●魯山人の京都を歩く -4-
    初版2016年1月23日 <V01L02> 暫定版

 「北大路魯山人を歩く」の続編です。今回は大正2年頃から3年に掛けて、長浜から京都に移った魯山人の住まいを歩きます。大正3年11月にはタミと離婚、大正4年には養父姓の福田姓から北大路姓に復帰しています。


「陶説 86号」
<「陶説 北大路魯山人伝」 吉田耕三(前回と同じ)>
 白崎秀雄氏の「北大路魯山人」と山田和氏の「知られざる魯山人」だけではよく分からないところがあるので、最初に戻って、「陶説」の昭和35年(1960)5月 86号から1年半掲載された吉田耕三氏の「北大路魯山人伝」を新たに掲載することにしました(これが魯山人について書かれた最初の評伝です)。住所等が記載されたハガキや封筒が残っていれば正確な場所がわかるのですが、人からの伝聞のみで書いているケースがほとんどで何方のが正しいのかよく分かりません。困ったものです。

 「陶説」の昭和35年(1960)5月 86号から1年半掲載された吉田耕三氏の「北大路魯山人伝」からです。
「…室の柴田家は天明年間から藩御用の絹糸商の家柄で、代々長男は本名を寅二郎と名のり家督相続と共に源七を襲名している。九代目源七は江戸に出て(まるに太)柴田の家号で日本橋長谷川町に縮緬、ビロードの商店を出し、明治二十九年に現在の日本橋芳町二丁目四ノ五の場所に店を移して株式会社九大柴田商店とした。
 又明治六年には長浜に絹糸改会社を設文し滋賀県中の絹糸業者を株主にして絹糸絹織の貿易振興にも大いに力をそそぎ、二十一国文銀行の頭取をするなど実業、金融の面で目がましい活躍をした反面、特に俳諧の道でも有名な人で九峰と名のり、全国の俳友と深い交りをしていた。
 十代源七なる人(慶応元年―昭和二十一年八十一才没)も傑出した手腕家で、父の事業、商買を継いで益々柴田家を興し、二十一国文銀行の頭取を継ぎ、又丸太柴田商店の経営者としても京都堺町六角南人ル、大阪南本町二丁目に支店を出すなど広範な活躍をしていた。至つて謹厳な人格者であり、かたわら漢学、詩歌、絵画も堪能で自らも胆山と号し、特に書画骨董に趣味をもつて盛んにこれ等の蒐集もした。このような時の相談役に河路豊吉を大いに認めていた関係から、性格の相違を越えて豊吉とは兄弟のような親しい交りがあつたと言われている。…」

 下記にある2名の評伝も含めて比較すると、一番詳細に書かれているようにおもえます。ただ、最初にも書きましたが、内容は人伝えの伝聞がほとんどです。ただ魯山人から直接聞くことができた唯一の人です。下記の二人の評伝はこの吉田耕三氏の「北大路魯山人伝」が元になっていることは確かです。ただ、裏付け調査をほとんどしていないようで、間違いも多そうです。

