●魯山人の山代温泉を歩く
    初版2016年6月4日 <V01L02> 暫定版

 「北大路魯山人を歩く」の続編です。今回は石川県加賀市の山代温泉を歩いてきました。加賀市は昭和33年に市町村が大合併して誕生した比較的新しい市です。大正4年秋、魯山人は金沢の細野燕台氏に連れられて山代温泉をを訪ねます。


「陶説 86号」
<「陶説 北大路魯山人伝」 吉田耕三>
 白崎秀雄氏の「北大路魯山人」と山田和氏の「知られざる魯山人」だけではよく分からないところがあるので、最初に戻って、「陶説」の昭和35年(1960)5月 86号から1年半掲載された吉田耕三氏の「北大路魯山人伝」を新たに掲載します(これが魯山人の経歴について書かれた最初の評伝です)。住所等が記載されたハガキや封筒が残っていれば正確な場所がわかるのですが、人からの伝聞のみで書いているケースがほとんどで何方のが正しいのかよく分かりません。困ったものです。

 「陶説」に1年半掲載された吉田耕三氏の「北大路魯山人伝」から、山代温泉に現れたころです。
「… 扨て、金沢に来て、燕台氏の処で厄介になるようになつて以来、房次郎は燕台氏が日常愛用している酒器や食器類に強く興味を覚えた。徳利、小向はおるか皿、小鉢がら花器に至るまで、殆んどが燕台氏の自作のものばかりであつたのだ。勿論、燕台氏は本職の陶芸家ではない。山代に窯を持つ須田菁華が煎茶仲間で深い付合いから、山代に出向いた折は菁華の窯に立ち寄つて、職人に注文をつけてはロクロをひかせ、自分で絵付けをして焼いて貰つていたものなのだ。特に煎茶器などは又人燕台氏の個性が躍如としていた。菁華窯のだけに、それらは多くが精巧な磁器で、古染付や呉須赤絵風あり、或は吉九谷風あり金欄手ありだが、おしなべて皆ザングリとしたものばがりであつた。絵付はもとより、詩文を書いた字体やその筆致など、職人には到底描けぬ、実に愛すべきものであつた。…」
 下記にある2名の評伝も含めて比較すると、一番詳細に書かれているようにおもえます。ただ、最初にも書きましたが、内容は人伝えの伝聞がほとんどです。ただ魯山人から直接聞くことができた唯一の人です。下記の二人の評伝はこの吉田耕三氏の「北大路魯山人伝」が元になっていることは確かです。ただ、この魯山人伝は裏付け調査をほとんどしていないようで、間違いも多そうです。

【北大路魯山人(きたおおじ ろさんじん 1883年(明治16年)3月23日 - 1959年(昭和34年)12月21日)は、日本の芸術家。本名は北大路 房次郎(きたおおじ ふさじろう)】
 晩年まで、篆刻家・画家・陶芸家・書道家・漆芸家・料理家・美食家などの様々な顔を持っていた。
 明治16年(1883)、京都市上賀茂(現在の京都市北区)北大路町に、上賀茂神社の社家・北大路清操、とめ(社家・西池家の出身)の次男として生まれる。生活は貧しく、魯山人の上に夫の連れ子が一人いた。魯山人が生まれる前に父親が自殺、母親も失踪したため親戚をたらい回しにされる。一度農家に養子に出されるが、6歳の時に竹屋町の木版師・福田武造の養子となり、10歳の時に梅屋尋常小学校を卒業。烏丸二条の千坂和薬屋に丁稚奉公に出された。明治36年(1903)、書家になることを志して上京。翌年の日本美術展覧会で一等賞を受賞し、頭角を現す。明治38年(1905)、町書家・岡本可亭の内弟子となり、明治41年から中国北部を旅行し、書道や篆刻を学んだ。大正4年(1915)、福田家の家督を長男に譲り、自身は北大路姓に復帰。その後も長浜をはじめ京都・金沢の素封家の食客として転々と生活することで食器と美食に対する見識を深めていった。大正6年(1917)便利堂の中村竹四郎と知り合い交友を深め、その後、古美術店の大雅堂を共同経営することになる。大雅堂では、古美術品の陶器に高級食材を使った料理を常連客に出すようになり大正10年(1921)会員制食堂・「美食倶楽部」を発足。自ら厨房に立ち料理を振舞う一方、使用する食器を自ら創作していた。大正14年(1925)には東京・永田町に「星岡茶寮(ほしがおかさりょう)」を中村とともに借り受け、中村が社長、魯山人が顧問となり、会員制高級料亭を始めた。昭和2年(1927)には宮永東山窯から荒川豊蔵を鎌倉山崎に招き、魯山人窯芸研究所・星岡窯(せいこうよう)を設立して本格的な作陶活動を開始する。1928年(昭和3年)には日本橋三越にて星岡窯魯山人陶磁器展を行う。魯山人の横暴さや出費の多さから、昭和11年(1936)星岡茶寮の経営者・中村竹四郎からの内容証明郵便で解雇通知を言い渡され、魯山人は星岡茶寮を追放、同茶寮は昭和20年の空襲により焼失した。戦後は経済的に困窮し不遇な生活を過ごすが、昭和21年(1946)には銀座に自作の直売店「火土火土美房(かどかどびぼう)」を開店し、在日欧米人からも好評を博す。昭和29年(1954)にロックフェラー財団の招聘で欧米各地で展覧会と講演会が開催され、その際にパブロ・ピカソ、マルク・シャガールを訪問。昭和30年には織部焼の重要無形文化財保持者(人間国宝)に指定されるも辞退。昭和34年(1959)に肝吸虫(古くは「肝臓ジストマ」と呼ばれた寄生虫)による肝硬変のため横浜医科大学病院で死去。平成10年、管理人の放火と焼身自殺により、魯山人の終の棲家であった星岡窯内の家屋が焼失した。(ウイキペディア参照)

