●魯山人の鯖江を歩く
    初版2016年5月21日 <V01L01> 暫定版

 「北大路魯山人を歩く」の続編です。今回は福井県鯖江市を歩いてきました。鯖江の魯山人に関しては現地を訪問しても資料がほとんど無く、図書館等で聞いてもほとんど分かりませんでした。推測が多いです。


「陶説 86号」
<「陶説 北大路魯山人伝」 吉田耕三>
 白崎秀雄氏の「北大路魯山人」と山田和氏の「知られざる魯山人」だけではよく分からないところがあるので、最初に戻って、「陶説」の昭和35年(1960)5月 86号から1年半掲載された吉田耕三氏の「北大路魯山人伝」を新たに掲載します(これが魯山人の経歴について書かれた最初の評伝です)。住所等が記載されたハガキや封筒が残っていれば正確な場所がわかるのですが、人からの伝聞のみで書いているケースがほとんどで何方のが正しいのかよく分かりません。困ったものです。

 「陶説」に1年半掲載された吉田耕三氏の「北大路魯山人伝」から、長浜の項です。
「…北大路魯出人伝(十三)

      吉 田 耕 三
 大正四年(一九一五)七月、長浜の河路豊吉の紹介状を持つて、福井県鯖江の窪田ト了の処に身を寄せた篆刻家福田大観(北大路房次郎)は、此処で図らずも金沢の人細野伸三氏に出会うこととなつた。
 窪出ト了は本名喜三郎(明治元年二月十六日生)、鯖江ではかなり大きな質屋のせがれであつた。幼少の時から質草の書画骨董の類に接する機会に恵まれていたことと、生来、美を感受する鋭い素質もあつて、店を継いでも美術品ばかりいじくり、その目利にはおのずから定評があつたが、総ての点に於て道楽的な性格が禍したか、本業の質屋はとうに潰してしまつていた。喜三郎には、若い頃から後家になつて窪出の家に出戻つていたつると云う姉が居た。この姉が鯖江で「東屋」と云う料亭を経営したのだが、評判の器量好しの上に客扱いがうまく大変繁昌したそうで、喜三郎はこの姉の厄介にばがりなつていた。…」

 下記にある2名の評伝も含めて比較すると、一番詳細に書かれているようにおもえます。ただ、最初にも書きましたが、内容は人伝えの伝聞がほとんどです。ただ魯山人から直接聞くことができた唯一の人です。下記の二人の評伝はこの吉田耕三氏の「北大路魯山人伝」が元になっていることは確かです。ただ、この魯山人伝は裏付け調査をほとんどしていないようで、間違いも多そうです。

【北大路魯山人(きたおおじ ろさんじん 1883年(明治16年)3月23日 - 1959年(昭和34年)12月21日)は、日本の芸術家。本名は北大路 房次郎(きたおおじ ふさじろう)】
 晩年まで、篆刻家・画家・陶芸家・書道家・漆芸家・料理家・美食家などの様々な顔を持っていた。
 明治16年(1883)、京都市上賀茂(現在の京都市北区)北大路町に、上賀茂神社の社家・北大路清操、とめ(社家・西池家の出身)の次男として生まれる。生活は貧しく、魯山人の上に夫の連れ子が一人いた。魯山人が生まれる前に父親が自殺、母親も失踪したため親戚をたらい回しにされる。一度農家に養子に出されるが、6歳の時に竹屋町の木版師・福田武造の養子となり、10歳の時に梅屋尋常小学校を卒業。烏丸二条の千坂和薬屋に丁稚奉公に出された。明治36年(1903)、書家になることを志して上京。翌年の日本美術展覧会で一等賞を受賞し、頭角を現す。明治38年(1905)、町書家・岡本可亭の内弟子となり、明治41年から中国北部を旅行し、書道や篆刻を学んだ。大正4年(1915)、福田家の家督を長男に譲り、自身は北大路姓に復帰。その後も長浜をはじめ京都・金沢の素封家の食客として転々と生活することで食器と美食に対する見識を深めていった。大正6年(1917)便利堂の中村竹四郎と知り合い交友を深め、その後、古美術店の大雅堂を共同経営することになる。大雅堂では、古美術品の陶器に高級食材を使った料理を常連客に出すようになり大正10年(1921)会員制食堂・「美食倶楽部」を発足。自ら厨房に立ち料理を振舞う一方、使用する食器を自ら創作していた。大正14年(1925)には東京・永田町に「星岡茶寮(ほしがおかさりょう)」を中村とともに借り受け、中村が社長、魯山人が顧問となり、会員制高級料亭を始めた。昭和2年(1927)には宮永東山窯から荒川豊蔵を鎌倉山崎に招き、魯山人窯芸研究所・星岡窯(せいこうよう)を設立して本格的な作陶活動を開始する。1928年(昭和3年)には日本橋三越にて星岡窯魯山人陶磁器展を行う。魯山人の横暴さや出費の多さから、昭和11年(1936)星岡茶寮の経営者・中村竹四郎からの内容証明郵便で解雇通知を言い渡され、魯山人は星岡茶寮を追放、同茶寮は昭和20年の空襲により焼失した。戦後は経済的に困窮し不遇な生活を過ごすが、昭和21年(1946)には銀座に自作の直売店「火土火土美房(かどかどびぼう)」を開店し、在日欧米人からも好評を博す。昭和29年(1954)にロックフェラー財団の招聘で欧米各地で展覧会と講演会が開催され、その際にパブロ・ピカソ、マルク・シャガールを訪問。昭和30年には織部焼の重要無形文化財保持者(人間国宝)に指定されるも辞退。昭和34年(1959)に肝吸虫(古くは「肝臓ジストマ」と呼ばれた寄生虫)による肝硬変のため横浜医科大学病院で死去。平成10年、管理人の放火と焼身自殺により、魯山人の終の棲家であった星岡窯内の家屋が焼失した。(ウイキペディア参照)

