●魯山人の東京を歩く -2-
    初版2015年3月28日
    二版2015年4月11日 <V01L03> 「陶説」の北大路魯山人伝を掲載 大幅改版 暫定版

 新企画、「北大路魯山人を歩く」の二回目です。相変わらず調査に時間が掛かっています。本に書かれていることが正確では無いんです。図書館だけではなく、法務局まで訪ねて調べています。今回は明治37年頃から明治43年の京城に向かうまでを歩いてみました。


「陶説 86号」
<「陶説 北大路魯山人伝」 吉田耕三>
 2015年4月11日追加
 白崎秀雄氏の「北大路魯山人」と山田和氏の「知られざる魯山人」だけではよく分からないところがあるので、最初に戻って、「陶説」の昭和35年(1960)5月 86号から1年半掲載された吉田耕三氏の「北大路魯山人伝」を新たに掲載することにしました(これが魯山人について書かれた最初の評伝です)。住所等が記載されたハガキや封筒が残っていれば正確な場所がわかるのですが、人からの伝聞のみで書いているケースがほとんどで何方のが正しいのかよく分かりません。困ったものです。

 「陶説」の昭和35年(1960)5月 86号から1年半掲載された吉田耕三氏の「北大路魯山人伝」からです。
「… 魯山人の家系は、京都北区にある上賀茂神社、正しく言へば賀茂別雷神社の社家の中にある。遠く伝説にまで逆れば、神武大皇を熊野から大和に先導した八咫鳥(武角身命)を祖神大した賀茂族は、奈良から京都の地に都を移される以前から、山城国の大部を開拓していたが、祖神武角身命と女神に依姫命を下鴨の賀茂御祖神社に、又玉依姫命と高靇神。との御子神の別雷神をば、賀茂別雷神社にまつって奉仕していた。欽明天皇の頃から賀茂祭は記録にのつていて、A・D六七八(天政天皇六年)には賀茂神社の造営が行はれたことになっているが、実際神社に奉仕した社司、社家の記録は、A・D九五五(天暦九年)賀茂族中興の祖とあがめられている賀茂在実からほゞ明確に残されている。それによると、在実には長男忠成(嫡流)と、その弟忠頼(庶流)の二人の男子があり。嫡流にはその名の一字に氏を、庶流には、平・保・宗・弘・重・兼・清・顕・成・俊・直・幸・久・経・能、いづれか一字をつけさせて区別するようになった。
 家系はすべて男系に限り、女系は許されなかった。戦国時代以降、賀茂族の賀茂の氏名のほかに、県つまり分田主として今日の苗字をつけはしめたが、これとても、神主を出すことの出来る家柄と、社人の家柄とは厳格に区別して来た。明治以降、神主は宮司となったが、宮司を出す家柄を社司と改めて、松下・梅辻・森・鳥居大路・富野・岡本・林の七
家とし、社人は社家と改められて百二十軒と限られた。この社家に藤木・坐田・松山・井関・北大路・酉池・山本等の苗字がある。…」

 下記にある2名の評伝も含めて比較すると、一番詳細に書かれているようにおもえます。ただ、最初にも書きましたが、内容は人伝えの伝聞がほとんどです。ただ魯山人から直接聞くことができた唯一の人です。下記の二人の評伝はこの吉田耕三氏の「北大路魯山人伝」が元になっていることは確かです。ただ、裏付け調査をほとんどしていないようで、間違いも多そうです。

【北大路魯山人(きたおおじ ろさんじん 1883年(明治16年)3月23日 - 1959年(昭和34年)12月21日)は、日本の芸術家。本名は北大路 房次郎(きたおおじ ふさじろう)】
 晩年まで、篆刻家・画家・陶芸家・書道家・漆芸家・料理家・美食家などの様々な顔を持っていた。
 明治16年(1883)、京都市上賀茂(現在の京都市北区)北大路町に、上賀茂神社の社家・北大路清操、とめ(社家・西池家の出身)の次男として生まれる。生活は貧しく、魯山人の上に夫の連れ子が一人いた。魯山人が生まれる前に父親が自殺、母親も失踪したため親戚をたらい回しにされる。一度農家に養子に出されるが、6歳の時に竹屋町の木版師・福田武造の養子となり、10歳の時に梅屋尋常小学校を卒業。烏丸二条の千坂和薬屋に丁稚奉公に出された。明治36年(1903)、書家になることを志して上京。翌年の日本美術展覧会で一等賞を受賞し、頭角を現す。明治38年(1905)、町書家・岡本可亭の内弟子となり、明治41年から中国北部を旅行し、書道や篆刻を学んだ。大正4年(1915)、福田家の家督を長男に譲り、自身は北大路姓に復帰。その後も長浜をはじめ京都・金沢の素封家の食客として転々と生活することで食器と美食に対する見識を深めていった。大正6年(1917)便利堂の中村竹四郎と知り合い交友を深め、その後、古美術店の大雅堂を共同経営することになる。大雅堂では、古美術品の陶器に高級食材を使った料理を常連客に出すようになり大正10年(1921)会員制食堂・「美食倶楽部」を発足。自ら厨房に立ち料理を振舞う一方、使用する食器を自ら創作していた。大正14年(1925)には東京・永田町に「星岡茶寮(ほしがおかさりょう)」を中村とともに借り受け、中村が社長、魯山人が顧問となり、会員制高級料亭を始めた。昭和2年(1927)には宮永東山窯から荒川豊蔵を鎌倉山崎に招き、魯山人窯芸研究所・星岡窯(せいこうよう)を設立して本格的な作陶活動を開始する。1928年(昭和3年)には日本橋三越にて星岡窯魯山人陶磁器展を行う。魯山人の横暴さや出費の多さから、昭和11年(1936)星岡茶寮の経営者・中村竹四郎からの内容証明郵便で解雇通知を言い渡され、魯山人は星岡茶寮を追放、同茶寮は昭和20年の空襲により焼失した。戦後は経済的に困窮し不遇な生活を過ごすが、昭和21年(1946)には銀座に自作の直売店「火土火土美房(かどかどびぼう)」を開店し、在日欧米人からも好評を博す。昭和29年(1954)にロックフェラー財団の招聘で欧米各地で展覧会と講演会が開催され、その際にパブロ・ピカソ、マルク・シャガールを訪問。昭和30年には織部焼の重要無形文化財保持者(人間国宝)に指定されるも辞退。昭和34年(1959)に肝吸虫(古くは「肝臓ジストマ」と呼ばれた寄生虫)による肝硬変のため横浜医科大学病院で死去。平成10年、管理人の放火と焼身自殺により、魯山人の終の棲家であった星岡窯内の家屋が焼失した。(ウイキペディア参照)