写真は「陶説」の昭和35年(1960)5月発行の86号です。ここから1年半、吉田耕三氏の「北大路魯山人伝」が掲載されます。ただ、きっちり毎月掲載された訳では無く、途中、2回休んでいますから、18回掲載で昭和36年12月まで掛かっています。昭和36年12月号を見ると、最後に”つづく”と記載があるのですが、その後の号を見ても”つづき”がありません。突然掲載がとり止めになったという感じです。中止になった理由がよく分かりません。

【吉田 耕三(よしだ こうぞう、1915年 - )】
 神奈川県横浜市出身の美術評論家。日本画家の速水御舟の甥。御舟から日本画を学び、御舟の日本画の鑑定人を務める。現代陶芸の旗手といわれた加守田章二の才能を認める。陶芸の公募展・日本陶芸展創設を企画する。東京美術学校(現・東京藝術大学)日本画科卒業。復員後、世界的な陶磁学者で陶芸家・小山冨士夫の助手となり、その後、東京帝室博物館(現・東京国立博物館)陶磁器主任で、陶磁器の批評と収集の天才といわれる北原大輔、人間国宝・荒川豊蔵、百五銀行頭取で陶芸作家・川喜田半泥子から焼き物に関する学問と技術を学ぶ。北大路魯山人の弟子でもある。東京国立近代美術館の創立時から勤務して日本画と工芸を担当し、総括主任研究官などを歴任。日本伝統工芸展鑑査委員、日本陶芸展運営委員・審査員を務める。(ウイキペディア参照)

「北大路魯山人」
<「北大路魯山人」 白崎秀雄(前回と同じ)>
 魯山人の伝記としては吉田耕三氏の次に書かれた本で、白崎秀雄氏が昭和46年(1971)に文藝春秋社より出版したものです。白崎秀雄氏はその後何度か加筆修正し、昭和60年(1885)に新潮社より再度出版されています。最初は吉田耕三氏の「北大路魯山人伝」を鵜呑みにして書いていたようですが、間違いに気づき、修正を加えたようです。文庫本化は平成9年(1997)、中央公論社より、続いて平成25年(2013)ちくま文庫として最新版が出版されています。

 白崎秀雄氏の「北大路魯山人」から山代温泉について書かれた項です。
「… この年晩秋、燕台は大観を同県下の江沼郡山代温泉につれて行った。
 吉野屋旅館に投じて、その昵懇の主人吉野治郎や附近に住む陶工須田菁華に看板の注文を懇請した。趣味家の吉野は、大観の書を一見するや好感をもち、ただちに応じてくれた。菁華も、同様である。
 大観は、途中で一度金沢の細野方へ帰ったが、その年の暮から翌年の春を、吉野屋の裏手にあるその別荘で過した。
 「ありや、ただの男でないぞ」
 吉野はそういって、附近の内湯旅館数軒が、いずれも屋号の看板を依嘱するよう斡旋してくれた。…」

