●魯山人の京都を歩く -3-
    初版2016年1月16日 銭清の地図を修正
  二版2016年3月3日 <V01L02> 内貴清兵衛終焉の地その他を追加 暫定版

 「北大路魯山人を歩く」の続編です。今回は魯山人の支援者として有名な内貴清兵衛を歩きます。吉田耕三氏の言葉を借りれば、大正2年頃、長浜から京都に移った魯山人がその全生涯を通じて、物心両面に最も恩恵を受けた人です。


「陶説 86号」
<「陶説 北大路魯山人伝」 吉田耕三(前回と同じ)>
 白崎秀雄氏の「北大路魯山人」と山田和氏の「知られざる魯山人」だけではよく分からないところがあるので、最初に戻って、「陶説」の昭和35年(1960)5月 86号から1年半掲載された吉田耕三氏の「北大路魯山人伝」を新たに掲載することにしました(これが魯山人について書かれた最初の評伝です)。住所等が記載されたハガキや封筒が残っていれば正確な場所がわかるのですが、人からの伝聞のみで書いているケースがほとんどで何方のが正しいのかよく分かりません。困ったものです。

 「陶説」の昭和35年(1960)5月 86号から1年半掲載された吉田耕三氏の「北大路魯山人伝」からです。
「…北大路魯山人伝(十一)

 魯山人がその全生涯を通じて、物心両面に最も恩恵を受けた人と云えば、何と云つても京都の内貴清兵衛であろう。(写真一参照但し六八才の頃)はじめて房次郎が富田渓仙の紹介で篆刻家福田大観として清兵衛に引き会わされたのは明治四十四年の四月で、京都から金沢に移つた大正四年の夏まで、二十九才から三十三才の間丸四年以上の歳月を房次郎は清兵衛の身近で言葉に尽せぬ程の薫陶を受けている。其の開に清兵衛から美術の鑑定眼はもとより、料理道の上にも広い視野を教え込まれ、これによつて後の美食倶楽部時代、星ヶ岡茶寮時代に魯山人が活躍するに至つた信念の基礎が培われたことは言うまでもない。…」

 下記にある2名の評伝も含めて比較すると、一番詳細に書かれているようにおもえます。ただ、最初にも書きましたが、内容は人伝えの伝聞がほとんどです。ただ魯山人から直接聞くことができた唯一の人です。下記の二人の評伝はこの吉田耕三氏の「北大路魯山人伝」が元になっていることは確かです。ただ、裏付け調査をほとんどしていないようで、間違いも多そうです。

