●魯山人の京都を歩く -2-
    初版2015年7月4日 <V01L02> 暫定版

 ”北大路魯山人の京都を歩く”の二回目です。前回は明治16年の生誕の頃を中心に歩きました。今回は明治20年代から東京に向かう明治35年までの京都を歩きます。この頃から魯山人についてよく分かってくるようになります。関係者が多くなって情報が増えてきたからだとおもわれます。京都市内の”通り”の名前には”り”は入れないそうです。ですから、”烏丸通”となります。


「陶説 86号」
<「陶説 北大路魯山人伝」 吉田耕三(前回と同じ)>
 白崎秀雄氏の「北大路魯山人」と山田和氏の「知られざる魯山人」だけではよく分からないところがあるので、最初に戻って、「陶説」の昭和35年(1960)5月 86号から1年半掲載された吉田耕三氏の「北大路魯山人伝」を新たに掲載することにしました(これが魯山人について書かれた最初の評伝です)。住所等が記載されたハガキや封筒が残っていれば正確な場所がわかるのですが、人からの伝聞のみで書いているケースがほとんどで何方のが正しいのかよく分かりません。困ったものです。

 「陶説」の昭和35年(1960)5月 86号から1年半掲載された吉田耕三氏の「北大路魯山人伝」からです。
「… 魯山人の家系は、京都北区にある上賀茂神社、正しく言へば賀茂別雷神社の社家の中にある。遠く伝説にまで逆れば、神武大皇を熊野から大和に先導した八咫鳥(武角身命)を祖神大した賀茂族は、奈良から京都の地に都を移される以前から、山城国の大部を開拓していたが、祖神武角身命と女神に依姫命を下鴨の賀茂御祖神社に、又玉依姫命と高靇神。との御子神の別雷神をば、賀茂別雷神社にまつって奉仕していた。欽明天皇の頃から賀茂祭は記録にのつていて、A・D六七八(天政天皇六年)には賀茂神社の造営が行はれたことになっているが、実際神社に奉仕した社司、社家の記録は、A・D九五五(天暦九年)賀茂族中興の祖とあがめられている賀茂在実からほゞ明確に残されている。それによると、在実には長男忠成(嫡流)と、その弟忠頼(庶流)の二人の男子があり。嫡流にはその名の一字に氏を、庶流には、平・保・宗・弘・重・兼・清・顕・成・俊・直・幸・久・経・能、いづれか一字をつけさせて区別するようになった。
 家系はすべて男系に限り、女系は許されなかった。戦国時代以降、賀茂族の賀茂の氏名のほかに、県つまり分田主として今日の苗字をつけはしめたが、これとても、神主を出すことの出来る家柄と、社人の家柄とは厳格に区別して来た。明治以降、神主は宮司となったが、宮司を出す家柄を社司と改めて、松下・梅辻・森・鳥居大路・富野・岡本・林の七
家とし、社人は社家と改められて百二十軒と限られた。この社家に藤木・坐田・松山・井関・北大路・酉池・山本等の苗字がある。…」

 下記にある2名の評伝も含めて比較すると、一番詳細に書かれているようにおもえます。ただ、最初にも書きましたが、内容は人伝えの伝聞がほとんどです。ただ魯山人から直接聞くことができた唯一の人です。下記の二人の評伝はこの吉田耕三氏の「北大路魯山人伝」が元になっていることは確かです。ただ、裏付け調査をほとんどしていないようで、間違いも多そうです。

