●魯山人の長浜を歩く
    初版2016年1月9日 <V01L02> 暫定版

 「北大路魯山人を歩く」の続編です。取材は終っていたのですが掲載のタイミングがなく2016年になってしまいました。早く掲載しないと取材内容を忘れてしまいます。今回は「魯山人の長浜を歩く」です。


「陶説 86号」
<「陶説 北大路魯山人伝」 吉田耕三>
 白崎秀雄氏の「北大路魯山人」と山田和氏の「知られざる魯山人」だけではよく分からないところがあるので、最初に戻って、「陶説」の昭和35年(1960)5月 86号から1年半掲載された吉田耕三氏の「北大路魯山人伝」を新たに掲載します(これが魯山人の経歴について書かれた最初の評伝です)。住所等が記載されたハガキや封筒が残っていれば正確な場所がわかるのですが、人からの伝聞のみで書いているケースがほとんどで何方のが正しいのかよく分かりません。困ったものです。

 「陶説」に1年半掲載された吉田耕三氏の「北大路魯山人伝」から、長浜の項です。
「…北大路魯山人伝(九)

 世の中で大なり小なり名を成した芸術家の生涯には、必ずと云つてよいほど、その人を成功え導いてくれ、軌道にうまく乗せてくれた熱烈なファンが現れてくれるものである。房次郎か後年北大路魯出人として名声を拍することの出来たかげには、かずかずの恩人とも云える人々がいるが、この長浜の河路豊吉は、先ず第一に彼の前に現われた特筆すべき恩人であろう。先号でもちよつと紹介したように、脊の低い角ばつた小柄の河路豊吉は江州長浜の紙・文房具店の主人であり、かたわら町会議員もしていた。店の一隅に小さな活版印刷機を設えつけて、名刺やパンフレットの注文にも応じ上地では紙平で通つていた。
 この河路家は長浜でも有名な文学者の家柄であつて、祖文は河路光応、又は光福と称した文学者である。豊吉もその血筋をうけていて自ら詩を作り、書もかいにが、それより増して大の書画骨董いじりの好きな点では、当時大垣久瀬川の骨董商長岡善蔵と共に関西きつての吉美術に対ずる目ききとしても中々定評のあつた人物であつた。豪壮な大名気風を好み、有名なズ人、画水、墨客を次々と長浜に招き寄せて来ては自家に逗留さぜ、彼等の頒布会を主催して近郷の同好者達にその作品を周旋していた。(ただ惜しむらくは金銭には細かく、其の後古物鑑定に目がきくあまり、それらの売買に手を染めはじめ、何でもきたない買方もかなりあつたとかで晩年には土地の人々から不評をかい、祖又以来の文学的家柄と、豊占白身、長浜の白治にもつくし、又知名な芸術家多数をこの土地に招聘して少なからず文化振興に寄与した実績があるにもかかわらず、先年長浜で行われた先人顕彰には反対者があつてその選にもれてしまつている。)…」

 下記にある2名の評伝も含めて比較すると、一番詳細に書かれているようにおもえます。ただ、最初にも書きましたが、内容は人伝えの伝聞がほとんどです。ただ魯山人から直接聞くことができた唯一の人です。下記の二人の評伝はこの吉田耕三氏の「北大路魯山人伝」が元になっていることは確かです。ただ、この魯山人伝は裏付け調査をほとんどしていないようで、間違いも多そうです。