【北大路魯山人(きたおおじ ろさんじん 1883年(明治16年)3月23日 - 1959年(昭和34年)12月21日)は、日本の芸術家。本名は北大路 房次郎(きたおおじ ふさじろう)】
 晩年まで、篆刻家・画家・陶芸家・書道家・漆芸家・料理家・美食家などの様々な顔を持っていた。
 明治16年(1883)、京都市上賀茂(現在の京都市北区)北大路町に、上賀茂神社の社家・北大路清操、とめ(社家・西池家の出身)の次男として生まれる。生活は貧しく、魯山人の上に夫の連れ子が一人いた。魯山人が生まれる前に父親が自殺、母親も失踪したため親戚をたらい回しにされる。一度農家に養子に出されるが、6歳の時に竹屋町の木版師・福田武造の養子となり、10歳の時に梅屋尋常小学校を卒業。烏丸二条の千坂和薬屋に丁稚奉公に出された。明治36年(1903)、書家になることを志して上京。翌年の日本美術展覧会で一等賞を受賞し、頭角を現す。明治38年(1905)、町書家・岡本可亭の内弟子となり、明治41年から中国北部を旅行し、書道や篆刻を学んだ。大正4年(1915)、福田家の家督を長男に譲り、自身は北大路姓に復帰。その後も長浜をはじめ京都・金沢の素封家の食客として転々と生活することで食器と美食に対する見識を深めていった。大正6年(1917)便利堂の中村竹四郎と知り合い交友を深め、その後、古美術店の大雅堂を共同経営することになる。大雅堂では、古美術品の陶器に高級食材を使った料理を常連客に出すようになり大正10年(1921)会員制食堂・「美食倶楽部」を発足。自ら厨房に立ち料理を振舞う一方、使用する食器を自ら創作していた。大正14年(1925)には東京・永田町に「星岡茶寮(ほしがおかさりょう)」を中村とともに借り受け、中村が社長、魯山人が顧問となり、会員制高級料亭を始めた。昭和2年(1927)には宮永東山窯から荒川豊蔵を鎌倉山崎に招き、魯山人窯芸研究所・星岡窯(せいこうよう)を設立して本格的な作陶活動を開始する。1928年(昭和3年)には日本橋三越にて星岡窯魯山人陶磁器展を行う。魯山人の横暴さや出費の多さから、昭和11年(1936)星岡茶寮の経営者・中村竹四郎からの内容証明郵便で解雇通知を言い渡され、魯山人は星岡茶寮を追放、同茶寮は昭和20年の空襲により焼失した。戦後は経済的に困窮し不遇な生活を過ごすが、昭和21年(1946)には銀座に自作の直売店「火土火土美房(かどかどびぼう)」を開店し、在日欧米人からも好評を博す。昭和29年(1954)にロックフェラー財団の招聘で欧米各地で展覧会と講演会が開催され、その際にパブロ・ピカソ、マルク・シャガールを訪問。昭和30年には織部焼の重要無形文化財保持者(人間国宝)に指定されるも辞退。昭和34年(1959)に肝吸虫(古くは「肝臓ジストマ」と呼ばれた寄生虫)による肝硬変のため横浜医科大学病院で死去。平成10年、管理人の放火と焼身自殺により、魯山人の終の棲家であった星岡窯内の家屋が焼失した。(ウイキペディア参照)

写真は「陶説」の昭和35年(1960)5月発行の86号です。ここから1年半、吉田耕三氏の「北大路魯山人伝」が掲載されます。ただ、きっちり毎月掲載された訳では無く、途中、2回休んでいますから、18回掲載で昭和36年12月まで掛かっています。昭和36年12月号を見ると、最後に”つづく”と記載があるのですが、その後の号を見ても”つづき”がありません。突然掲載がとり止めになったという感じです。中止になった理由がよく分かりません。

【吉田 耕三(よしだ こうぞう、1915年 - )】
 神奈川県横浜市出身の美術評論家。日本画家の速水御舟の甥。御舟から日本画を学び、御舟の日本画の鑑定人を務める。現代陶芸の旗手といわれた加守田章二の才能を認める。陶芸の公募展・日本陶芸展創設を企画する。東京美術学校(現・東京藝術大学)日本画科卒業。復員後、世界的な陶磁学者で陶芸家・小山冨士夫の助手となり、その後、東京帝室博物館(現・東京国立博物館)陶磁器主任で、陶磁器の批評と収集の天才といわれる北原大輔、人間国宝・荒川豊蔵、百五銀行頭取で陶芸作家・川喜田半泥子から焼き物に関する学問と技術を学ぶ。北大路魯山人の弟子でもある。東京国立近代美術館の創立時から勤務して日本画と工芸を担当し、総括主任研究官などを歴任。日本伝統工芸展鑑査委員、日本陶芸展運営委員・審査員を務める。(ウイキペディア参照)

「北大路魯山人」
<「北大路魯山人」 白崎秀雄(前回と同じ)>
 魯山人の伝記としては吉田耕三氏の次に書かれた本で、白崎秀雄氏が昭和46年(1971)に文藝春秋社より出版したものです。白崎秀雄氏はその後何度か加筆修正し、昭和60年(1885)に新潮社より再度出版されています。最初は吉田耕三氏の「北大路魯山人伝」を鵜呑みにして書いていたようですが、間違いに気づき、修正を加えたようです。文庫本化は平成9年(1997)、中央公論社より、続いて平成25年(2013)ちくま文庫として最新版が出版されています。

