●魯山人の京都を歩く -5-
    初版2016年1月30日 <V01L02> 暫定版

 「北大路魯山人を歩く」の続編です。今回は魯山人の実母登女(トメ)さんと実父の姉の嫁ぎ先である中大路家について大正2年頃以降を歩いてみました。実母登女(トメ)さんは長男清晃の死後、魯山人と一時朝鮮に渡りますが、その後京都に戻ります。


「陶説 86号」
<「陶説 北大路魯山人伝」 吉田耕三(前回と同じ)>
 白崎秀雄氏の「北大路魯山人」と山田和氏の「知られざる魯山人」だけではよく分からないところがあるので、最初に戻って、「陶説」の昭和35年(1960)5月 86号から1年半掲載された吉田耕三氏の「北大路魯山人伝」を新たに掲載することにしました(これが魯山人について書かれた最初の評伝です)。住所等が記載されたハガキや封筒が残っていれば正確な場所がわかるのですが、人からの伝聞のみで書いているケースがほとんどで何方のが正しいのかよく分かりません。困ったものです。

 「陶説」の昭和35年(1960)5月 86号から1年半掲載された吉田耕三氏の「北大路魯山人伝」からです。
「… 大正二年、彼が三十一才の時、生母の北大路とめ(登女)がら彼に上京をすすめる便り
が届いた。母の便りによると、深川の鉄工所に職工として務めていた清晃(長男)が死んだので、二男である房次郎に北大路の家督を相続してくれるようにとのことである。
 其処で彼は久々に上京した。京橋高代町に丹羽茂正を、元島町に佐野金一を訪ねて見ると、永い間、遠く離れていたせいか、誰でもが昔のいざこざを忘れて心よく迎えてくれた。
 母のとめは、この時六十九才で、日本郵船株式会社社長近藤廉平邸の奉公は既にやめ、東京市赤坂区青山南町六丁目一○九番地に家を借りて住んでいた。
 清晃に子供がなかつたところがら、とめとしては北大路家の家督を是非房次郎に継いで貰いたかつたのだ。とめとしては北大路家を廃家にしたくなかつたし、一度は仔猫同然目も開かぬうちに手許がら捨てるように他人にやつてしまつた房次郎に対して、せめてもの親心を示したかつたからであろう。
 大正二年十月二日附で房次郎は北大路家の家督を相続している。勿論この時はまだ房次郎は福田武造の養子として福川の籍に入つていたのだから、おそらくこの時から福他家を飛び出す決心を固めていたと見てよい。…」

 下記にある2名の評伝も含めて比較すると、一番詳細に書かれているようにおもえます。ただ、最初にも書きましたが、内容は人伝えの伝聞がほとんどです。ただ魯山人から直接聞くことができた唯一の人です。下記の二人の評伝はこの吉田耕三氏の「北大路魯山人伝」が元になっていることは確かです。ただ、裏付け調査をほとんどしていないようで、間違いも多そうです。