写真は「陶説」の昭和35年(1960)5月発行の86号です。ここから1年半、吉田耕三氏の「北大路魯山人伝」が掲載されます。ただ、きっちり毎月掲載された訳では無く、途中、2回休んでいますから、18回掲載で昭和36年12月まで掛かっています。昭和36年12月号を見ると、最後に”つづく”と記載があるのですが、その後の号を見ても”つづき”がありません。突然掲載がとり止めになったという感じです。中止になった理由がよく分かりません。

【吉田 耕三(よしだ こうぞう、1915年 - )】
 神奈川県横浜市出身の美術評論家。日本画家の速水御舟の甥。御舟から日本画を学び、御舟の日本画の鑑定人を務める。現代陶芸の旗手といわれた加守田章二の才能を認める。陶芸の公募展・日本陶芸展創設を企画する。東京美術学校(現・東京藝術大学)日本画科卒業。復員後、世界的な陶磁学者で陶芸家・小山冨士夫の助手となり、その後、東京帝室博物館(現・東京国立博物館)陶磁器主任で、陶磁器の批評と収集の天才といわれる北原大輔、人間国宝・荒川豊蔵、百五銀行頭取で陶芸作家・川喜田半泥子から焼き物に関する学問と技術を学ぶ。北大路魯山人の弟子でもある。東京国立近代美術館の創立時から勤務して日本画と工芸を担当し、総括主任研究官などを歴任。日本伝統工芸展鑑査委員、日本陶芸展運営委員・審査員を務める。(ウイキペディア参照)

「北大路魯山人」
<「北大路魯山人」 白崎秀雄(前回と同じ)>
 魯山人の伝記としては吉田耕三氏の次に書かれた本で、白崎秀雄氏が昭和46年(1971)に文藝春秋社より出版したものです。白崎秀雄氏はその後何度か加筆修正し、昭和60年(1885)に新潮社より再度出版されています。最初は吉田耕三氏の「北大路魯山人伝」を鵜呑みにして書いていたようですが、間違いに気づき、修正を加えたようです。文庫本化は平成9年(1997)、中央公論社より、続いて平成25年(2013)ちくま文庫として最新版が出版されています。

 白崎秀雄氏の「北大路魯山人」から鯖江について書かれた項です。
「…   七、北陸漂泊行

 大正四年(一九一五)七月某日
 越前鯖江町の料亭「東屋」へ、金沢のセメント・雑貨商で骨董趣味家の細野燕台が訪ねて来た。
 その日、京都からの帰りに、煤煙と汗とで真っ黒になった細野は、「東屋」へ着いて一風呂浴びると、越中褌一つになって、酒を岬り始めた。
 彼は、関西・関東からの旅の帰りには、途中下車して「東屋」へ立寄るのを例にしていた。そこの主で美術ブローカーを兼業する窪田ト了軒と、細野とは、多年の密友だった。
 細野は、酌に出た仲居に向って、生涯その口をはなれたことのない加賀弁の卑狼な冗談をとばしていた。
 ト了軒は、本名喜三郎。人と話しているうちによく「そりゃぼくの了簡や」とか、「ぼくが了簡した」という癖があって、ト了軒と綽名されるようになり、自ら号として名乗るに至った。…」

