●魯山人の東京を歩く -3-
    初版2015年5月9日 <V01L03> 暫定版

 テニス肘で一ヶ月程休んでいましたが少しずつ掲載を始めます。まだ完璧ではありませんので、一日のKBを使う時間を一時間程度にしています。今回の掲載は東京での北大路魯山人の大正から昭和初期までを掲載します。


「陶説 86号」
<「陶説 北大路魯山人伝」 吉田耕三(前回と同じ)>
 白崎秀雄氏の「北大路魯山人」と山田和氏の「知られざる魯山人」だけではよく分からないところがあるので、最初に戻って、「陶説」の昭和35年(1960)5月 86号から1年半掲載された吉田耕三氏の「北大路魯山人伝」を新たに掲載することにしました(これが魯山人について書かれた最初の評伝です)。住所等が記載されたハガキや封筒が残っていれば正確な場所がわかるのですが、人からの伝聞のみで書いているケースがほとんどで何方のが正しいのかよく分かりません。困ったものです。

 「陶説」の昭和35年(1960)5月 86号から1年半掲載された吉田耕三氏の「北大路魯山人伝」からです。
「… 魯山人の家系は、京都北区にある上賀茂神社、正しく言へば賀茂別雷神社の社家の中にある。遠く伝説にまで逆れば、神武大皇を熊野から大和に先導した八咫鳥(武角身命)を祖神大した賀茂族は、奈良から京都の地に都を移される以前から、山城国の大部を開拓していたが、祖神武角身命と女神に依姫命を下鴨の賀茂御祖神社に、又玉依姫命と高靇神。との御子神の別雷神をば、賀茂別雷神社にまつって奉仕していた。欽明天皇の頃から賀茂祭は記録にのつていて、A・D六七八(天政天皇六年)には賀茂神社の造営が行はれたことになっているが、実際神社に奉仕した社司、社家の記録は、A・D九五五(天暦九年)賀茂族中興の祖とあがめられている賀茂在実からほゞ明確に残されている。それによると、在実には長男忠成(嫡流)と、その弟忠頼(庶流)の二人の男子があり。嫡流にはその名の一字に氏を、庶流には、平・保・宗・弘・重・兼・清・顕・成・俊・直・幸・久・経・能、いづれか一字をつけさせて区別するようになった。
 家系はすべて男系に限り、女系は許されなかった。戦国時代以降、賀茂族の賀茂の氏名のほかに、県つまり分田主として今日の苗字をつけはしめたが、これとても、神主を出すことの出来る家柄と、社人の家柄とは厳格に区別して来た。明治以降、神主は宮司となったが、宮司を出す家柄を社司と改めて、松下・梅辻・森・鳥居大路・富野・岡本・林の七
家とし、社人は社家と改められて百二十軒と限られた。この社家に藤木・坐田・松山・井関・北大路・酉池・山本等の苗字がある。…」

 下記にある2名の評伝も含めて比較すると、一番詳細に書かれているようにおもえます。ただ、最初にも書きましたが、内容は人伝えの伝聞がほとんどです。ただ魯山人から直接聞くことができた唯一の人です。下記の二人の評伝はこの吉田耕三氏の「北大路魯山人伝」が元になっていることは確かです。ただ、裏付け調査をほとんどしていないようで、間違いも多そうです。