写真は「陶説」の昭和35年(1960)5月発行の86号です。ここから1年半、吉田耕三氏の「北大路魯山人伝」が掲載されます。ただ、きっちり毎月掲載された訳では無く、途中、2回休んでいますから、18回掲載で昭和36年12月まで掛かっています。昭和36年12月号を見ると、最後に”つづく”と記載があるのですが、その後の号を見ても”つづき”がありません。突然掲載がとり止めになったという感じです。中止になった理由がよく分かりません。

【吉田 耕三(よしだ こうぞう、1915年 - )】
 神奈川県横浜市出身の美術評論家。日本画家の速水御舟の甥。御舟から日本画を学び、御舟の日本画の鑑定人を務める。現代陶芸の旗手といわれた加守田章二の才能を認める。陶芸の公募展・日本陶芸展創設を企画する。東京美術学校(現・東京藝術大学)日本画科卒業。復員後、世界的な陶磁学者で陶芸家・小山冨士夫の助手となり、その後、東京帝室博物館(現・東京国立博物館)陶磁器主任で、陶磁器の批評と収集の天才といわれる北原大輔、人間国宝・荒川豊蔵、百五銀行頭取で陶芸作家・川喜田半泥子から焼き物に関する学問と技術を学ぶ。北大路魯山人の弟子でもある。東京国立近代美術館の創立時から勤務して日本画と工芸を担当し、総括主任研究官などを歴任。日本伝統工芸展鑑査委員、日本陶芸展運営委員・審査員を務める。(ウイキペディア参照)

「北大路魯山人」
<「北大路魯山人」 白崎秀雄(前回と同じ)>
 魯山人の伝記としては吉田耕三氏の次に書かれた本で、白崎秀雄氏が昭和46年(1971)に文藝春秋社より出版したものです。白崎秀雄氏はその後何度か加筆修正し、昭和60年(1885)に新潮社より再度出版されています。最初は吉田耕三氏の「北大路魯山人伝」を鵜呑みにして書いていたようですが、間違いに気づき、修正を加えたようです。文庫本化は平成9年(1997)、中央公論社より、続いて平成25年(2013)ちくま文庫として最新版が出版されています。

 白崎秀雄氏の「北大路魯山人」の書き出しです。
「 第 一 章

   一、一太上京

 大正九年(一九二〇)十一月半ぼすぎの某日、宵。
 東京京橋東仲通り、「大雅堂美術店」の一階六畳間で、一人の少年が端近に膝をそろえていた。
 板床のところに、ホームスパン地の洋服にノーネクタイの、大きな身体の「先生」が、さかんにビールを呷り、料理を口に運んでいる。となりでめくら縞の着物の「旦那さん」がビールを注ぎ、他に馴染客も三、四人「先生」をかこむようにして、賑かに飲み食いしている。
 鼻下髭の「先生」は、肉付きゆたかな頬を桜いろにして、大声で美術のこと料理のこと、あるいは人物月旦を談じていたが、
「おい、よう来たな、よう来た。お前名前は一太だったな」
 と、鼈甲ぶち眼鏡の部厚いレンズの奥から少年を見すえて、いいかけて来た。一分刈の青い頭を、折るように下げて、少年は「先生」にそのとき鷲づかみにされたような思いがした。…」

 最初、出版されたのは昭和46年、魯山人が無くなったのが昭和34年ですから、無くなってから12年で伝記を書いたわけです。まだ魯山人の関係者の方々がご存命のころだったとおもいます。死去から10年以上経過しており、言えなかったことも語れるようになる時期になったころです。叉、関係者に実際にヒヤリングして書けるわけですから一番いいころだとおもいます。

写真はちくま文庫の白崎秀雄著「北大路魯山人」です。平成25年(2013)発行です。

【白崎 秀雄(しらさき ひでお、1920年-1992年)作家、美術評論家、福井市出身】
 伝記小説に新境地を開き、骨董、書画、日本絵画、篆刻などの関連著作が多い。北大路魯山人研究で著名で、魯山人を世に広めた人物としても知られる。魯山人の芸術性・技術的な特異性を鋭く評価した。(ウイキペディア参照)