【北大路魯山人(きたおおじ ろさんじん 1883年(明治16年)3月23日 - 1959年(昭和34年)12月21日)は、日本の芸術家。本名は北大路 房次郎(きたおおじ ふさじろう)】
 晩年まで、篆刻家・画家・陶芸家・書道家・漆芸家・料理家・美食家などの様々な顔を持っていた。
 明治16年(1883)、京都市上賀茂(現在の京都市北区)北大路町に、上賀茂神社の社家・北大路清操、とめ(社家・西池家の出身)の次男として生まれる。生活は貧しく、魯山人の上に夫の連れ子が一人いた。魯山人が生まれる前に父親が自殺、母親も失踪したため親戚をたらい回しにされる。一度農家に養子に出されるが、6歳の時に竹屋町の木版師・福田武造の養子となり、10歳の時に梅屋尋常小学校を卒業。烏丸二条の千坂和薬屋に丁稚奉公に出された。明治36年(1903)、書家になることを志して上京。翌年の日本美術展覧会で一等賞を受賞し、頭角を現す。明治38年(1905)、町書家・岡本可亭の内弟子となり、明治41年から中国北部を旅行し、書道や篆刻を学んだ。大正4年(1915)、福田家の家督を長男に譲り、自身は北大路姓に復帰。その後も長浜をはじめ京都・金沢の素封家の食客として転々と生活することで食器と美食に対する見識を深めていった。大正6年(1917)便利堂の中村竹四郎と知り合い交友を深め、その後、古美術店の大雅堂を共同経営することになる。大雅堂では、古美術品の陶器に高級食材を使った料理を常連客に出すようになり大正10年(1921)会員制食堂・「美食倶楽部」を発足。自ら厨房に立ち料理を振舞う一方、使用する食器を自ら創作していた。大正14年(1925)には東京・永田町に「星岡茶寮(ほしがおかさりょう)」を中村とともに借り受け、中村が社長、魯山人が顧問となり、会員制高級料亭を始めた。昭和2年(1927)には宮永東山窯から荒川豊蔵を鎌倉山崎に招き、魯山人窯芸研究所・星岡窯(せいこうよう)を設立して本格的な作陶活動を開始する。1928年(昭和3年)には日本橋三越にて星岡窯魯山人陶磁器展を行う。魯山人の横暴さや出費の多さから、昭和11年(1936)星岡茶寮の経営者・中村竹四郎からの内容証明郵便で解雇通知を言い渡され、魯山人は星岡茶寮を追放、同茶寮は昭和20年の空襲により焼失した。戦後は経済的に困窮し不遇な生活を過ごすが、昭和21年(1946)には銀座に自作の直売店「火土火土美房(かどかどびぼう)」を開店し、在日欧米人からも好評を博す。昭和29年(1954)にロックフェラー財団の招聘で欧米各地で展覧会と講演会が開催され、その際にパブロ・ピカソ、マルク・シャガールを訪問。昭和30年には織部焼の重要無形文化財保持者(人間国宝)に指定されるも辞退。昭和34年(1959)に肝吸虫(古くは「肝臓ジストマ」と呼ばれた寄生虫)による肝硬変のため横浜医科大学病院で死去。平成10年、管理人の放火と焼身自殺により、魯山人の終の棲家であった星岡窯内の家屋が焼失した。(ウイキペディア参照)

写真は「陶説」の昭和35年(1960)5月発行の86号です。ここから1年半、吉田耕三氏の「北大路魯山人伝」が掲載されます。ただ、きっちり毎月掲載された訳では無く、途中、2回休んでいますから、18回掲載で昭和36年12月まで掛かっています。昭和36年12月号を見ると、最後に”つづく”と記載があるのですが、その後の号を見ても”つづき”がありません。突然掲載がとり止めになったという感じです。中止になった理由がよく分かりません。

【吉田 耕三(よしだ こうぞう、1915年 - )】
 神奈川県横浜市出身の美術評論家。日本画家の速水御舟の甥。御舟から日本画を学び、御舟の日本画の鑑定人を務める。現代陶芸の旗手といわれた加守田章二の才能を認める。陶芸の公募展・日本陶芸展創設を企画する。東京美術学校(現・東京藝術大学)日本画科卒業。復員後、世界的な陶磁学者で陶芸家・小山冨士夫の助手となり、その後、東京帝室博物館(現・東京国立博物館)陶磁器主任で、陶磁器の批評と収集の天才といわれる北原大輔、人間国宝・荒川豊蔵、百五銀行頭取で陶芸作家・川喜田半泥子から焼き物に関する学問と技術を学ぶ。北大路魯山人の弟子でもある。東京国立近代美術館の創立時から勤務して日本画と工芸を担当し、総括主任研究官などを歴任。日本伝統工芸展鑑査委員、日本陶芸展運営委員・審査員を務める。(ウイキペディア参照)

「北大路魯山人」
<「北大路魯山人」 白崎秀雄(前回と同じ)>
 魯山人の伝記としては吉田耕三氏の次に書かれた本で、白崎秀雄氏が昭和46年(1971)に文藝春秋社より出版したものです。白崎秀雄氏はその後何度か加筆修正し、昭和60年(1885)に新潮社より再度出版されています。最初は吉田耕三氏の「北大路魯山人伝」を鵜呑みにして書いていたようですが、間違いに気づき、修正を加えたようです。文庫本化は平成9年(1997)、中央公論社より、続いて平成25年(2013)ちくま文庫として最新版が出版されています。