【北大路魯山人(きたおおじ ろさんじん 1883年(明治16年)3月23日 - 1959年(昭和34年)12月21日)は、日本の芸術家。本名は北大路 房次郎(きたおおじ ふさじろう)】
 晩年まで、篆刻家・画家・陶芸家・書道家・漆芸家・料理家・美食家などの様々な顔を持っていた。
 明治16年(1883)、京都市上賀茂(現在の京都市北区)北大路町に、上賀茂神社の社家・北大路清操、とめ(社家・西池家の出身)の次男として生まれる。生活は貧しく、魯山人の上に夫の連れ子が一人いた。魯山人が生まれる前に父親が自殺、母親も失踪したため親戚をたらい回しにされる。一度農家に養子に出されるが、6歳の時に竹屋町の木版師・福田武造の養子となり、10歳の時に梅屋尋常小学校を卒業。烏丸二条の千坂和薬屋に丁稚奉公に出された。明治36年(1903)、書家になることを志して上京。翌年の日本美術展覧会で一等賞を受賞し、頭角を現す。明治38年(1905)、町書家・岡本可亭の内弟子となり、明治41年から中国北部を旅行し、書道や篆刻を学んだ。大正4年(1915)、福田家の家督を長男に譲り、自身は北大路姓に復帰。その後も長浜をはじめ京都・金沢の素封家の食客として転々と生活することで食器と美食に対する見識を深めていった。大正6年(1917)便利堂の中村竹四郎と知り合い交友を深め、その後、古美術店の大雅堂を共同経営することになる。大雅堂では、古美術品の陶器に高級食材を使った料理を常連客に出すようになり大正10年(1921)会員制食堂・「美食倶楽部」を発足。自ら厨房に立ち料理を振舞う一方、使用する食器を自ら創作していた。大正14年(1925)には東京・永田町に「星岡茶寮(ほしがおかさりょう)」を中村とともに借り受け、中村が社長、魯山人が顧問となり、会員制高級料亭を始めた。昭和2年(1927)には宮永東山窯から荒川豊蔵を鎌倉山崎に招き、魯山人窯芸研究所・星岡窯(せいこうよう)を設立して本格的な作陶活動を開始する。1928年(昭和3年)には日本橋三越にて星岡窯魯山人陶磁器展を行う。魯山人の横暴さや出費の多さから、昭和11年(1936)星岡茶寮の経営者・中村竹四郎からの内容証明郵便で解雇通知を言い渡され、魯山人は星岡茶寮を追放、同茶寮は昭和20年の空襲により焼失した。戦後は経済的に困窮し不遇な生活を過ごすが、昭和21年(1946)には銀座に自作の直売店「火土火土美房(かどかどびぼう)」を開店し、在日欧米人からも好評を博す。昭和29年(1954)にロックフェラー財団の招聘で欧米各地で展覧会と講演会が開催され、その際にパブロ・ピカソ、マルク・シャガールを訪問。昭和30年には織部焼の重要無形文化財保持者(人間国宝)に指定されるも辞退。昭和34年(1959)に肝吸虫(古くは「肝臓ジストマ」と呼ばれた寄生虫)による肝硬変のため横浜医科大学病院で死去。平成10年、管理人の放火と焼身自殺により、魯山人の終の棲家であった星岡窯内の家屋が焼失した。(ウイキペディア参照)

写真は「陶説」の昭和35年(1960)5月発行の86号です。ここから1年半、吉田耕三氏の「北大路魯山人伝」が掲載されます。ただ、きっちり毎月掲載された訳では無く、途中、2回休んでいますから、18回掲載で昭和36年12月まで掛かっています。昭和36年12月号を見ると、最後に”つづく”と記載があるのですが、その後の号を見ても”つづき”がありません。突然掲載がとり止めになったという感じです。中止になった理由がよく分かりません。

【吉田 耕三(よしだ こうぞう、1915年 - )】
 神奈川県横浜市出身の美術評論家。日本画家の速水御舟の甥。御舟から日本画を学び、御舟の日本画の鑑定人を務める。現代陶芸の旗手といわれた加守田章二の才能を認める。陶芸の公募展・日本陶芸展創設を企画する。東京美術学校(現・東京藝術大学)日本画科卒業。復員後、世界的な陶磁学者で陶芸家・小山冨士夫の助手となり、その後、東京帝室博物館(現・東京国立博物館)陶磁器主任で、陶磁器の批評と収集の天才といわれる北原大輔、人間国宝・荒川豊蔵、百五銀行頭取で陶芸作家・川喜田半泥子から焼き物に関する学問と技術を学ぶ。北大路魯山人の弟子でもある。東京国立近代美術館の創立時から勤務して日本画と工芸を担当し、総括主任研究官などを歴任。日本伝統工芸展鑑査委員、日本陶芸展運営委員・審査員を務める。(ウイキペディア参照)

「北大路魯山人」
<「北大路魯山人」 白崎秀雄(前回と同じ)>
 魯山人の伝記としては吉田耕三氏の次に書かれた本で、白崎秀雄氏が昭和46年(1971)に文藝春秋社より出版したものです。白崎秀雄氏はその後何度か加筆修正し、昭和60年(1885)に新潮社より再度出版されています。最初は吉田耕三氏の「北大路魯山人伝」を鵜呑みにして書いていたようですが、間違いに気づき、修正を加えたようです。文庫本化は平成9年(1997)、中央公論社より、続いて平成25年(2013)ちくま文庫として最新版が出版されています。