 最初、出版されたのは昭和46年、魯山人が無くなったのが昭和34年ですから、無くなってから12年で伝記を書いたわけです。まだ魯山人の関係者の方々がご存命のころだったとおもいます。死去から10年以上経過しており、言えなかったことも語れるようになる時期になったころです。叉、関係者に実際にヒヤリングして書けるわけですから一番いいころだとおもいます。

写真はちくま文庫の白崎秀雄著「北大路魯山人」です。平成25年(2013)発行です。

【白崎 秀雄(しらさき ひでお、1920年-1992年)作家、美術評論家、福井市出身】
 伝記小説に新境地を開き、骨董、書画、日本絵画、篆刻などの関連著作が多い。北大路魯山人研究で著名で、魯山人を世に広めた人物としても知られる。魯山人の芸術性・技術的な特異性を鋭く評価した。(ウイキペディア参照)

「知られざる魯山人」
<「知られざる魯山人」 山田和(前回と同じ)>
 山田和の「知られざる魯山人」は 北大路魯山人の関する伝記物で一番新しく書かれたものです。平成15年(2003)から「諸君!」に連載され、平成19年(2007)10月に「知られざる魯山人」として出版されています。昭和60年(1885)に白崎秀雄氏が書かれた「北大路魯山人」に対抗するものとして云われていますが、読んでみるとそうでもないようです。魯山人の死去から相当経って、関係者もほとんどいない中で”よく調べて書かれている”とおもいました。山田氏の父親が地元の新聞記者だったころ魯山人と親しかったのがきっかけのようです。

 山田和氏の「知られざる魯山人」から鯖江について書かれた項です。
「…五  鯖江、金沢……京都から北陸へと舞台を移しつつ、数寄者らと交わる

 福田大観が鯖江の数寄者・窪田卜了軒のもとを訪れたのは、朝鮮から帰国してちょうど一年後の大正二年(一九二二年)のおそらく八月初旬であった。彼はそのころ、柴田源七が世話してくれた洛中の堺町六角の借家に妻のタミと二児を置き、月のほとんどを内貴清兵衛の別荘・松ケ崎山荘で過ごすようになっていた。そしてそこから長浜へ出かけて濡額や板屏風を刻り、あるいは合間を縫って東京へ向かい、日本橋界隈の大店の濡額を刻ったり松山堂の藤井利八のもとで版下の仕事をこなし、藤井の娘・せきとの逢瀬を愉しんでいた。…

 以前に記したように、河路は町会議員を務めつつ手広く紙と文具を卸す問屋を営む目利きとして知られ、骨董趣味が昂じて今や道具の売買にまで手を染めていたのだったが、そんな彼に気心の知れた友ともいうべき数寄者が北陸にいた。鯖江の古美術商・窪田卜了軒である。当時の鯖江は生糸玉国と呼ばれ、羽二重の産地として名高く、町の裕福な業者たちの間では煎茶道が盛んで、美術趣味をもつ文化人が多かった。これらの人たちと、さらに西南約ハキロにある絹織物の町・武生の数寄者たちをまとめていたのが卜了軒である。…」

 やっぱり、山田和氏の「知られざる魯山人」が一番まとまっています。読んでいて良く理解できます。

写真は文藝春秋社版、平成19年(2007)発行の「知られざる魯山人」です。魯山人の伝記としては最後の出版となるのではないかとおもいます。関係者も少なくなった今となってはこれより詳しい伝記は出てこないとおもいます。参考図書を比較して矛盾が無いか検証し、裏付けを取って書かれています。一番正しいとおもうのですが、完璧ではないようです。

【山田 和(やまだ かず、男性、1946年 - )ノンフィクション作家】
 富山県砺波市生まれ。1973年より福音館書店勤務。1993年退社しノンフィクション作家となる。1996年『インド ミニアチュール幻想』を刊行し、講談社ノンフィクション賞受賞。2008年『知られざる魯山人』で大宅壮一ノンフィクション賞受賞。地元の新聞記者だった父親が魯山人と親しかった。(ウイキペディア参照)


