●魯山人の京都を歩く -1-
    初版2015年6月27日 <V01L03> 暫定版

 今回の掲載は北大路魯山人に戻って、明治16年から東京に向かう明治35年までの京都を歩きます。2回に分けての掲載になる予定です。まず最初は、生誕の地、上賀茂神社付近を歩きます。明治16年のお話しですから精確な地図も無く、よく分からないことばかりです。


「陶説 86号」
<「陶説 北大路魯山人伝」 吉田耕三(前回と同じ)>
 白崎秀雄氏の「北大路魯山人」と山田和氏の「知られざる魯山人」だけではよく分からないところがあるので、最初に戻って、「陶説」の昭和35年(1960)5月 86号から1年半掲載された吉田耕三氏の「北大路魯山人伝」を新たに掲載することにしました(これが魯山人について書かれた最初の評伝です)。住所等が記載されたハガキや封筒が残っていれば正確な場所がわかるのですが、人からの伝聞のみで書いているケースがほとんどで何方のが正しいのかよく分かりません。困ったものです。

 「陶説」の昭和35年(1960)5月 86号から1年半掲載された吉田耕三氏の「北大路魯山人伝」からです。
「… 魯山人の家系は、京都北区にある上賀茂神社、正しく言へば賀茂別雷神社の社家の中にある。遠く伝説にまで逆れば、神武大皇を熊野から大和に先導した八咫鳥(武角身命)を祖神大した賀茂族は、奈良から京都の地に都を移される以前から、山城国の大部を開拓していたが、祖神武角身命と女神に依姫命を下鴨の賀茂御祖神社に、又玉依姫命と高靇神。との御子神の別雷神をば、賀茂別雷神社にまつって奉仕していた。欽明天皇の頃から賀茂祭は記録にのつていて、A・D六七八(天政天皇六年)には賀茂神社の造営が行はれたことになっているが、実際神社に奉仕した社司、社家の記録は、A・D九五五(天暦九年)賀茂族中興の祖とあがめられている賀茂在実からほゞ明確に残されている。それによると、在実には長男忠成(嫡流)と、その弟忠頼(庶流)の二人の男子があり。嫡流にはその名の一字に氏を、庶流には、平・保・宗・弘・重・兼・清・顕・成・俊・直・幸・久・経・能、いづれか一字をつけさせて区別するようになった。
 家系はすべて男系に限り、女系は許されなかった。戦国時代以降、賀茂族の賀茂の氏名のほかに、県つまり分田主として今日の苗字をつけはしめたが、これとても、神主を出すことの出来る家柄と、社人の家柄とは厳格に区別して来た。明治以降、神主は宮司となったが、宮司を出す家柄を社司と改めて、松下・梅辻・森・鳥居大路・富野・岡本・林の七
家とし、社人は社家と改められて百二十軒と限られた。この社家に藤木・坐田・松山・井関・北大路・酉池・山本等の苗字がある。…」

 下記にある2名の評伝も含めて比較すると、一番詳細に書かれているようにおもえます。ただ、最初にも書きましたが、内容は人伝えの伝聞がほとんどです。ただ魯山人から直接聞くことができた唯一の人です。下記の二人の評伝はこの吉田耕三氏の「北大路魯山人伝」が元になっていることは確かです。ただ、裏付け調査をほとんどしていないようで、間違いも多そうです。