 白崎秀雄氏の「北大路魯山人」からです。
「… 魯山人は、その生涯の重要な時期に、彼にとってなくてはならぬ人物と、ほとんど劇的な結びつき方をしている。そのおおくは、彼が接触を長い間切望し、状況を測り、策をめぐらして機会を作ったものであった。
 内貴は、その点でも最たる例であろう。…

 大正の末ころまで、東洞院御池上ルの船屋町に、呉服問屋の老舗「銭清」があった。代々清兵衛を名乗り、先代は養子ながらきわめて賢明な努力家で、本来の西陣物に加えて桐生・足利等の関乗物を活溌に手がけ、第一銀行が無制限に融資するまでになった。
 先代が三十歳の年に、先々代の子甚三郎が生れた。先代には子がなかったから当然甚三郎が家督するはずのところ、彼は商売を好まず、少くから市政に携って、明治三十一年には初代の公選京都市長となった。
 先代は、甚三郎の長男清之助を清兵衛と改名、家督を継がせた。清之助は、京都商業学校を卒えて以来、丸に「銭」の字の「銭清」の商標の前掛を寝るときの他は外さぬほど、働いた。関東へも、さかんに仕入れに出かけた。
 彼は、余暇にはもっぱら読書習書に耽った。はやくアメリカに遊んだこともあり、牧師を招いて聖書の講義をきいたこどもある。
 先代が歿した明治三十六年、二十六の彼は衿問屋「大橋」から、容姿も人と為りも非の打ち処なしといわれた次女を、妻に迎えた。清兵衛もまた、六十八歳の写真で見てさえ、眉目秀でた凛々しい好漢である。
 富家を継ぐ者の責任は、まずその財の安全な防衛にある。清兵衛は、妻の近親者が借財を乞うても、貸さなかった。…」

 最初、出版されたのは昭和46年、魯山人が無くなったのが昭和34年ですから、無くなってから12年で伝記を書いたわけです。まだ魯山人の関係者の方々がご存命のころだったとおもいます。死去から10年以上経過しており、言えなかったことも語れるようになる時期になったころです。叉、関係者に実際にヒヤリングして書けるわけですから一番いいころだとおもいます。

写真はちくま文庫の白崎秀雄著「北大路魯山人」です。平成25年(2013)発行です。

【白崎 秀雄(しらさき ひでお、1920年-1992年)作家、美術評論家、福井市出身】
 伝記小説に新境地を開き、骨董、書画、日本絵画、篆刻などの関連著作が多い。北大路魯山人研究で著名で、魯山人を世に広めた人物としても知られる。魯山人の芸術性・技術的な特異性を鋭く評価した。(ウイキペディア参照)

「知られざる魯山人」
<「知られざる魯山人」 山田和(前回と同じ)>
 山田和の「知られざる魯山人」は 北大路魯山人の関する伝記物で一番新しく書かれたものです。平成15年(2003)から「諸君!」に連載され、平成19年(2007)10月に「知られざる魯山人」として出版されています。昭和60年(1885)に白崎秀雄氏が書かれた「北大路魯山人」に対抗するものとして云われていますが、読んでみるとそうでもないようです。魯山人の死去から相当経って、関係者もほとんどいない中で”よく調べて書かれている”とおもいました。山田氏の父親が地元の新聞記者だったころ魯山人と親しかったのがきっかけのようです。