【北大路魯山人(きたおおじ ろさんじん 1883年(明治16年)3月23日 - 1959年(昭和34年)12月21日)は、日本の芸術家。本名は北大路 房次郎(きたおおじ ふさじろう)】
 晩年まで、篆刻家・画家・陶芸家・書道家・漆芸家・料理家・美食家などの様々な顔を持っていた。
 明治16年(1883)、京都市上賀茂(現在の京都市北区)北大路町に、上賀茂神社の社家・北大路清操、とめ(社家・西池家の出身)の次男として生まれる。生活は貧しく、魯山人の上に夫の連れ子が一人いた。魯山人が生まれる前に父親が自殺、母親も失踪したため親戚をたらい回しにされる。一度農家に養子に出されるが、6歳の時に竹屋町の木版師・福田武造の養子となり、10歳の時に梅屋尋常小学校を卒業。烏丸二条の千坂和薬屋に丁稚奉公に出された。明治36年(1903)、書家になることを志して上京。翌年の日本美術展覧会で一等賞を受賞し、頭角を現す。明治38年(1905)、町書家・岡本可亭の内弟子となり、明治41年から中国北部を旅行し、書道や篆刻を学んだ。大正4年(1915)、福田家の家督を長男に譲り、自身は北大路姓に復帰。その後も長浜をはじめ京都・金沢の素封家の食客として転々と生活することで食器と美食に対する見識を深めていった。大正6年(1917)便利堂の中村竹四郎と知り合い交友を深め、その後、古美術店の大雅堂を共同経営することになる。大雅堂では、古美術品の陶器に高級食材を使った料理を常連客に出すようになり大正10年(1921)会員制食堂・「美食倶楽部」を発足。自ら厨房に立ち料理を振舞う一方、使用する食器を自ら創作していた。大正14年(1925)には東京・永田町に「星岡茶寮(ほしがおかさりょう)」を中村とともに借り受け、中村が社長、魯山人が顧問となり、会員制高級料亭を始めた。昭和2年(1927)には宮永東山窯から荒川豊蔵を鎌倉山崎に招き、魯山人窯芸研究所・星岡窯(せいこうよう)を設立して本格的な作陶活動を開始する。1928年(昭和3年)には日本橋三越にて星岡窯魯山人陶磁器展を行う。魯山人の横暴さや出費の多さから、昭和11年(1936)星岡茶寮の経営者・中村竹四郎からの内容証明郵便で解雇通知を言い渡され、魯山人は星岡茶寮を追放、同茶寮は昭和20年の空襲により焼失した。戦後は経済的に困窮し不遇な生活を過ごすが、昭和21年(1946)には銀座に自作の直売店「火土火土美房(かどかどびぼう)」を開店し、在日欧米人からも好評を博す。昭和29年(1954)にロックフェラー財団の招聘で欧米各地で展覧会と講演会が開催され、その際にパブロ・ピカソ、マルク・シャガールを訪問。昭和30年には織部焼の重要無形文化財保持者(人間国宝)に指定されるも辞退。昭和34年(1959)に肝吸虫(古くは「肝臓ジストマ」と呼ばれた寄生虫)による肝硬変のため横浜医科大学病院で死去。平成10年、管理人の放火と焼身自殺により、魯山人の終の棲家であった星岡窯内の家屋が焼失した。(ウイキペディア参照)

写真は「陶説」の昭和35年(1960)5月発行の86号です。ここから1年半、吉田耕三氏の「北大路魯山人伝」が掲載されます。ただ、きっちり毎月掲載された訳では無く、途中、2回休んでいますから、18回掲載で昭和36年12月まで掛かっています。昭和36年12月号を見ると、最後に”つづく”と記載があるのですが、その後の号を見ても”つづき”がありません。突然掲載がとり止めになったという感じです。中止になった理由がよく分かりません。

【吉田 耕三(よしだ こうぞう、1915年 - )】
 神奈川県横浜市出身の美術評論家。日本画家の速水御舟の甥。御舟から日本画を学び、御舟の日本画の鑑定人を務める。現代陶芸の旗手といわれた加守田章二の才能を認める。陶芸の公募展・日本陶芸展創設を企画する。東京美術学校(現・東京藝術大学)日本画科卒業。復員後、世界的な陶磁学者で陶芸家・小山冨士夫の助手となり、その後、東京帝室博物館(現・東京国立博物館)陶磁器主任で、陶磁器の批評と収集の天才といわれる北原大輔、人間国宝・荒川豊蔵、百五銀行頭取で陶芸作家・川喜田半泥子から焼き物に関する学問と技術を学ぶ。北大路魯山人の弟子でもある。東京国立近代美術館の創立時から勤務して日本画と工芸を担当し、総括主任研究官などを歴任。日本伝統工芸展鑑査委員、日本陶芸展運営委員・審査員を務める。(ウイキペディア参照)