 白崎秀雄氏の「北大路魯山人」からです。
「… 北大路清操の長男で家督を継いでいた清晃は、明治三十三年一月京都府愛宕郡上賀茂村百四十一番戸より、東京市赤坂区青山南町六丁目百八番地へ転籍している。徴兵検査の結果兵役を免れ、トメの勧めによって上京したものであろう。房次郎より三歳上で、この転籍の年二十一である。
 前記の吉田伝では、青山南町には清晃が借家して住み、トメも一時はともに住んだことがあるようだという。また、清晃は相当な蕩児で、遊廓に泊って勘定が足らず”附け馬”を引いて丹羽方へ帰ったりすることがあった、とものべられている。果してそこまで遊蕩する力があったであろうか。 トメが、清晃と一番地違いに在籍した記録はあるが、居住とは一致しないかも知れない。…」

 最初、出版されたのは昭和46年、魯山人が無くなったのが昭和34年ですから、無くなってから12年で伝記を書いたわけです。まだ魯山人の関係者の方々がご存命のころだったとおもいます。死去から10年以上経過しており、言えなかったことも語れるようになる時期になったころです。叉、関係者に実際にヒヤリングして書けるわけですから一番いいころだとおもいます。

写真はちくま文庫の白崎秀雄著「北大路魯山人」です。平成25年(2013)発行です。

【白崎 秀雄(しらさき ひでお、1920年-1992年)作家、美術評論家、福井市出身】
 伝記小説に新境地を開き、骨董、書画、日本絵画、篆刻などの関連著作が多い。北大路魯山人研究で著名で、魯山人を世に広めた人物としても知られる。魯山人の芸術性・技術的な特異性を鋭く評価した。(ウイキペディア参照)

「知られざる魯山人」
<「知られざる魯山人」 山田和(前回と同じ)>
 山田和の「知られざる魯山人」は 北大路魯山人の関する伝記物で一番新しく書かれたものです。平成15年(2003)から「諸君!」に連載され、平成19年(2007)10月に「知られざる魯山人」として出版されています。昭和60年(1885)に白崎秀雄氏が書かれた「北大路魯山人」に対抗するものとして云われていますが、読んでみるとそうでもないようです。

 山田和氏の「知られざる魯山人」からです。
「 こんなふうに悶々と日を送っていたとき、母の登女がやって来た。登女はしばらくまえ四条男爵家から暇を出され、今後を考えあぐねていた。大阪の堺で国鉄の切符売りをしていた息子の氏雅は韓国に渡って漢城(漢陽。韓国併合後、京城と改称。現在のソウル)で機関手をしており、もう一人の息子の清晃は工員をしていたが、清晃は病気がちで頼りになりそうになかった。それで登女は、京城の氏雅のところに身を寄せる決心をしたのだったが、一人では心細いので連れて行ってくれと頼みに来たのである。…」
 魯山人の死去から相当経って、関係者もほとんどいない中で”よく調べて書かれている”とおもいました。山田氏の父親が地元の新聞記者だったころ魯山人と親しかったのがきっかけのようです。

写真は文藝春秋社版、平成19年(2007)発行の「知られざる魯山人」です。魯山人の伝記としては最後の出版となるのではないかとおもいます。関係者も少なくなった今となってはこれより詳しい伝記は出てこないとおもいます。参考図書を比較して矛盾が無いか検証し、裏付けを取って書かれています。一番正しいとおもうのですが、完璧ではないようです。

【山田 和(やまだ かず、男性、1946年 - )ノンフィクション作家】
 富山県砺波市生まれ。1973年より福音館書店勤務。1993年退社しノンフィクション作家となる。1996年『インド ミニアチュール幻想』を刊行し、講談社ノンフィクション賞受賞。2008年『知られざる魯山人』で大宅壮一ノンフィクション賞受賞。地元の新聞記者だった父親が魯山人と親しかった。(ウイキペディア参照)