 最初、出版されたのは昭和46年、魯山人が無くなったのが昭和34年ですから、無くなってから12年で伝記を書いたわけです。まだ魯山人の関係者の方々がご存命のころだったとおもいます。死去から10年以上経過しており、言えなかったことも語れるようになる時期になったころです。叉、関係者に実際にヒヤリングして書けるわけですから一番いいころだとおもいます。

写真はちくま文庫の白崎秀雄著「北大路魯山人」です。平成25年(2013)発行です。

【白崎 秀雄(しらさき ひでお、1920年-1992年)作家、美術評論家、福井市出身】
 伝記小説に新境地を開き、骨董、書画、日本絵画、篆刻などの関連著作が多い。北大路魯山人研究で著名で、魯山人を世に広めた人物としても知られる。魯山人の芸術性・技術的な特異性を鋭く評価した。(ウイキペディア参照)

「知られざる魯山人」
<「知られざる魯山人」 山田和(前回と同じ)>
 山田和の「知られざる魯山人」は 北大路魯山人の関する伝記物で一番新しく書かれたものです。平成15年(2003)から「諸君!」に連載され、平成19年(2007)10月に「知られざる魯山人」として出版されています。昭和60年(1885)に白崎秀雄氏が書かれた「北大路魯山人」に対抗するものとして云われていますが、読んでみるとそうでもないようです。魯山人の死去から相当経って、関係者もほとんどいない中で”よく調べて書かれている”とおもいました。山田氏の父親が地元の新聞記者だったころ魯山人と親しかったのがきっかけのようです。

 山田和氏の「知られざる魯山人」から山代温泉について書かれた項です。
「… すべてに時ありである。そう感じたつぎの瞬間、燕臺の脳裡に一つの計画がまとまっていた。房次郎を山代温泉へ連れて行って看板を刻らせるのである。こんな濡額を刻る男だったら、紹介する側も鼻高々である。
 こうやって燕臺が房次郎を伴って北陸本線に乗ったのは、数日後の大正四年(一九一五年)十月(あるいは十一月?)十八日であった。山代温泉は金沢から南西へ約四十キロ。千三百年前(奈良時代)に僧・行基が白山巡行の途中で見つけたと伝えられる古い温泉である。近隣には粟津、片山津、山中などの温泉地もあるが、中でも山代がいちばん大きく、十八軒の宿が軒を連ねていた。…」

 やっぱり、山田和氏の「知られざる魯山人」が一番まとまっています。読んでいて良く理解できます。

写真は文藝春秋社版、平成19年(2007)発行の「知られざる魯山人」です。魯山人の伝記としては最後の出版となるのではないかとおもいます。関係者も少なくなった今となってはこれより詳しい伝記は出てこないとおもいます。参考図書を比較して矛盾が無いか検証し、裏付けを取って書かれています。一番正しいとおもうのですが、完璧ではないようです。

【山田 和(やまだ かず、男性、1946年 - )ノンフィクション作家】
 富山県砺波市生まれ。1973年より福音館書店勤務。1993年退社しノンフィクション作家となる。1996年『インド ミニアチュール幻想』を刊行し、講談社ノンフィクション賞受賞。2008年『知られざる魯山人』で大宅壮一ノンフィクション賞受賞。地元の新聞記者だった父親が魯山人と親しかった。(ウイキペディア参照)


「動橋駅」
<動橋(いぶりばし)駅>
 大正4年頃に金沢から山代温泉に向うには、当時の北陸線動橋(いぶりばし)駅で下車して山代軌道線の電化された軽便鉄道に乗ります。「いぶり」は「いぶる」の活用形で、広辞苑などにも示される古い言葉です。揺する、ゆり動かす、ゆすぶるの意味で加賀南部で古くから使われ、揺れる橋が二級河川動橋川に架かっていた所に由来します。(ウイキペディア参照)