「北大路魯山人」
<「北大路魯山人」 白崎秀雄(前回と同じ)>
 魯山人の伝記としては吉田耕三氏の次に書かれた本で、白崎秀雄氏が昭和46年(1971)に文藝春秋社より出版したものです。白崎秀雄氏はその後何度か加筆修正し、昭和60年(1885)に新潮社より再度出版されています。最初は吉田耕三氏の「北大路魯山人伝」を鵜呑みにして書いていたようですが、間違いに気づき、修正を加えたようです。文庫本化は平成9年(1997)、中央公論社より、続いて平成25年(2013)ちくま文庫として最新版が出版されています。

 白崎秀雄氏の「北大路魯山人」からです。
「… 「善雅さんや、君、俺が昔からのこと話すから、そのうち俺の一代記を一つ書いてくれんか」
 魯山人が、山崎に疎開中の滝波善雅にそういい出したのは、敗戦後まだあまり月日を経ぬ頃。夕飯に、滝波を相伴させながらのことであった。
 滝波は、魯山人からその生いたち物語の最初に、父親の自害についてきかされた。
 「御自害というと容易ならんことですが、そりゃ先生の生れられてまもなくのことで……?」
 滝波は、思わず手にしていたビールのコップを卓上に置いた。
「生れる何ケ月か前のことだ」
「なにか、その御事情は……?」
 滝波は、たたみかけてたずねた。
「いや、あることで、な」
 魯山人は、そう答えたばかりだった。
 彼は、父の自害の因を知っていた。それは彼として、どうにも他言することのできない性質のものであった。彼は、その禁忌に固く呪縛されていた。
 魯山人の口吻は、明かにそう語っている…」

 最初、出版されたのは昭和46年、魯山人が無くなったのが昭和34年ですから、無くなってから12年で伝記を書いたわけです。まだ魯山人の関係者の方々がご存命のころだったとおもいます。死去から10年以上経過しており、言えなかったことも語れるようになる時期になったころです。叉、関係者に実際にヒヤリングして書けるわけですから一番いいころだとおもいます。

写真はちくま文庫の白崎秀雄著「北大路魯山人」です。平成25年(2013)発行です。

【白崎 秀雄(しらさき ひでお、1920年-1992年)作家、美術評論家、福井市出身】
 伝記小説に新境地を開き、骨董、書画、日本絵画、篆刻などの関連著作が多い。北大路魯山人研究で著名で、魯山人を世に広めた人物としても知られる。魯山人の芸術性・技術的な特異性を鋭く評価した。(ウイキペディア参照)

「知られざる魯山人」
<「知られざる魯山人」 山田和(前回と同じ)>
 山田和の「知られざる魯山人」は 北大路魯山人の関する伝記物で一番新しく書かれたものです。平成15年(2003)から「諸君!」に連載され、平成19年(2007)10月に「知られざる魯山人」として出版されています。昭和60年(1885)に白崎秀雄氏が書かれた「北大路魯山人」に対抗するものとして云われていますが、読んでみるとそうでもないようです。魯山人の死去から相当経って、関係者もほとんどいない中で”よく調べて書かれている”とおもいました。山田氏の父親が地元の新聞記者だったころ魯山人と親しかったのがきっかけのようです。

 山田和氏の「知られざる魯山人」からです。
「  一  北大路房次郎は、いかなる星の下に生まれたか

 北大路房次郎、のちの北大路魯山人は明治十六年(一八八三年)三月二十三日、父・北大路清操(「せいそう」とも)、母・登女の次男として上賀茂神社(正しくは賀茂別雷神社)の社家に生まれた。社家とは神官職の代理のほか、神社の雑務職、事務方などをつかさどる「禰宜」と呼ばれる位の家のことである。…
…版籍奉還二年後の明治四年(一八七一年)、政府は太政官令で社家に今まで保証されてきた俸禄制と世襲制とを廃止し、今後の社家については国家が任命すると布告した。
 賀茂県主の氏族として、血の誉れとともに世襲を繰り返してきた社家にとって、これはまさに驚天動地の出来事だった。房次郎が生まれたのはそんな混乱期で、父親の清操は東来に職を求めたり来都へ戻ったりという生活だったらしい。つまり父親はしばしば家を空け、母親も御所勤めで不在のときがあり、落ち着いた夫婦の生活は少なかった。このような状況が夫婦の間に影を落としたのか、房次郎が生まれたとき父親はすでにこの世にいなかった。魯山人自身が後に周りの者に語った言葉によると、あることで父は自殺してしまっていた。
 あること、それは妻の登女が不貞をはたらいて他人の子を身籠り、それを知って悩んだ清操が自刃(割腹)して果てたことを指す。実際これを裏づけるような伝聞がいくつかあり、事実であったと考えられる。推測が許されるのはそこまでだが、世の中にはここからさらに一歩進んで、清操自殺の有様を見たように克明に描いた小説もある。しかし実際は房次郎の実の父親はわからない。登女が勤めた御所関係の者だったかもしれないし、そうでなかったかもしれない。憶測するにも一定の資料や伝聞が必要なだけでなくその信憑性の度合いが問題だが、このあたりになると資料はまったくなく、伝聞の信頼性も極めて低く、伝記として扱うレベルではない。…」