「鯖江駅」
<鯖江駅>
 魯山人(この頃は福田大観)は大正2年(1913)の夏、滋賀県長浜町で文具商と紙問屋を営んでいた河路豊吉の紹介で、福井県鯖江町(現在の鯖江市)の窪田朴了軒(喜三郎)宅に向います。

 鯖江市(さばえし)は福井県嶺北地方の中央部に位置する市で、鎌倉時代に誠照寺の門前町として発展し、江戸時代には間部氏鯖江藩5万石(のち4万石)の鯖江陣屋を中心とした陣屋町となりました。多くの世帯が特産である眼鏡関連の産業、あるいは業務用の漆器生産に関わっています。市のキャッチコピーは、”めがねのまち さばえ”。なお、鯖江市の正式な「鯖」の文字は旁の下部が「月」ではなく「円」を用います。市となったのは昭和30年(1955)、今立郡鯖江町・神明町・中河村・片上村・丹生郡立待村・吉川村・豊村が合併して発足しています。

 誠照寺(じょうしょうじ)は、福井県鯖江市にある真宗誠照寺派の本山。山号は上野山(うわのさん)。院号は九品院。本尊は阿弥陀如来。この寺は、承元2年(1208)波多野景之(鎌倉時代の鯖江は、北陸街道筋の寒村とされ、ここに勢力を持っていた豪族が波多野景之です。そのころの越前国主は波多野義重といい、景之はその一族で、上野ヶ原と呼ばれていた鯖江周辺に勢力を持っていました。)の屋敷で親鸞が最初に法を説いたのに始まるという。その後、如覚のとき現在地に移って真照寺と称した。永享年間(1429年 - 1441年)になって現在の寺号となった。天正3年(1575)柴田勝家が北庄に入るとその保護を受けたが、兵火により焼失します。その後復興され、江戸幕府から朱印状を与えられます。江戸時代には江戸寛永寺(天台宗)の院家となっていましたが、明治11年(1878)独立して一派を形成しその本山となります。(ウイキペディア、鯖江市ホームページ参照)
 大きなお寺です。訪ねた時は催し物を開催していました。写真1写真2を掲載しておきます。

 鯖江市の表玄関である鯖江駅(さばええき)は、福井県鯖江市日の出町にあります。西日本旅客鉄道(JR西日本)北陸本線の駅です。特急が一部停車します。かつては福井鉄道の鯖浦線が乗り入れていました。 サンドーム福井の最寄り駅です。
明治29年(1896) 官設鉄道北陸線として敦賀駅 - 福井駅間が開業した際に設置
明治42年(1909) 線路名称制定、北陸本線所属駅となる
大正15年(1926) 鯖浦電気鉄道線(後の福井鉄道鯖浦線)の駅が開業
昭和37年(1962) 福井鉄道鯖浦線の駅が廃止
(ウイキペディア参照)

写真が鯖江駅(さばええき)です。駅舎は新しいです。旧駅舎の写真を探したのですが見つかりませんでした。。もう少し探してみます。

「東屋跡」
<「東屋」と云う料亭>
 魯山人(この頃は福田大観)が鯖江で滞在していたのは窪田朴了軒(喜三郎)の姉が経営していた「東屋」という料理旅館です。ただ、この料理旅館の名前が「東屋」と書かれた本と、「東陽館」と書かれた本があります。当時の名前が「東屋」でその後に「東陽館」となった時系列なのかなともおもいます。仕方が無いので少し調べて見ました。大正2年12月発行の福井県商工名鑑によると、今立郡鯖江町の項には「東屋」、「東陽館」は掲載されていませんでした(鯖江町には4軒の料理屋、旅館が掲載されていました)。その後の帝国商工録等にも掲載がありませんでした。ですから、余り大きな料理旅館ではなかったのかなとおもいます。

 吉田耕三氏の「北大路魯山人伝」からです。
「… 北大路魯出人伝(十三)