【北大路魯山人(きたおおじ ろさんじん 1883年(明治16年)3月23日 - 1959年(昭和34年)12月21日)は、日本の芸術家。本名は北大路 房次郎(きたおおじ ふさじろう)】
 晩年まで、篆刻家・画家・陶芸家・書道家・漆芸家・料理家・美食家などの様々な顔を持っていた。
 明治16年(1883)、京都市上賀茂(現在の京都市北区)北大路町に、上賀茂神社の社家・北大路清操、とめ(社家・西池家の出身)の次男として生まれる。生活は貧しく、魯山人の上に夫の連れ子が一人いた。魯山人が生まれる前に父親が自殺、母親も失踪したため親戚をたらい回しにされる。一度農家に養子に出されるが、6歳の時に竹屋町の木版師・福田武造の養子となり、10歳の時に梅屋尋常小学校を卒業。烏丸二条の千坂和薬屋に丁稚奉公に出された。明治36年(1903)、書家になることを志して上京。翌年の日本美術展覧会で一等賞を受賞し、頭角を現す。明治38年(1905)、町書家・岡本可亭の内弟子となり、明治41年から中国北部を旅行し、書道や篆刻を学んだ。大正4年(1915)、福田家の家督を長男に譲り、自身は北大路姓に復帰。その後も長浜をはじめ京都・金沢の素封家の食客として転々と生活することで食器と美食に対する見識を深めていった。大正6年(1917)便利堂の中村竹四郎と知り合い交友を深め、その後、古美術店の大雅堂を共同経営することになる。大雅堂では、古美術品の陶器に高級食材を使った料理を常連客に出すようになり大正10年(1921)会員制食堂・「美食倶楽部」を発足。自ら厨房に立ち料理を振舞う一方、使用する食器を自ら創作していた。大正14年(1925)には東京・永田町に「星岡茶寮(ほしがおかさりょう)」を中村とともに借り受け、中村が社長、魯山人が顧問となり、会員制高級料亭を始めた。昭和2年(1927)には宮永東山窯から荒川豊蔵を鎌倉山崎に招き、魯山人窯芸研究所・星岡窯(せいこうよう)を設立して本格的な作陶活動を開始する。1928年(昭和3年)には日本橋三越にて星岡窯魯山人陶磁器展を行う。魯山人の横暴さや出費の多さから、昭和11年(1936)星岡茶寮の経営者・中村竹四郎からの内容証明郵便で解雇通知を言い渡され、魯山人は星岡茶寮を追放、同茶寮は昭和20年の空襲により焼失した。戦後は経済的に困窮し不遇な生活を過ごすが、昭和21年(1946)には銀座に自作の直売店「火土火土美房(かどかどびぼう)」を開店し、在日欧米人からも好評を博す。昭和29年(1954)にロックフェラー財団の招聘で欧米各地で展覧会と講演会が開催され、その際にパブロ・ピカソ、マルク・シャガールを訪問。昭和30年には織部焼の重要無形文化財保持者(人間国宝)に指定されるも辞退。昭和34年(1959)に肝吸虫(古くは「肝臓ジストマ」と呼ばれた寄生虫)による肝硬変のため横浜医科大学病院で死去。平成10年、管理人の放火と焼身自殺により、魯山人の終の棲家であった星岡窯内の家屋が焼失した。(ウイキペディア参照)

写真は「陶説」の昭和35年(1960)5月発行の86号です。ここから1年半、吉田耕三氏の「北大路魯山人伝」が掲載されます。ただ、きっちり毎月掲載された訳では無く、途中、2回休んでいますから、18回掲載で昭和36年12月まで掛かっています。昭和36年12月号を見ると、最後に”つづく”と記載があるのですが、その後の号を見ても”つづき”がありません。突然掲載がとり止めになったという感じです。中止になった理由がよく分かりません。

【吉田 耕三(よしだ こうぞう、1915年 - )】
 神奈川県横浜市出身の美術評論家。日本画家の速水御舟の甥。御舟から日本画を学び、御舟の日本画の鑑定人を務める。現代陶芸の旗手といわれた加守田章二の才能を認める。陶芸の公募展・日本陶芸展創設を企画する。東京美術学校(現・東京藝術大学)日本画科卒業。復員後、世界的な陶磁学者で陶芸家・小山冨士夫の助手となり、その後、東京帝室博物館(現・東京国立博物館)陶磁器主任で、陶磁器の批評と収集の天才といわれる北原大輔、人間国宝・荒川豊蔵、百五銀行頭取で陶芸作家・川喜田半泥子から焼き物に関する学問と技術を学ぶ。北大路魯山人の弟子でもある。東京国立近代美術館の創立時から勤務して日本画と工芸を担当し、総括主任研究官などを歴任。日本伝統工芸展鑑査委員、日本陶芸展運営委員・審査員を務める。(ウイキペディア参照)