 魯山人の父親の死と魯山人自身の出生については、全て伝聞で、よく分からないことが多すぎます。関係者は全て亡くなられているので、これからも解明されることはないとおもわれます。

写真は文藝春秋社版、平成19年(2007)発行の「知られざる魯山人」です。魯山人の伝記としては最後の出版となるのではないかとおもいます。関係者も少なくなった今となってはこれより詳しい伝記は出てこないとおもいます。参考図書を比較して矛盾が無いか検証し、裏付けを取って書かれています。一番正しいとおもうのですが、完璧ではないようです。

【山田 和(やまだ かず、男性、1946年 - )ノンフィクション作家】
 富山県砺波市生まれ。1973年より福音館書店勤務。1993年退社しノンフィクション作家となる。1996年『インド ミニアチュール幻想』を刊行し、講談社ノンフィクション賞受賞。2008年『知られざる魯山人』で大宅壮一ノンフィクション賞受賞。地元の新聞記者だった父親が魯山人と親しかった。(ウイキペディア参照)



「南伊勢屋町」
<服部良知家>
 魯山人を5歳頃まで養育した人物について少しまとめてみます。
 (魯山人の実父は既に死去、実母は長男と失踪)
・吉田耕三氏が書いている和田巡査は間違いで、服部巡査が正しい
・魯山人は服部良知の籍に明治16年9月入籍(良知は魯山人を入籍する以前の7月に失踪)
・服部良知の妻もんには子は無く、明治16年秋に死去
・服部良知は明治13年、一瀬時敏の次女やす(二十歳)を養女としている
・やすは婿養子の夫茂精との間に、明治19年7月、長男の朝吉を生んだ
・精神が不安定だった茂精は、明治19年12月に死歿している

 吉田耕三氏の「北大路魯山人伝」からです。
「… 房次郎にとつてやがて不幸がしのびよる。和田夫婦に実子の男の子が産れたのだ。しかし和田人婦は特に養子と実子の差別をあまりつけることはなかつたが、彼が六才の頃、和田巡査は気が狂いはじめた。原因は私は知らない。魯出人の話しでは、「子供心に、うちの父ちやんの気がおかしくなければ良いんだがなあーと云う言葉を、近所の人々に云つていた事を覚えている」とのみ話してくれた。和田巡査は間もなく狂死し、未亡人は房次郎と実子をつれて、京都上京区(今日の中京区)竹屋町通りの里に戻つてくるが、其処には未亡人の母親が居て、血縁の孫と、一方血のつながりのない貰い子の房次郎とを、こと毎に差別した。毎日の様に彼はお婆さんからいじめ抜かれ、里親に気がねした養母は、あまり彼をかばつてくれなかつたらしい。…」
 ”和田巡査”については後の二氏が否定していますので、”服部”が正しいようです。その他については正しいようです。