【北大路魯山人(きたおおじ ろさんじん 1883年(明治16年)3月23日 - 1959年(昭和34年)12月21日)は、日本の芸術家。本名は北大路 房次郎(きたおおじ ふさじろう)】
 晩年まで、篆刻家・画家・陶芸家・書道家・漆芸家・料理家・美食家などの様々な顔を持っていた。
 明治16年(1883)、京都市上賀茂(現在の京都市北区)北大路町に、上賀茂神社の社家・北大路清操、とめ(社家・西池家の出身)の次男として生まれる。生活は貧しく、魯山人の上に夫の連れ子が一人いた。魯山人が生まれる前に父親が自殺、母親も失踪したため親戚をたらい回しにされる。一度農家に養子に出されるが、6歳の時に竹屋町の木版師・福田武造の養子となり、10歳の時に梅屋尋常小学校を卒業。烏丸二条の千坂和薬屋に丁稚奉公に出された。明治36年(1903)、書家になることを志して上京。翌年の日本美術展覧会で一等賞を受賞し、頭角を現す。明治38年(1905)、町書家・岡本可亭の内弟子となり、明治41年から中国北部を旅行し、書道や篆刻を学んだ。大正4年(1915)、福田家の家督を長男に譲り、自身は北大路姓に復帰。その後も長浜をはじめ京都・金沢の素封家の食客として転々と生活することで食器と美食に対する見識を深めていった。大正6年(1917)便利堂の中村竹四郎と知り合い交友を深め、その後、古美術店の大雅堂を共同経営することになる。大雅堂では、古美術品の陶器に高級食材を使った料理を常連客に出すようになり大正10年(1921)会員制食堂・「美食倶楽部」を発足。自ら厨房に立ち料理を振舞う一方、使用する食器を自ら創作していた。大正14年(1925)には東京・永田町に「星岡茶寮(ほしがおかさりょう)」を中村とともに借り受け、中村が社長、魯山人が顧問となり、会員制高級料亭を始めた。昭和2年(1927)には宮永東山窯から荒川豊蔵を鎌倉山崎に招き、魯山人窯芸研究所・星岡窯(せいこうよう)を設立して本格的な作陶活動を開始する。1928年(昭和3年)には日本橋三越にて星岡窯魯山人陶磁器展を行う。魯山人の横暴さや出費の多さから、昭和11年(1936)星岡茶寮の経営者・中村竹四郎からの内容証明郵便で解雇通知を言い渡され、魯山人は星岡茶寮を追放、同茶寮は昭和20年の空襲により焼失した。戦後は経済的に困窮し不遇な生活を過ごすが、昭和21年(1946)には銀座に自作の直売店「火土火土美房(かどかどびぼう)」を開店し、在日欧米人からも好評を博す。昭和29年(1954)にロックフェラー財団の招聘で欧米各地で展覧会と講演会が開催され、その際にパブロ・ピカソ、マルク・シャガールを訪問。昭和30年には織部焼の重要無形文化財保持者(人間国宝)に指定されるも辞退。昭和34年(1959)に肝吸虫(古くは「肝臓ジストマ」と呼ばれた寄生虫)による肝硬変のため横浜医科大学病院で死去。平成10年、管理人の放火と焼身自殺により、魯山人の終の棲家であった星岡窯内の家屋が焼失した。(ウイキペディア参照)

写真は「陶説」の昭和35年(1960)5月発行の86号です。ここから1年半、吉田耕三氏の「北大路魯山人伝」が掲載されます。ただ、きっちり毎月掲載された訳では無く、途中、2回休んでいますから、18回掲載で昭和36年12月まで掛かっています。昭和36年12月号を見ると、最後に”つづく”と記載があるのですが、その後の号を見ても”つづき”がありません。突然掲載がとり止めになったという感じです。中止になった理由がよく分かりません。

【吉田 耕三(よしだ こうぞう、1915年 - )】
 神奈川県横浜市出身の美術評論家。日本画家の速水御舟の甥。御舟から日本画を学び、御舟の日本画の鑑定人を務める。現代陶芸の旗手といわれた加守田章二の才能を認める。陶芸の公募展・日本陶芸展創設を企画する。東京美術学校(現・東京藝術大学)日本画科卒業。復員後、世界的な陶磁学者で陶芸家・小山冨士夫の助手となり、その後、東京帝室博物館(現・東京国立博物館)陶磁器主任で、陶磁器の批評と収集の天才といわれる北原大輔、人間国宝・荒川豊蔵、百五銀行頭取で陶芸作家・川喜田半泥子から焼き物に関する学問と技術を学ぶ。北大路魯山人の弟子でもある。東京国立近代美術館の創立時から勤務して日本画と工芸を担当し、総括主任研究官などを歴任。日本伝統工芸展鑑査委員、日本陶芸展運営委員・審査員を務める。(ウイキペディア参照)