 白崎秀雄氏の「北大路魯山人」からです。
「… 大観の房次郎を、長浜の富裕な商人たちが迎えたのは、この事情に由る。その中の筆頭株が、長浜二十一銀行頭取で、東京・京都に織物問屋を経営していた、十代柴田源七である。…」
 最初、出版されたのは昭和46年、魯山人が無くなったのが昭和34年ですから、無くなってから12年で伝記を書いたわけです。まだ魯山人の関係者の方々がご存命のころだったとおもいます。死去から10年以上経過しており、言えなかったことも語れるようになる時期になったころです。叉、関係者に実際にヒヤリングして書けるわけですから一番いいころだとおもいます。

写真はちくま文庫の白崎秀雄著「北大路魯山人」です。平成25年(2013)発行です。

【白崎 秀雄(しらさき ひでお、1920年-1992年)作家、美術評論家、福井市出身】
 伝記小説に新境地を開き、骨董、書画、日本絵画、篆刻などの関連著作が多い。北大路魯山人研究で著名で、魯山人を世に広めた人物としても知られる。魯山人の芸術性・技術的な特異性を鋭く評価した。(ウイキペディア参照)

「知られざる魯山人」
<「知られざる魯山人」 山田和(前回と同じ)>
 山田和の「知られざる魯山人」は 北大路魯山人の関する伝記物で一番新しく書かれたものです。平成15年(2003)から「諸君!」に連載され、平成19年(2007)10月に「知られざる魯山人」として出版されています。昭和60年(1885)に白崎秀雄氏が書かれた「北大路魯山人」に対抗するものとして云われていますが、読んでみるとそうでもないようです。魯山人の死去から相当経って、関係者もほとんどいない中で”よく調べて書かれている”とおもいました。山田氏の父親が地元の新聞記者だったころ魯山人と親しかったのがきっかけのようです。

 山田和氏の「知られざる魯山人」からです。
「三  京都清水寺・泰産寺での独身時代と、内貴清兵衛から学んだ
          「美食の奥義」
 房次郎が長浜の数寄者・柴田源七の会社「丸大柴田商店・京都支店(中京区堺町六角下ル甲屋町)」と目と鼻の先の仕舞屋に東京から転居したのは、内貴や栖鳳を訪れるべく柴田に連れられて上洛してから半年ほどあとの、大正二年(一九一三年)晩秋のことだった。その少しまえ兄の清晃が病死(十月)し、母の登女が東京から京都へ引っ越している。ほぼ同じ時期に東京から京都へ彼自身と実母の引越しが行なわれたわけで、二つの引越しは同時だった可能性がある。…」

 魯山人が京都での住まいを持ったのは大正2年晩秋と書かれています。兄の清晃の死去が同年の10月なので11月に中京区堺町六角上ルの仕舞家に住み始めたのだとおもわれます。

写真は文藝春秋社版、平成19年(2007)発行の「知られざる魯山人」です。魯山人の伝記としては最後の出版となるのではないかとおもいます。関係者も少なくなった今となってはこれより詳しい伝記は出てこないとおもいます。参考図書を比較して矛盾が無いか検証し、裏付けを取って書かれています。一番正しいとおもうのですが、完璧ではないようです。

【山田 和(やまだ かず、男性、1946年 - )ノンフィクション作家】
 富山県砺波市生まれ。1973年より福音館書店勤務。1993年退社しノンフィクション作家となる。1996年『インド ミニアチュール幻想』を刊行し、講談社ノンフィクション賞受賞。2008年『知られざる魯山人』で大宅壮一ノンフィクション賞受賞。地元の新聞記者だった父親が魯山人と親しかった。(ウイキペディア参照)



「中京区堺町六角南入ル」
<柴田源七の丸太柴田商店>
 ”長浜の数寄者・柴田源七の会社「丸大柴田商店・京都支店(中京区堺町六角下ル甲屋町)」”を先に探してみます。この場所も中京区なので「京都市町名変遷史」で調べれます。又、上ル、下ルではなく”甲屋町(かぶとやちょう)”とも書かれていましたので簡単に調べることができました。大正元年には388番地に柴田源七、昭和7年には丸大柴田商店と記載がありました。