 山田和氏の「知られざる魯山人」からです。
「… 四十六歳の柴田は三十歳の房次郎を急かせ、手はずを調えた。吉田耕三の「北大路魯山人伝」によると、それは彼が朝鮮から戻って九か月後の大正二年(一九一三年)四月のことであった。
 内貴清兵衛(明治十一年〜昭和三十年。七十七歳で没)は、京都の豪商・京染呉服問屋「銭清」の元三代目で、父親は公選による初代京都市長を務めた内貴甚三郎(嘉丞元年〜大正十五年。七十八歳で没)であった。甚三郎は祇園通いで知られ、「水揚げの大家」という浮き名も流していたようだが、京都の社寺復興に尽くして現在の観光都市・京都の礎を築き、私財を抛って平安神宮の神苑(六千坪)を作らしめた市長として名を残している。その甚三郎はこのとき六十五歳、市長職を降りて八年半経っていた。
 長男の清兵衛は幼名を清之助といい、東京の学校を卒業後、代々の清兵衛を襲名し、銭清を継いだ。それは房次郎が上京区竹屋町に住み西洋看板を描いていた明治三十年代前半、十代後半ごろの話である。
 しかし彼はまもなく父親との確執に嫌気がさし、家業を弟の富三郎に譲って妻子を洛中に置いたまま洛北に瀟洒な別荘「松ヶ崎山荘」(下鴨神社の北約四キロ、房次郎の生家から西に一・五キロのところ)を建てて移り住んだ。そして島津電池株式会社(島津製作所の母体)などの新しい事業に手を出しつつ、舟屋と号して漢詩に親しみ、祇園の芸妓・菊龍を近くに住まわせて愛妾とし、食事は仕出し料理屋から取り寄せ、夜になると祇園に繰り出す豪奢放埓な暮らしをしていた。その彼は、書や仏教美術や漢学に並々ならぬ知識をもち、食道楽と料理好きで知られ、芸術家たちを山荘に招いて支援する旦那としても名を馳せていた。…」

 山田和氏の「知られざる魯山人」は良く書かれているのですが、”「松ヶ崎山荘」(下鴨神社の北約四キロ、房次郎の生家から西に一・五キロのところ)”で特に”西に一・五キロ”などは全く正反対の場所です。実際に訪ねたり地図を見たりしているのかなとおもってしまいます。「松ヶ崎山荘」は下記の項を見て貰えばわかりますが、実際は下鴨神社門前から直線で北東2.4Km(道なりで2.7Km)、房次郎の生家から直線で東に3Km弱(道なりで3.4Km)のところとなります。

写真は文藝春秋社版、平成19年(2007)発行の「知られざる魯山人」です。魯山人の伝記としては最後の出版となるのではないかとおもいます。関係者も少なくなった今となってはこれより詳しい伝記は出てこないとおもいます。参考図書を比較して矛盾が無いか検証し、裏付けを取って書かれています。一番正しいとおもうのですが、完璧ではないようです。

【山田 和(やまだ かず、男性、1946年 - )ノンフィクション作家】
 富山県砺波市生まれ。1973年より福音館書店勤務。1993年退社しノンフィクション作家となる。1996年『インド ミニアチュール幻想』を刊行し、講談社ノンフィクション賞受賞。2008年『知られざる魯山人』で大宅壮一ノンフィクション賞受賞。地元の新聞記者だった父親が魯山人と親しかった。(ウイキペディア参照)



「銭清跡」
<東洞院御池上ルの船屋町に、呉服問屋の老舗「銭清」>
 2016年3月3日 蛸薬師麩屋町西入ルの写真を追加 
 魯山人が知遇を得た内貴清兵衛の「銭清」を探してみました。
 「銭清」の場所は中京区なので「京都市町名変遷史」で調べれます。船屋町の項に明治17年、大正元年、平成4年の地図が掲載されていましたので、内貴清兵衛の名前で調べると、明治17年、平成4年には記載は無く、大正元年に記載がありました。