      吉 田 耕 三
 大正四年(一九一五)七月、長浜の河路豊吉の紹介状を持つて、福井県鯖江の窪田ト了の処に身を寄せた篆刻家福田大観(北大路房次郎)は、此処で図らずも金沢の人細野伸三氏に出会うこととなつた。
 窪田ト了は本名喜三郎(明治元年二月十六日生)、鯖江ではかなり大きな質屋のせがれであつた。幼少の時から質草の書画骨董の類に接する機会に恵まれていたことと、生来、美を感受する鋭い素質もあつて、店を継いでも美術品ばかりいじくり、その目利にはおのずから定評があつたが、総ての点に於て道楽的な性格が禍したか、本業の質屋はとうに潰してしまつていた。喜三郎には、若い頃から後家になつて窪出の家に出戻つていたつると云う姉が居た。この姉が鯖江で「東屋」と云う料亭を経営したのだが、評判の器量好しの上に客扱いがうまく大変繁昌したそうで、喜三郎はこの姉の厄介にばがりなつていた。…」

 ここでは窪田朴了軒(喜三郎)は最初は質屋で、その後、質屋は潰してしまったことが分かります。又、姉が経営していた「東屋」という料理旅館に厄介になっていたこともわかります。

 白崎秀雄氏の「北大路魯山人」からです。
「…   七、北陸漂泊行
 大正四年(一九一五)七月某日。
 越前鯖江町の料亭「東屋」へ、金沢のセメント・雑貨商で骨董趣味家の細野燕台が訪ねて来た。
 その日、京都からの帰りに、煤煙と汗とで真っ黒になった細野は、「東屋」へ着いて一風呂浴びると、越中褌一つになって、酒を岬り始めた。
 彼は、関西・関東からの旅の帰りには、途中下車して「東屋」へ立寄るのを例にしていた。そこの主で美術ブローカーを兼業する窪田ト了軒と、細野とは、多年の密友だった。
 細野は、酌に出た仲居に向って、生涯その口をはなれたことのない加賀弁の卑狼な冗談をとばしていた。
 ト了軒は、本名喜三郎。人と話しているうちによく「そりゃぼくの了簡や」とか、
「ぼくが了簡した」という癖があって、ト了軒と綽名されるようになり、自ら号として名乗るに至った。
 もともと鯖江の人で、若い頃諸国に苦難の流浪をかさね、芸者屋の箱丁や尺八の門付、煉瓦職人などもしたことがあると、自ら語っていた。鯖江へ帰って古道具屋を始め、また別に姉はまと小料理屋を営んでいたが、ここへ革命かなにかで亡命して来た「金持の中国人」をかくまったことがある。どうやらそれ以来、トフ軒の懐中は豊かになり、料理旅館「東屋」を姉とともにひらいたという。
 京都・金沢・東京に別宅をもち、東京芝の紅葉館の関東大震災で焼け残った茶席を、鯖江に移したとも伝えられる。…」

 窪田朴了軒(喜三郎)は姉とともに「東屋」という料理旅館をひらいたと書いています。

 山田和氏の「知られざる魯山人」からです。
「…喜三郎には、若い頃から後家になって窪田の家に出戻つていたつると云う姉(卜了軒の孫・窪田一三〈平成十七年七月鯖江で面会。現在京都在住〉によると、つるではなく、万延元年生まれで八歳年上の叔母・はまではないかという。戸籍上では養女の姉が一人いるが、名前がちがう)が居た。この姉が鯖江で『東屋』と云う料亭(料理屋旅館)を経営したのだが、評判の器量好しの上に客扱いがうまく大変繁昌したそうで、喜三郎はこの姉の厄介にばかりなっていた。
 房次郎が食客になった時は喜三郎は四十八才(後述参照)、鑑札なしの書画骨董商(喜三郎は大正五年七月十五日付で東京麹町区有楽町の住所において古物商の許可を取っている)のかたわら、長浜の友人河路豊吉と緊密な連絡をとって近江から越前を旅行する美術家達を東屋に逗留させては彼等の作品を鯖江周辺の愛好家に周旋していた。(中略)…」

 八歳年上の叔母・はまが「東屋」を経営していて、窪田朴了軒(喜三郎)は厄介になっていたと書かれています。

 もう一冊、北室南苑さんが書かれた「雅遊人 細野燕台」を参照します。
「…   12 茶友・円通庵卜了軒
 燕台の煎茶仲間は、福井県鯖江にもいた。窪田喜三郎というその人は、明治元年二月生まれであるから、燕台より五歳年上であった。
 喜三郎は、生来美に対する感性が豊かで、骨董屋として大成していた。…