 白崎秀雄氏の「北大路魯山人」からです。
「… 戸籍謄本では、房次郎が入籍するよりも二ヶ月も前に、養父服部良知はすでに家にいない。「明治十六年七月二日 失踪」と記されている。
 服部の妻もんは、明治十六年に五十四。子を生む可能性はない。服部夫婦は、明治十三年、平民一瀬時敏の次女やす二十歳を、養女としていた。
 房次郎が明治三十六年に上来して以降、さらに朝鮮滞留中にもたびたび音信を通じていた「養母」は、このやすであった。戸籍上は、房次郎の義姉に当る。…
… やすは、房次郎だけをもんの許へ置いては、去りかねた。やすが実家へ帰ったのは、明治二十年中である。…
… やすは、婿養子の夫茂精との間に、明治十九年七月、長男の朝吉を生んだ。茂精は、その五ヶ月後の十二月に死歿している。
 清操自害事件の処理に当り、後に房次郎を引きとることになった「巡査」とは、あるいはこの茂精ではなかったであろうか。
 茂精の歿年に、房次郎は四歳。巡査たる養父の発狂したのが房次郎の「六歳の頃」というのはかなり近いが誤りであろう。…」

 白崎秀雄氏は戸籍謄本で前後関係を読み解いています。上記に書かれていることが正解とおもわれます。良く調べられています。白崎秀雄氏が昭和46年5月発行の「日本美術工芸」に書かれた魯山人年譜には服部良知方は”上京区第十八組南伊勢屋町二十七番戸”と書かれていました(戸籍謄本)。又、養女にした”やす”の実家、一瀬家は上京区第十八組南伊勢屋町とも書かれていました(戸籍謄本に記載されていたとおもわれます)。「京都市町名変遷史」で調べてみると、南伊勢屋町には服部という名前は記載が無く、一瀬については記載がありました(大正元年)。

 山田和氏の「知られざる魯山人」からです。
「… しかしこのような幸福な日々の中にも彼の不幸は忍び寄っていた。服部良知巡査の行方は沓として知れなかったし、やすに赤ん坊の朝吉が生まれたあとは、あんちゃんである服部茂精巡査の精神状態が不安定になり、あんちゃんはまもなく死んでしまう。房次郎は五、六歳になったところだったが、こうなっては残された者たちはもはや巡査所で暮らすことはできず、ねえちゃんであるやすと幼い朝吉とともに巡査所を出ることになった。
 房次郎が上賀茂巡査所に住んだのは五年余りだったが、その間幼い彼は自分の父を服部良知と思い続け、行方知れずになっているお父の帰りと、大きなあんちゃん(茂精)の精神状態のよくなるのをひたすら念じて日を送ったのだった。実の親のことや生家のこと、ねえちゃんと血がつながっていないことなどを幼い子どもに教える者はいなかっただろうから、房次郎は自分を服部良知の子・房次郎と信じ、「あんちゃんが死んだので、自分たちは実家に戻るのだ」と考えたにちがいない。
 やすの実家・一瀬家は京都の町中、上京区竹屋町通にあった。…」

 山田和氏はこの場面では白崎秀雄氏の書かれたことを追認されています。これ以外の考え方は無いとおもわれます。一つ違うのは、やすの実家 一瀬家は”上京区竹屋町通”と書いていることです。白崎秀雄氏とは場所が違っています(養女にした明治13年は南伊勢屋町で明治20年には竹屋町通に転居していたとも考えられます)。しかし”上京区竹屋町通”という通りの名前だけでは場所の特定が困難です。

写真は服部良知家がある南伊勢屋町の町名表示看板です。当時の住居表示で上京区第十八組南伊勢屋町二十七番戸となっています。丸太町通から日暮通を少し下がったところになります。日暮通から丸太町通を見た写真を掲載しておきます(一瀬家は写真の右側附近)。

「東竹屋町」
<福田武造の養子>
 魯山人は明治21年12月、今まで育てられた服部家(一瀬家)から福田家の養子になります。育ての親”やす”の実家 一瀬家が魯山人に対して厳しく、居たたまれなくなったからでした。福田家は上京区竹屋町通小川西入東竹屋町四三八番地で、”近所の人が見かねて、斡旋した結果である”とも書かれているので、魯山人はこの付近をうろうろしていたはずで、従って、一瀬家もこの付近にあったと考えてもおかしくありません。前項で書いた、一瀬家の場所が山田和氏の書いた”上京区竹屋町通”が正しいようにおもえてきます。