 吉田耕三氏の「北大路魯山人伝」からです。
「… 内貴家はもとは近江商人の出であると云われていて、京都市東洞院御池上ル船屋町七番地に「内貴」と云う呉服問屋を経営していた。店と住居は一緒で、京都特有のベニガラ塗りの人きな店構えに四百五十坪はあつたと云われている邸宅を容し、商品の特色としては御召のような関西ものを嫌つて、結城のような関東風太物の問屋としての名声で盛えていた。清兵衛の父内貴甚三郎(嘉永元年十月二十一日〜大正十五年七月五日七十九才没)もこの地で生れ、明治三十一年十月十二日 ── 明治三十七年十月十一日五十一才から五十七才の間、問屋業のかたわら京都市長に就任し、その任期中特に京都に於ける社寺復興に尽し、京都をして観光都市たらしめた今日の基礎を造つだことで有名である。現在左京区岡崎西天王町にある平安神宮は、桓武天皇並に孝明天皇を祭神として明治二十八年に平安遷都千百年を記念して建立され、京都の氏神として親しまれるようになつたが、その神苑を造るについて甚三郎市長のこんな逸話が残つている。
 当時三条天王門上ルに小川治平、通称「植治」と云う京都随一の庭師が居た。自ら白揚と号し、写真の撮影などについてもその頃一見識を持つていたと云われている。円出公園も彼の創つたものだそうだが、又そのマージンが法外に高価だつたことでも有名であつた。しかしその腕前を見込んだ甚三郎市長は、平安神宮の神苑を治平にやらせようと市
議会に計つたのだが、その高価な見積りによつて猛反対を受けてしまつた。それでは金は幾らかかつてもかまわない、費用は俺が負担すると云つて治平に造らせたのが現在の神苑だそうだ。…」

 吉田耕三氏の「北大路魯山人伝」には「銭清」としては書かれておらず、「内貴」と書かれています。魯山人が「内貴」と書いていたからだとおもわれます。又、”京都市東洞院御池上ル船屋町七番地”と書かれていますがこの”七番地”が不明です。地番としては410番台で412、413、414他ですので一桁はありません。

 ”三条天王門上ルに小川治平、通称「植治」と云う京都随一の庭師”は現在も「株式会社造園植治」として同じ場所にあります。

 白崎秀雄氏の「北大路魯山人」からです。
「… 大正の末ころまで、東洞院御池上ルの船屋町に、呉服問屋の老舗「銭清」があった。代々清兵衛を名乗り、先代は養子ながらきわめて賢明な努力家で、本来の西陣物に加えて桐生・足利等の関乗物を活溌に手がけ、第一銀行が無制限に融資するまでになった。
 先代が三十歳の年に、先々代の子甚三郎が生れた。先代には子がなかったから当然甚三郎が家督するはずのところ、彼は商売を好まず、少くから市政に携って、明治三十一年には初代の公選京都市長となった。
 先代は、甚三郎の長男清之助を清兵衛と改名、家督を継がせた。清之助は、京都商業学校を卒えて以来、丸に「銭」の字の「銭清」の商標の前掛を寝るときの他は外さぬほど、働いた。関東へも、さかんに仕入れに出かけた。
 彼は、余暇にはもっぱら読書習書に耽った。はやくアメリカに遊んだこともあり、牧師を招いて聖書の講義をきいたこどもある。
 先代が歿した明治三十六年、二十六の彼は衿問屋「大橋」から、容姿も人と為りも非の打ち処なしといわれた次女を、妻に迎えた。清兵衛もまた、六十八歳の写真で見てさえ、眉目秀でた凛々しい好漢である。…」

 白崎秀雄氏「北大路魯山人」から「銭清」の名前が出てきます。内貴清兵衛の「銭清」については調べればすぐに分ることとおもいます。又、内貴清兵衛の奥様(大橋孝七の二女ナオ)の実家”衿問屋「大橋」”については昭和9年の京阪神職業別電話簿に”大橋孝七 蛸薬師、麩屋町西”と記載があり、大正2年の京都地図に「大橋孝七」の記載がありました。現在の蛸薬師麩屋町西入ルの写真を掲載しておきます。「京都市町名変遷史」で見ると、当時この辺り一帯の土地を所有していたようです。