 吉田耕三氏の「北大路魯山人伝」からです。
「… 房次郎の京都での住居は中京区堺町六角上ルの仕舞家であつた。この場所は柴田源七の丸太柴田商店(中京区堺町六角南入ル)とは目と鼻の先で、源七の口聞きで借りて貰つたものである。…」
 長浜の柴田源七の京都でのお店が丸太柴田商店で、中京区堺町六角南入ルにあったようです。

 白崎秀雄氏の「北大路魯山人」からです。
「… 彼はその後まもなく、源七とともに入洛し、その世話によって中京区堺町六角南入ルに借家して住んだ。彼はここへ、すぐにタミと二児をつれて来ている。…」
 ここでは詳細に書かれておらず、吉田耕三氏の「北大路魯山人伝」そのままです。

 山田和氏の「知られざる魯山人」からです。
「… 房次郎が長浜の数寄者・柴田源七の会社「丸大柴田商店・京都支店(中京区堺町六角下ル甲屋町)」と目と鼻の先の仕舞屋に東京から転居したのは、内貴や栖鳳を訪れるべく柴田に連れられて上洛してから半年ほどあとの、大正二年(一九一三年)晩秋のことだった。その少しまえ兄の清晃が病死(十月)し、母の登女が東京から京都へ引っ越している。ほぼ同じ時期に東京から京都へ彼自身と実母の引越しが行なわれたわけで、二つの引越しは同時だった可能性がある。…」
 山田和氏の「知られざる魯山人」には少し詳細に書かれています。”丸大柴田商店・京都支店(中京区堺町六角下ル甲屋町)”で、”上ル、下ル”ではなく、町名が書かれていますので直ぐに見つけることができました。

写真は六角通から堺町通南側を撮影したものです。この先、右側に「丸太柴田商店」がありました。現在の堺町ガレージのところです。

「中京区堺町六角上ル」
<中京区堺町六角上ルの仕舞家>
 大正2年からの魯山人の京都での住まいは中京区堺町六角上ルです。上記にも書きましたが長浜の柴田源七に探して貰った住まいのようです。柴田源七の丸太柴田商店から六角通を挟んで反対側になります。100m強程の距離です。

 吉田耕三氏の「北大路魯山人伝」からです。。
「…房次郎の京都での住居は中京区堺町六角上ルの仕舞家であつた。この場所は柴田源七の丸太柴田商店(中京区堺町六角南入ル)とは目と鼻の先で、源七の口聞きで借りて貰つたものである。(写真3参照) (現在は清水屋製靴店となつていて表の造作はすつかり変つている。)…」
 ”(写真3参照) (現在は清水屋製靴店となつていて表の造作はすつかり変つている。)”と書かれていますが、「京都市町名変遷史」には”清水屋製靴店”は書かれていませんでした。写真から類推して中京区堺町六角上ル右側ではないかとおもわれます。再度調べて見ます。

 白崎秀雄氏の「北大路魯山人」からです。
「… 彼はその後まもなく、源七とともに入洛し、その世話によって中京区堺町六角南入ルに借家して住んだ。彼はここへ、すぐにタミと二児をつれて来ている。…」
 ここでは”すぐにタミと二児をつれて来ている”と書かれています。魯山人の妻であるタミは京都の実家に戻っていたようです。

 山田和氏の「知られざる魯山人」からです。
「… 房次郎が長浜の数寄者・柴田源七の会社「丸大柴田商店・京都支店(中京区堺町六角下ル甲屋町)」と目と鼻の先の仕舞屋に東京から転居したのは、内貴や栖鳳を訪れるべく柴田に連れられて上洛してから半年ほどあとの、大正二年(一九一三年)晩秋のことだった。その少しまえ兄の清晃が病死(十月)し、母の登女が東京から京都へ引っ越している。ほぼ同じ時期に東京から京都へ彼自身と実母の引越しが行なわれたわけで、二つの引越しは同時だった可能性がある。…」
 山田和氏の「知られざる魯山人」には当時の状況が詳細に書かれています。やはり一番信頼における本です。

