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最終更新日:2006年2月20日


●村上龍の福生を歩く 初版04/2/7 V01L01

 今週は「村上龍を歩く」の三週目を掲載します。前回は昭和45年4月に上京してからを掲載しましたので今週は「限りなく透明に近いブルー」の原点になった米軍横田基地がある福生を歩いてみました。

<横田基地>
 村上龍は上京してから、わずか6ヶ月で、東京23区内から都下福生市に転居します。福生市には米軍の横田基地があり、佐世保とはかなり雰囲気の近い町でした。「飛行機の音ではなかった。耳の後ろ側を飛んでいた虫の羽音だった。蠅よりも小さな虫は、目の前をしばらく旋回して暗い部屋の隅へと見えなくなった。天井の電球を反射している白くて丸いテーブルにガラス製の灰皿がある。フィルターに口紅のついた細長い煙草がその中で燃えている。洋梨に似た形をしたワインの瓶がテーブルの端にあり、そのラベルには葡萄を口に頬張り房を手に持つた金髪の女の絵が描かれてある。グラスに注がれたワインの表面にも天井の赤い灯りが揺れて映つている。テーブルの足先は毛足の長い絨毯にめり込んで見えない。正面に大きな鏡台がある。その前に座つている女の背中が汗で濡れている。女は足を伸ばし黒のストッキングをクルクルと丸めて抜き取った。……」、これは「限りなく透明に近いブルー」の書き出しです。彼の文章には、常に米軍の影が入っているようにおもえます。

【村上龍】
昭和27年(1952)長崎県佐世保生れ。学校教師の長男。佐世保北高校卒業後、45年上京、横田基地近くの福生に住む。47年:武蔵野美術大学入学、現在、造形学部基礎デザイン科在学中。「限りなく透明に近いブルー」で第19回群像新人文学賞を受賞した。本名村上龍之介 (講談社「限りなく透明に近いブルー」より)

左上の写真は米軍横田基地の正門です。昨年8月に開催された横田基地日米友好祭開催の機会をとらえて写真撮影もおこなってきました。天候にも恵まれて大変な人出でした。

村上龍の福生 年表

和  暦

西暦

年    表

年齢

村上龍の足跡

作 品
昭和45年 1970 大阪万博
三島由紀夫割腹自決
17 4月3日 上京「美学校」に入学
西荻窪のアパートに転居
10月 東京都下の福生に転居
 
昭和47年 1972 日中共同声明 19 2月 西武新宿線下井草に転居
4月 武蔵野美術大学に入学
10月 東京都田無市に転居
 

<福生ジャパマー・ハイツ>
 村上龍が移り住んだ福生の場所については、「限りなく透明に近いブルー」で福生の横田基地に近いアパートしか分からなかったのですが、「真昼の映像・真夜中の言葉」のなかに、「限りなく透明に近いブルー」の撮影日記が書かれており、その中に「…我々は未だ、リュウのアパートのロケセットを決めることができていなかった。シナリオ上、僕のイメージ上、米軍基地が近くにあることを匂わす場所にある鉄筋三階建てのアパート、屋上があり、その屋上からは基地が見える、最近福生でも急激に建ち始めた建て売り住宅が目立ってはならない、付近には外人が住んでいる、等の条件を満たさなくてはいけない。準備を開始して一カ月、福生、立川の周辺を徹底的に捜したが、その全ての条件を満たすアパートはない、との古川さんの結論だった。基地の南側沿いの国道16号線の近く、横田基地12番ゲートを過ぎたあたりに、ジャバマーハイツという外人専用のアパートがあり、それが残った唯一つの候補だつた。しかし、そのアパートの屋上は軟質のため撮影隊は上がることができない、屋上のシーンを考え直すことが可能ならば、使用できる。とりあえず僕はジャバマーハイツをリュウのアパート・ロケセットに決定した。…」、とありました。ジャバマー・ハイツに本人が住んでいた様には書いていませんが、殆ど間違いないとおもわれます。昭和51年(1976)年8月28日号の「微笑」には”ジャパマと呼ばれるハイツが住居”と書かれており、また、女性自身には鉄筋三階建てのアパートの写真が掲載されていました。