 吉田耕三氏の「北大路魯山人伝」からです。。
「…近所の人々が見るに見かねて、上京区(今日の中京区)東竹屋町油小路東入 ─ 通称一軒露地の長屋に住んでいた木版師の福山武造に頼み込んで、房次郎を貰つてもらうことゝなつた。(写真三)
 福山武造は東京の人で、特に腕の立つ職人ではなかつたようだが、福々しい体格は、一見、布袋ぶんのような印象を人にりえた。…
… 明治二十一年(一八八八)十二月六才の時、房次郎は、正式に福田武造の養子となり、同時に六匹の犬と三人の人間の寝起きしている六畳の間の新しい同居人となったのである。…」

 戸籍謄本からとおもわれますが、福山武造の正確な住まいが分かります。”京都市上京区竹屋町通小川西入東竹屋町四三八番地(白崎秀雄氏、昭和46年5月発行「日本美術工芸」)”となります。上記の(写真三)を転載しておきます。写真が古すぎてこれでは正確な場所が分かりません。

 白崎秀雄氏の「北大路魯山人」からです。
「… 七歳になった明治二十二年の六月、房次郎は上京区東竹屋町四百参拾八番地の木版師福田武造方の養子となった。
 近所の人が見かねて、斡旋した結果であると伝える。同年四月四日、房次郎はすでに服部方を離縁されている。あるいは彼は、老婆はるの苛責に耐えかねて家を出、附近を徘徊していたのを、近隣の人に見咎められ、武造方に拾いあげてもらったということであったかも知れない。
 少くとも、順序立てた養子縁組であれば、ニヶ月以上も当の房次郎が無籍になるということは、なかったはずである。
 ただ、この間もやすだけは武造方にも房次郎に関し種々気を配った。
 「お父はんお母はんのいわはることようきいて家のお手伝いせなあかんえ。うちもまた来たげるよってに、な」
 やすがわざと「お母はん」と自分のことをいわずに、そうさとすと、房次郎は眼をうるませていまにもすがりつきそうな様子をした。
 「あれには、よう弱った」
 と、やすは後年、朝吉やその妻女に語っている。
 武造の家は、長屋の一軒とのことで、吉田伝には写真も掲げられている。六畳の仕事場と四畳半の台所の二間しかなく、そこに武造・フサの夫婦、徒弟水野栄次郎、加えて犬六頭が同居していた。そこへ房次郎が加わったとかかれているが、物理的に困難ではあるまいか。写真で見ると、天井の低い中二階があり、そこにもう一室くらいはあったものと考えられる。…」

 ここでも上記の(写真三)を取り上げています。同じ場所から撮影しないとダメですね。再度訪ねて撮影してきます。

 山田和氏の「知られざる魯山人」からです。
「… 行き場のない六歳の子どもは、打たれるままに身を任せた。それを見かねた近所の人が、近くの本版師、福田武造・フサ夫婦のところへ養子話を持ち込んだのは二、三か月後のことであった。こうやって房次郎は明治二十二年(一八八九年)六月二十二日、福田房次郎となり、以後三十三歳までの約二十七年間、福田姓を名乗ることになる。
 房次郎の戸籍だが、一説には福田への人籍の二か月前の四月に服部の籍から抜かれていたといい、このことを以てこの養子縁組が順序立ったものでなく、その間の房次郎は生活においても放浪に近かったのではないかという推測がある。しかしそうではないだろう。一瀬家で娘のやすと孫の朝吉を入籍する際、房次郎をふくむ三人の戸籍を服部から抜いたものの、房次郎については入籍を保留したものと考えられる。一瀬家では、はじめから房次郎を入籍するつもりはなかったということだ。…」

 うまく纏めています。分かりやすいです。

写真は”竹屋町通小川西入(東竹屋町)”と書かれた古い住居表示板です。京都では彼方此方に残っています。竹屋町通と小川通の交差点から西側を撮影した写真を掲載します(右側、小林の看板の先三軒目が東竹屋町四三八番地です)。

「梅屋小学校の碑」
<梅屋尋常小学校>
 魯山人は7歳になった明治22年6月、上京区東竹屋町438番地の木版師福田武造方の養子になります。7歳ですからそろそろ小学校に入学です(尋常小学校の学齢は児童が満6歳になって最初の学年のはじめを就学の時期とします)。尋常小学校の入学時期が4月からになったのは明治25年(1892)4月からですから、魯山人は9月に近くの梅屋尋常小学校に入学しています。