<動橋(いぶりはし)駅>
・明治30年(1897) 官設鉄道北陸線の福井駅 - 小松駅間延伸時に動橋駅(いぶりばしえき、一般駅)として開業。
・明治42年(1909) 線路名称制定、北陸本線所属駅となる。
・明治44年(1911) 山代軌道線(後の北陸鉄道山代線)の新動橋駅が開業。
・大正3年(1914) 温泉電軌片山津線(後の北陸鉄道片山津線)の動橋駅が開業。
・昭和31年(1956)12月15日 - 「いぶりばしえき」から「いぶりはしえき」に呼称変更。
・昭和40年(1965)9月24日 - 北陸鉄道片山津線の動橋駅が廃止。

 加賀温泉郷(山中温泉・山代温泉・片山津温泉・粟津温泉)の入り口である大聖寺駅と動橋駅では、北陸本線初の特急列車「白鳥」が設定されたときから、地元行政や住民、各温泉の観光協会などの団体の間で特急停車を巡る争奪戦が繰り広げられてきました。1970年に国鉄は両駅の中間に位置し、それまで普通列車しか停車しないローカル駅であった作見駅を「加賀温泉駅」と改称し、この駅に特急停車を集約し各温泉地へはこの駅からバス路線を開設して、大聖寺・動橋の両駅は特急通過駅とすることで解決させます。加賀温泉駅への改称直前に前述の特急が両駅に連続停車していたことは、当時の慣例から見ると極めて異例でした。
 また、この特急列車の停車駅移動は、大聖寺駅と動橋駅を国鉄線との接続駅にしていた北陸鉄道加南線に大打撃を与え、その廃線の一因ともなり、結局は地域の公共交通に大きなダメージを与えることにもつながります。(ウイキペディア参照)

 吉田耕三氏の「北大路魯山人伝」からです。
「… 大正四年十月の半ば、汽車で金沢から動橋(いぶりばし)まで行き、其処からは円太郎馬車に揺られて山代の町に入つた。
 山代温泉は約千三百年以前、僧行基が開いたと云はれ、南加賀出地の西麓にそう断層線にある温泉地で、北東にある粟津温泉と一線上に揃び、山中、片山津と合せて加南温泉郷を形成している。高温・透明な泉量は豊富であり、地形的には東に薬師山をひかへ北に加南平野がひらけている静かな町である。…」


<北陸鉄道山代線>
・明治39年(1906)3月 山代温泉の旅館経営者の出資で山代軌道設立
・明治44年(1911)3月5日 山代村(後の山代東口駅) - 動橋村(後の新動橋)間が開業(軌間914mm)
・大正2年(1913)12月1日 温泉電軌に譲渡
・大正3年(1914) 10月1日 河南 - 山代東口間が開業(動力 電気)、11月1日 山代東口 - 宇和野 - 粟津温泉間が開業 (動力 電気)
・大正4年(1915)5月1日 宇和野 - 新動橋間(旧山代軌道線)を改軌電化
・昭和18年(1943)10月13日 戦時統合により北陸鉄道に
・昭和38年(1963)7月19日 宇和野 - 新動橋間および河南 - 宇和野間を統合して山代線に改称
・昭和46年(1971)7月11日 全線廃止

 上記に書かれている”円太郎馬車”とは一般に乗合馬車のことで、時期は”大正四年十月の半ば”と書かれていますが、大正4年5月には電化されており、鉄道馬車は廃止されていたとおもいます。

 当時、山代温泉へは動橋駅から山代軌道線(後の北陸鉄道山代線)に乗り、山代東口駅か山代駅で下車します。山代東口駅は現在の加賀市山代温泉神明町4-2(ローソン山代九谷広場店)附近、山代駅(山代西)は加賀市山代温泉16-162-1(石川交通附近)にあったようです。遺構は全く残っていません。

写真は現在の動橋(いぶりばし)駅です。寂れてしまっています。北陸鉄道片山津線の動橋駅は写真の左側附近にあったようです。駅構内に動橋(いぶりばし)駅の経緯を書いた看板がありました。下記に路線が分かる地図を掲載します。地図には温泉電軌と書かれています。


魯山人の山代温泉付近地図(昭和16年)



「古総湯」
<広場の中央に共同湯>
 山代温泉は町のまん中に共同湯があります。その共同浴場(惣湯)は藩政時代から続く共同浴場で、その周囲には温泉旅館があり、更にその南側に農家や商家が取り囲む空間構造を持っています。旅館数は18世紀には18軒ほどを数え、以後戦後まで基本的にこうした街構成が続いていました。戦前は16軒程になっていたようです(大野屋、くらや、あらや、松の家、山下家、吉野屋、たまや、田中屋、白銀屋、西野屋、加茂屋、花屋、木屋、七日市屋、吉田屋、やまや)。(ウイキペディア参照)