「二条通西洞院西入ル」
<中大路屋寸>
 魯山人の実父には二人の姉がおり、それぞれ嫁いでいました。この二人が魯山人(房次郎)について一番真実を知っている筈なのですが、今となっては如何ともし難いです。その中でも長女の屋寸から、初めて自分の生家の家柄や、実母の生存を実際に知らされています。この話を聞いてから魯山人は上京する決心をしたようです。明治36年の頃です。

 吉田耕三氏の「北大路魯山人伝」からです。
「… 自殺したと云はれている房次郎の父北大路清操には、屋寸(天保六年七月二十六日生)と波留(文化十一年四月八日生)と云う二人の姉があり、その屋寸が安政三年二月二十五日に同じ上加茂の社家の中大路季紹に嫁して五男二女を産んだ。長男季録から季住・季栄・季広・福乙の五男と、かね・さとの二女である。…

しかしこの季栄と云う人が仲々の人物で、後に、二条通り西洞院西入るに縫箔屋を経営し、大いに成功して一時は六十入からの奉公人を使つていたと云うことである。大きな体躯でよく目立ち、その上ひどいドモリだつたので、ドモ中・ドモ中、と呼ばれていたが、加茂の祭りには、何時も社家の家柄だと云うところから、馬に乗つて行列に参加していた。いろいろと世話好きな面があり、人々には愛されていたが、小字校へも通えなかつたことがたたつて、終生字も満足に読み書き出来ずに過ごしたという話である。兄弟の中でこの季栄だけが京都に住みついていたので、中大路の家督をつぐことになつた。(現在は季栄の長男季チ氏が商を変え荒物屋をいとなんでいる。)…」

 中大路家の場所が”二条通り西洞院西入る”と書かれています(京都では”通り”の”り”は不要です)。この場所は中京区なので「京都市町名変遷史」で調べれます。大正元年(中大路季栄)、平成4年に記載がありました。

 白崎秀雄氏の「北大路魯山人」からです。
「… 大正二年の十月、トメは、東京青山南町より京都の二条通西洞院西大黒町へ、転籍した。同時に、亡夫清操の妹屋須の孫で前年一月に生れたばかりの中大路季孝を、養子に入れている。想うにこの日附を湖ることの極めて短い月日のうちに、長男清晃が死亡した故による。…」
 北大路家の長男清晃は大正2年10月頃に死去しています。

 山田和氏の「知られざる魯山人」からです。
「… 時間が前後するが、東京を後にした房次郎と登女はその後、どういう足取りを辿って朝鮮へ向かったのか。吉田の伝記によれば、つぎのようであった。
 「登女をつれて房次郎は先づ京都に一寸立ち寄つた。久々に見る故郷の山河は、この母子にとつては さぞかし感懐深いものがあつだと考えられる。二人は中大路季栄(房次郎に実母の存在を知らせた伯 母・中大路屋寸の三男、房次郎の従兄弟。京都で縫箔屋を営んでいた)のところにも福田武造のところ にも顔をださなかつた…」

 ここでも中大路季栄が書かれています。

写真は西洞院通から二条通西側を撮影したものです。中大路家は現在もお住まいですので、直接の写真は控えさせてもらいました。

「二条通西洞院西大黒町」
<中京区二条通西洞院西大黒町>
 魯山人の実母登女(トメ)さんは大正2年、東京青山南町より京都の二条通西洞院西大黒町へ転籍しています。魯山人が長浜の柴田源七に頼んで探させたとの話もありますが、中大路家が西大黒町にあり、親しい中大路家に頼んでこの付近に借家を探して貰ったのではないかと推定しています。