「知られざる魯山人」
<「知られざる魯山人」 山田和(前回と同じ)>
 山田和の「知られざる魯山人」は 北大路魯山人の関する伝記物で一番新しく書かれたものです。平成15年(2003)から「諸君!」に連載され、平成19年(2007)10月に「知られざる魯山人」として出版されています。昭和60年(1885)に白崎秀雄氏が書かれた「北大路魯山人」に対抗するものとして云われていますが、読んでみるとそうでもないようです。魯山人の死去から相当経って、関係者もほとんどいない中で”よく調べて書かれている”とおもいました。山田氏の父親が地元の新聞記者だったころ魯山人と親しかったのがきっかけのようです。

 山田和氏の「知られざる魯山人」から、書き出しです。
「 一 ある雪の日、私の家から魯山人のすべてを持ち去る男がやって来た……
 あれは昭和三十五年(一九六〇年)一月のことだ。
 吹雪の北陸の小さな駅に一人の男が降り立ち、駅前からの雪道をおぼつかない足取りで歩きはじめた。分厚いオーバーコートに身を包んでいても、男は土地の者には見えなかった。長靴を履かぬ者のいないその季節に、彼は革靴を履いていたからである。
 男は、雪さえなければ数分の道を、おそらく三倍もかけて私の家にやって来た。難儀な雪の道中を私が見ていたのではない。母に言われて、玄関へ客の靴を揃えに行ったとき、私は男のずぶずぶになった靴を見てそう思ったのである。
 男は道具屋に商売替えした北大路魯山人の元使用人で、北鎌倉に近い大船・山崎の魯山人の星岡窯を去ったあと、近くの葉山で店舗なしの道具商をはじめていた。道具商といっても扱うのは魯山人の作品だけだが、その男が魯山人が亡くなって数週間後に突然私の家に現れたのである。…」

 魯山人が亡くなった昭和30年代ではまだまだ魯山人の陶芸品に関しては価値が認められていなかったようです。先見の明があるものがいち早く魯山人の陶芸品を集めていたようです。今ではおよびもつかない金額になっているようです。

写真は文藝春秋社版、平成19年(2007)発行の「知られざる魯山人」です。魯山人の伝記としては最後の出版となるのではないかとおもいます。関係者も少なくなった今となってはこれより詳しい伝記は出てこないとおもいます。参考図書を比較して矛盾が無いか検証し、裏付けを取って書かれています。一番正しいとおもうのですが、完璧ではないようです。

【山田 和(やまだ かず、男性、1946年 - )ノンフィクション作家】
 富山県砺波市生まれ。1973年より福音館書店勤務。1993年退社しノンフィクション作家となる。1996年『インド ミニアチュール幻想』を刊行し、講談社ノンフィクション賞受賞。2008年『知られざる魯山人』で大宅壮一ノンフィクション賞受賞。地元の新聞記者だった父親が魯山人と親しかった。(ウイキペディア参照)

「別冊 太陽 魯山人」
<「別冊 太陽 魯山人」(前回と同じ)>
 定番の「別冊 太陽 魯山人」です。「別冊 太陽」は内容も充実していて大変参考になるので一通り揃えている中の一冊です。中に座談会があって、上記項目に書かれている”一太”氏が参加しています。面白いです。叉、星丘茶寮について細かく書かれているので大変参考になります。

 「別冊 太陽 魯山人」から座談会 ”魯山人の味覚と料理”からです。
「[座談会]
魯山人の味覚ど料理

その盛時には、夜毎、各界の貴顕紳士がより集い、魯山人が思う存分腕をふるった星岡茶寮。
当時、天下第一の格式を誇ったその魁苧の裏方を勤めた人びとによって明かされる、人間魯山人と、その料理哲学。

武山一太
島村きよ
松浦沖太(誌上参加)
平野雅立早(司会)
美食倶楽部、花の茶屋

平野 今日の座談会は「魯山人の味覚と料理」というテーマになっております。星岡茶寮以前に”美食倶楽部”とか”花の茶屋”時代がございますが、とくにウェートをおきたいのは、星岡茶寮というものは現在の料苧とは違うと。その料理の実態、もてなしの仕方、客層などについてのお話を伺えればと思っております。
 まず武山さんに魯山人との結び付きを手短かにお話ししていただいて、お話の糸口をつけていただきたいと思います。
武山 わたしが先生と一番最初に会ったのは大正九年ですからね。
平野 じゃ、先生とお知り合いになったときは、もう大雅堂を経営なさっていた。
武山 もうちゃんとできていたんです。柱をみんな黒くしてね、ウィンドーがあってね。
平野 そこは商売は成り立っていたんでしょうか。
武山 成り立つもなにも、景気がよくて、すごくよかった。
平野 その店舗は何坪ぐらいの店舗でしたか。
武山 小さいもんです。間口が三間ぐらいです。それで一間ぐらいのウィンドーがあって、こっち見てるでしょ。角の店ですから、横からも入れる。入ったらすぐ階段をトントンと上がると三間あったんです。表に八畳の間があって、その奥に三畳か四畳わたしが寝ていたところがあって、その奥にまた四畳半ぐらいがあったんです。
平野 その二階は何をするんですか。
武山 八畳に中村竹四郎さんと北大路さんとが寝てたわけです。
平野 じゃ、住まいを兼ねてたわけですね。
武山 そうそう。で、そうしておったらそこへいろんな人がやってくるんですよ、家具屋さんだとか。北大路さん面白いから。あのとおりでしよ、サルマタ一つでもってワー。ちゅう感じでしゃべりまくるから面白いしね、みんな来た人が動かな
いんですよ。で、昼になると飯食わなきゃいかんでしよ。そうすると、魚仙という魚屋が少し先にあるんですが、その魚屋へ自分が買い物に行って、みんなに飯食わしてやろうというんでやりだしたんですよ。
平野 ほォ。それが天下の星岡茶寮の一番最初。じゃ、大雅堂でおもてなしをする料理材料はどうなさったんですか。
武山 北大路さんが近所の魚屋から生きた魚を自分で買ってきて、カツオならカツオの刺身をやるわけですよ。
平野 大雅堂の中に台所もあったわけなんですか。武山 ええ、奥に台所があり板の間かあって、板の間の下はすでにコンクリにしてあってね、スッポンやなんかいましたよ。ウナギは表に生け簀こしらえて、石燈籠やなんかがあるところヘウナギを放してあったですね。
平野 じゃ、名目はあくまでも人雅堂美術店で、中で食事を作ると。
武山 ええ。食事って、最初はカネ取ったわけじゃないんですよ。だけども、それじゃやりきれんから、市電のパスみたいのをこさえたんですよ。たしか一食二十五銭でしょうね、一枚持ってきたら食わせてやるちゅうて、それやったわけですよ。そうなると、どうしても小僧がいるでしよ。それでわたしが……渡りに船ということになる。
平野 それが震災まで続いたわけですね。
武山 そうそう。それで朝になると鴻巣はもちろんそうだし、近所に丸屋というスッポン屋を出しましたが、それも北大路さんが指導してたんですよね。…」