【北大路魯山人(きたおおじ ろさんじん 1883年(明治16年)3月23日 - 1959年(昭和34年)12月21日)は、日本の芸術家。本名は北大路 房次郎(きたおおじ ふさじろう)】
 晩年まで、篆刻家・画家・陶芸家・書道家・漆芸家・料理家・美食家などの様々な顔を持っていた。
 明治16年(1883)、京都市上賀茂(現在の京都市北区)北大路町に、上賀茂神社の社家・北大路清操、とめ(社家・西池家の出身)の次男として生まれる。生活は貧しく、魯山人の上に夫の連れ子が一人いた。魯山人が生まれる前に父親が自殺、母親も失踪したため親戚をたらい回しにされる。一度農家に養子に出されるが、6歳の時に竹屋町の木版師・福田武造の養子となり、10歳の時に梅屋尋常小学校を卒業。烏丸二条の千坂和薬屋に丁稚奉公に出された。明治36年(1903)、書家になることを志して上京。翌年の日本美術展覧会で一等賞を受賞し、頭角を現す。明治38年(1905)、町書家・岡本可亭の内弟子となり、明治41年から中国北部を旅行し、書道や篆刻を学んだ。大正4年(1915)、福田家の家督を長男に譲り、自身は北大路姓に復帰。その後も長浜をはじめ京都・金沢の素封家の食客として転々と生活することで食器と美食に対する見識を深めていった。大正6年(1917)便利堂の中村竹四郎と知り合い交友を深め、その後、古美術店の大雅堂を共同経営することになる。大雅堂では、古美術品の陶器に高級食材を使った料理を常連客に出すようになり大正10年(1921)会員制食堂・「美食倶楽部」を発足。自ら厨房に立ち料理を振舞う一方、使用する食器を自ら創作していた。大正14年(1925)には東京・永田町に「星岡茶寮(ほしがおかさりょう)」を中村とともに借り受け、中村が社長、魯山人が顧問となり、会員制高級料亭を始めた。昭和2年(1927)には宮永東山窯から荒川豊蔵を鎌倉山崎に招き、魯山人窯芸研究所・星岡窯(せいこうよう)を設立して本格的な作陶活動を開始する。1928年(昭和3年)には日本橋三越にて星岡窯魯山人陶磁器展を行う。魯山人の横暴さや出費の多さから、昭和11年(1936)星岡茶寮の経営者・中村竹四郎からの内容証明郵便で解雇通知を言い渡され、魯山人は星岡茶寮を追放、同茶寮は昭和20年の空襲により焼失した。戦後は経済的に困窮し不遇な生活を過ごすが、昭和21年(1946)には銀座に自作の直売店「火土火土美房(かどかどびぼう)」を開店し、在日欧米人からも好評を博す。昭和29年(1954)にロックフェラー財団の招聘で欧米各地で展覧会と講演会が開催され、その際にパブロ・ピカソ、マルク・シャガールを訪問。昭和30年には織部焼の重要無形文化財保持者(人間国宝)に指定されるも辞退。昭和34年(1959)に肝吸虫(古くは「肝臓ジストマ」と呼ばれた寄生虫)による肝硬変のため横浜医科大学病院で死去。平成10年、管理人の放火と焼身自殺により、魯山人の終の棲家であった星岡窯内の家屋が焼失した。(ウイキペディア参照)

写真は「陶説」の昭和35年(1960)5月発行の86号です。ここから1年半、吉田耕三氏の「北大路魯山人伝」が掲載されます。ただ、きっちり毎月掲載された訳では無く、途中、2回休んでいますから、18回掲載で昭和36年12月まで掛かっています。昭和36年12月号を見ると、最後に”つづく”と記載があるのですが、その後の号を見ても”つづき”がありません。突然掲載がとり止めになったという感じです。中止になった理由がよく分かりません。

【吉田 耕三(よしだ こうぞう、1915年 - )】
 神奈川県横浜市出身の美術評論家。日本画家の速水御舟の甥。御舟から日本画を学び、御舟の日本画の鑑定人を務める。現代陶芸の旗手といわれた加守田章二の才能を認める。陶芸の公募展・日本陶芸展創設を企画する。東京美術学校(現・東京藝術大学)日本画科卒業。復員後、世界的な陶磁学者で陶芸家・小山冨士夫の助手となり、その後、東京帝室博物館(現・東京国立博物館)陶磁器主任で、陶磁器の批評と収集の天才といわれる北原大輔、人間国宝・荒川豊蔵、百五銀行頭取で陶芸作家・川喜田半泥子から焼き物に関する学問と技術を学ぶ。北大路魯山人の弟子でもある。東京国立近代美術館の創立時から勤務して日本画と工芸を担当し、総括主任研究官などを歴任。日本伝統工芸展鑑査委員、日本陶芸展運営委員・審査員を務める。(ウイキペディア参照)

「北大路魯山人」
<「北大路魯山人」 白崎秀雄(前回と同じ)>
 魯山人の伝記としては吉田耕三氏の次に書かれた本で、白崎秀雄氏が昭和46年(1971)に文藝春秋社より出版したものです。白崎秀雄氏はその後何度か加筆修正し、昭和60年(1885)に新潮社より再度出版されています。最初は吉田耕三氏の「北大路魯山人伝」を鵜呑みにして書いていたようですが、間違いに気づき、修正を加えたようです。文庫本化は平成9年(1997)、中央公論社より、続いて平成25年(2013)ちくま文庫として最新版が出版されています。