左上の写真左側が鉄筋三階建てのジャパマー・ハイツ跡(住宅が建っている所)です。正確には当時のジャパマー・ハイツ跡です。写真右側に小さく見えるアパートが現在のジャパマー・ハイツです。

<米軍ハウス>
 村上龍が福生に住みだしたのは昭和45年で、ベトナム戦争はまだ続いており、サイゴンが陥落する昭和50年までは、米空軍の横田基地はかなりの人員を抱えていたとおもわれます。基地内だけではなく、基地外にも米軍要員は住居を求めており、そのための建物が米軍ハウスと呼ばれる、庭がある白い平屋の家でした。当時はかなりの数の米軍ハウスがあったようですが、ベトナム戦争後の米軍の縮小で空き家が目立つようになり、日本人が住み始めます。「…リリ−の車のさらに向こう側に黒い壁の小さな家がある。ペンキはところどころ剥げ落ちて、U−37とオレンジ色で表示されている。その黒い壁の部分で、細い雨は、はっきりと降っているのがわかる。その屋根の上に灰色の絵具を何度も重ね塗りしたような重そうな雲に被われた空がある。あの限られた長方形の視界の中で、その空の部分が最も明るい。…」、と「限りなく透明に近いブルー」ではハウスを黒色と書いていますが、実際は白が多いようです。

右の写真が米軍ハウスの一つです。見たとおりで、家の前には駐車場があり、平屋の白い建物が特徴です。福生市自体が米軍の減少にともなって、アメリカ色がかなり薄まっており、ハウス自体もそうとう数が減っており、あと何年かで無くなってしまうのではないでしょうか。

<飲食店街>
 米軍向けの特殊飲食店街とでも表現した方かいいのでしょうか、でも、現在は昔の面影はほとんとなくなったと言っていいでしょう。やはり米軍の数が減ったのが一番の原因のようです。通りの看板や壁の絵は昔の雰囲気が残っていますので、好きな方は今のうちです。村上龍がよく通っていたボロン亭(ぼろん亭)という喫茶店がこの飲食店街の外れにあったのですが、現在は普通の住宅に建て直されていました。アメリカナイズされた当時の建物はどんどん無くなっているようです。

左の写真は飲食店街の中心にある壁の絵です。飲食店街の写真も掲載しておきます。

<福生病院>
 「…松葉杖の男はバスの停留所のペンチに腰かけ、時刻表を見ている。「福生総合病院前」停留所の標識にはそう表示してある。大きな病院は左手にあり、扇形に広い中庭では浴衣を着た十数人の患者達が看護婦の指導で体操をしていた。全員が足首に厚い包帯をし、笛に合わせて腰や首を曲げる。病院の玄関に向かう人達が患者達を見ていく。「俺、きょうお前の店に行くよ、モコやケイにパーティーのこと伝えたいし、あいつら、きょう来るかなあ?」…」。「限りなく透明に近いブルー」で、数少ない固有名詞が出てくる場面です。福生病院の前にはバス停もあり、書かれている通りでした。

右の写真が福生病院です。当時から建物は変わっていないとおもわれます。映画の撮影では、近くの福生大聖病院が使われています。

次回は村上龍の"続、東京を歩く"です。


村上龍の福生地図


【参考文献】
・限りなく透明に近いブルー:村上龍、講談社
・69:村上龍、集英社
・映画小説集:村上龍、講談社
・龍がのぼるとき:村上新一郎、講談社
・群像日本の作家「村上龍」:小学館
・ジャズと爆弾:中上健次、村上龍、角川文庫
・ユリイカ 村上龍:青土社
・村上龍自選小説集:村上龍、講談社
・村上龍全エッセイ:村上龍、講談社文庫
・真昼の映像・真夜中の言葉:村上龍、講談社

 
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