「北大路魯山人」
<「北大路魯山人」 白崎秀雄(前回と同じ)>
 魯山人の伝記としては吉田耕三氏の次に書かれた本で、白崎秀雄氏が昭和46年(1971)に文藝春秋社より出版したものです。白崎秀雄氏はその後何度か加筆修正し、昭和60年(1885)に新潮社より再度出版されています。最初は吉田耕三氏の「北大路魯山人伝」を鵜呑みにして書いていたようですが、間違いに気づき、修正を加えたようです。文庫本化は平成9年(1997)、中央公論社より、続いて平成25年(2013)ちくま文庫として最新版が出版されています。

 白崎秀雄氏の「北大路魯山人」から長浜について書かれた項です。
「…   五、「技巧は芸術ならず」

 東京にいるしばらくの間に、鴨亭は藤井せきの家の松山堂で、江州長浜の紙・文具商河路豊吉と識り合った。彼が、河路に対していかにその歓心を買うため汲々としていたかは、藤井せき談にくわしい。
 河路は、町会議員で骨董趣味家、淡海と号していた。文人墨客をさかんに長浜に招き、彼らの作品の頒布会を催した。山元春挙・竹内栖鳳・富田渓仙・日下部鳴鶴・巌谷一六なども、その例である。鴨亭は河路に、自分をその列に入れて長浜にまねかせた。
 地元の趣味家側からすれば、このたびの長身瘠軀の福田大観という書・篆刻家は、誰ひとりその名を知る者はない。房次郎は、この頃から鴨亭をやめて大観と名乗るようになっていたが、画壇には、名声を西の栖鳳と分つ東の横山大観がある。そのため房次郎の大観号は、かえってマイナスの印象を与える場合が、少くなかった。…」

 最初、出版されたのは昭和46年、魯山人が無くなったのが昭和34年ですから、無くなってから12年で伝記を書いたわけです。まだ魯山人の関係者の方々がご存命のころだったとおもいます。死去から10年以上経過しており、言えなかったことも語れるようになる時期になったころです。叉、関係者に実際にヒヤリングして書けるわけですから一番いいころだとおもいます。

写真はちくま文庫の白崎秀雄著「北大路魯山人」です。平成25年(2013)発行です。

【白崎 秀雄(しらさき ひでお、1920年-1992年)作家、美術評論家、福井市出身】
 伝記小説に新境地を開き、骨董、書画、日本絵画、篆刻などの関連著作が多い。北大路魯山人研究で著名で、魯山人を世に広めた人物としても知られる。魯山人の芸術性・技術的な特異性を鋭く評価した。(ウイキペディア参照)

「知られざる魯山人」
<「知られざる魯山人」 山田和(前回と同じ)>
 山田和の「知られざる魯山人」は 北大路魯山人の関する伝記物で一番新しく書かれたものです。平成15年(2003)から「諸君!」に連載され、平成19年(2007)10月に「知られざる魯山人」として出版されています。昭和60年(1885)に白崎秀雄氏が書かれた「北大路魯山人」に対抗するものとして云われていますが、読んでみるとそうでもないようです。魯山人の死去から相当経って、関係者もほとんどいない中で”よく調べて書かれている”とおもいました。山田氏の父親が地元の新聞記者だったころ魯山人と親しかったのがきっかけのようです。

 山田和氏の「知られざる魯山人」から長浜について書かれた項です。
「… 一 松山堂の藤井利八をつうじて滋賀の数寄者・河路豊吉を識る。
    古美術、美食への本格的開眼となる福田大観の「長浜時代」