 白崎秀雄氏の「北大路魯山人」からです。
「… 大正二年の十月、トメは、東京青山南町より京都の二条通西洞院西大黒町へ、転籍した。同時に、亡夫清操の妹屋須の孫で前年一月に生れたばかりの中大路季孝を、養子に入れている。想うにこの日附を湖ることの極めて短い月日のうちに、長男清晃が死亡した故による。
 清晃は、この年三十四歳だった。今のところ、他にわかっていることは、なにもない。彼についての記録があったはずの、赤坂区役所は、戦災で戦前の戸籍をことごとく焼失している。今は西賀茂の小谷にある墓地にも、彼の墓はない。
 トメが、京都へ「転籍」したことは、同時に転住をも意味していた。この年トメは六十九、この頃と思われる東京で撮った小紋の着物を着ての写真もあるが、ようやく年老いて近親者が慕わしくもなっていたであろう。
 大正四年七月に四歳の養子季孝が「本籍地」で夭折すると、「戸主トメ」が届出ていることも、それを裏付けている。…」

 白崎秀雄氏がここまで詳しく書かれているのは、推定ですが、登女(トメ)さんの戸籍謄本をお持ちではないかとおもいます。

 山田和氏の「知られざる魯山人」からです。
「… 登女の京都の住まいは、房次郎の養父・福田武造の借家に近い二条通西洞院西大黒町で、房次郎の借家から徒歩で北西に十五分ほどの所だった。六十八歳になった登女のために、房次郎は柴田に借家探しを頼んだか、養父の福田武造に世話させたと思われる。吉田耕三は「北人路魯山人伝」の中で、舎兄ともいうべき水野栄次郎が房次郎に一家水人らずで暮らすことを勧め、房次郎はそれにしたがったように書いている。…」
 大正2年の魯山人の借家からは1.4Kmで、福田武造の借家からは300m程です(下記の地図参照)。”養父の福田武造に世話させたと思われる”と書いてあるが、中大路家に世話になったと考えるのが妥当とおもいます。

写真は二条通西大黒町から西洞院通方面(北側)を撮影したものです。転籍後の詳細の番地は不明です、推定ですが中大路家と同じ地番に転籍したのではないかとおもいます。

「光善寺」
<河内の光善寺>
 大正2年で登女(トメ)さんは68歳ですから当時としてはかなり高齢です。単身で生活するのはほとんど無理だったとおもわれます。河内の光善寺にいる娘やす江のところに滞在しており、大正9年(1920)ここで死去しています。

 白崎秀雄氏の「北大路魯山人」からです。
「… トメは、西大黒町の借家を足場として、河内の光善寺にある娘やす江や、その弟の布施駅附近で酒屋を営む西池氏雅方へも行った。上賀茂の荒木重治に嫁した、長女為尾のもとをも、時にはひそかに訪ねた。
 その際には、荒木家のすぐ裏手の、すでに人手に渡っているさきの婚家西池家は、当然見たはずである。またすこし上手には、なお廃屋になったままの北大路清操の家をも、垣間見たであろう。
 彼女は、社家町の古い住民たちにつとめて逢わぬようにしつつ、誰にも口外しえぬ特別の感懐をも、もったに相違ない。
 トメは、その晩年を近親者にいたわられながら幸せに送った、というわけでもない。
 光善寺のやす江にしても、六人もの実子を一人残らず遠方へ遣ってしまっている。財政困難な寺で、彼女はいまや、養子に養われる厄介者にすぎない。…」

 ”布施駅附近で酒屋を営む西池氏雅方”、”上賀茂の荒木重治”については未調査です。

写真は京阪電気鉄道 光善寺駅から800m、徒歩10分のところにある光善寺です。途中に光善寺の道標があるのですが、当時からあった道標かとおもったら大正11年と書いてありました。最寄りの駅は京阪電気鉄道 光善寺駅(京都と大阪の中間辺りで大阪府です)で、大阪・天満橋−京都・五条(現在の清水五条)間が開業したのは明治43年(1910)4月ですから、当時は電車で行けたわけです。