 白崎秀雄氏の「北大路魯山人」からです。
「… 「善雅さんや、君、俺が昔からのこと話すから、そのうち俺の一代記を一つ書いてくれんか」
 魯山人が、山崎に疎開中の滝波善雅にそういい出したのは、敗戦後まだあまり月日を経ぬ頃。夕飯に、滝波を相伴させながらのことであった。
 滝波は、魯山人からその生いたち物語の最初に、父親の自害についてきかされた。
 「御自害というと容易ならんことですが、そりゃ先生の生れられてまもなくのことで……?」
 滝波は、思わず手にしていたビールのコップを卓上に置いた。
「生れる何ケ月か前のことだ」
「なにか、その御事情は……?」
 滝波は、たたみかけてたずねた。
「いや、あることで、な」
 魯山人は、そう答えたばかりだった。
 彼は、父の自害の因を知っていた。それは彼として、どうにも他言することのできない性質のものであった。彼は、その禁忌に固く呪縛されていた。
 魯山人の口吻は、明かにそう語っている…」

 最初、出版されたのは昭和46年、魯山人が無くなったのが昭和34年ですから、無くなってから12年で伝記を書いたわけです。まだ魯山人の関係者の方々がご存命のころだったとおもいます。死去から10年以上経過しており、言えなかったことも語れるようになる時期になったころです。叉、関係者に実際にヒヤリングして書けるわけですから一番いいころだとおもいます。

写真はちくま文庫の白崎秀雄著「北大路魯山人」です。平成25年(2013)発行です。

【白崎 秀雄(しらさき ひでお、1920年-1992年)作家、美術評論家、福井市出身】
 伝記小説に新境地を開き、骨董、書画、日本絵画、篆刻などの関連著作が多い。北大路魯山人研究で著名で、魯山人を世に広めた人物としても知られる。魯山人の芸術性・技術的な特異性を鋭く評価した。(ウイキペディア参照)

「知られざる魯山人」
<「知られざる魯山人」 山田和>
 山田和の「知られざる魯山人」は 北大路魯山人の関する伝記物で一番新しく書かれたものです。平成15年(2003)から「諸君!」に連載され、平成19年(2007)10月に「知られざる魯山人」として出版されています。昭和60年(1885)に白崎秀雄氏が書かれた「北大路魯山人」に対抗するものとして云われていますが、読んでみるとそうでもないようです。魯山人の死去から相当経って、関係者もほとんどいない中で”よく調べて書かれている”とおもいました。山田氏の父親が地元の新聞記者だったころ魯山人と親しかったのがきっかけのようです。

 山田和氏の「知られざる魯山人」からです。
「  一  北大路房次郎は、いかなる星の下に生まれたか

 北大路房次郎、のちの北大路魯山人は明治十六年(一八八三年)三月二十三日、父・北大路清操(「せいそう」とも)、母・登女の次男として上賀茂神社(正しくは賀茂別雷神社)の社家に生まれた。社家とは神官職の代理のほか、神社の雑務職、事務方などをつかさどる「禰宜」と呼ばれる位の家のことである。…
…版籍奉還二年後の明治四年(一八七一年)、政府は太政官令で社家に今まで保証されてきた俸禄制と世襲制とを廃止し、今後の社家については国家が任命すると布告した。
 賀茂県主の氏族として、血の誉れとともに世襲を繰り返してきた社家にとって、これはまさに驚天動地の出来事だった。房次郎が生まれたのはそんな混乱期で、父親の清操は東来に職を求めたり来都へ戻ったりという生活だったらしい。つまり父親はしばしば家を空け、母親も御所勤めで不在のときがあり、落ち着いた夫婦の生活は少なかった。このような状況が夫婦の間に影を落としたのか、房次郎が生まれたとき父親はすでにこの世にいなかった。魯山人自身が後に周りの者に語った言葉によると、あることで父は自殺してしまっていた。
 あること、それは妻の登女が不貞をはたらいて他人の子を身籠り、それを知って悩んだ清操が自刃(割腹)して果てたことを指す。実際これを裏づけるような伝聞がいくつかあり、事実であったと考えられる。推測が許されるのはそこまでだが、世の中にはここからさらに一歩進んで、清操自殺の有様を見たように克明に描いた小説もある。しかし実際は房次郎の実の父親はわからない。登女が勤めた御所関係の者だったかもしれないし、そうでなかったかもしれない。憶測するにも一定の資料や伝聞が必要なだけでなくその信憑性の度合いが問題だが、このあたりになると資料はまったくなく、伝聞の信頼性も極めて低く、伝記として扱うレベルではない。…」