「北大路魯山人」
<「北大路魯山人」 白崎秀雄(前回と同じ)>
 魯山人の伝記としては吉田耕三氏の次に書かれた本で、白崎秀雄氏が昭和46年(1971)に文藝春秋社より出版したものです。白崎秀雄氏はその後何度か加筆修正し、昭和60年(1885)に新潮社より再度出版されています。最初は吉田耕三氏の「北大路魯山人伝」を鵜呑みにして書いていたようですが、間違いに気づき、修正を加えたようです。文庫本化は平成9年(1997)、中央公論社より、続いて平成25年(2013)ちくま文庫として最新版が出版されています。

 白崎秀雄氏の「北大路魯山人」の書き出しです。
「 第 一 章

   一、一太上京

 大正九年(一九二〇)十一月半ぼすぎの某日、宵。
 東京京橋東仲通り、「大雅堂美術店」の一階六畳間で、一人の少年が端近に膝をそろえていた。
 板床のところに、ホームスパン地の洋服にノーネクタイの、大きな身体の「先生」が、さかんにビールを呷り、料理を口に運んでいる。となりでめくら縞の着物の「旦那さん」がビールを注ぎ、他に馴染客も三、四人「先生」をかこむようにして、賑かに飲み食いしている。
 鼻下髭の「先生」は、肉付きゆたかな頬を桜いろにして、大声で美術のこと料理のこと、あるいは人物月旦を談じていたが、
「おい、よう来たな、よう来た。お前名前は一太だったな」
 と、鼈甲ぶち眼鏡の部厚いレンズの奥から少年を見すえて、いいかけて来た。一分刈の青い頭を、折るように下げて、少年は「先生」にそのとき鷲づかみにされたような思いがした。…」

 最初、出版されたのは昭和46年、魯山人が無くなったのが昭和34年ですから、無くなってから12年で伝記を書いたわけです。まだ魯山人の関係者の方々がご存命のころだったとおもいます。死去から10年以上経過しており、言えなかったことも語れるようになる時期になったころです。叉、関係者に実際にヒヤリングして書けるわけですから一番いいころだとおもいます。

写真はちくま文庫の白崎秀雄著「北大路魯山人」です。平成25年(2013)発行です。

【白崎 秀雄(しらさき ひでお、1920年-1992年)作家、美術評論家、福井市出身】
 伝記小説に新境地を開き、骨董、書画、日本絵画、篆刻などの関連著作が多い。北大路魯山人研究で著名で、魯山人を世に広めた人物としても知られる。魯山人の芸術性・技術的な特異性を鋭く評価した。(ウイキペディア参照)

「知られざる魯山人」
<「知られざる魯山人」 山田和(前回と同じ)>
 山田和の「知られざる魯山人」は 北大路魯山人の関する伝記物で一番新しく書かれたものです。平成15年(2003)から「諸君!」に連載され、平成19年(2007)10月に「知られざる魯山人」として出版されています。昭和60年(1885)に白崎秀雄氏が書かれた「北大路魯山人」に対抗するものとして云われていますが、読んでみるとそうでもないようです。魯山人の死去から相当経って、関係者もほとんどいない中で”よく調べて書かれている”とおもいました。山田氏の父親が地元の新聞記者だったころ魯山人と親しかったのがきっかけのようです。

 山田和氏の「知られざる魯山人」から、書き出しです。
「 一 ある雪の日、私の家から魯山人のすべてを持ち去る男がやって来た……
 あれは昭和三十五年(一九六〇年)一月のことだ。
 吹雪の北陸の小さな駅に一人の男が降り立ち、駅前からの雪道をおぼつかない足取りで歩きはじめた。分厚いオーバーコートに身を包んでいても、男は土地の者には見えなかった。長靴を履かぬ者のいないその季節に、彼は革靴を履いていたからである。
 男は、雪さえなければ数分の道を、おそらく三倍もかけて私の家にやって来た。難儀な雪の道中を私が見ていたのではない。母に言われて、玄関へ客の靴を揃えに行ったとき、私は男のずぶずぶになった靴を見てそう思ったのである。
 男は道具屋に商売替えした北大路魯山人の元使用人で、北鎌倉に近い大船・山崎の魯山人の星岡窯を去ったあと、近くの葉山で店舗なしの道具商をはじめていた。道具商といっても扱うのは魯山人の作品だけだが、その男が魯山人が亡くなって数週間後に突然私の家に現れたのである。…」