【枚方市指定史跡 光善寺(出口御坊跡)】
 出口は、文明七年(一四七五)本願寺第八世蓮如上人が建立した御坊を中心に発達した寺内町である。寺内町は、室町時代に浄土真宗などの仏教寺院、道場(御坊)を中心に形成された自治集落のことをいう。蓮如上人は御坊(のちの光善寺)を拠点に摂津・河内・和泉で布教活動を行い、三年後、山城に創建した山科本願寺に移った。
 蓮如上人の死後、光善寺は戦国乱世の中で退転を余儀なくされ、旧地に復したのは慶長年間(一五九六−一六一五)であった。広大な寺域と御堂・山門・通用門・鐘楼・太鼓楼・書院・庭園などの江戸時代の伽藍を残し、寺内町の核としての風格を今に伝えている。その景観は「河内名所図絵」 (享和元年刊)にみえるものとよく一致し、江戸後期にさかのぼるものである。伽藍の近世建築には、一七世紀の山門および脇門、江戸中期の数寄屋風書院があり、天明二年(一七八二)の御堂、同七年の太鼓楼等がある。
   二〇一〇年四月       枚方市教育委員会



魯山人の大阪府枚方市出口附近地図



魯山人の中京区附近地図



魯山人の京都地図



北大路魯山人年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 北大路魯山人の足跡
明治16年
1883 日本銀行開業
鹿鳴館落成
岩倉具視死去
0  3月23日 北大路魯山人は上賀茂神社の社家 北大路清操の次男として京都府愛宕郡上賀茂村第百六十六番戸で生まれます。 (本名:房次郎)
 9月 服部良知方に養子として入籍
明治20年 1887 長崎造船所が三菱に払い下げられる 4   やすは、房次郎伴い実家一瀬時敏方に戻る
明治22年 1889 大日本帝国憲法発布
衆議院議員選挙法公布
東海道線が全線開通
6  4月4日 服部家を離縁される
6月23日 福田武造の養子として入籍
9月 梅屋尋常小学校に入学
明治26年 1893 大本営条例公布
10 7月 梅屋尋常小学校を卒業
 烏丸二条、千坂わやくやへ丁稚奉公に入る
明治29年 1896 明治三陸地震津波
樋口一葉死去
13 1月 千坂わやくやをやめ、養家へ戻る
明治31年 1898 九竜租借条約
西太后が光緒帝を幽閉
15 習字の懸賞一字書きに応募、天位地位等の賞を受ける
         
         
明治36年 1903 小等学校の教科書国定化 20 秋 上京 京橋高代町3番地 丹羽茂正宅に間借
  実母の登女が住み込んでいる四条男爵邸を訪ねる
  日下部鳴鶴と巌谷一六を訪問
  菓子屋の二階に転居
年末 近くの福田印刷屋の二階に転居
明治37年 1904 日露戦争 21 11月 日本美術展覧会で一等賞を受賞
年末 京橋元嶋町の佐野印刷店方に転居
明治38年 1905 ポーツマス条約 22   岡本可亭に師事、転居(京橋区南伝馬町二丁目一番地)
 後に京橋区南鞘町
明治40年 1907 義務教育6年制 24   書道教授として独立(京橋区中橋泉町1〜2附近
明治41年 1908 中国革命同盟会蜂起
西太后没
25 2月 安見タミを入籍
         
大正元年 1912 中華民国成立
タイタニック号沈没
29 初夏 日本に戻る
大正2年 1913 島崎藤村フランスへ 30 冬 長浜に滞在、
春以降 京都に滞在
大正3年 1914 第一次世界大戦始まる 31 6月前後 藤井せきと正式に見合いし婚約
11月 タミと離婚
大正5年 1916 世界恐慌始まる 33 1月 藤井せきと結婚、神田區駿河台紅梅町に転居
大正6年 1917 ロシア革命 34  
大正8年 1919 松井須磨子自殺 36 5月 京橋南鞘町に大雅堂芸術店を開業
大正10年 1921 日英米仏4国条約調印 38 2月 美食倶楽部を開業
大正11年 1922 ワシントン条約調印 39 7月 北大路家を相続して北大路魯山人を名のる
大正12年 1923 関東大震災 40 関東大震災後、芝公園内で美食倶楽部(花の茶屋)を再開
大正14年 1925 治安維持法
日ソ国交回復
42 3月 山王に会員制料亭 星岡茶寮を開始
         
昭和10年 1935 第1回芥川賞、直木賞 52 11月 大阪曽根に星岡茶寮を開業