 魯山人の父親の死と魯山人自身の出生については、全て伝聞で、よく分からないことが多すぎます。関係者は全て亡くなられているので、これからも解明されることはないとおもわれます。

写真は文藝春秋社版、平成19年(2007)発行の「知られざる魯山人」です。魯山人の伝記としては最後の出版となるのではないかとおもいます。関係者も少なくなった今となってはこれより詳しい伝記は出てこないとおもいます。参考図書を比較して矛盾が無いか検証し、裏付けを取って書かれています。一番正しいとおもうのですが、完璧ではないようです。

【山田 和(やまだ かず、男性、1946年 - )ノンフィクション作家】
 富山県砺波市生まれ。1973年より福音館書店勤務。1993年退社しノンフィクション作家となる。1996年『インド ミニアチュール幻想』を刊行し、講談社ノンフィクション賞受賞。2008年『知られざる魯山人』で大宅壮一ノンフィクション賞受賞。地元の新聞記者だった父親が魯山人と親しかった。(ウイキペディア参照)



「北大路魯山人生誕地記念碑」
<北大路魯山人生誕地記念碑>
 平成21年(2009)3月、「北大路魯山人生誕地記念碑」が京都市北区上賀茂北大路町20−3に建てられています。場所的には北大路町の北東角にある末社福徳神社の裏側になります。この場所が北大路魯山人生誕の地と言うわけでは無いようです。魯山人の戸籍謄本は”京都府愛宕郡上賀茂村第百六十六番戸”となっており、地番ではなく建物番号で書かれています。この建物番号が曲者で、地番に変換できません。当時の方々はよく分かっていたとおもうのですが、番戸について書かれたものが残っていないようで、現在の何処の場所なのか全く分かりません。吉田耕三氏、白崎秀雄氏、山田和氏がどう書かれているのか参照しながら場所を探したいとおもいます。

 北大路魯山人生誕地記念碑からです。
「北大路魯山人は明治16(1833)年3月23日、ここ上賀茂の地で生まれた。15歳で当時流行の「一字書き」で次々と受賞を重ね、一字書きの名手として名をあげるなど、年少時代から非凡な才能を発揮した。明治37年(21歳)に、日本美術展覧会に隷書「千字文」を出品し一等賞を受賞。その後、篆刻、刻字看板を制作し併せて、古美術と料理にも興味をもつようになった。……」
 ごく一般的な解説です。出生に関することは全く書かれていません。

写真は京都市北区上賀茂北大路町20−3、末社福徳神社の裏側に建てられた「北大路魯山人生誕地記念碑」です。ここが生誕の地ではありません。太田神社の入口なので、見られる方が多いだろうと考えて、この場所に建てられたとおもわれます。

「上賀茂神社一ノ鳥居」
<賀茂別雷神社(上賀茂神社)>
 北大路魯山人の話を始めるには、まず最初に京都 上賀茂の賀茂別雷神社(かもわけいかづちじんじゃ)、通称は上賀茂神社(かみがもじんじゃ)から始めなければなりません。北大路家は代々上賀茂神社の社家だったからです。上賀茂神社について吾々がよく知っているのは、上賀茂神社と下鴨神社が共同で毎年5月に開催する葵祭(正式には賀茂祭)です。気づかれた方がいらしゃるとおもいますが、上賀茂神社の”賀茂”と下鴨神社の”鴨”が違います。下鴨神社の正式名称は「賀茂御祖神社」なので同じなのです。理由ははっきりしないようで、通称が一般化してしまったようです。

 北大路家については上記の”「陶説 北大路魯山人伝」 吉田耕三”の項を参照してください。

 吉田耕三氏の「北大路魯山人伝」からです。
「… 明治十六年(一八八二)三月二十三日、北大路房次郎は、京都北区上賀茂北大路町の自宅で清操の二男として誕生した。北大路家は代々上賀茂神社の社家で、母の登女は同じ社家の家柄である西池家から清操のもとに嫁いで、既に長男の清晃をもうけていた。
 房次郎にとつて何より不幸だった事は、彼が産れる一ヶ月程前に、父の清操が病死してしまったことであつた。社家と云っても、名ばかりの聖職で、年にせいぜい八石から十石程の米を貰い、収人のあろ務めと言えば正月と五月の葵祭の二回しかなかった。社司七家と社家百二十軒の人々は、一年の内に一ヶ月の月番しか回って来ないので、その三分の一は全く生活に困窮してしまっていたので、宮家や御所の仕事を兼務することで、どうにか生活をさゝえていたものだそうだ。…」