 吉田耕三氏の「北大路魯山人伝」からです。
「…  小学校は、上京区(今日の中京区)丸太町新町の梅屋尋常小学校で、歩いて二、三町のところにあつた。今日でも梅屋校は同じ場所にあるが、(写真四)の様に建物は改築されて昔の面影はない。当時校長は、増地三之助絵の吉田先生、そのほか村と先生など、四年の課程を房次郎は、この学校で過ごした。…」
 ここではあまり内容が変りませんので、吉田耕三氏の「北大路魯山人伝」のみの掲載です。

写真は府庁前交差点北東角にある「梅屋小学校の碑」です。京都市立梅屋小学校は平成9年(1997)御所南小と京都市立新町小学校に分割統合され、廃校になっています。いまは梅屋広場公園と京都第二赤十字病院になっています。

「千坂和薬屋」
<千坂和薬屋>
 明治26年、魯山人は4年制の梅屋尋常小学校を卒業します。直ぐに烏丸二条にある「干坂和薬屋(わやくや)」へ丁稚奉公に入ります。しかし僅か3年で辞め、実家の手伝いをします。

 吉田耕三氏の「北大路魯山人伝」からです。
「…小学校を卒業した房次郎は、養父武造のはからいで、直ちに鳥丸二条にある、今日で云う漢方専門の薬屋の干坂和薬屋に丁稚奉公に出された。主人は千坂忠七、お神さんはせいと云い、兎に角この店に住込むことになつた。武造としては、房次郎を将来薬屋として独立させる考えもあつたようだが、又一人でも口べらしをしたかつたのだろう。…
… 房次郎は、それでも明治二十六年小学校卒業(十一才)以来、明治二十九年(十四才)の正月までの丸三年間、この店に務めていた。この間、日本は一大国難であつた日清戦争に大勝利をおさめて、国運は大きく開けつつあつた。京都でも、はじめて路面電車が敷設され、平安神宮の造営が落成し、東本願寺の大伽藍や京都帝室博物館が建設された。
 特に二十八年には、第四回内国勧業博覧会が初めて京都で開催されたが、房次郎は岡崎六勝寺阯の会場にそれを見物に行つたのである。…」

 京都に初めて市内電車が走ったのは明治28年、平安神宮の造営も明治28年です。又、岡崎六勝寺阯は現在の平安神宮から動物園の東側一帯の地です。写真を撮り損なっていますので、再度撮影する予定です。

写真は現在の「干坂和薬屋(わやくや)」さんです。左側は烏丸通で、烏丸通りの拡張で店が小さくなってしまっています(左に2軒ありましが拡張で無くなっています)。烏丸通が拡張されたのは大正元年(1912)ですから、魯山人が丁稚奉公していたころは、店も大きかったとおもわれます。

「亀政跡」
<御池通油小路西人ル森の木町の「亀政」>
 明治31年、魯山人は洛中の社寺や商店の主催する習字の懸賞一字書きに応募、最初に天位地位等の賞を受け、自らの才能に驚き、熱中します。32年には西洋看板を書くようになりそれなりの収入を得るようになります。

 吉田耕三氏の「北大路魯山人伝」からです。
「… 彼を日本画家志望に駆り立てたのは実に竹内棲鳳(後の栖鳳)であった。竹内棲鳳は京都市御池通油小路西人ル森の木町で当時「亀政」の家号の料理仕出しを商つていた竹内政七の長男だが、京鄙画壇の雄、帝室技芸員の加野楳嶺に師寥し、二十六才で京都府画学校に出仕を被命、明治二十四年二十八才で日本青年絵画共進会の審査員に挙げられ、その年「秋渓遊鹿」で一等賞を貰い、又明治二十八年(三十二才)には、同じく青年絵画共進会に「山村晩帰」を出品して、一等一席をとり、天才画家として名声を拍していた。
 房次郎が初めて棲鳳を知つたのは、一寸した動機からであつた。御池油小路の「亀政」は、板塀の囲いから少し奥まつたところに粋造りの入口があり、そこにアンドン看板が掛けてあつた。アンドンには亀の絵が達者な一筆描きで描がれてあつたが、その亀は紐でいわがれていて、その紐の先がもつれたようになり、それがひら仮名でまさと読めた。
 この「亀まさ」のアンドン絵は、毎年正月に張り替えるもので、その都度、棲鳳が描き改めていたのだつた。房次郎は和薬屋の使いに出て、よとこのアンドンの絵を見て、その当意即妙な着想と、巧みな筆致にすつがり魅惑されてしまい、その方角に使いに出される度に、そのアンドンをのぞくのを何よりの楽しみにしていた。…」