 吉田耕三氏の「北大路魯山人伝」からです。
「…  目抜き通りの突あたりに広場があり、広場の中央に共同湯があつて廻りを内湯旅館がとり巻いている。昔から内湯旅館は十八軒に限り、明治三十年代から薬師山(大平山)に客の散歩道を造つてこれを万松園と名づけた。この広場の南方二丁程の奥にある服部神社に至る道筋には、申訳けのような花界があつた。…」
<山代温泉の歴史>
 神亀2年(725年)、行基という名の高僧が霊峰白山へ修行に向かう途中、一匹の烏が羽の傷を癒している水たまりを見つけたのが山代温泉のはじまり。この烏が、古事記や日本書紀にも登場する伝説の三本足の霊鳥「ヤタガラス」とされ、現在までに受け継がれています。永禄8年(1565年)5月、傷を負った明智光秀もまた湯治のため、10日間にわたってこの山代に滞在したと伝えられています。(山代温泉観光協会ホームページより)

写真が古総湯です。山代温泉観光協会ホームページに明治時代の総湯の写真と、昭和に入って建て直された総湯の写真がありましたので掲載しておきます。現在の古総湯は明治から数えて三代目だとおもいます。

「総湯(吉野屋跡)」
<吉野屋>
 山代温泉で魯山人が滞在した吉野屋は残念ながら廃業されていました。吉野屋跡は総湯になっていました。以前からある総湯は古総湯になり、吉野屋跡は新しい総湯になっていました。時間が無くて、入湯はできませんでした。

 吉田耕三氏の「北大路魯山人伝」からです。
「… 燕台氏と房治郎は早速吉野屋に逗留した。主人の吉野治郎(文久元年生れ当時五十五才、大正十年六月八日六十一才歿)、妻った(明治元年生れ当時四十八才、人正十三年二月七日五十七才歿)、長男恒氏(明治十六年五月二十七日生れ当吋三十三才で房次郎と同年輩、現存)、恒氏の妻しげ(明治二十三年生れ当時二十六才、昭和九年五月九日四十五才歿)の家族が迎えてくれた。現在の吉野屋の主人辰郎氏は大正五年二月二十八日生れなので、この時はまだ母の胎内にあつた。…

 それからは、背こそ高いが見るからに貧弱な福川大観の仕事場として吉野屋の一部屋があてがわれた。畳の上に畳表を敷き、燕台氏の字をけづり落した看板の上に新たに彼の字を彫り出して行って、先づ出米上ったのが現在も吉野屋に掛けられている看板である。 (写真(2)参照)
 そろそろ雪に閉ざされはしめた狭まい温泉町のこととて、吉野屋の部屋から房次郎が鑿を打ち込か木槌の音が終日甲高く響き渡っているので、何事がと大勢の見物人が現われた。「くらや」の主人穂積忠左、「あらや」の主人永井寿(ひさし)このご両人は共に吉野屋の主人よりは年上であつたが、白銀屋は、主人の正木通太郎が二十八才で早逝したあとは、三十になるがならない若後家のあいさんが経営していて、特にこれらの人々は興味深げに大観の仕事場に通つて来た。其処を吉野治郎や燕台氏が宣伝これ努めたことが効を奏して次から次と看板の註文がとれた。
 このように大正四年の十一月は、須田菁華の註文をけじめとして房次郎にとつては全く看板彫りに多忙を極めた月であつた。
 写真(3)・(4)・(5)・(6)の「菁華」「くらや」「あらや」「白銀屋」の看板はすべてこの十一月中に彫り上げたもので、現に今も尚山代の温泉場で使用されているものばがりである。…」

 山代温泉での看板は「菁華」、「吉野家」、「くらや」、「あらや」、「白銀屋」の5軒のようです。吉田耕三氏の「北大路魯山人伝」にはモノクロですが全て掲載されていました。写真1、写真2