 卜了軒は剽軽者の反面、きかん気の強い性格で何かものを言う度に。
 「それは、僕の料簡や」
と、言うのが口癖であったので燕台が付けた「僕料簡」という渾名が気に入って、明治四十五年あたりから自ら「卜了軒」と号するようになった。円通庵は自宅の茶室号であった。
 燕台は、関西や名古屋からの帰りによく卜了軒の家に立ち寄った。
 当時、窪田家は卜了軒の母の妹が「東陽館」という料理旅館を営んでいた。卜了軒は相当な普請道楽でもあった。半年間骨董周旋で全国をかけずり回って儲けて帰り、残りの半年間でその金をほとんどつぎ込んで、各地で見て来て気に入った建物を参考にして、京都から一流の大工を招き、改築を繰り返すという調子であった。
 東陽館となっているその家は、坂道の途中の複雑な変化に富んだ地形を絶妙に利用して幾度も改築された。家は古びてしまっていたが、風雅な庭とその建物は今もなおその趣を変えていない。…」

 ここでは料理旅館の名前が「東陽館」となっています。

写真正面が「東屋」という料理旅館跡ではないかと推測しています(大正3年の地図に記載はありませんでした、下記の地図参照、)。現在は誰もお住まいではないようで、表札は窪田隆三と書かれており、棟鬼瓦に”圓通”と書かれているので、窪田朴了軒(喜三郎)宅であったことは間違いなさそうです。又、”坂道の途中の複雑な変化に富んだ地形を絶妙に利用して幾度も改築された。家は古びてしまっていたが、風雅な庭とその建物は今もなおその趣を変えていない”とも合致します。写真1写真2写真3を掲載しておきます。

「あめや呉服店」
<「あめや」(桑原呉服店)の濡額「呉服」>
 魯山人(この頃は福田大観)は鯖江で河桑原呉服店の濡額を作成しています。鯖江で唯一看板の魯山人作品です。私は時間が無く、残念ながら見学させて貰うことができませんでした。再度訪問時に見学させていただこうとおもっています。

 吉田耕三氏の「北大路魯山人伝」からです。
「… 前著刊行後、鯖江へ行き、わたしはかねて聞き知ってはいた「あめや」こと桑原呉服店の、魯山人作の看板を実際に見た。
 横一丈、縦三尺もありそうな厚い欅の板に、「呉服」と右から左へ、雄健な草書に彫った看板は、もはや一呉服店の商標などではなかった。あらあらしい字の外郭の鑿づかい。字画のそれぞれの内側にやや中心を高く縦横にリズミカルに並べた鑿の痕。近寄って見ればほとんど何という字が彫ってあるのかよくわからないのに、少しはなれて仰ぐと、字が逆にこちらへ陽刻のように浮き出してはっきりと見えて来る。魯山人篆刻の冴えである。
 それは堂々たる一個の彫刻作品であった。わたしはすでに、長浜の河路方の「淡海老舗」や、同じく安藤家の「呉服」の魯山人の大看板を見ていたが、その二作に勝るとも劣りはしない。看板を芸術に昇華させた、世界に例のない魯山人作品の中でも第一級のものだと、わたしは仰ぎ見たまま、しばらく動けなかった。
 左端に三行に彫られた記年銘に、わたしはまた強く注意を引かれた。
   大正二年菊花月
   為桑原老舗創業
   百年記念 大観作 長宜子孫印
 まずその字が、すべて一刀で彫られているように見え、紙にかいたように活き活きと暢びている。わたしは彫刻された字としては、「呉服」の二大字よりもむしろこちらの方を好きだと思ったが、記年の古さがまた別種のおどろきであった。
 菊花月とは九月のことであろうが、大正二年は魯山人三十一。前記の長浜の大看板その他も、多くは大正四、五年のもので、二年というのは、例を見ない。彼の看板芸術は、当時すでに完成してもいたのだった。…」

 実際に見てみないと良さは分かりませんね、相当迫力があったものとおもいます。

 山田和氏の「知られざる魯山人」からです。
「… 前出の吉田の伝記は、房次郎が窪田に最初に会ったのを大正四年としているように読めるが、房次郎が河路の紹介状を持って卜了軒を訪れたのは二年前の大正二年(一九一三年)夏だった。そのとき房次郎は三十歳、喜三郎は四十五歳、卜了軒を名乗ったばかりで、剽軽な性格に遊び心が花開いていた。彼は房次郎を東屋へ案内して逗留させ、さっそく看板の仕事を世話した。現在も残る「あめや」(桑原呉服店)の濡額「呉服」がそれで、当時七代目だった店主の桑原甚六が創業百年を記念して依頼したものである。現店主・桑原重之(甚六の孫。九代目。平成十七年七月面会)の話では、福田大観は落成したばかりの店の二階でこの看板を刻った。濡額の隅には「大正二年菊花月(陰暦九月)」と刻られている。桑原によれば、魯山人は濡額の仕事のために大量の大板を仕入れて鉋をかけさせ、それを鯖江の町に備蓄していたという。鯖江にはこのほか、少ながらぬ書や款印などが残されている。…」
 魯山人が鯖江を訪れたのは看板からも分かるように大正2年です。

