世保市立光海中学校入学  
昭和42年 1967 東京都知事に美濃部亮吉 15 4月 長崎県立佐世保北高等学校入学  
昭和45年 1970 日航よど号事件、三島由紀夫自決 17 3月 佐世保北高校を卒業し上京
 

<佐世保の米軍キャンプ>
 村上龍が佐世保について、「基地の街に生まれて」というエッセイで書いています。「言うまでもなく、港は外に開かれた交通の接点である。佐世保は、旧帝国海軍の鎮守府工廠から、引き揚げ者の中継地となり、そして、占領軍の街となった。私が育った家からは佐世保湾が見渡せる。 狭い平野部のほぼ中央に米軍基地はあり、朝夕には、アメリカ国歌に合わせて星条旗がはためいた。考えてみると、アメリカは、日本の歴史始まって以来の、「占領軍」だった。私の町内にもオンリーの住まいがあり、悪い子供達はその寝室や風呂場をよく覗いたものだが、私は、「武装した外国人によつて自国の女が飼われる」のを目撃した最初の世代なのである。古来、侵略や占領には、技術・文化・情報を伝播するという見のがせない側面もあった。もちろん、貨幣・言語の強要や、労働・サービスの強制といったこともある。……黒船に近代化を迫られた時も、植民地獲得競争に参加した時も、そして最近のニクソン・ショック、石油ショックの時も(恐らく、漢字や仏教やキリスト教やマルクス主義が入ってきた時も)、日本は世界で最もヒステリックな大騒ぎをして、恐らく世界で最も上手に適応できたのである。…」。佐世保の米軍キャンプが最もふくれあがった時はベトナム戦争が最も盛んだった頃、1970年前後だったとおもわれます。その頃、村上龍は高校生であり、最も影響されやす世代だったわけてす。

左の写真が米海軍佐世保基地の入口ゲートです。昔にくらべると、米軍兵士の姿も減り、町もケバケバしい横文字を掲げた米軍相手の店から、日本の何処でも見られる普通のお店に変わってしまっています。

<自宅>
 村上龍の両親は教師であり、両親が働いている間は祖父母に預けられていました。村上龍の父親、村上新一郎氏は息子について、「龍がのぼるとき」という本を書いています。「…息子が三歳になった春に三キロちょっと離れた山の中に、十坪ワンルームのロッジ風アトリエを建てて移った。息子も元気よく順調に成育していて、せまい部屋や庭に祖父母と置いておくのも窮屈そうだし、基地公害の風俗紊乱も孟母三遷のおしえとまでは考えなくても、頭にくることだったし、息子が三歳になった春に三キロちょっと離れた山の中に、十坪ワンルームのロッジ風アトリエを建てて移った。……息子が小学一年の年、娘が生れた。そのために山小舎の生活をやめて、再び実家に隣接する家屋を手に入れて移った。…」、と佐世保の自宅の変遷について書いています。三キロ先の山の中のロッジ風アトリエについては、場所が分かりませんでした。

右の写真が現在の村上新一郎氏の自宅です。上記に書かれている”実家に隣接する家屋”とおもわれます。村上龍も自宅について、「69」の中で書いています。「…マツナガは、毎日、補習や授業の後で、高台にある僕の家と、アダマの炭鉱町までバスに乗って通っていたことになる。僕の部屋からはバス停が見える。バス停からは細い坂道と階段をえんえんと登らねばならない。いつも、マツナガはその坂を歩いて、やって来た。途中何度も立ち止まって休みながら。元肺病みの教師が、説教をするのでもなく、顔にびっしょり汗を浮かべて、ただ、元気でやってるか?と言うだけのために足を運んでくる…………僕の中で、マツナガに対する軽蔑が消えた。…」、ここで書かれているバス停は「矢岳町バス停」です。このバス停から坂道を登っていくと村上龍の自宅になります。

<御船小学校>
 村上龍は両親が共稼ぎのため、祖父母に面倒をみられながら、小学校に通い始めます。「…当時、昼間は三キロほど離れた祖父母に面倒みてもらっていた息子はつい小学生の群についていって帰れなくなったりする失踪事件が三回ほど連続した。……祖父母の面倒見は、ありがたすぎる周到なものだったが周到細心すぎても子どもは満足しない。息子夫婦が留守のときに孫に万一の事があったら、たいへんだという気持をいつも意識しているものだから、「あぶない」「いったらダメ」の規制が多くなるし、引き止めるために過保護にも陥ってしまう。三回目の失踪のときは五、六人でたのしそうにおしゃべりしながら下校する山の子たちについて行って帰れなくなり、祖母は気が狂いそうになって探しまわった。息子はそんなに言うこときかないなら、バアチャンと死のうと真剣に叱られ、祖母の思いつめた迫力を怖がって失踪はやめた。…」。小学校の頃から放浪癖があったようです。この当時の出来事が今の村上龍をつくる原点になっていますね。村上龍が通っていた小学校は佐世保市立御船小学校でしたが、少子化の影響か、御船小学校と近くの琴平小学校が合併して、金比良小学校に名称変更されました。場所は御船小学校の場所のままです。

左の写真の正面やや左側が現在の金比良小学校です(旧御船小学校)。車が停まっていて、正門が見えません。

<光海中学校>
 村上龍が通った中学校は、金比良小学校(旧御船小学校)のすぐ横です。「…小学校と中学校は米軍基地のすぐ傍だったので、授業中、窓の外で米兵とパンパンがキスするのをよく眺めた。教師は慌ててカーテンを引くのだった。基地のない町ではカーテンを引く必要がなかっただけで、日本国内で米兵と日本女性がキスを繰り返していたのは間違いない。…」。写真の右端やや上に写っているのが、米軍住宅です。村上龍が書いている程は、傍にはありませんが、日本中でこんなに近くにある中学校はここのみでしょう。