【賀茂別雷神社(かもわけいかづちじんじゃ)、通称は上賀茂神社(かみがもじんじゃ)。】
 京都市北区にある神社。式内社(名神大社)、山城国一宮、二十二社(上七社)の一社。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。ユネスコの世界遺産に「古都京都の文化財」の1つとして登録されている。賀茂御祖神社(下鴨神社)とともに古代氏族の賀茂氏の氏神を祀る神社であり、賀茂神社(賀茂社)と総称される。賀茂神社両社の祭事である賀茂祭(通称 葵祭)で有名である。創建については諸説ある。社伝では、神武天皇の御代に賀茂山の麓の御阿礼所に賀茂別雷命が降臨したと伝える。『山城国風土記』逸文では、玉依日売(たまよりひめ)が加茂川の川上から流れてきた丹塗矢を床に置いたところ懐妊し、それで生まれたのが賀茂別雷命で、兄玉依日古(あにたまよりひこ)の子孫である賀茂県主の一族がこれを奉斎したと伝える。丹塗矢の正体は、乙訓神社の火雷神とも大山咋神ともいう。玉依日売とその父の賀茂建角身命は下鴨神社に祀られている。国史では、文武天皇2年(698年)3月21日、賀茂祭の日の騎射を禁じたという記事が初出で、他にも天平勝宝2年(750年)に御戸代田一町が寄進されるなど、朝廷からの崇敬を受けてきたことがわかる。延暦13年(794年)の平安遷都の後は王城鎮護の神社としてより一層の崇敬を受け、大同2年(807年)には最高位である正一位の神階を受け、賀茂祭は勅祭とされた。『延喜式神名帳』では「山城国愛宕郡 賀茂別雷神社」として名神大社に列し、名神祭・月次祭・相嘗祭・新嘗祭の各祭の幣帛に預ると記載されている。弘仁元年(810年)以降約400年にわたって、伊勢神宮の斎宮にならった斎院が置かれ、皇女が斎王として奉仕した。明治の近代社格制度でも官幣大社の筆頭とされ、明治16年(1883年)には勅祭社に定められた。 (ウイキペディア参照)

写真は上賀茂神社の一ノ鳥居です。上賀茂神社は下鴨神社と同じく、一ノ鳥居から奥が深い神社です。二ノ鳥居から先は古来の神社様式のようです。立砂のある細殿と御手洗川を越える舞殿玉橋から桜門越えに本殿を見ます。

「楠」
<楠>
 まず最初に吉田耕三氏の「北大路魯山人伝」を参照して、魯山人の生家を探します。「北大路魯山人伝」が「陶説」に掲載されたのが昭和35年(1960)ですから、北大路家に関係する方々がまだ生存されていた頃だとおもいますので、一番精確なはずです。

 吉田耕三氏の「北大路魯山人伝」からです。
「… 私は上賀茂神社の前を通り樹齢三百年はあろうと思はれる楠を見上げながら山本町から藤ノ木町へと街道を歩いた。街道の右側は綺麗な、内川が流れていて、風雅な家々が土壁に囲まれ、一軒一軒小橋を渡つで出人するようになっでいる。…」
 上記の楠は健在です。上賀茂神社の一の鳥居から東へ進みます。この辺りは上賀茂神社の社家が数多くあったところで、右側を明~川が流れ、古来から生活用水として使われてきたそうです。

写真は藤木社(上賀茂神社の末社)の裏のある楠です。右側を明~川が流れています。写真の左側が上賀茂藤木町、右側が上賀茂南大路町となります。

「上賀茂の駐在所」
<上賀茂の駐在所>
 魯山人の生誕とその後については上賀茂の駐在所が重要な役目をはたしています。その当時の状況については、吉田耕三氏→白崎秀雄氏→山田和氏と順に解明されていっています。魯山人自身の回想を元にして当時の状況を調べて、つじつま合わせを為ていくのですが、なかなか旨くいきません。魯山人自身の回想が正しいのか、思い込みがあるのではないか、まで戻ってしまいます。