 魯山人が見に行った御池油小路の「亀政」を探してみました。「京都市町名変遷史」で調べてみると、大正元年の地図で、森ノ木町210,213,214に竹内恒吉の名を見つけました。竹内栖鳳の本名です。かなり広い場所です。

写真は現在の堀川御池の交差点から御池通東を撮影したものです。御池通は終戦間際の強制疎開で拡張され、「亀政」は無くなっています。「亀政」は御池通の道の上、京都中央信用金庫西御池支店の前辺りだとおもわれます。道の真ん中です。

 書き切れなかったので、もう一回京都編を続けます。



魯山人の中京区附近地図





魯山人の京都地図



北大路魯山人年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 北大路魯山人の足跡
明治16年
1883 日本銀行開業
鹿鳴館落成
岩倉具視死去
0  3月23日 北大路魯山人は上賀茂神社の社家 北大路清操の次男として京都府愛宕郡上賀茂村第百六十六番戸で生まれます。 (本名:房次郎)
 9月 服部良知方に養子として入籍
明治20年 1887 長崎造船所が三菱に払い下げられる 4   やすは、房次郎伴い実家一瀬時敏方に戻る
明治22年 1889 大日本帝国憲法発布
衆議院議員選挙法公布
東海道線が全線開通
6  4月4日 服部家を離縁される
6月23日 福田武造の養子として入籍
9月 梅屋尋常小学校に入学
明治26年 1893 大本営条例公布
10 7月 梅屋尋常小学校を卒業
 烏丸二条、千坂わやくやへ丁稚奉公に入る
明治29年 1896 明治三陸地震津波
樋口一葉死去
13 1月 千坂わやくやをやめ、養家へ戻る
明治31年 1898 九竜租借条約
西太后が光緒帝を幽閉
15 習字の懸賞一字書きに応募、天位地位等の賞を受ける
         
         
明治36年 1903 小等学校の教科書国定化 20 秋 上京 京橋高代町3番地 丹羽茂正宅に間借
  実母の登女が住み込んでいる四条男爵邸を訪ねる
  日下部鳴鶴と巌谷一六を訪問
  菓子屋の二階に転居
年末 近くの福田印刷屋の二階に転居
明治37年 1904 日露戦争 21 11月 日本美術展覧会で一等賞を受賞
年末 京橋元嶋町の佐野印刷店方に転居
明治38年 1905 ポーツマス条約 22   岡本可亭に師事、転居(京橋区南伝馬町二丁目一番地)
 後に京橋区南鞘町
明治40年 1907 義務教育6年制 24   書道教授として独立(京橋区中橋泉町1〜2附近
明治41年 1908 中国革命同盟会蜂起
西太后没
25 2月 安見タミを入籍
         
大正元年 1912 中華民国成立
タイタニック号沈没
29 初夏 日本に戻る
大正3年 1914 第一次世界大戦始まる 31 6月前後 藤井せきと正式に見合いし婚約
11月 タミと離婚
大正5年 1916 世界恐慌始まる 33 1月 藤井せきと結婚、神田區駿河台紅梅町に転居
大正6年 1917 ロシア革命 34  
大正8年 1919 松井須磨子自殺 36 5月 京橋南鞘町に大雅堂芸術店を開業
大正10年 1921 日英米仏4国条約調印 38 2月 美食倶楽部を開業
大正11年 1922 ワシントン条約調印 39 7月 北大路家を相続して北大路魯山人を名のる
大正12年 1923 関東大震災 40 関東大震災後、芝公園内で美食倶楽部(花の茶屋)を再開
大正14年 1925 治安維持法
日ソ国交回復
42 3月 山王に会員制料亭 星岡茶寮を開始
         
昭和10年 1935 第1回芥川賞、直木賞 52 11月 大阪曽根に星岡茶寮を開業