写真は六角通から堺町通北側を撮影したものです。吉田耕三氏の「北大路魯山人伝」に掲載された写真から類推して”旅館こうろ”と”渡敬”の間の民家附近ではないかとおもわれます。

「泰産寺」
<泰産寺>
 魯山人は大正3年の暮、中京区堺町六角上ルの仕舞家から清水寺の塔頭 泰産寺に転居します。内貴清兵衛の紹介でした。清水寺の塔頭に住めるのですから内貴清兵衛の影響力は凄いものです。

 吉田耕三氏の「北大路魯山人伝」からです。。
「… 大正三年の暮近く、彼は堺町六角上ルの家を引き払つて清水寺子安の塔の傍にある泰産寺に居を移した。
 清水坂を登りつめ東山の中腹に位する清水寺の正門から右に道をたどり、有名な清水寺の舞台を左上方に見上げながら行くと音羽之滝にぶつかる。このあたりは左方に甘酒を売る茶店が現在二・二軒あるが、道は右に曲つてこのあたりがらけわしい山道になる。
 それを更に一丁程登って行くと、道が十文字に交叉している場所に出る。石の道標によると、真直ぐは六条天皇陵・高倉天皇陵に通じ、左は是より北清水奥之院道、右は洛陽十四番子安観音菩薩道とあつて共に岩のごつごつした登り坂である。この交叉点から右の道を少し登りつめた処に泰産寺と刻んだ石標が立つていて、其処から段々道を廻り込むように登ると小高い丘陵の頂上に出る。此処はかなり広い範囲にわたり平坦となつていて、中央の部分に子安の塔が美しい姿と占淡な色彩で聳え立つている。この塔の南西隅十米程の処にあたかも塔の堂守のような姿の二階建の庫裏が建つている。この泰彦寺は、その昔、聖武人白E御建立、光明皇后御願所と云はれ、もとは清水寺の正門前(現在の巡査派出所のある場所)にあつたものを明治四十年頃この奥山の丘陵地に移築したものであると云はれる。…

又右手には、手に取るように清水寺の舞台を正面がら眺めることも出来たのである。…。」

 吉田耕三氏の「北大路魯山人伝」に従って清水坂から清水寺の塔頭 泰産寺まで歩いてみました。
 1.清水坂を登る(清水坂は東大路通の清水道交差点から清水寺門前までを言います(松原通が正式名))
 2.清水寺の正門から右に道をたどる
 3.音羽之滝にぶつかる
 4.左方に甘酒を売る茶店が現在二・三軒ある
 5.右は洛陽十四番子安観音菩薩道とあつて共に岩のごつごつした登り坂である(現在は閉鎖中)
 6。中央の部分に子安の塔
 7.この塔の南西隅十米程の処にあたかも塔の堂守のような姿の二階建の庫裏が建つている(泰産寺)

 白崎秀雄氏の「北大路魯山人」からです。
「…「大正四年乙卯陽春、大観学人自為水野老台於洛東清水万松閣南軒下」と落款している
 これらによって見ると、彼が泰産寺にあった期間は、少くとも三年間に及ぶ。この同じ期間に、彼は東京にも住んで藤井せきにもしきりに求婚し、堺町の自宅にも戻り、長浜へも行き、松ヶ崎出荘にも起居した。
 彼は、泰産寺を借りたままにしておいた。ここを、何者にも煩わされることのない、独居の場としていたのであろう。
 鳥辺出の坂を難行して、清水観音の舞台の下を新高雄へ抜ける。音羽の滝の前を過ぎ南へ向って岩石の岨道を登りつめて行くと、ようやく丘陵の頂上に出る。ここに、蒼然として子安の塔が聳え、この塔を守るような形で立っ二階建の堂がある。すなわち泰産寺である。
 ここは、松林に囲まれ、眼下には全京都を一望のうちに俯瞰できる。右手には、清水寺の舞台があたかも正面から、手にとるように眺望され、松籟は、ひねもす鳴りとよもす。風あくまで清らかな、仙境である。…」