 山田和氏の「知られざる魯山人」からです。
「… 内貴清兵衛(明治十一年〜昭和三十年。七十七歳で没)は、京都の豪商・京染呉服問屋「銭清」の元三代目で、父親は公選による初代京都市長を務めた内貴甚三郎(嘉丞元年〜大正十五年。七十八歳で没)であった。甚三郎は祇園通いで知られ、「水揚げの大家」という浮き名も流していたようだが、京都の社寺復興に尽くして現在の観光都市・京都の礎を築き、私財を抛って平安神宮の神苑(六千坪)を作らしめた市長として名を残している。その甚三郎はこのとき六十五歳、市長職を降りて八年半経っていた。
 長男の清兵衛は幼名を清之助といい、東京の学校を卒業後、代々の清兵衛を襲名し、銭清を継いだ。…」

 山田和氏の「知られざる魯山人」には特に新しい記載はありません。

写真は御池通から東洞院通北側を撮影したものです。右手奥、現在の郵政の宿舎手前から木村染匠辺りに「銭清」があったようです(御池通は戦時中に拡張されています)。左側にも二ヶ所程、内貴清兵衛所有の土地がありました。又、大正2年の京都地図に「内貴清兵衛」の記載がありました。

「松ヶ崎山荘跡」
<松ヶ崎山荘> 2022年5月24日 修正
 内貴清兵衛は父親との確執に疲れ、家業を弟の富三郎に任せて洛北に「松ヶ崎山荘」を建てて移り住みます。最初、「松ヶ崎山荘」の場所が全く分らず、山田和氏の「知られざる魯山人」に”下鴨神社の北約四キロ、房次郎の生家から西に一・五キロのところ”と書いてあったのですが、特に”房次郎の生家から西に一・五キロ”となると、松ヶ崎と付く地名の場所から全く正反対の方向になります。仕方が無いので、法務局で松ヶ崎中町、松ヶ崎東町等の松ヶ崎が頭に付く地名の土地台帳を片っ端から調べました。そして見つけ出すことが出来ました。

 吉田耕三氏の「北大路魯山人伝」からです。。
「… 清兵衛は明治十一年五月十三生れで幼名を清之助と云い、夫人のナオさんは京都で有名な衿問屋「大橋」の娘さんである。生来非常な固物であったが、夫人の父の大橋の主人があまり固くては商売に差しっかえるとばかり祇園につれ出して遊びを教えたのだそうで以来当時太出屋の抱え芸妓であった菊竜(タネ女)を清兵衛はすっかり気に入り、祇園花見小路に在って「一力」に次ぐ隆盛を誇っていた「吉はな」に招いては遊興するようになった。菊竜の姉妹は五人共祇園に出ていたが、タネのどちらかと云えば伝法肌のところに彼は魅力を感じたらしく、その遊びも世の常の道楽者のそれではなく、不思議な言い廻し方をすれば芸術的に遊興した部類であったようだ。後にタネは大黒天の近くの松ヶ崎の妾宅に住むようになったが、彼女の明け放しの性格は清兵衛の友人、知己はもとより清兵衛を頼って集まる若い画家達からも親しまれ、又彼等の世話もよくしたので皆んなから敬愛されていた。この頃の常識からして一かどの商家を経営する主人が妾宅を持っと云うことは今日程罪悪視する程のこともなかつたようである。…」
 ”祇園花見小路に在って「一力」に次ぐ隆盛を誇っていた「吉はな」”と書かれている「吉はな」の場所が分かりません。電話番号簿にも「吉はな」の記載がありませんでした。もう少し調べて見ます。”タネは大黒天の近くの松ヶ崎の妾宅”とあり、大黒天とは妙円寺の松ヶ崎大黒天のことです。