 白崎秀雄氏の「北大路魯山人」からです。
「… この年晩秋、燕台は大観を同県下の江沼郡山代温泉につれて行った。
 吉野屋旅館に投じて、その昵懇の主人吉野治郎や附近に住む陶工須田菁華に看板の注文を懇請した。趣味家の吉野は、大観の書を一見するや好感をもち、ただちに応じてくれた。菁華も、同様である。
 大観は、途中で一度金沢の細野方へ帰ったが、その年の暮から翌年の春を、吉野屋の裏手にあるその別荘で過した。
 「ありや、ただの男でないぞ」
 吉野はそういって、附近の内湯旅館数軒が、いずれも屋号の看板を依嘱するよう斡旋してくれた。
 大観が山代で行った制作のうち、異数の力作は、白銀屋の依嘱によって彫った蘇東坡の「前赤壁賦」である。二枚折の板屏風に、一行二十七字の二十五行、最後の一行のみ八字、すべてで六百五十六字の全文を陰刻し、胡粉を埋めてある。英気にみちたやや六朝風の書風は、一点一劃といえどもおろそかではなく、しかも筆を揮うのと同じような筆順、用筆によって一刀に彫られているように見える。…」

 ”白銀屋の依嘱によって彫った蘇東坡の「前赤壁賦」”は残念ながらみていません。これは中国、北宋の賦。蘇軾 (そしょく) の作。元豊5 (1082) 年成立。政争のため同3年都を追われ黄州 (湖北省) に流された作者が,翌々年7月揚子江中の赤壁に遊んだときのありさまを記したものです(コトバンクより)。なにか”酒”の字が抜けていると聞いています。本当かな?

 山田和氏の「知られざる魯山人」からです。
「… すべてに時ありである。そう感じたつぎの瞬間、燕臺の脳裡に一つの計画がまとまっていた。房次郎を山代温泉へ連れて行って看板を刻らせるのである。こんな濡額を刻る男だったら、紹介する側も鼻高々である。
 こうやって燕臺が房次郎を伴って北陸本線に乗ったのは、数日後の大正四年(一九一五年)十月(あるいは十一月?)十八日であった。山代温泉は金沢から南西へ約四十キロ。千三百年前(奈良時代)に僧・行基が白山巡行の途中で見つけたと伝えられる古い温泉である。近隣には粟津、片山津、山中などの温泉地もあるが、中でも山代がいちばん大きく、十八軒の宿が軒を連ねていた。その中に、彼が懇意にしている吉野屋があった。ここの主人に看板の話を持ちかければ、大戦景気で潤いはじめた昨今だから注文が取れるにちがいない。…」

 基本的には皆さん書いてあることは同じです。

写真は現在の総湯(吉野屋跡)です。古い写真を探したのですが良いのがありません。もう少し探してみます。

 近くに魯山人の記念館(いろは草庵)があります。魯山人が彫った吉野屋の看板を見ることができます。

「九谷焼窯元 須田菁華店」
<須山菁華(昇華)の当時の店>
 魯山人はこの頃から金沢の細野燕台氏の影響を受けて陶器に興味を持ち始めます。料理が好きならば当然器に興味を持ちますね。細野燕台氏は魯山人が興味を引くだろうと、山代温泉の須山菁華の店に連れていきます。須山菁華については下記の吉田耕三氏の「北大路魯山人伝」を参照して下さい。

 吉田耕三氏の「北大路魯山人伝」からです。
「… 須山菁華の当時の店は、今の場所とは違い、広場の入口で、現在紅屋旅館の前にある駒ずしの位置に在つた。山代に来て、すぐ註文を貰った菁華の店の看板が十一月の御大典の吉日に彫り上つたので、房次郎と共にこれを届けがてら、燕台氏は、菁華窯で焼物の絵付けをしたいとがねがね希望していた房次郎の望みをかなえさせてやろうと、その旨を菁華に頼み込んだところ、看折が大いに気に人つた菁華は心良く彼を工房に入れて歓待してくれた。…