 ”清水寺の舞台があたかも正面から、手にとるように眺望”を眺めてみました。

 山田和氏の「知られざる魯山人」からです。
「… 内貴は京都の社寺復興に尽くした市長の息子という文場を生かして、彼のために僑居を見つけてやる。清水寺の塔頭(大寺にぞくする別坊、子院)泰産寺である。この寺中は「清水の舞台」で知られる本堂の東側を抜けて「奥の院」を過ぎ、さらに音羽の山の南麓へと分け入った山中にある。安産祈願の「子安の塔」があることで知られ、泰産寺の名もここからきている。…

 「私か清水寺の泰山寺に滞留中、一日彼(田中傅三郎)は料亭松清の主人と一緒に、薄暮態々この山中に訪ねて来て呉れた。
 私が食道楽だと云ふので、今尚忘れもしない、椋鳥の鹽辛と云ふ珍味と外に様々な佳肴を取揃へそれを組重に詰め込み松清の女中に脊負はせ、清水山の奥泰山寺迄遠路を遥々来遊して呉れたのだ。
 椋鳥の鹽辛を知つたのは、この時が初めてだ。
 私もすつかり喜んでしまつて、松清の主人と食道楽の自慢などを交して此時ばかりは時の過ぐるを知らなかつたこの時、女中を逐ひ返して何處かへ遊びに行かうと、えらい景気で二人が馬力を出しはじめた、二人とはしたたか酒の廻つた松清君と彼君だ。
 馬鹿に三人共気嫌がよくなつて、萬亭即ち祇園の一力に登楼した、それから竟に二人に島原(市内下京区にあった遊廓地帯)の角屋へと案内された。
  宴半ぼに私は山に歸らうとしたが許されない、たうく三人は角屋で太夫を對手に罪の深い夢を見てしまつた。さて翌朝だが、一人者の私や、明暗花柳には慢性患者なる松清君は存外平気だが、田中君は一寸後悔の體だ、結局三人は泰山寺で酔ひつぶれてしまつたことにしやうと衆議一決して、彼君は何喰はぬ顔して歸宅した」(『故田中傅三郎』前掲書。ルビと傍点、カッコ内は筆者)ちなみに房次郎は泰産寺の独身時代、ここに富田渓仙を呼び寄せて共同生活をしている。現在この塔頭は建て直され、以前よりやや大振りになっているが、ここに住む僧侶の話(平成十七年七月面会)では、房次郎は清水寺参道の七味屋で山根を買い求め、四条畷の「鳥新」で鳥のすき焼きを食べるのを趣味にしていたという話が伝わっている。…」

  ここでは京都で有名なお店の名前が書かれています。
 ・料亭松清(「魯山人の京都を歩く -3-」を参照)
 ・萬亭即ち祇園の一力
 ・島原(市内下京区にあった遊廓地帯)の角屋
 ・清水寺参道の七味屋
 ・四条畷の「鳥新

写真は清水寺の塔頭 泰産寺です。登っていくのが大変でした。子安観音菩薩道が閉鎖されているので、少し先から回っていかないとたどり着きません。清水寺境内案内図を参照してください。

「東洞院三条下ル」
<水野栄次郎>
 育ての親の福田武造のところに弟子入していた水野栄次郎が御幸町御池上ルに印版店を出し、その後、東洞院三条下ルに移転しています。京都で魯山人を助けてくれた一人です。

 吉田耕三氏の「北大路魯山人伝」からです。。
「… 養父福田武造の許で苦労を共にした水野栄次郎が御幸町御池上ルに印版の店を出していて、版下描きの仕事を彼のために何かと世話してくれていた。
 水野栄次郎のすすめもあり、やがてこの六角の家に房次郎はたみを入れ、四才になつた桜一と三才の武夫と共に親子水入らずの世帯を持つようになつたのである。…

 大正四年の春、既にこの伝記を通読されている方はよく御存知の水野栄次郎が御幸町御池上ルから印刷の店を東洞院三条下ルに移した。これを祝つて房次郎が栄次郎に送つた書が今日も同じ処に息子さんが経営している水野印房の店内にかかげられてある。写真上を参照されたいが、「孫子宜長」大正四年己卯陽春大観字人自ら水野老台の為に題す。洛東清水万松閣南軒之下に於て とある。この書の意味するものは彼の当時の心境の一端とも見られて面白いものだ。…。」