 魯山人が亡くなった昭和30年代ではまだまだ魯山人の陶芸品に関しては価値が認められていなかったようです。先見の明があるものがいち早く魯山人の陶芸品を集めていたようです。今ではおよびもつかない金額になっているようです。

写真は文藝春秋社版、平成19年(2007)発行の「知られざる魯山人」です。魯山人の伝記としては最後の出版となるのではないかとおもいます。関係者も少なくなった今となってはこれより詳しい伝記は出てこないとおもいます。参考図書を比較して矛盾が無いか検証し、裏付けを取って書かれています。一番正しいとおもうのですが、完璧ではないようです。

【山田 和(やまだ かず、男性、1946年 - )ノンフィクション作家】
 富山県砺波市生まれ。1973年より福音館書店勤務。1993年退社しノンフィクション作家となる。1996年『インド ミニアチュール幻想』を刊行し、講談社ノンフィクション賞受賞。2008年『知られざる魯山人』で大宅壮一ノンフィクション賞受賞。地元の新聞記者だった父親が魯山人と親しかった。(ウイキペディア参照)

「別冊 太陽 魯山人」
<「別冊 太陽 魯山人」(前回と同じ)>
 定番の「別冊 太陽 魯山人」です。「別冊 太陽」は内容も充実していて大変参考になるので一通り揃えている中の一冊です。中に座談会があって、上記項目に書かれている”一太”氏が参加しています。面白いです。叉、星丘茶寮について細かく書かれているので大変参考になります。

 「別冊 太陽 魯山人」から座談会 ”魯山人の味覚と料理”からです。
「[座談会]
魯山人の味覚ど料理

その盛時には、夜毎、各界の貴顕紳士がより集い、魯山人が思う存分腕をふるった星岡茶寮。
当時、天下第一の格式を誇ったその魁苧の裏方を勤めた人びとによって明かされる、人間魯山人と、その料理哲学。

武山一太
島村きよ
松浦沖太(誌上参加)
平野雅立早(司会)
美食倶楽部、花の茶屋

平野 今日の座談会は「魯山人の味覚と料理」というテーマになっております。星岡茶寮以前に”美食倶楽部”とか”花の茶屋”時代がございますが、とくにウェートをおきたいのは、星岡茶寮というものは現在の料苧とは違うと。その料理の実態、もてなしの仕方、客層などについてのお話を伺えればと思っております。
 まず武山さんに魯山人との結び付きを手短かにお話ししていただいて、お話の糸口をつけていただきたいと思います。
武山 わたしが先生と一番最初に会ったのは大正九年ですからね。
平野 じゃ、先生とお知り合いになったときは、もう大雅堂を経営なさっていた。
武山 もうちゃんとできていたんです。柱をみんな黒くしてね、ウィンドーがあってね。
平野 そこは商売は成り立っていたんでしょうか。
武山 成り立つもなにも、景気がよくて、すごくよかった。
平野 その店舗は何坪ぐらいの店舗でしたか。
武山 小さいもんです。間口が三間ぐらいです。それで一間ぐらいのウィンドーがあって、こっち見てるでしょ。角の店ですから、横からも入れる。入ったらすぐ階段をトントンと上がると三間あったんです。表に八畳の間があって、その奥に三畳か四畳わたしが寝ていたところがあって、その奥にまた四畳半ぐらいがあったんです。
平野 その二階は何をするんですか。
武山 八畳に中村竹四郎さんと北大路さんとが寝てたわけです。
平野 じゃ、住まいを兼ねてたわけですね。
武山 そうそう。で、そうしておったらそこへいろんな人がやってくるんですよ、家具屋さんだとか。北大路さん面白いから。あのとおりでしよ、サルマタ一つでもってワー。ちゅう感じでしゃべりまくるから面白いしね、みんな来た人が動かな
いんですよ。で、昼になると飯食わなきゃいかんでしよ。そうすると、魚仙という魚屋が少し先にあるんですが、その魚屋へ自分が買い物に行って、みんなに飯食わしてやろうというんでやりだしたんですよ。
平野 ほォ。それが天下の星岡茶寮の一番最初。じゃ、大雅堂でおもてなしをする料理材料はどうなさったんですか。
武山 北大路さんが近所の魚屋から生きた魚を自分で買ってきて、カツオならカツオの刺身をやるわけですよ。
平野 大雅堂の中に台所もあったわけなんですか。武山 ええ、奥に台所があり板の間かあって、板の間の下はすでにコンクリにしてあってね、スッポンやなんかいましたよ。ウナギは表に生け簀こしらえて、石燈籠やなんかがあるところヘウナギを放してあったですね。
平野 じゃ、名目はあくまでも人雅堂美術店で、中で食事を作ると。
武山 ええ。食事って、最初はカネ取ったわけじゃないんですよ。だけども、それじゃやりきれんから、市電のパスみたいのをこさえたんですよ。たしか一食二十五銭でしょうね、一枚持ってきたら食わせてやるちゅうて、それやったわけですよ。そうなると、どうしても小僧がいるでしよ。それでわたしが……渡りに船ということになる。
平野 それが震災まで続いたわけですね。
武山 そうそう。それで朝になると鴻巣はもちろんそうだし、近所に丸屋というスッポン屋を出しましたが、それも北大路さんが指導してたんですよね。…」