 妻子ある房次郎が藤井せきと道ならぬ恋におちたのは、朝鮮から帰国した年(明治四十五年=大正元年。房次郎二十九歳)を越えぬうちだったらしい。…

 帰国後、篆刻の仕事とともに再びはじめた書道教室でせきを教えるようになると、房次郎は彼女の一家と急速に親しくなる。せきの父親の利八が大陸帰りの彼をますます贔屓にし、版下仕事を依頼するだけでなく、家に呼んで食事をともにすることも多くなったからだ。房次郎に対する利八の惚れ込みようはたいへんなもので、出版業も営んで顔の広かった利八は馴染みの数寄者や文化人をつぎつぎと彼に紹介した。このような親密な日々をとおして、まもなく房次郎とせきは特別な開係になる。そんなある日のこと、利八は松山堂の取引先の主人である河路豊吉を房次郎に引き合わせる。

 ダークホース

 河路は滋賀・長浜町で町会議員をしており、文具商と紙問屋を営んでいた。長浜一の数寄者であるだけでなく、関西で骨董の目利きとして知られる多才な趣味人でもあった。吉田耕三は伝記の中で、この人物をつぎのように紹介している。
 「脊の低い角ばった小柄の河路豊吉は江州長浜の紙・文房具店の主人であり、かたわら町会議員も していた。店の一隅に小さな活版印刷機を設えつけて、名刺やパンフレットの注文にも応じ土地では紙平で通っていた。…」

 やっぱり、山田和氏の「知られざる魯山人」が一番まとまっています。読んでいて良く理解できます。

写真は文藝春秋社版、平成19年(2007)発行の「知られざる魯山人」です。魯山人の伝記としては最後の出版となるのではないかとおもいます。関係者も少なくなった今となってはこれより詳しい伝記は出てこないとおもいます。参考図書を比較して矛盾が無いか検証し、裏付けを取って書かれています。一番正しいとおもうのですが、完璧ではないようです。

【山田 和(やまだ かず、男性、1946年 - )ノンフィクション作家】
 富山県砺波市生まれ。1973年より福音館書店勤務。1993年退社しノンフィクション作家となる。1996年『インド ミニアチュール幻想』を刊行し、講談社ノンフィクション賞受賞。2008年『知られざる魯山人』で大宅壮一ノンフィクション賞受賞。地元の新聞記者だった父親が魯山人と親しかった。(ウイキペディア参照)

「北国街道 安藤家」
<長浜 安藤家>
 魯山人(この頃は福田大観)は大正2年(1913)の冬(1月か2月)、滋賀県長浜町で文具商と紙問屋を営んでいた河路豊吉に連れられて、長浜にある河路家の食客になります。東京の松山堂 主人藤井利八が取引先であり親しい間柄であった河路豊吉に房次郎を引き合わせ、河路豊吉が房次郎を大いに気にいったためでした。この頃の長浜を見るには、長浜駅近くの北国街道沿いにある安藤家を見るのが一番ですので、最初は安藤家を紹介します。

 長浜 安藤家についてウイキペディアを参照します。
 北国街道 安藤家は滋賀県長浜市にある歴史的建造物です。庭園にある書院の小蘭亭(しょうらんてい)の美術は北大路魯山人の代表作として知られています。長浜城主羽柴秀吉に選ばれた長浜町十人衆の筆頭たる三年寄を江戸時代を通して勤めた安藤家の商家として明治38年(1905)に安藤與惣次郎により建設された近代和風建築物です。虫籠窓や紅殻格子など近代商家の特徴を備えています。 2008年3月末に一度閉館となりましたが、2012年4月に4年ぶりに公開となりました。離れの書院「小蘭亭」は北大路魯山人が描いた襖絵や天井画などで彩られていることで有名です。その名称は大通寺の名勝庭園の書院「蘭亭」からとったものとされています。古翠園は小蘭亭の前庭として大正3年に築造された日本庭園で、布施宇吉による作庭です。小蘭亭と古翠園は年4回に限り特別公開されてきましたが、現在は非公開となっています。