写真は現在の「あめや」(桑原呉服店)です。綺麗に補修されています。桑原呉服店については大正3年の帝国商工信用録に”呉服古着 桑原重蔵 鯖江町”で記載がありました。初代は桑原甚六(1867〜1936)なので、二代目かもしれません。



魯山人の鯖江市地図



鯖江町関連地図 大正3年(1914)



北大路魯山人年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 北大路魯山人の足跡
明治16年
1883 日本銀行開業
鹿鳴館落成
岩倉具視死去
0  3月23日 北大路魯山人は上賀茂神社の社家 北大路清操の次男として京都府愛宕郡上賀茂村第百六十六番戸で生まれます。 (本名:房次郎)
 9月 服部良知方に養子として入籍
明治20年 1887 長崎造船所が三菱に払い下げられる 4   やすは、房次郎伴い実家一瀬時敏方に戻る
明治22年 1889 大日本帝国憲法発布
衆議院議員選挙法公布
東海道線が全線開通
6  4月4日 服部家を離縁される
6月23日 福田武造の養子として入籍
9月 梅屋尋常小学校に入学
明治26年 1893 大本営条例公布
10 7月 梅屋尋常小学校を卒業
 烏丸二条、千坂わやくやへ丁稚奉公に入る
明治29年 1896 明治三陸地震津波
樋口一葉死去
13 1月 千坂わやくやをやめ、養家へ戻る
明治31年 1898 九竜租借条約
西太后が光緒帝を幽閉
15 習字の懸賞一字書きに応募、天位地位等の賞を受ける
         
         
明治36年 1903 小等学校の教科書国定化 20 秋 上京 京橋高代町3番地 丹羽茂正宅に間借
  実母の登女が住み込んでいる四条男爵邸を訪ねる
  日下部鳴鶴と巌谷一六を訪問
  菓子屋の二階に転居
年末 近くの福田印刷屋の二階に転居
明治37年 1904 日露戦争 21 11月 日本美術展覧会で一等賞を受賞
年末 京橋元嶋町の佐野印刷店方に転居
明治38年 1905 ポーツマス条約 22   岡本可亭に師事、転居(京橋区南伝馬町二丁目一番地)
 後に京橋区南鞘町
明治40年 1907 義務教育6年制 24   書道教授として独立(京橋区中橋泉町1〜2附近
明治41年 1908 中国革命同盟会蜂起
西太后没
25 2月 安見タミを入籍
         
大正元年 1912 中華民国成立
タイタニック号沈没
29 初夏 日本に戻る
大正2年 1913 島崎藤村フランスへ 30 夏 鯖江の窪田朴了軒宅に滞在
冬 長浜に滞在
大正3年 1914 第一次世界大戦始まる 31 6月前後 藤井せきと正式に見合いし婚約
11月 タミと離婚
大正4年 1915 対華21ヶ条、排日運動 32 8月 金沢の細野燕台宅に滞在
大正5年 1916 世界恐慌始まる 33 1月 藤井せきと結婚、神田區駿河台紅梅町に転居
大正6年 1917 ロシア革命 34  
大正8年 1919 松井須磨子自殺 36 5月 京橋南鞘町に大雅堂芸術店を開業
大正10年 1921 日英米仏4国条約調印 38 2月 美食倶楽部を開業
大正11年 1922 ワシントン条約調印 39 7月 北大路家を相続して北大路魯山人を名のる
大正12年 1923 関東大震災 40 関東大震災後、芝公園内で美食倶楽部(花の茶屋)を再開
大正14年 1925 治安維持法
日ソ国交回復
42 3月 山王に会員制料亭 星岡茶寮を開始
         
昭和10年 1935 第1回芥川賞、直木賞 52 11月 大阪曽根に星岡茶寮を開業