  此処で須田菁華草の人となりについて述べる必要がある。
 須田萱華は文久二年十一月四日金沢巾泉町で八百屋の二男として生れた。幼名を須田千太郎、後に与三郎と呼び、菁華は更に後の号である。明冶九年六月、石川県立勧業試験場に入り陶器部専門生となり、専ら染付画を学んだが、松田与八郎、臼井永貞両氏について特に釉薬の研究をした。尚余暇に佐々木泉竜に師事して狩野風の画を学び、前出家に蔵していた書画の謄写に精励したことが、後に於て陶画に一風格を顕わすに至る因をなしている。
 明治十三年六月、石川県勧業試験場を卒業後は京都におもむき、陶磁器につき大いに研究した。この頃原呉山の仲介で長岡家の養子となつたが、長岡の姓を名乗らず須田の姓で押し通した。
 明治十六年六月、石川県汀沼郡に、九谷陶磁器会社が出来た時、その社長飛鳥井清の聘きで諏訪蘇山等とこの会社に勤めたが、明治二十三年同社解散となつて後は、独文して山代に居を移し菁華と号し、窯を築いて作家としての第一歩を踏み出した。
 尚、図案意匠は、石川県立工業学校の創設者である納富介次郎から学んで独自の新様式を創設し、且つ又、京都の両家内海(うつみ)吉堂が石川県青年絵画品評会に来県した際に吉堂が支那事情に能く精通していることを知り、同氏と相謀つて貿易のための支那風食器の製作について種々研究の結果、器形・釉薬・意匠等良器の製造に成功した。
 其の間、明治二十年には石川県江沼郡の錦城、京達両学校高等科の実業科教授を委嘱されているし、明治二十五年以降は石川県品評会陶器部審査員、石川県青年絵画品評会審査協議員、府県聯合共進会陶器部審査員等を拝命、明治三十七年には石川県立工業学校工芸諮問員を拝命し、大正九年江沼九谷陶器業の組合長に就任している。
 製作品の種類は非常に幅が広く、染付、祥瑞、安南、伊賀、万暦吉赤絵、吉九谷、古伊万里等はもとより、本米、乾山、永楽和全等夫々の特徴をよく表現させたが、これらは単なる倣作におわらず著華としての創意と風格がその作風ににじみ出していた。
 又一面、茶道の深いわきまえがあったので、彼の製品には自ら佗、錆等の気韻が漂っている。全国に茶友があり、交際もひろかっただけに彼の作品を愛好する人々の層は意外に厚かった。…」

 当時、須山菁華は北陸ではかなり有名人だったようです。

 白崎秀雄氏の「北大路魯山人」からです。
「… 山代温泉にいるうち、大観は菁華窯へ行っては、戯れ半分ながら染付や赤絵の絵付けを習い、試みた。
 菁華は、明治の末から大正にかけて、加賀の陶磁界ではかなり重きをなしていた。その作陶は、染付や九谷・安南・伊賀・万暦と、多種類にわたった。…」

 吉田耕三氏の「北大路魯山人伝」と同じです。

 山田和氏の「知られざる魯山人」からです。
「… その日吉野は、房次郎の書を見て感激した。燕臺から「濡額の腕はさらに素晴らしい」と聞かされ、一も二もなく看板を依頼し、さっそく菁華窯の看板も刻らせようと茶もそこそこに二人を須田菁華のところへ案内した。吉野と須田は薬師の清水を縁とした茶友であるだけでなく、歳も一つちがいだったので特別親しくつき合っていたのである。
 須田はこのとき五十三歳、本名を與三郎といい、文久二年(一八六二年)、金沢市内の八百屋の次男として生まれた。絵が好きだったので、十四歳のとき市内中心部・柿木畠の洋式学校・壮猶館の跡地にあった県立の勧業試験場の陶器部専門生となり、染付画と釉薬の調合を学んだ。そして余暇に市内の画家、晩年の佐々木泉龍に師事して狩野派を学び、加賀前田藩の書画の模写などをした。その後京都に出て修業をしたあと、明治十六年(一八八三年)二十歳で石川県江沼郡山代村(山代温泉)にあった九谷焼の会社「九谷陶器會社」に就職、かつて大聖寺藩が殖産興業のために興したこの会社が閉鎖されるや、同村内に築いたのが菁華窯である。開窯は明治二十三年(一八九〇年)、菁華二十八歳のときであった。但しこれには一部異説があり、四代須田菁華(千二郎。平成十七年六月と七月に面会)の言によると、菁華が勧業場で学んだのは陶器ではなく日本画だったはずだという。…」