写真は北国街道を安藤家前から北に撮影したものです。写真の左側が安藤家です。滋賀県長浜市は戦災にあっておらず、昔のままの風景を見ることができます。安藤家は明治以降、呉服問屋を営んでいたため、魯山人には篆刻看板”呉服”を作らせています(大観の名)。又、安藤家の離れは魯山人により”小蘭亭”と名付けられています。現在は小蘭亭は見学出来ませんが、入口だけ撮影してきました。



「南呉服東町17」
<長浜市内南呉服東町一七番地>
 魯山人(この頃は福田大観)が食客として滞在していた長浜の河路家は、長浜駅近くの北国街道沿にありました。吉田耕三氏の「北大路魯山人伝」を参照すると、河路家は当時の地番で長浜市南呉服東町一七番地で、戦後、河路家は耳鼻咽喉科医東秀雄氏の住居になっていました。

 吉田耕三氏の「北大路魯山人伝」からです。
「… この号を書くについて、私は魯出人から聞いた話を裏づけるべく長浜市に出向いてみた。現在長浜市錦町五〇番地で煙草の店を出していて滋賀県文化財専門委員をしている中村林一氏をたずねて当時の河路豊吉の店の跡に案内して貰つた。その家は現在も長浜市内南呉服東町一七番地にそのまま残つていたが、二階建造りの、道路に面した一階は千本格子の住宅風に改逍されていて耳鼻咽喉科医東秀雄氏の住居になつている。しかし昔のままの、表通りに面した壁には看板をはずしたとおぼしき大釘の穴跡が残つていて中村氏の記憶では其処に「淡海老舗」の木彫看板が昭和八年豊吉の死去するまで掛っていたそうである。この淡海老舗の篆書の横には大観銘が刻まれてあつたことも覚えていた。〔豊吉の死後、紙平の店は息子幸造(明治三十三年生)が維持出来ず廃業し、幸造は店屋敷を売つて京都に移住して五年程前病没しているそうだ。〕この大観こそ長浜時代から房次郎か使いはしめた号で、私はその看板の行方を早速中村氏にさがして貰うことを頼んで来た。
 淡海とは琵琶湖の吉い呼び名であり、河路豊吉はこれを白分の号にし、又そのまま家号にも使つていたのである。…」

 ”河路家の位置については吉田耕三氏の「北大路魯山人伝」が一番詳しいです。実際に訪ねていますので正確に場所を把握されています。

 白崎秀雄氏の「北大路魯山人」からです。
「… その無名の大観は、長浜南呉服町の河路方の一室で、さっそくおおくの書を揮毫した。河路方の軒先には、彼の彫った「淡海老舗」の扁額がかかげられた。「淡海」はあわみ、近江に通ずる。 それらを見て、趣味家の中の幾人かは、嘆声を発した。その放胆で卑しからぬ筆致や刀跡は、彼らの予想を大きく外れるものであった。会つて話してみると、支那・朝鮮の書や篆刻には、よく通じていて、
「今日もう一六・鳴鶴の徒は、論ずるに足りませんな。先達として語るに足るのは、上海の呉昌碩くらいのもんでしょうか」
 などと、いう。
 料理・味覚についても、論ずる。大観の名はいくらか近隣に知られ、篆刻の印章や額を依嘱する者も現れた。
 長浜は、徳川期には、数寄大名井伊藩の領内である。明治以降も、書画骨董の趣味家が少くなかった。
 大観の房次郎を、長浜の富裕な商人たちが迎えたのは、この事情に由る。その中の筆頭株が、長浜二十一銀行頭取で、東京・京都に織物問屋を経営していた、十代柴田源七である。…」