 又、続きが面白いのですが、”鴻巣(メイゾン鴻之巣)”が書かれています。「メイゾン鴻之巣」は大正4年頃には日本橋木原店(きわらだな)に転居(今のCOREDO日本橋と日本橋西川の間の通)、大正9年末には京橋区南傳馬2−12、現在の明治屋の所に転居しています。大正14年に経営者の駒蔵が死去するとお店は無くなります。ですから、京橋区南傳馬二丁目のころの話しだとおもわれます。

写真は昭和58年(1983)3月発行の「別冊 太陽 魯山人」です。この頃が魯山人人気がピークのころではなかったかとおもいます。



「蒲田の菖蒲園跡」
<蒲田の菖蒲園で見合い>
 魯山人は日本に戻った後の大正5年、以前から交際していた藤井せきと正式に見合いし2回目の結婚をします。せきの実家の松山堂は、今の京橋からブリヂストンビルに向つで行く銀座通りの左側にある、現在北國銀行の入っているビルのところにあって、三階土蔵建の和本専門書店でした(場所は下記の地図参照)。最初の結婚相手のタミとの離婚は同年の11月頃に成立しています。

 山田和氏の「知られざる魯山人」からです。
「… 彼がタミと離婚し、せきと東京・上野の「大礼会館」で式を挙げるのは大正五年(一九一六年)一月二十八日、離婚から一年二月後のことであった。そのとき、房次郎は満年齢で三十二歳、せきは同二十六歳になっていた。
 この結婚については、タミとの離婚が成立する五か月まえの大正三年(一九一四年)六月に蒲田の菖蒲園で見合いをし、婚約を決めている。察するにタミとの生活はこの年の春にはすでに破綻していたと思われるが、「離婚前の房次郎とせきとの見合い」という常識を超えた席が設けられたのは、おそらく房次郎の望むところではなく、娘とのただならぬ関係を知った藤井利人が房次郎に責任をとらせるべく、一族が会する場を設け、離婚と婚約とを迫ったものであろう。老舗松山堂としての体面と、娘の幸福とを望む親心のなせる業だったにちがいない。ちなみに蒲田菖蒲園は当時、菖蒲や牡丹で名高い一万坪の園地で、ここでの見合いといってもピクニックを兼ねた親族紹介のようなものだったと考えられる。…」

 この辺りの年表は山田和氏が一番正確だとおもいます。上野の「大礼会館」については場所が分かりません。もう少し調べてみます。

 白崎秀雄氏の「北大路魯山人」からです。
「… 彼が蒲田の菖蒲園で、藤井せきと正式に見合し、婚約した大正三年六月前後に当る。
 まもなく、その後同年十一月十三日、房次郎はタミとの、「協議離婚」を遂げた。その際にも、水野が仲介者となった。房次郎は、二児の養育費とタミの当分の、生活費とを送るとの口約を行っている。…」