 又、続きが面白いのですが、”鴻巣(メイゾン鴻之巣)”が書かれています。「メイゾン鴻之巣」は大正4年頃には日本橋木原店(きわらだな)に転居(今のCOREDO日本橋と日本橋西川の間の通)、大正9年末には京橋区南傳馬2−12、現在の明治屋の所に転居しています。大正14年に経営者の駒蔵が死去するとお店は無くなります。ですから、京橋区南傳馬二丁目のころの話しだとおもわれます。

写真は昭和58年(1983)3月発行の「別冊 太陽 魯山人」です。この頃が魯山人人気がピークのころではなかったかとおもいます。



魯山人の銀座・日本橋地図



「旧西八丁堀三ノ一○」
<菓子屋の二階>
 魯山人は明治36年秋、京都から上京し、伯母・中大路屋寸に教えられた屋寸の娘・かねの嫁ぎ先、京橋区高代町三番地の丹羽茂正宅に居候し、書道教室で生計を立てます。その書道教室兼下宿先として近くの菓子屋の二階を借りて住み始めます。

 山田和氏の「知られざる魯山人」からです。
「 丹羽茂正は、母との再会がうまくいかず、貧しく、しかし青雲の志を抱く青年のために、親身になって房次郎を世話する。書道教室兼下宿先として近くの菓子屋の二階を探し出し、生徒集めをしてやるのである。
 丹羽はこのとき、房次郎の未来を支援しようとしたというより、もうしばらく東京にとどまれば、あるいはこの青年は母との関係を恢復できるのではないかという気持ちから一肌脱いだのではなかったろうか。…」

 菓子屋については、全く調べようがありません。推定ですが、駄菓子屋ではないかとおもいます。”近く”と書いていますが、この”近く”が100m範囲なのか、500m範囲なのかによってかなり違ってきます。

 吉田耕三氏の「北大路魯山人伝」からです。
「… 茂正は世話好きな親切心の強い人だっにから、房次郎が書の道で立つ志望を人いに励まし、近所の知人を廻っで子供に習字を教える先生としで彼が最適な人物であることを宣伝してくれた。彼には瞬く問に多勢の子供の弟子が出来た。そこで丹羽家(松清堂)では何かと司愛いい弟子を教えるのに不便なので、すぐ近くの一文菓子問屋の二階を借りて、そこに引越した。(震災や戦災で現在はすっかり様子も変ったが京橋方面から桜橋の電車道路を左に曲った二・三軒、現在中央区西八丁堀三ノ一○、小泉諭古和光グリーナース桜僑営業所のあたり)しかし、三度の食事は松清堂で食べていた。…」
 ここで菓子屋が”一文菓子問屋”であることがわかります。”一文菓子”とは駄菓子屋に並ぶ菓子のことです。又、”桜橋の電車道路を左に曲った二・三軒、現在中央区西八丁堀三ノ一○”と、初めて具体的な場所が出てきます。昭和35年頃は都電は京橋からの八丁堀線、築地からの築地線が桜橋停留所を通っていました。

写真の正面のビルのところが”京橋方面から桜橋の電車道路を左に曲った二・三軒、現在中央区西八丁堀三ノ一○”になります。”中央区西八丁堀三ノ一○”は現在中央区八丁堀3丁目10−3正和ビルとなっています。住居表示は関東大震災後の区画整理による変更と、昭和45年の変更の二回にわったて行なわれています。ここも道路幅が広がっており、道路上と言って良いとおもいます。

「旧桜橋ビル」
<福田印判屋の二階>
 魯山人は明治36年に上京後、最初は丹羽茂正宅に居候し、次に菓子屋の二階に転居、さらに近くの福田印刷屋の二階に引越します。この福田印刷の二階への転居は京都から昵懇の仲であった安見タミを呼び寄せて一緒に暮らすためでした。若い男が考えることは皆同じです。