 ”河路方の軒先には、彼の彫った「淡海老舗」の扁額がかかげられた”とありますが、吉田耕三氏の「北大路魯山人伝」では、”表通りに面した壁には看板をはずしたとおぼしき大釘の穴跡が残つていて中村氏の記憶では其処に「淡海老舗」の木彫看板が昭和八年豊吉の死去するまで掛っていたそうである”とあり、その後店は人手に渡り、戦後は東秀雄氏の住居になつています(住宅地図で確認)。

 山田和氏の「知られざる魯山人」からです。
「… 破天荒な房次郎の朝鮮行きがまた河路の気に入って、おそらくそんなふうな言葉が口をついて出たと思われる。
(この男を長浜に連れて帰ったら、皆、仰天するやろな)
 河路は、そう思った。
(わしは骨董に目が利くだけやのうて人間にも目が利く、そこを見せたろやないか)
 そう考えると河路は愉快になった。
「それにしても横山大観がおるのに、同じ号を名乗るちゅうあんたの根性は見上げたもんや。普通やったら、気おくれしてようやらんことや。そこんところがまたええ。力が溢れとるんやな、きっと。こりゃあ、横山大観を越えるかもしれんで」
 冗談ともつかぬ河路らしい人間の見立てをして、彼は続けた。
「どうや、わしと一緒に長浜へ来いへんか。数寄者らに会わせて、仕事をぎょうさん紹介したるさかいに」
 鳴鶴や一六を泊めるという男にそう言われて、横山大観より十五歳若かった福田大観は一も二もなく頷いた。竹内栖鳳と親しいという話に、とくに惹きつけられたはずである。大観こと福田房次郎は、吉田の伝記にしたがえば、こうして河路に同行して長浜へ向かう。大正二年(一九一三年)初冬(一月か二月)、大陸から帰国して約半年後のことで、第一次世界大戦がはじまる一年半ほどまえであった。世界は騒々しくなりはじめていた。
 長浜南呉服東町の河路の家に着いて早々、大観は書を揮毫し、その合間に篆刻と濡額を仕上げた。素晴らしい早さだった。河路の家に集まった者たちは、それを見て嘆声をあげた。…」

 魯山人が長浜に居た頃は”大正二年(一九一三年)初冬(一月か二月)”で、年譜的には山田和氏の「知られざる魯山人」が一番正確です。

写真は安藤家の二階から南呉服東町一七番地方向を撮影したものです。写真右側に写っている建物は松岡印刷所(”松栄堂印房”の看板のところ)で、其の左隣は駐車場(少し前まで”お宿ひし竹”)、其の左隣が南呉服東町一七番地(ここが河路家跡)となります(現在の住居表示で元浜町7-5)。正確には、写真左側の建物の左側(二階建て)が”河路家跡”で右側が”オトヤ自転車店跡”となります。東秀雄氏が右側の”オトヤ自転車店跡”を買取ってひとつに為てしまったようです。”表通りに面した壁には看板をはずしたとおぼしき大釘の穴跡”はありませんでした。又、東秀雄氏の耳鼻咽喉科医院は写真左を少し進んだ左側にありました(現在の札の辻堂本舗の南端辺り)。

「室の街並み」
<室の柴田源七>
 魯山人(この頃は福田大観)は河路家に招かれた後に長浜駅からは少し離れた室の柴田源七(十代目)宅に食客として留まります。河路家からは徒歩で40分弱(3Km)程の距離です。

 吉田耕三氏の「北大路魯山人伝」からです。
「…北大路魯山人伝(十)
 福田大観を名のつて近江の長浜に乗り込んだ房次郎が、近郷室の柴田源七(十代目)の招きで其の豪壮な屋敷に食客となつて逗留したのは明治四十三年(一九一〇年)の暮からその翌年の春までのわずか二、三ヵ月の間であつた。(写真1室の柴田源七家)しかしこの期間のさまざまなめぐり合せが、房次郎のそれからの運命を幸いにも大きく展開させることとなつたのである。
 十代目柴田源七については先号で述べたよ人でもあつた。(ママ)
 源七が房次郎をわざわざ室の自邸に招いて逗留させた目的は同風軒の篆刻額を彼にほらせることであつた。当時の風潮として西欧風の邸宅や豪華な応接間は成功者の誰もが一応は持ちたがるものであつたが、漢学、詩書を好んだ彼は、室の自邸内に純然たる中国風の応接間を造ることを考えついた。そしてこの部屋は明治四十二年房次郎が長浜にやつて来た前年にほぼ完成していたのである。…」