 見合いの日取りは山田和氏と同じです。結婚式については書かれていません。

 吉田耕三氏の「北大路魯山人伝」からです。
「…  大正五年(一九一六)、彼は藤井せきと結婚し、駿河台東紅梅町に住み、その後鎌倉に移るが、大正八年から大震災までは南鞘町に大雅堂を営む。すなわち、魯山人は上京後のあわせて二十年近くを、南鞘町中心の右の区域にほとんど執着するように生きたのである。…」
 結婚式の年は山田和氏と同じです。

写真は蒲田駅の南側300mにある呑川に架かる菖蒲橋です。この右側、蒲田小学校のところに蒲田の菖蒲園がありました。大正10年頃まではあったようです。



魯山人の京橋一丁目付近地図(大正元年地図より)



「旧東紅梅町附近」
<神田駿河台東紅梅町>
 魯山人は大正五年(1916)一月二十八日、藤井せきと結婚、現 お茶の水駅に近い東紅梅町2番に住みます。東京で京橋付近から離れたのは初めてでした。

 山田和氏の「知られざる魯山人」からです。
「…魯山入の生涯を眺め返すと、せきとの結婚までを一区切りとして、ここまでを食客として過ごした「修業遍歴期(関西・北陸)」、これから先を「啐啄期(再度東京)」と位置づけることができる。

 啐啄期

 この後房次郎は母の登女から北大路家の家督相続を請われ、大正五年(一九一六年)に北大路姓を継ぐが、房次郎という名前に捨て子にされた記憶がどうしてもついて回ったのか、北大路房次郎とは名乗らず北大路魯卿として松山堂の家作である東京・神田駿河台東紅梅町の鷹洒な家にせきと暮らし、「古美術鑑定所」の看板を掲げ、いよいよ陶芸家兼星岡茶寮料理長・北大路魯山人まであと数歩の位置へと駒を進める。…
… 田中傅三郎が一人の青年を伴って神田駿河台(神田区)東紅梅町二番地の北大路魯卿の家に現れたのは大正六年(一九一七年)二月、房次郎が「古美術鑑定所」をはじめて三か月目のことだった。青年の名は中村竹四郎、傅三郎と血を分けた兄弟である。傅三郎は京都の出版社・便利堂の三男で、このとき中村家から田中家へ婿養子に出ていた。…」

 東紅梅町の地番が書かれていたのは山田和氏の「知られざる魯山人」だけでした。推定ですが、ハガキ等の郵便物があったのではないでかと推定しています。

 吉田耕三氏の「北大路魯山人伝」からです。
「… 大正五年(一九一六)、彼は藤井せきと結婚し、駿河台東紅梅町に住み、その後鎌倉に移るが、大正八年から大震災までは南鞘町に大雅堂を営む。すなわち、魯山人は上京後のあわせて二十年近くを、南鞘町中心の右の区域にほとんど執着するように生きたのである。…」
 吉田耕三氏は東京での魯山人については弱いと感じました。

写真の正面附近が東紅梅町二番となります。写真の道は関東大震災後に新設された本郷通りで、魯山人が住んだ頃にはありませんでした。ニコライ堂は当時からあったので、魯山人は見ていたとおもいます。東紅梅町二番は広くて、写真の道路上も含めて、一帯が二番となっていました。現在の住居表示で千代田区神田駿河台4丁目2となります。



魯山人のお茶の水付近地図(明治43年地図より)



「旧京橋元嶋町十二番地」
<大雅堂芸術店>
 魯山人は大正9年、京橋南鞘町七番地に中村竹四郎と共同で大雅堂芸術店を開業します。自ら、古美術の商売を始めます。

 山田和氏の「知られざる魯山人」からです。
「… まあ細かい話をすれば色々あるが、かういふ風な交際が前後三年も績いた。そのうちに前に一寸言 つた様に、僕もいよいよ北大路趣味になつて、美術印刷の方の仕事がいやになつた。そこで大雅堂といつだ美術店を始めた。之が大正九年の一月一日のことであつた。
 こうして二人は古美術店・大雅堂を共同経営する。場所は繭山龍泉堂など一流の骨董店が並ぶ東仲通りの京橋南鞘町一番地。そこは房次郎が二十代を過ごした懐かしい町でもあり、妻せきの実家・松山堂も近かった。ちなみにこの店舗は、タミと所帯を持っていた頃からつき合いのあった薬種商、一貫堂の野田嶺吉を口説いて借り受けたもので一貫堂の真向かいだった。現在流布している魯山人小説や年譜では大正八年(一九一九年)に「大雅堂芸術店」を二人でけじめ、翌大正九年一月一日「大雅堂美術店」と改称したことになっている。しかし右文の傍点部分でわかるとおり、大雅堂を共同経営したのは大正九年元旦からで、この時点で店名を「大雅堂芸術店」から「……美術店」に変えたのだった。…」