 白崎秀雄氏の「北大路魯山人」からです。
「… 清兵衛は舟屋と号し、洛北松ヶ崎に別荘を設けた。庭には滝を打たせ、林の中には亭を作って池を穿ち鯉を放つ。
 清兵衛は松ケ崎山荘と称し、「銭清」を去ってからは、独りここに移っていた。ここより出町柳の帳場から人力車を呼び、夜毎祇園に遊ぶ。
 当時、清兵衛がその作品を買い、また他人にも推薦していた画家には、下のような人々があった。土田麦僊・富田渓仙・榊原紫峰・小茂田青樹・速水御舟・村上華岳。
 内貴は、「吉はな」で遊び、人を引見し、やがて松ヶ崎へ帰るのを、常とした。その際菊龍らの芸妓や画家たちを幾人か伴い、泊らせた。
 食事には、その都度近くの八瀬の平八茶屋、時に十一屋から仕出しを取寄せた。前者は、古くは交通上の条件から若狭屋の魚介を、明治以降は賀茂川の川魚を、売り物にした老舗である。
 菊龍は、松ヶ崎山荘にしばしば泊り、やがて大田家から落籍されないまま、山荘に居付く。彼女は、小肥りした伝法肌の女で、内貴の周辺に集う人々の間でも人気があった。
 房次郎の福田大観が急速に接近を深めた内貴清兵衛の生活環境は、概ねこのようなものであった。…」

”八瀬の平八茶屋、時に十一屋”と書かれていますが、平八茶屋は山ばな平八茶屋として現在もあります。十一屋はお店を閉められていました。”菊龍の大田家”については調査不足です。

 山田和氏の「知られざる魯山人」からです。
「… しかし彼はまもなく父親との確執に嫌気がさし、家業を弟の富三郎に譲って妻子を洛中に置いたまま洛北に瀟洒な別荘「松ヶ崎山荘」(下鴨神社の北約四キロ、房次郎の生家から西に一・五キロのところ)を建てて移り住んだ。そして島津電池株式会社(島津製作所の母体)などの新しい事業に手を出しつつ、舟屋と号して漢詩に親しみ、祇園の芸妓・菊龍を近くに住まわせて愛妾とし、食事は仕出し料理屋から取り寄せ、夜になると祇園に繰り出す豪奢放埓な暮らしをしていた。その彼は、書や仏教美術や漢学に並々ならぬ知識をもち、食道楽と料理好きで知られ、芸術家たちを山荘に招いて支援する旦那としても名を馳せていた。このような内貴の姿を、吉田はつぎのように描いている。…」
 前項にも書きましたが、”下鴨神社の北約四キロ、房次郎の生家から西に一・五キロのところ”は間違いです。正誤表が出ているのかもしれません。下鴨神社入口から「松ヶ崎山荘」までは、直線で北東2.4Km(道なりで2.7Km)、房次郎の生家から直線で東に3Km弱(道なりで3.4Km)のところとなります。(測定はGoogle Map)

 ”下鴨神社の北約四キロ、房次郎の生家から西に一・五キロのところ”は魯山人のお墓(西方寺)の位置と合います。

写真は叡山電鉄修学院駅から北山通を西に松ヶ崎橋を越えてベンツの中古車販売店の前から北側を撮影したものです。この正面に「松ヶ崎山荘」がありました。正面一帯が地番で左京区松ヶ崎河原田5となります。土地台帳によると大正2年3月に購入したようです。大正11年の京都東北部の五万分の一の地図にそれらしき建物が見受けられます。修学院駅は大正14年に京都電燈により開業していますから、それまでは人力車か車で来るほかはありません。修学院駅開業後の昭和6年の京都東北部の五万分の一の地図も参照してください。
 
 「松ヶ崎山荘」の北西の松ヶ崎東山に京都五山山送りの”法”があります。左隣の松ヶ崎西山の”妙”と合せて”妙法”となります。

「上京区室町出水上ル」
<上京区室町出水上ル西山荘>
 2016年3月3日 上京区室町出水上ルの写真を追加 
 大正から昭和に入ると「銭清」が傾き、内貴清兵衛は家、土地、骨董品等を全て手放したようです。その後の内貴清兵衛は”上京区室町出水上ル西山荘”で過ごしていたようです。この地番については、私のノートに記載があるのですが、何処から引用したのか、記憶が定かではありません。思い出したら記載しておきます。又、上京区室町出水上ルは町名でいうと、近衛町となります。