 ここでは時期が明治四十三年と書かれていますが、明らかに間違いです。この頃魯山人は朝鮮におり、日本にはおりませんでした。時期を大正2年とするのが正しいとおもわれます。

 白崎秀雄氏の「北大路魯山人」からです。
「… 大観の房次郎を、長浜の富裕な商人たちが迎えたのは、この事情に由る。その中の筆頭株が、長浜二十一銀行頭取で、東京・京都に織物問屋を経営していた、十代柴田源七である。
 源七はいわゆる煎茶趣味、つまり文人趣味に徹し、その自邸の応接室を完全に支那風に造り上げるのに腐心していた。
 室内には、万暦氈を敷き、紫檀の大机と椅子を据え、天井からは房飾りのついたランタンを吊す。
 書架には漢籍、棚には文房具、主人の席のわきには煎茶器を収めた存星塗の器局。部屋の周囲には朱塗の廻廊をめぐらし、円窓から微光が射し込む設計である。
 源七は、この部屋を同風軒と名づけ、廻廊から部屋に通ずる入口の上に、篆書でその名を彫った扁額を懸けたいと、かねてから考えていた。このとき、彼は大観の作風を、河路方で見たのである。彼は、さっそく大観を自邸に招き、同風軒の扁額をたのんだ。
 同風軒は、昭和三十六年現在なお当時のままあり、扁額もかけられていた。一尺五寸に四尺ほどの横額で、木地を金箔で貼り、陰刻の字に群青をさしてある。
 絵画への近似を感じさせる個性的な書体と、荒彫りの刀跡とは、よくマッチして雅味あふれる。彼の佳作の一例に、あげられよう。…」


 山田和氏の「知られざる魯山人」からです。
「…数寄者の一人、縮緬問屋の柴田源七(十代目源七。慶応元年〜昭和二十一年)は、さっそく大観を自邸に招いて食客とし、濡額を依頼した。彼は支那趣味が昂じて自宅に「同風軒」と名づけた支那館を築造して久しかったが、懸けるべき濡額がないままになっていた。告田の伝記によれば、柴田の支那館(平成十九年時点で現存)と主人の生活はつぎのようなものだったらしい。
 「三間四方程の部屋にはシナ絨緞を敷き、紫檀の机と椅子を中央に置いて天井からは房飾りのついた豪華なランタンを垂げた。書棚には漢学、詩書の本を並べ部屋の隅の小卓の上には明の赤絵壺がのせてあり、部屋の周囲には廻廊をめぐらせて円窓から軟かな外光がさし込んで来ると云った設計である。
 調度の品々はすべて中国から買い集めたものばかりで、中国服を身につけてこの部屋に坐し、漢学を論じ、詩書に興ずると、正に中国に遊んでいるかの様な錯覚さえ感じる程の凝り方であった」(前掲伝記『陶説』九十五号。昭和三十六年二月)
 このような異国趣味はそのころ、西域探険で名を馳せていた西本願寺門主の大谷光瑞(明治九年〜昭和二十三年)が「二楽荘」を建てたことで頂点に達していた。神戸六甲山の山腹に専用のケーブルカーを設置した光瑞の二楽荘は、インド・イスラム風と言えば聞こえはいいがじつに奇抜な外観で、建築に関わった伊東忠太の言葉によると「本邦無二の珍建築」であったが、当時これが数寄者たちの間で憧れの的になっていた。
 さて縮緬問屋の柴田源七と竹内栖鳳とは、竹内が西陣の着物図案を描いていた若いころからの知友だった。そもそも柴田が房次郎を贔屓にしたのは、柴田源七の孫である柴田禎二(平成十七年三月面会)の話によれば、栖鳳が柴田に「この男は今はまだ名もないが、将来必ずたいへん有名な男になる」と太鼓判を押したからだという。…」