 山田和氏は魯山人と中村竹四郎について、出合いから詳しく書いています。よく調べられています。

 白崎秀雄氏の「北大路魯山人」からです。
「…大正五年(一九一六)、彼は藤井せきと結婚し、駿河台東紅梅町に住み、その後鎌倉に移るが、大正八年から大震災までは南鞘町に大雅堂を営む。すなわち、魯山人は上京後のあわせて二十年近くを、南鞘町中心の右の区域にほとんど執着するように生きたのである。…」
 詳しくは書かれていません。

 吉田耕三氏の「北大路魯山人伝」からです。
「…星ヶ岡奈寮の前身であつた東京京橋の大雅堂楼上における美術倶楽部が、大正十二年九月一日の関東大震災で灰塵に帰した際…」
 此方も詳しくは書かれていません。

写真の道は東仲通り、中央区京橋2丁目7と10の間から北東を撮影したものです。右側角のビルのところが大雅堂跡です。現在は「魯卿あん」という魯山人に因んだ名前の料理屋さんになっています。高そうなお店で入れそうにありません。上記の”薬種商、一貫堂”は電話帳では”一貫堂、野田嶺吉、京、南鞘、六”で写真の左側になります。「別冊 太陽 魯山人」のところで書かれていた”近所に丸屋というスッポン屋”は、電話帳では”まるや 奥田駒蔵 京、南鞘、六”となっていますから、写真の左側となり、一貫堂の直ぐ傍にあったことがわかります。



魯山人の京橋地図(大正元年)



魯山人の銀座・日本橋地図



「花の茶屋跡」
<芝公園内の花の茶屋>
 大正12年9月1日の関東大震災で大雅堂は倒壊・焼失してしまいます。その頃の魯山人は古美術の商売よりは”美食倶楽部”で稼いでおり、地震後も早急に立ち上げて稼ぐ必要に迫られていました。

 山田和氏の「知られざる魯山人」からです。
「… 「行き處はなく、北大路氏も、困つて居る様子であつだ。幸ひ私が市に居つた開係から、公園課に話して芝公園で店を開くことになった。當時は東京市民が、全國から義損金を受けて、草靴穿きで東奔 西走する状態だつた。そこへ『美食倶楽部』といふ名将では、如何にも人の感じをわるくしはしないか、自分も気がかりだつたし、勿論北大路氏もここに気づかぬわけではなかつた。此處で美食倶楽部は『花の茶屋』と命名されて、震災直後、花々しく復活することになつた」(「星岡茶寮昔話」『星岡』 五十六號。昭和十年五月。ルビは筆者) 一説には「花の茶屋」はすでに公園内にあって、房次郎が看板を刻った光琳堂の主人・黒部雄次郎をつうじて知り合った井上太四郎夫婦が大正十年(一九二一年)秋から営業していたという。しかもこの店の名は以前に房次郎がつけたものだといい、そこを無理やり借り受けたというのだが、この説は右の長尾文とは著しく対立し、にわかには与し難い。…」
 ”花の茶屋”の生い立ちについては、よく分からないところがあります。ただ、場所だけは分かっています。

写真は港区の赤羽橋から北側を撮影したものです。花の茶屋は写真正面、見にくいですが、エネオスのガソリンスタンド附近にあったとおもわれます。当時の地番で、十八号一番、現在の住居表示で港区芝公園4丁目6−13となります。



魯山人の赤羽橋・芝公園附近地図(大正10年)