 吉田耕三氏の「北大路魯山人伝」からです。
「…おそらく社司や社家の家のなごりであるうと眺めながら楠の木の根もとの古びた藤木の社を後にして半町程行くと、右側に上賀茂の駐在所、左側におよそ時代離れのした店がまえの床屋がある。…
… 何はともあれ、房次郎は悲運にも寡婦の産んだ孤児としてこの世に生を得た途端、駐在所の和田巡査夫妻の斡旋で、目の開かぬ内に生母から引き離されて、雪深い比叡山を、縁もゆかりもない養母の懐に抱かねて越えて行つたことは事実である。
 貰らわれて行つた先は、琵琶川畔坂本在の農家であることは間違いないが、その名は魯山人もついにわからなかつたらしい。と云うのは、そこに居たのは、あまりにも短かゝつたからである。
 母登女は房次郎を手離したものゝ、やはり気になつたので、一ヶ月も立つか立たないうちに心配のあまり、それとなく和田巡査の奥さんに頼んで坂本まで様子を見に行つて貰つた。和田の奥さんは養家に着いて声をかけたが、夫婦で畠仕事に出掛けたらしく返事がなかつた。たゞ赤児の房次郎がフゴに入れられて力なく泣いているので可愛想になり、オシ
メをよごしてむづかつているのだろうと、オシメを取り替えてやろうとして驚いた。股はおろか背中の方まで赤くたゞらかしていたのだ。
 自分達が口をきいて貰つてもらつただけにその虐待に憤慨した和田巡査の奥さんは、フゴから房次郎を抱き上げて懐に入れ、そのまゝ黙つて又比叡の雪を踏んで上賀茂の駐在所までつれ戻つてしまつたのである。
 房次江に対する不振さがつのつて愛情となり、房次郎は和田巡査夫婦に養われることゝなつた。母登女が、長男の清児をつれて上賀茂から姿を消したのもこの頃だつた。
 彼は五才まで和田巡査の家で育てられた。…」

 吉田耕三氏の「北大路魯山人伝」で、ここでのポイントは、”駐在所の和田巡査夫妻”です。”左側におよそ時代離れのした店がまえの床屋”は当時の住宅地図で調べたところ、「下水木理ハツ店」とありました。読み方が分かりません。建物はそのまま残っているようなので、床屋のあったところの写真を掲載しておきます(上賀茂薬局の右二軒目)。

 白崎秀雄氏の「北大路魯山人」からです。
「… 房次郎を、出生前から坂本の農家へ子にやる世話をしたとされる、上賀茂の駐在所の「和田巡査」なる者は、実在した形跡がない。吉田伝に初出して以来、まるで自らの調査結果のように剽窃する者が後を絶たず、そのため「和田巡査」はかなり著名となった。
 「和田巡査」は、後に房次郎を自家の「養子」にしたという以上、戸籍謄本にその事実が明記されていなければならぬが、その資料はない。
 明記されているのは、房次郎が明治十六年九月六日、来都府上京区第十八組北伊勢屋町平民服部良知方に養子として入籍した、ということである。
 「服部」は、滝波善雅が魯山人からきいた、房次郎を坂本の農家へ子にやる周旋をした「巡査」の、名でもあった。
 明治十五、六年頃、上賀茂村には駐在所もない。吉田伝にいう駐在所は明治三十五年に開設された。来都府警察史編纂室の談によれば、明治十二年に設けられた下鴨警察署の安朱分署が、上賀茂村をも管轄していた。
 上賀茂の治安に任じていた警吏が、清操変死の処理に当るうち、やがて生れ出た子を坂本へやる世話をしたということは、考え得るすこぶる自然な筋道である。
 実際には、その警吏に、「和田」は論外として、服部良知も該当しないであろう。彼は、清操変死の年に六十九歳に達していたからである。…
… 戸籍謄本では、房次郎が入籍するよりも二ヶ月も前に、養父服部良知はすでに家にいない。「明治十六年七月二日 失踪」と記されている。
 服部の妻もんは、明治十六年に五十四。子を生む可能性はない。服部夫婦は、明治十三年、平民一瀬時敏の次女やす二十歳を、養女としていた。
 房次郎が明治三十六年に上来して以降、さらに朝鮮滞留中にもたびたび音信を通じていた「養母」は、このやすであった。戸籍上は、房次郎の義姉に当る。
 やすは、婿養子の夫茂精との間に、明治十九年七月、長男の朝吉を生んだ。茂精は、その五ヶ月後の十二月に死歿している。
 清操自害事件の処理に当り、後に房次郎を引きとることになった「巡査」とは、あるいはこの茂精ではなかったであろうか。…」