 二楽荘については別途特集する予定です。

写真は長浜市室の街並みです。室の方にお聞きして柴田源七宅は分りましたが、直接の写真は控えさせていただきました。外から見た限りでは建物は綺麗になっており、内部がそのまま残っているかは分りませんでした。当時の柴田源七宅の写真が「陶説」に掲載されていました。



魯山人の長浜駅附近地図



魯山人の長浜市地図



北大路魯山人年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 北大路魯山人の足跡
明治16年
1883 日本銀行開業
鹿鳴館落成
岩倉具視死去
0  3月23日 北大路魯山人は上賀茂神社の社家 北大路清操の次男として京都府愛宕郡上賀茂村第百六十六番戸で生まれます。 (本名:房次郎)
 9月 服部良知方に養子として入籍
明治20年 1887 長崎造船所が三菱に払い下げられる 4   やすは、房次郎伴い実家一瀬時敏方に戻る
明治22年 1889 大日本帝国憲法発布
衆議院議員選挙法公布
東海道線が全線開通
6  4月4日 服部家を離縁される
6月23日 福田武造の養子として入籍
9月 梅屋尋常小学校に入学
明治26年 1893 大本営条例公布
10 7月 梅屋尋常小学校を卒業
 烏丸二条、千坂わやくやへ丁稚奉公に入る
明治29年 1896 明治三陸地震津波
樋口一葉死去
13 1月 千坂わやくやをやめ、養家へ戻る
明治31年 1898 九竜租借条約
西太后が光緒帝を幽閉
15 習字の懸賞一字書きに応募、天位地位等の賞を受ける
         
         
明治36年 1903 小等学校の教科書国定化 20 秋 上京 京橋高代町3番地 丹羽茂正宅に間借
  実母の登女が住み込んでいる四条男爵邸を訪ねる
  日下部鳴鶴と巌谷一六を訪問
  菓子屋の二階に転居
年末 近くの福田印刷屋の二階に転居
明治37年 1904 日露戦争 21 11月 日本美術展覧会で一等賞を受賞
年末 京橋元嶋町の佐野印刷店方に転居
明治38年 1905 ポーツマス条約 22   岡本可亭に師事、転居(京橋区南伝馬町二丁目一番地)
 後に京橋区南鞘町
明治40年 1907 義務教育6年制 24   書道教授として独立(京橋区中橋泉町1〜2附近
明治41年 1908 中国革命同盟会蜂起
西太后没
25 2月 安見タミを入籍
         
大正元年 1912 中華民国成立
タイタニック号沈没
29 初夏 日本に戻る
大正2年 1913 島崎藤村フランスへ 30 冬 長浜に滞在
大正3年 1914 第一次世界大戦始まる 31 6月前後 藤井せきと正式に見合いし婚約
11月 タミと離婚
大正5年 1916 世界恐慌始まる 33 1月 藤井せきと結婚、神田區駿河台紅梅町に転居
大正6年 1917 ロシア革命 34  
大正8年 1919 松井須磨子自殺 36 5月 京橋南鞘町に大雅堂芸術店を開業
大正10年 1921 日英米仏4国条約調印 38 2月 美食倶楽部を開業
大正11年 1922 ワシントン条約調印 39 7月 北大路家を相続して北大路魯山人を名のる
大正12年 1923 関東大震災 40 関東大震災後、芝公園内で美食倶楽部(花の茶屋)を再開
大正14年 1925 治安維持法
日ソ国交回復
42 3月 山王に会員制料亭 星岡茶寮を開始
         
昭和10年 1935 第1回芥川賞、直木賞 52 11月 大阪曽根に星岡茶寮を開業