写真は現在の上京区室町出水上ル 近衛町です。「京都市町名変遷史」で調べましたが、西山荘という記載がありませんでした。内貴清兵衛が死去されたのは昭和30年4月22日(78歳)でしたので、昭和31年の住宅地図で近衛町を探してみました。すると、西山荘はありませんでしたが、西山は見つけることができました。写真のYWCAの北側半分のところあたりに西山という名前の方が住まわれていたようです。内貴清兵衛がどういう立場でここに住んでいたかはよく分かりません。



魯山人の中京区附近地図



魯山人の京都地図



北大路魯山人年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 北大路魯山人の足跡
明治16年
1883 日本銀行開業
鹿鳴館落成
岩倉具視死去
0  3月23日 北大路魯山人は上賀茂神社の社家 北大路清操の次男として京都府愛宕郡上賀茂村第百六十六番戸で生まれます。 (本名:房次郎)
 9月 服部良知方に養子として入籍
明治20年 1887 長崎造船所が三菱に払い下げられる 4   やすは、房次郎伴い実家一瀬時敏方に戻る
明治22年 1889 大日本帝国憲法発布
衆議院議員選挙法公布
東海道線が全線開通
6  4月4日 服部家を離縁される
6月23日 福田武造の養子として入籍
9月 梅屋尋常小学校に入学
明治26年 1893 大本営条例公布
10 7月 梅屋尋常小学校を卒業
 烏丸二条、千坂わやくやへ丁稚奉公に入る
明治29年 1896 明治三陸地震津波
樋口一葉死去
13 1月 千坂わやくやをやめ、養家へ戻る
明治31年 1898 九竜租借条約
西太后が光緒帝を幽閉
15 習字の懸賞一字書きに応募、天位地位等の賞を受ける
         
         
明治36年 1903 小等学校の教科書国定化 20 秋 上京 京橋高代町3番地 丹羽茂正宅に間借
  実母の登女が住み込んでいる四条男爵邸を訪ねる
  日下部鳴鶴と巌谷一六を訪問
  菓子屋の二階に転居
年末 近くの福田印刷屋の二階に転居
明治37年 1904 日露戦争 21 11月 日本美術展覧会で一等賞を受賞
年末 京橋元嶋町の佐野印刷店方に転居
明治38年 1905 ポーツマス条約 22   岡本可亭に師事、転居(京橋区南伝馬町二丁目一番地)
 後に京橋区南鞘町
明治40年 1907 義務教育6年制 24   書道教授として独立(京橋区中橋泉町1〜2附近
明治41年 1908 中国革命同盟会蜂起
西太后没
25 2月 安見タミを入籍
         
大正元年 1912 中華民国成立
タイタニック号沈没
29 初夏 日本に戻る
大正2年 1913 島崎藤村フランスへ 30 冬 長浜に滞在、
春以降 京都に滞在
大正3年 1914 第一次世界大戦始まる 31 6月前後 藤井せきと正式に見合いし婚約
11月 タミと離婚
大正5年 1916 世界恐慌始まる 33 1月 藤井せきと結婚、神田區駿河台紅梅町に転居
大正6年 1917 ロシア革命 34  
大正8年 1919 松井須磨子自殺 36 5月 京橋南鞘町に大雅堂芸術店を開業
大正10年 1921 日英米仏4国条約調印 38 2月 美食倶楽部を開業
大正11年 1922 ワシントン条約調印 39 7月 北大路家を相続して北大路魯山人を名のる
大正12年 1923 関東大震災 40 関東大震災後、芝公園内で美食倶楽部(花の茶屋)を再開
大正14年 1925 治安維持法
日ソ国交回復
42 3月 山王に会員制料亭 星岡茶寮を開始
         
昭和10年 1935 第1回芥川賞、直木賞 52 11月 大阪曽根に星岡茶寮を開業