右の写真の左側が光海中学校です。写真の右側正面の丘の上に米軍住宅が広がっています。

<佐世保北高等学校>
 村上龍は成績優秀で、佐世保一の進学校である「佐世保北高校」に進学します。しかし、時代は折しも学園紛争の最盛期でした。当時のことを父親である村上新一郎氏は、「…奄美失踪から半年しか経たない七月十九日、一学期終業式の早朝、国体拒否の学校封鎖事件をひきおこした。TV、ラジオ、新聞が天下の一大事のように騒ぎ立てて、オポチュニストの多い佐世保市民を驚かした。まさかと思っていたら、事件後二日目に刑事が参考人として息子を連行し、なんと首謀者だったと分って、またもや家族は血の気をなくした。息子高校三年、卒業まであと半年を残しているだけなのに。退学はまちがいあるまい。校門の柱にも校舎の壁にも「北高解体」 「学園解放区」 「国体粉砕」などスプレーペイントで大書し、屋上から垂幕まで吊した暴挙はただでさえ処分の厳しい名門校のことだから有無を言わさず「退学」を予期しなければならなかった。……昭和四十四・八・一(金) 雨時折豪雨、処分伝達の日。八時三十分、龍と富士子を北高へ送る。「泥棒やケンカしたんじゃないから堂堂としとけ」という。…九時四十分、富士子より報告電話。「無期謹慎でした。退学はまぬがれました」温情あふるる玉城学校長は「将来ある若者を殺すようなことはしません」と諭されたとか。…」、と当時のことを書いています。三年生の夏休前の行動です。刑事に佐世保署へ連れて行かれたわりには軽い処分で、結局、三ヶ月の謹慎処分ですんでいます。因みに、オポチュニストとは、よく言うと”楽観主義者”、普通は”日和見主義者”です。

左の写真が、現在の佐世保北高校です。門の中の建物は村上龍が在学していた当時から建て直されているそうです(Kさんよりメールを頂きました)。卒業式も大変だった様です。「昭和四十五・二・ニ十五 (火)雲 龍坊、北高卒業式。「血迷うなよ」「分っています。何かやりたくなったら退場するから」。富士子に龍の近くの席をとり、何かやりはじめたら取り抑えるよう指示して出勤。美術室のラジオをつけっ放しで異常に対応準備。式場乱入寸前の十八名逮捕のニュース、胸が痛む。どうして機動隊を呼ばねばならなかったのか。息子は君が代斉唱前に退場して無事。家の近くまで数名の先生のお伴をつれて帰宅。富士子が卒業証書をもらってくる。…」。自分自身の高校の卒業式を思い出しました。

<佐世保駅>
 村上龍は、どうにか佐世保北高校を卒業する事が出来たようです。三年生の間、学校封鎖等で、全然勉強には手がつかなかったようで、希望の美大には合格せず(「映画小説集」の中で、「…美術大学を三校も受験して全部学科で落ちた…」と本人は書いています)、東京の神保町にある現代思潮社の美学校に入学しています。東京への出発の日の様子を、父親の村上新一郎氏が書いています。「昭和四十五・四・ニ(木) 小雨 日航よど号乗っ取り事件三日目の慌しいニュースの中を龍坊は東京へむかった。はじめての大都会で何をしようというのだろう。十六時十六分、「さくら」号は出発した。駅に見送りに来ていた数名の龍の仲間たちがヒッピー風の不快な風態なのでホームへ出ず。発車と同時に列車を追う。早岐−有田間を列車と並行して走り、目近に籠坊の笑顔とVサインを確認。武雄、北方まで五十キロもの追走。「行ってしまった」妻も娘も無言のまま雨の中を帰る。息子の上京をいつも追走…」。いつも息子の事を心配しているお父さんです。

右の写真が当時の国鉄佐世保駅構内に停車している特急寝台列車「さくら」です。「さくら」の寝台車食堂車の写真も掲載します。現在の佐世保駅は、駅前も含めてすべて建て直され、高架化されています。特急寝台列車「さくら」は現在、長崎-東京間のみで運転しています。村上龍は、この寝台特急列車「さくら」に乗って上京した時の事を「映画小説集」の中で書いています。「…「さくら号」という特急寝台は佐世保・長崎から二十時間ほどかけて東京に着く。…特急寝台は夕方に出発し、陽が暮れる前に座席がベッドに変わってしまう。三段に分かれたベッドに横になるか、窓際の収納式の小さな椅子に坐わるか、あるいは立ったまま外を眺めるしかない。収納式の小さな椅子は六人分のベッドにつき一つの割り合いで、数が少なかった。私はそういう割りあての少ないものを自分のものにするという才能に昔から長けていた。…」。寝台列車のことがよくわかります。

特急さくら関連写真は、客車空気調和装置資料室、中村光司氏の厚意により公開させていただいています。なお、写真の公開について、待野洋二氏にもご協力頂いております。ありがとうございました。


村上龍の佐世保地図 -1-


【参考文献】
・限りなく透明に近いブルー:村上龍、講談社
・69:村上龍、集英社
・映画小説集:村上龍、講談社
・龍がのぼるとき:村上新一郎、講談社
・群像日本の作家「村上龍」:小学館
・ジャズと爆弾:中上健次、村上龍、角川文庫
・ユリイカ 村上龍:青土社
・村上龍自選小説集:村上龍、講談社
・村上龍全エッセイ:村上龍、講談社文庫


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