 山田和氏の「知られざる魯山人」からです。
「 丹羽茂正は、母との再会がうまくいかず、貧しく、しかし青雲の志を抱く青年のために、親身になって房次郎を世話する。書道教室兼下宿先として近くの菓子屋の二階を探し出し、生徒集めをしてやるのである。
 丹羽はこのとき、房次郎の未来を支援しようとしたというより、もうしばらく東京にとどまれば、あるいはこの青年は母との関係を恢復できるのではないかという気持ちから一肌脱いだのではなかったろうか。近所での丹羽の人望が篤かったからか、生徒はたくさん集まった。書道教室は順調に滑り出し、数か月後の明治三十六年(一九〇三年)末、房次郎は同町内に、さらにましな住まい(福田印刷屋の二階)を借りて引っ越す。しかしこの転居は、じつは安見タミを呼び寄せて一緒に暮らすためでもあった。丹羽は、新春から房次郎の新居に若い娘が同居しはじめたことを知って激怒する。…」

 ”近くの福田印刷屋”についてはかなり調べたのですが、場所等不明です。小さな印刷屋だったのだとおもわれます。電話番号簿等には記載がありませんでした。
全国印刷業者名鑑(大正11年)で調べると
・高代町4:高島印刷所
・本八丁堀一丁目:高野印刷所、秋塲印刷所
 の三軒が近くとなります。福田印刷屋が掲載されていません。

 吉田耕三氏の「北大路魯山人伝」からです。
「… 明治三十七年(一九〇四)、房次郎が二十二才の時、安見たみを京都から呼びよせて、今の桜橋交叉点角に建つている桜橋ビルのあたりにあつた福田印判屋の二階で、始めてままごとの様な世帯の真似事をし、丹羽茂正の一喝を喰つたので、とりあえず、たみを京都に返えしたいきさつは、前号で述べた通りだが、この一件以来、房次郎には、どうも松清堂の敷居が高くなつたらしく、今まで甘えきつていた丹羽家にも、おのづから足が遠のきはじめた。…」
 ここで”今の桜橋交叉点角に建つている桜橋ビルのあたりにあつた福田印判屋”と、初めて具体的な場所が出てきます。

写真の正面のビルから右に二軒目辺りに桜橋ビルがありました。この辺りと言うことなので素直に受け取りたいとおもいます。関東大震災以前と比べると、道路幅が広がっているため、右側の道路上から左側一帯辺りが京橋元嶋町になります。

「旧京橋元嶋町十二番地」
<京橋元嶋町、佐野印刷店方>
 魯山人は明治37年、福田印判屋の二階で京都から安見タミを呼び寄せて一緒に生活を始めますが、丹羽茂正に怒られ、仕方なく彼女を京都に帰し、一人住まいに戻ります。書道教室だけでは家賃を払うのも大変だったため、また住み込みで働ける先を探します。

 山田和氏の「知られざる魯山人」からです。
「… 彼からこのような相談を受けた須賀は、印判の仕事がおもで版下書きの仕事をそれほどもらっていなかったので、発注元の東京印刷株式会社に出人りしている印判師の佐野金一に房次郎を紹介した。
 後年の魯山人の述懐によれば、佐野は八歳年上(当時二十九歳)で、気骨のある兄貴分的な性格だったという。版下書きの仕事もかなり受けていた佐野は、さっそく房次郎を自宅二階に住まわせ、二人三脚で仕事をはじめた。房次郎はすぐに彼の妻や三人の子どもと打ち解けた。この時代に接した人たちの記憶を記した資料があるが、それがどこまで信憑性があるかわからないものの、当時の房次郎はよく気がつく、優しい性格の、色白で背の高い、ハンサムな青年で、近所の評判はよかったという印象で一致している。その彼は、佐野宅では半分居候の身だったから家事もこなしたろうし、料理の手伝いなどでは重宝されたらしい。…」

 ここでは”印判師の佐野金一”の住まいについては具体的に書いていません。

 山田和氏の「知られざる魯山人」からです。
「… 職業上の相談相手としては、同じ京橋区内の馬場町で手広く石版印刷の店を営んでいる坪山六哉がふさわしかったが、このときは声をかけなかった。房次郎のよき理解者でたいへん親しかったものの、茂正の実弟だったからである。…」
 ここに記載のある”京橋区内の馬場町で手広く石版印刷の店を営んでいる坪山六哉”については、そもそも京橋区内に”馬場町”がありません(東京市内にも無かった)。全国印刷業者名鑑(大正11年)でも調べたたのですが、此方も不明でした。馬喰町の間違いかとおもったのですが、馬喰町にも坪山六哉という印刷屋はありませんでした。

 白崎秀雄氏の「北大路魯山人」からです。
「… 彼は受賞後、印刷屋の二階を出て約一年間、養父武造の昔の朋輩のそのまた知人で京橋元嶋町に住む、佐野印刷店方にあった。…」
 上記の”受賞”とは明治37年(1904)11月に日本美術展覧会で一等賞を受賞ことです。ここでは”京橋元嶋町”と書かれていますが山田和氏の「知られざる魯山人」では”可亭の家は佐野宅と同じ京橋区内の南鞘町にあった。”とも書かれています。全国印刷業者名鑑(大正11年)でも調べたのですが、此方も不明でした(元嶋町には大塚印刷所一軒のみ)。一年間住んだと言うことは明治38年末頃まで住んでいたとおもわれます。

 吉田耕三氏の「北大路魯山人伝」からです。
「… 佐野金一は、明治八年の生れだと云うから、当時二十九才、元島町十二番地(現在桜橋の近くにある京華小学校〔中央区西八丁堀三ノ七〕の校庭のあたりにあたる。)星野錫が社長だった東京印刷株式会社(兜神社の反対側の角の赤煉瓦建物)に出入していて、気骨がある上に、又中々世話好きなところから、早速彼を二階に住はせて、面倒を見てくれることになった。…」
 ここで佐野金一の住まいが”元島町十二番地(現在桜橋の近くにある京華小学校〔中央区西八丁堀三ノ七〕の校庭のあたりにあたる。)”と書かれています。