 白崎秀雄氏の「北大路魯山人」のここでのポイントは”上賀茂の駐在所の「和田巡査」なる者は、実在した形跡がない”と書かれていることです。そうすると、巡査の家で育てられた話しも無くなります。ただ、魯山人の回想があるので、巡査が誰であったか、推測しています。

 最後に、山田和氏の「知られざる魯山人」からです。
「… この服部良知巡査夫婦に関しては、最初の吉田の伝記では「上賀茂駐在所和田巡査」となっていた。和田を服部と正したのは小説『北大路魯山人』を書いた自崎秀雄で、白崎は星岡窯の元使用人の瀧波善雅から「魯山人からは服部巡査と聞いていた」と耳にして服部良知の戸籍謄本を手に入れ、房次郎が服部の戸籍に入っていることを確認し、和田巡査説を訂正した。同時に自崎は、上賀茂に当時駐在所があったという事実を見出せなかったことから、実際は清操変死(自殺)の処理に当たった巡査が生まれてくる子を坂本の農家にやる世話をしたのではないかと推測、その巡査の名が服部だろうと考えた。
 しかしこれでは魯山人自身の回想「養父は上賀茂駐在所の巡査だった」と矛盾することになる。そこで私は平成十六年(二〇〇四年)十月、上賀茂駐在所と上賀茂在の郷土史家を訊ね、房次郎誕生の時点でほんとうに駐在所がなかったかどうか再調査をした。
 その結果、駐在所の記録は「明治三十五年十月駐在所設立」となっていたが、同時に、小学校の設置にあたって「駐在巡査所と消防署(分団)の併設」が義務付けられていたことがわかった。上賀茂小学校は明治六年(一八七三年)の創設だから、この時点で同地域に巡査所が作られていたこと、そして魯山人はこの巡査所のことを駐在所と述べたことが明らかになったのである。
 以上の裏づけによって私は上賀茂巡査所・服部巡査説を採用し、物心つくころまでの房次郎の物語を描いていくことにしたい。…」

 どの話しが正しいのか、複雑に絡む魯山人の生い立ちは解けません。困ったものです。魯山人の回想にそって考えざるをえないので、”養父は上賀茂駐在所の巡査だった”から離れる訳にいきません。山田和氏の「知られざる魯山人」が最後の”まとめ”のような気がします。

写真の右側が現在の上賀茂交番です。場所は昔から変ってないようです。

「吉田氏が考える北大路家跡」
<吉田耕三氏が考える北大路家跡>
 吉田耕三氏の「北大路魯山人伝」に書かれている”北大路家跡”を訪ねてみました。具体的に書かれていたので直ぐに場所が分かりました。

 吉田耕三氏の「北大路魯山人伝」からです。
「…この床屋の横丁を左に折れたあたりが北大路町で、この道を突当って右に小道を曲ると左側に二軒家がある。一軒目が藤木家、二軒目が橋本家で、こゝはもう神宮寺山の山裾になっていた。橋本家の右(東側)はその道にそって現在は小高い畑となり、後に大田神社の森をひかえている。この畑のあたりに北大路家が建っていたらしく、私は今はなき魯山人と同じ郷愁の感情にひたりながら、其処にしばらく佇んだ。…」
 先ほどの上賀茂交番(手前に上賀茂郵便局)の先10mを左に折れます(左角に床屋があった)。左に折れた先を100m歩くと突き当たり、道なりに右に折れます。突き当たった正面が上記に書かれている藤木家で、その右隣が橋本家になります。橋本家の右(東側)に駐車場があり、この場所が吉田耕三氏が考える北大路家跡となります。

写真の左側、駐車場のところが吉田耕三氏が考える北大路家跡です。駐車場のところから真っ直ぐに120m程進むと、右側に上記の北大路魯山人生誕地記念碑があり、左側は太田神社となります。



魯山人の上賀茂附近地図



「白崎氏が考える北大路家跡」
<白崎秀雄氏が考える北大路家跡>
 白崎秀雄氏は何度も上賀茂の地を訪れ、魯山人の生誕の地を探しています。
<魯山人の生誕の地のポイント>
・京都府愛宕郡上賀茂村第百六十六番戸
・父親 北大路清操が自殺(明治15年11月21日)