 一部、吉田耕三氏の「北大路魯山人伝」を修正しています。

写真は現在の「九谷焼窯元 須田菁華店」です。このお店にお邪魔して戦前のお店について聞いたところ、一筋向こうにあったとしか分からないといわれました。吉田耕三氏の「北大路魯山人伝」には”須山菁華の当時の店は、今の場所とは違い、広場の入口で、現在紅屋旅館の前にある駒ずしの位置に在つた”と書かれています。吉田耕三氏が山代温泉を訪ねたのは昭和35年前後だとおもわれますので、その頃の住宅地図を参照してみました。紅屋旅館は「べにや無何有」としてあるのですが、現在は総湯近くからは行けず、ぐるっと回って山の方から入ります。少し歩いてみたところ、現在の松月寿司の前に現在は使われていないエスカレータ的な物の建造物(現在は使われていない)があり、そのところに”べにや無何有専用駐車場”の看板がありました。住宅地図では”べにや案内所”となっていました。”駒ずし”についてはよく分かりません。その場所には”松月寿司”があります。”駒ずし”と”松月寿司”を間違ったのではないかとおもいます。故に、”松月寿司”のところに魯山人の訪ねた須田菁華店があったのではないかとおもっています。

 今回で北陸シリーズは終ります。



魯山人の山代温泉地図



北大路魯山人年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 北大路魯山人の足跡
明治16年
1883 日本銀行開業
鹿鳴館落成
岩倉具視死去
0  3月23日 北大路魯山人は上賀茂神社の社家 北大路清操の次男として京都府愛宕郡上賀茂村第百六十六番戸で生まれます。 (本名:房次郎)
 9月 服部良知方に養子として入籍
明治20年 1887 長崎造船所が三菱に払い下げられる 4   やすは、房次郎伴い実家一瀬時敏方に戻る
明治22年 1889 大日本帝国憲法発布
衆議院議員選挙法公布
東海道線が全線開通
6  4月4日 服部家を離縁される
6月23日 福田武造の養子として入籍
9月 梅屋尋常小学校に入学
明治26年 1893 大本営条例公布
10 7月 梅屋尋常小学校を卒業
 烏丸二条、千坂わやくやへ丁稚奉公に入る
明治29年 1896 明治三陸地震津波
樋口一葉死去
13 1月 千坂わやくやをやめ、養家へ戻る
明治31年 1898 九竜租借条約
西太后が光緒帝を幽閉
15 習字の懸賞一字書きに応募、天位地位等の賞を受ける
         
         
明治36年 1903 小等学校の教科書国定化 20 秋 上京 京橋高代町3番地 丹羽茂正宅に間借
  実母の登女が住み込んでいる四条男爵邸を訪ねる
  日下部鳴鶴と巌谷一六を訪問
  菓子屋の二階に転居
年末 近くの福田印刷屋の二階に転居
明治37年 1904 日露戦争 21 11月 日本美術展覧会で一等賞を受賞
年末 京橋元嶋町の佐野印刷店方に転居
明治38年 1905 ポーツマス条約 22   岡本可亭に師事、転居(京橋区南伝馬町二丁目一番地)
 後に京橋区南鞘町
明治40年 1907 義務教育6年制 24   書道教授として独立(京橋区中橋泉町1〜2附近
明治41年 1908 中国革命同盟会蜂起
西太后没
25 2月 安見タミを入籍
         
大正元年 1912 中華民国成立
タイタニック号沈没
29 初夏 日本に戻る
大正2年 1913 島崎藤村フランスへ 30 夏 鯖江の窪田朴了軒宅に滞在
冬 長浜に滞在
大正3年 1914 第一次世界大戦始まる 31 6月前後 藤井せきと正式に見合いし婚約
11月 タミと離婚
大正4年 1915 対華21ヶ条、排日運動 32 8月 金沢の細野燕台宅に滞在
秋 山代温泉 吉野屋に滞在
大正5年 1916 世界恐慌始まる 33 1月 藤井せきと結婚、神田區駿河台紅梅町に転居
大正6年 1917 ロシア革命 34  
大正8年 1919 松井須磨子自殺 36 5月 京橋南鞘町に大雅堂芸術店を開業
大正10年 1921 日英米仏4国条約調印 38 2月 美食倶楽部を開業
大正11年 1922 ワシントン条約調印 39 7月 北大路家を相続して北大路魯山人を名のる
大正12年 1923 関東大震災 40 関東大震災後、芝公園内で美食倶楽部(花の茶屋)を再開
大正14年 1925 治安維持法
日ソ国交回復
42 3月 山王に会員制料亭 星岡茶寮を開始
         
昭和10年 1935 第1回芥川賞、直木賞 52 11月 大阪曽根に星岡茶寮を開業