写真の正面附近のやや右が元島町十二番地跡となります。ここでも関東大震災前と比べて道路幅が広がり、京華小学校の敷地が拡大されていて、ほとんど十二番地が無くなってしまっています。

「岡本可亭宅跡」
<京橋区南伝馬町二丁目一番地の岡本可亭宅>
 明治38年になると、魯山人は岡本可亭 に師事します。岡本可亭(本名:良信、通称:竹二郎)は津藩に仕えた儒学者、岡本安五郎の次男で書家、岡本太郎の祖父です。

 山田和氏の「知られざる魯山人」からです。
「… そこで房次郎は、より芸術的な版下書きの仕事を得るために岡本可亭(岡本竹二郎。別名、喜信。このとき四十九歳)の門を叩く。当時、一定レベル以上の版下書きの仕事はわずかな者のもとに集中していたが、その一人が岡本可亭だった。可亭は漫画家・岡本一平の父で、洋画家・岡本太郎の祖父にあたる人物である。房次郎が可亭を選んだのは、可亭が東京日本橋の老舗茶舗「山本山」の大看板を書いて名を高めていたこともあっただろう。房次郎もまた、そういう大看板を書きたいという夢を持っていたしかし可亭につこうとしたのはそれだけではなく、彼の書風そのものが気に入ったからだった。房次郎は顔真卿の書風を好んでいた。可亭の書にその好みが感じられたのだ。…
…可亭の家は佐野宅と同じ京橋区内の南鞘町にあった。現在の中央区京橋一丁目六番地あたりである。…」

 魯山人が居候した岡本可亭宅は上記には”京橋区内の南鞘町にあった。現在の中央区京橋一丁目六番地”と記しています。又、佐野宅も”京橋区内の南鞘町”にあったと記載されています。他の二人と食い違っています。

 白崎秀雄氏の「北大路魯山人」からです。
「… 彼は受賞後、印刷屋の二階を出て約一年間、養父武造の昔の朋輩のそのまた知人で京橋元嶋町に住む、佐野印刷店方にあった。…
… 房次郎は可亭の門を叩き、その内弟子となることをゆるされて、約二年間を同家に過した。
 可亭は、岡本一平の父に当る。一平は人正・昭和初期の漫画家で、小説家岡本かの子の夫である。
 可亭は、明治期の東京では一部に著名な版下書家であった。名は竹二郎、当年四十九、京橋区南伝馬町二丁目一番地、昭和五十九年現在の明治屋の斜め前の大正海上火災保険会社の角を、南へ入って右側の、HOYA crystal shop のある地点に住んでいた。
 前著では、可亭が現在の中央公論社から少し東の南鞘町の家に住んでいたとかいたが、彼がそちらへ移っだのは、もう少し後明治四十一年頃であった。…
… 魯山人が、はじめて門を叩き、住込んだのは、南伝馬町の可亭方だったが、可亭が南鞘町に移ってからも、よく出入りはしたにちがいない。玄関に八手を植えたしもた家と人も伝えわたしも前著にかいたその家の跡は、東仲通りから昭和通りの方へ折れた横丁で、昭和五十九年には「さかもと」という骨董店になっていた。玄関の角に、わずかに八手が植えてあるのが、興味深かった。…」

 白崎秀雄氏の「北大路魯山人」では岡本可亭宅は”京橋区南伝馬町二丁目一番地”、その後、南鞘町に移ったと書かれています。

 吉田耕三氏の「北大路魯山人伝」からです。
「…京橋区南鞘町にあつた岡本可亭先生をたづねたのは、この頃の事である。
 当時、京橋から浅草までの鉄道馬車がガタガタ通つていた馬車道の「通三丁目」の前には、土蔵造り二階建ての高島屋呉服店があつた。現在の高島屋デパートの位置よりはずつと京橋寄りで、今の大正海上火災保険株式会社のビルが建つているあたりと思はれる。その高島屋の角を、京橋の方から来て右に曲つて行くと中通りにぶつかるが、ここでこの中通りを一寸左に折れて歩き、初めての道を右に曲つて約半丁程行くと左手に湯屋があつた。その湯屋の前が岡本可亭の家であつた。(現在その位置は、味の素ビルの前あたりで、昭和通りの道路の真中になつてしまつているらしい。)…」

 ここでは岡本可亭邸は”高島屋の角を、京橋の方から来て右に曲つて行くと中通りにぶつかるが、ここでこの中通りを一寸左に折れて歩き、初めての道を右に曲つて約半丁程行くと左手に湯屋があつた。その湯屋の前が岡本可亭の家であつた”と書かれています。ここで書かれている”湯屋”を探してみました。大正元年の地図に”富士ノ湯”という記載を見つけました。この前が岡本可亭邸のようです。

 本の奥付で調べてみました。
・東京市京橋区南伝傳町二丁目一番地(女子新手ならひ用文 明38.11)
・明治40年以降の奥付には住所の記載がありません
 白崎秀雄氏の改版版の方が正しいようです。その後の住所は 白崎秀雄氏の「北大路魯山人」によると当時の住居表示で南鞘町18〜19辺りとおもわれます(現在は京橋一丁目14)、吉田耕三氏の方は鞘町16〜17辺りとなります(昭和通りの道路上)。

 山田和氏の「知られざる魯山人」で書かれている”中央区京橋一丁目六番地”は当時の住居表示で南鞘町22〜27辺り、南伝傳町二丁目一番地の道路を挟んで東側となります。こちらの場所は?です。