 東洞院三条下ルの水野栄次郎の店は中京区なので「京都市町名変遷史」で調べれます。昭和7年に水野栄次郎(207番地付近)、昭和44年に水野八百喜の記載がありました。

 白崎秀雄氏の「北大路魯山人」からです。
「… 武造の家は、長屋の一軒とのことで、吉田伝には写真も掲げられている。六畳の仕事場と四畳半の台所の二間しかなく、そこに武造・フサの夫婦、徒弟水野栄次郎、加えて犬六頭が同居していた。そこへ房次郎が加わったとかかれているが、物理的に困難ではあるまいか。写真で見ると、天井の低い中二階があり、そこにもう一室くらいはあったものと考えられる。…」
 育ての親の福田武造のところに居た頃のお話しです。

写真は三条通から東洞院通南側を撮影したものです。水野栄次郎のお店は現在の三文字町207附近とおもわれます。



魯山人の中京区附近地図



魯山人の京都地図



北大路魯山人年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 北大路魯山人の足跡
明治16年
1883 日本銀行開業
鹿鳴館落成
岩倉具視死去
0  3月23日 北大路魯山人は上賀茂神社の社家 北大路清操の次男として京都府愛宕郡上賀茂村第百六十六番戸で生まれます。 (本名:房次郎)
 9月 服部良知方に養子として入籍
明治20年 1887 長崎造船所が三菱に払い下げられる 4   やすは、房次郎伴い実家一瀬時敏方に戻る
明治22年 1889 大日本帝国憲法発布
衆議院議員選挙法公布
東海道線が全線開通
6  4月4日 服部家を離縁される
6月23日 福田武造の養子として入籍
9月 梅屋尋常小学校に入学
明治26年 1893 大本営条例公布
10 7月 梅屋尋常小学校を卒業
 烏丸二条、千坂わやくやへ丁稚奉公に入る
明治29年 1896 明治三陸地震津波
樋口一葉死去
13 1月 千坂わやくやをやめ、養家へ戻る
明治31年 1898 九竜租借条約
西太后が光緒帝を幽閉
15 習字の懸賞一字書きに応募、天位地位等の賞を受ける
         
         
明治36年 1903 小等学校の教科書国定化 20 秋 上京 京橋高代町3番地 丹羽茂正宅に間借
  実母の登女が住み込んでいる四条男爵邸を訪ねる
  日下部鳴鶴と巌谷一六を訪問
  菓子屋の二階に転居
年末 近くの福田印刷屋の二階に転居
明治37年 1904 日露戦争 21 11月 日本美術展覧会で一等賞を受賞
年末 京橋元嶋町の佐野印刷店方に転居
明治38年 1905 ポーツマス条約 22   岡本可亭に師事、転居(京橋区南伝馬町二丁目一番地)
 後に京橋区南鞘町
明治40年 1907 義務教育6年制 24   書道教授として独立(京橋区中橋泉町1〜2附近
明治41年 1908 中国革命同盟会蜂起
西太后没
25 2月 安見タミを入籍
         
大正元年 1912 中華民国成立
タイタニック号沈没
29 初夏 日本に戻る
大正2年 1913 島崎藤村フランスへ 30 冬 長浜に滞在、
春以降 京都に滞在
大正3年 1914 第一次世界大戦始まる 31 6月前後 藤井せきと正式に見合いし婚約
11月 タミと離婚
大正5年 1916 世界恐慌始まる 33 1月 藤井せきと結婚、神田區駿河台紅梅町に転居
大正6年 1917 ロシア革命 34  
大正8年 1919 松井須磨子自殺 36 5月 京橋南鞘町に大雅堂芸術店を開業
大正10年 1921 日英米仏4国条約調印 38 2月 美食倶楽部を開業
大正11年 1922 ワシントン条約調印 39 7月 北大路家を相続して北大路魯山人を名のる
大正12年 1923 関東大震災 40 関東大震災後、芝公園内で美食倶楽部(花の茶屋)を再開
大正14年 1925 治安維持法
日ソ国交回復
42 3月 山王に会員制料亭 星岡茶寮を開始
         
昭和10年 1935 第1回芥川賞、直木賞 52 11月 大阪曽根に星岡茶寮を開業