「星岡茶寮跡」
<日枝神社境内にあった星岡茶寮>
 大正13年、魯山人と中村竹四郎は日枝神社境内にあった星岡茶寮を借受け、料亭に改築して会員を募ります。本格的に開業したのは大正14年4月になってからです。ここからは山田和氏の「知られざる魯山人」を中心として進めたいとおもいます。

 山田和氏の「知られざる魯山人」からです。
「…赤坂山王台(旧・麹町区永田町二丁目五十七番地)・日枝神社境内の森の中に閉鎖されたままになっていた華族会館「星岡茶寮」に房次郎は前から目をつけていた。この情報は竹四郎からのもので、竹四郎の妻の縁から徳川家達に頼んだという説があるが、追悼集『中村竹四郎』に載っている妻・泰子の文「主人を偲びて」には、竹四郎は交渉をしたと書かれているものの物件を探してきたとは書かれていないこと、また長男・桃太郎もこの件に言及していないところから、物件を探してきたのは房次郎自身だった可能性が大である。実際魯山人は、この前後の事情についてつぎのように書き記している。
 「僕は前々から、山王の星岡茶寮には眼をつけてゐたが、美食倶楽部が壊滅した時には、特に星岡茶寮程度のところで、美食倶楽部を復興したいと思つた。」

 ここでは星岡茶寮の場所の特定のみを行なうことにしています。内容について書き出すと、きりが無いので止めておきます。


写真、正面やや左側の先の丘の上(今は切り崩されています)に星岡茶寮がありました。下記に、現在の地図の上に昭和10年の火災保険特殊地図(赤色)を重ねています。火災保険特殊地図が地図としては正確では無いため、ピッタリは重なりませんが、星岡茶寮の位置は分かるとおもいます。この茶寮も昭和20年の空襲で焼失し復活することはありませんでした。現在は東急キャピタルタワー内になり、丘の上にあった星岡茶寮跡の場所は切り崩されてしまっています。



日枝神社、星丘茶寮付近地図(現在の地図に昭和10年の火保図(赤)を重ねています)



北大路魯山人年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 北大路魯山人の足跡
明治16年
1883 日本銀行開業
鹿鳴館落成
岩倉具視死去
0 3月23日 北大路魯山人は上賀茂神社の社家 北大路清操の次男として京都府愛宕郡上賀茂村第百六十六番戸で生まれます。 (本名:房次郎)
       
明治36年 1903 小等学校の教科書国定化 20 秋 上京 京橋高代町3番地 丹羽茂正宅に間借
  実母の登女が住み込んでいる四条男爵邸を訪ねる
  日下部鳴鶴と巌谷一六を訪問
  菓子屋の二階に転居
年末 近くの福田印刷屋の二階に転居
明治37年 1904 日露戦争 21 11月 日本美術展覧会で一等賞を受賞
年末 京橋元嶋町の佐野印刷店方に転居
明治38年 1905 ポーツマス条約 22   岡本可亭に師事、転居(京橋区南伝馬町二丁目一番地)
 後に京橋区南鞘町
明治40年 1907 義務教育6年制 24   書道教授として独立(京橋区中橋泉町1〜2附近
明治41年 1908 中国革命同盟会蜂起
西太后没
25 2月 安見タミを入籍
         
大正元年 1912 中華民国成立
タイタニック号沈没
29 初夏 日本に戻る
大正3年 1914 第一次世界大戦始まる 31 6月前後 藤井せきと正式に見合いし婚約
11月 タミと離婚
大正5年 1916 世界恐慌始まる 33 1月 藤井せきと結婚、神田區駿河台紅梅町に転居
大正6年 1917 ロシア革命 34  
大正8年 1919 松井須磨子自殺 36 5月 京橋南鞘町に大雅堂芸術店を開業
大正10年 1921 日英米仏4国条約調印 38 2月 美食倶楽部を開業
大正11年 1922 ワシントン条約調印 39 7月 北大路家を相続して北大路魯山人を名のる
大正12年 1923 関東大震災 40 関東大震災後、芝公園内で美食倶楽部(花の茶屋)を再開
大正14年 1925 治安維持法
日ソ国交回復
42 3月 山王に会員制料亭 星岡茶寮を開始
         
昭和10年 1935 第1回芥川賞、直木賞 52 11月 大阪曽根に星岡茶寮を開業