写真の正面、やや左の白いビルのところが”明治屋の斜め前の大正海上火災保険会社の角を、南へ入って右側の、HOYA crystal shop のある地点”になります。”HOYA crystal shop”の場所は古い住宅地図で確認しました。住居表示も当時で”東京市京橋区南伝傳町二丁目一番地”となります。その後の白崎秀雄氏の”東仲通りから昭和通りの方へ折れた横丁で、昭和五十九年には「さかもと」という骨董店”は現在も同じ場所に「さかもと」という同じ名前で健在でした。又、吉田耕三氏の”味の素ビルの前あたりで、昭和通りの道路の真中”はこの辺りです。



魯山人の京橋附近地図(大正元年)



「旧中橋広小路」
<中橋広小路の、大通りから路地を入った、湯熨屋の二階>
 明治40年になると魯山人は岡本可亭から独立します。住居も岡本可亭邸の居候から中橋広小路に移ります。

 山田和氏の「知られざる魯山人」からです。
「…こうやって房次郎は、可亭の下にいるうちに充分な得意先を得ることができたので、明治四十年(一九〇七年)可亭の門から独立し、福田鴨亭を名乗って可亭宅より一町(約百メートル)ほど日本橋寄りの中橋和泉町に借家を見つけ、そこに安見タミを呼び寄せて書道教授の看板を掲げ、新進の版下書きとしての第一歩を踏み出す。明治四十年(一九〇七年)夏、房次郎二十四歳のときのことであった。
 ちなみに鴨亭の亭は師の可亭からの譲字で、鴨は生地近くを流れる鴨川から採ったと考えられる。このときの房次郎にとって、この二文字は現在の己を己ならしめている二つの流れとの認識があったのだろう。
 翌明治四十一年二月十七日、房次郎は二十五歳の誕生日を間近に、安見タミを入籍する。タミは妊娠六か月だった。その年の夏、長男桜一が誕生。いよいよ彼の人生は順風満帆と思われた。」

 ここでは魯山人の移転先を”中橋和泉町の借家”と書いています。出典が明記されていないので確認が取れません。

 白崎秀雄氏の「北大路魯山人」からです。
「… 房次郎は、可亭方を辞して中橋広小路の、大通りから路地を入った、湯熨屋の二階に移った。
 明治四十年の春を下らぬ頃である。可亭よりも彼を指名しての潤筆依頼がふえ、彼は自信を深めるとともに可亭方には居辛くなっていた。
 一平の妹三人は未婚のまま父の許にあったが、房次郎は彼女らの誰とも問題は起さなかった。むしろ彼女らの中に、房次郎を慕った者があるとの説もあるが、詳しくは知れない。総じて、房次郎としては努めて自らを抑制もしていたのであろう。 六畳間ほどの新居へ、彼は京都からタミをよんだ。…
… 川村うたには、この頃に前後する時期の魯山人、当時の福田鴨亭についての、もう一つの記憶がある。現在も大通りにある金鳳堂という眼鏡屋、当時中橋和泉町にあった店のわきの細長い路地を入った奥の離室を、彼が借りて住んでいた期間がある。ここへ彼は妻子、あるいは妻をよび寄せたが、近隣にはそのことをひたかくしにした。…」

 此方は”中橋広小路”と書いており、”中橋和泉町”とは隣り合わせの場所となりますが、場所としては違います。又、上記に書かれている”金鳳堂”については、大正11年の職業別電話名簿では”京橋区中橋廣小路5”と掲載されていました。中橋和泉町と中橋廣小路が混在して書かれています。推定ですが、「金鳳堂」の所在は”中橋廣小路5”で間違いないので、その傍の中橋和泉町に魯山人の借りた借家があったと考えました。大正元年の中橋和泉町と中橋廣小路附近の地図を下記に掲載しておきます。路地があるのがわかります。

 吉田耕三氏の「北大路魯山人伝」からです。
「…和泉町四番地(現在京橋から来て中通りが人重州通りとぶつかるあたりの左側のところ)で、支那雑貨唐筆墨の店を出していた守尾瑞芝堂(守尾保太郎氏、明治二年生れ)の筆を可亭先生は使つていた。先生の使いで、房次郎がよく瑞芝堂に、三本、五本と筆を買いに来たそうだ。八重州通りの拡張で、現在の瑞芝堂は、八重州通りをはさんだブリヂストンビルの前(中央区日本橋通三丁目七番地)に移転し、保大郎氏は隠居して、息子さんの守尾和一氏(明治二十五年六月ニ十五日生)が経営している。…
…明治四十年(一九い七)の春に、思い切つて書と版下描きで独立しようと決心し、京都から安見たみを呼びよせて、中橋和泉町に借家をして、其処に引き移つた。
 今はブリヂストンビルの建つている敷地の中になつてしまつているが、当時は、馬車通りと、今の八重州通り(勿論ずつと狭かつたのだが)との交叉点から、馬車通りを五・六軒京橋に行つたところに、どじようをうまく喰はせて有名な、「伊勢庄」と云う大衆めし屋があつた。房次郎の借りた家は、その「伊勢庄」の角を入つた奥の方にあつた。当時十三・四才だつた瑞芝堂の息子の守尾和一氏は、よく「伊勢庄」の横を流れていた溝川に出かけていつては、店から逃げたどじようを手網ですくつて遊んだそうである。…」

 ”馬車通りを五・六軒京橋に行つたところに、どじようをうまく喰はせて有名な、「伊勢庄」と云う大衆めし屋があつた。房次郎の借りた家は、その「伊勢庄」の角を入つた奥の方にあつた。”とありますので、八重洲通りの角から中橋廣小路を
5〜6軒行ったところですから、中橋廣小路4〜5となります。ここの路地を入ったところとなります。又、守尾瑞芝堂の場所を”和泉町四番地(現在京橋から来て中通りが人重州通りとぶつかるあたりの左側のところ)”と書かれていますが、仲通りが八重洲通りとぶつかる右側が和泉町四番地で、間違いです。

写真、正面のビルはブリヂストン美術館のあるブリヂストンビルディングです。当時からは八重洲通りが大幅に拡張されているので、丁度ビルの左端辺りに路地があったとおもわれます。この路地の何処かに魯山人の借りた借家があったはずです。



魯山人の京橋一丁目付近地図(大正元年)



「井筒屋呉服店跡」
<井筒屋呉服店>
 上記で白崎秀雄氏と同道して魯山人の場所探しに協力していた川村うたさんの実家を歩いてみました。

 白崎秀雄氏の「北大路魯山人」からです。
「… 前著に、南鞘町で野田嶺吉らとともに魯山人と交りのあったとかいた「黒部某」こと黒部雄次郎、井筒屋呉服店の一人娘川村うたという人である。明治三十六年生。彼女から魯山人や竹四郎の憶い出をはじめおおくのことをきき、また昭和五十八年十一月二十七日、ゆかりの地域をわたしとともに歩いて、いろいろ考証もしてくれたのであった。…
… もう一つは、うたが、
「なにもかも大震災と戦災で焼けてしまって、残念ですが」
 と前置きして語る、光琳堂という店舗に他ならない。
 うたの父黒部雄次郎の、前記の南伝馬町の店井筒屋は、もともとウィンドウや店頭に反物をかざって、素人に小売りする店ではなかった。小売りのかつぎ商人が毎朝来て、品物をを何点かずつ借りて行き、売れれば代金を、売れなければ品物を返しに来るという、一種の中間問屋だった。
 黒部が、表の電車通りに小売りの呉服店を造ったのが、光琳堂であった。明治屋の真前の角は、昭和五十九年には旅行会社の事務所になっているが、ここはもと呉服屋「えり栄」。そのとなりが光琳堂、そのまたとなりには風月堂があった。
 光琳堂は間口二間の倉造り、軒に直径二尺もありそうな丸い木のこね鉢を三つ等間隔にならべてかけ、その一枚ずつに、魯山人が「光」「琳」「堂」と大きくかいて金泥を塗り、字の周りにそれぞれ松・桔梗・桜をはなやかに描いた。雪月花を表わしたのである。
 さらに、店内の高い天井には幅一尺五寸くらいの扇面に絵を描いて、一面に散らした。その数五十数枚。
 店の向って右側にウィンドウを造って、そこに洗練された反物を掛ける。店内の椅子も、鼓の胴形に、籐で編んだ上に、小さい洒落た布地などのせてある。
 「光琳堂というお店の名にしても、店全体のかざりにしても、父が相談して魯山人さんの考えで造られたんだと思います」
 光琳堂ができたのは、うたが十四、五の頃だったという。大正五、六年に当る。六十六、七年も昔、そのはなやかで美しい店ができたときの昂奮を、「うたやらさん」は、いまに憶い起す。…」

 ”黒部雄次郎の、前記の南伝馬町の店井筒屋”、”光琳堂”について調べてみると
・井筒屋呉服店:黒部雄太郎 日、榑正、一(職業別電話名簿 東京・横浜 大正11)
・光琳堂呉服店:浅井初太郎 京、南伝傳町、二、四(職業別電話名簿 東京・横浜 大正11)
 とあります。井筒屋呉服店の本店は日本橋榑正(くれまさ)町にあったのだとおもわれます。呉服屋「えり栄」については地図で確認がとれ、戦後までお店はあったようです。隣の風月堂も戦後まであったようです。現在工事中の「明治屋ビル(完成後、撮り直します)」、明治屋ビルの銀座通りを挟んで向い側の、当時”呉服屋「えり栄」、右隣が光琳堂、そのまた隣に風月堂”の並んでいたところは現在は「みずほ銀行」のビルになっています。


写真の正面、角が当時の地番で日本橋區榑正(くれまさ)町1です。、現在の住居表示で中央区日本橋3丁目9−1となります。
 
 続きます。



北大路魯山人年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 北大路魯山人の足跡
明治16年
1883 日本銀行開業
鹿鳴館落成
岩倉具視死去
0 3月23日 北大路魯山人は上賀茂神社の社家 北大路清操の次男として京都府愛宕郡上賀茂村第百六十六番戸で生まれます。 (本名:房次郎)
       
明治36年 1903 小等学校の教科書国定化 20 秋 上京 京橋高代町3番地 丹羽茂正宅に間借
  実母の登女が住み込んでいる四条男爵邸を訪ねる
  日下部鳴鶴と巌谷一六を訪問
  菓子屋の二階に転居
年末 近くの福田印刷屋の二階に転居
明治37年 1904 日露戦争 21 11月 日本美術展覧会で一等賞を受賞
年末 京橋元嶋町の佐野印刷店方に転居
明治38年 1905 ポーツマス条約 22   岡本可亭に師事、転居(京橋区南伝馬町二丁目一番地)
 後に京橋区南鞘町
明治40年 1907 義務教育6年制 24   書道教授として独立(京橋区中橋泉町1〜2附近