 白崎秀雄氏の「北大路魯山人」からです。
「… 京都府愛宕郡上賀茂村第百六十六番戸 上族 北大路清晃 前戸主北大路清操

 北大路家の最古の戸籍謄本には、右のように記入されている。…
… 昭和四十三年の暮、わたしは、水野とともに、上賀茂藤ノ木町の山下心一老人を訪ね、その話をきくことができた。明治三十六年生れの山下老人の家は、社家ではないが代々この近辺に住む町家で、故事に明るいとの評判であった。
 「北大路か岡本か家の名は忘れてしまいましたけど、わしが母親からきいたんでは、このわしとこの二筋裏に空地がありまんな」
 老人は、わたしがノートに描く略図で、角の空地を指した。
 「あすこで昔、えらい変死があったいうこつだす。それのたたりがあるいうことで、今でもよう家が建ちまへんのや。それも、あんさん、社家が二軒並んどって、つづけてその二軒で変死事件が起きたんでんな」
 一軒の角の家の方では、主人が裏山へ狩に行くとき仕掛ける「弾き玉」が口の中で破裂して、口が裂けて死んだ。落魄した社家が、兎や狸を獲る餌に、「爛癩玉の大けえようなもん」を仕掛けることがあった。それを故意にか誤ってか、口に入れたという。
 「そうすると、その隣のもう一軒の社家が、これははっきり自分で、そやけどふつうの自殺やない自殺をしたんでんねん」…」

 白崎秀雄氏が考える北大路家を探すには上記に書かれている”上賀茂藤ノ木町の山下心一老人”の住まいが分からなければなりません。幸いに当時の住宅地図で山下家を見つけることができました。”このわしとこの二筋裏に空地”は推定ですが、分かりました。

 山田和氏の「知られざる魯山人」からです。
「… 出生地は来都府愛宕郡上賀茂村一六六番戸、現在の京都市北区上賀茂藤ノ本町で、地理的にいえば京都駅東側を流れる鴨川を五条、四条、三条と北へ遡り、今出川通で高野川と賀茂川が合流するところを西の賀茂川沿いに四キロほど上がって、御薗橋で川を東岸へ渡り、上賀茂神社の南側を流れる明神川沿いの道を数町進んだ一角である。京都駅から直線距離で北に約八キ口、ちなみに上賀茂神社は平成六年(一九九四年)、世界遺産に登録された。…」
 山田和氏は”出生地は来都府愛宕郡上賀茂村一六六番戸、現在の京都市北区上賀茂藤ノ本町”とのみ書いて、具体的な場所は書いていません。上賀茂藤ノ本町と書かれていますので、白崎秀雄氏の考えを引き継いだものとおもわれます。新しい事象が出てこないので仕方が無いのかもしれません。

写真の正面の左側附近が”このわしとこの二筋裏に空地”です。角から左に少し入ったところ(3軒目〜)附近が白崎秀雄氏が考える北大路家跡となります。場所は上賀茂藤ノ本町となります。

 今回はここまでです。続きます。



魯山人の京都地図



北大路魯山人年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 北大路魯山人の足跡
明治16年
1883 日本銀行開業
鹿鳴館落成
岩倉具視死去
0 3月23日 北大路魯山人は上賀茂神社の社家 北大路清操の次男として京都府愛宕郡上賀茂村第百六十六番戸で生まれます。 (本名:房次郎)
       
明治36年 1903 小等学校の教科書国定化 20 秋 上京 京橋高代町3番地 丹羽茂正宅に間借
  実母の登女が住み込んでいる四条男爵邸を訪ねる
  日下部鳴鶴と巌谷一六を訪問
  菓子屋の二階に転居
年末 近くの福田印刷屋の二階に転居
明治37年 1904 日露戦争 21 11月 日本美術展覧会で一等賞を受賞
年末 京橋元嶋町の佐野印刷店方に転居
明治38年 1905 ポーツマス条約 22   岡本可亭に師事、転居(京橋区南伝馬町二丁目一番地)
 後に京橋区南鞘町
明治40年 1907 義務教育6年制 24   書道教授として独立(京橋区中橋泉町1〜2附近
明治41年 1908 中国革命同盟会蜂起
西太后没
25 2月 安見タミを入籍
         
大正元年 1912 中華民国成立
タイタニック号沈没
29 初夏 日本に戻る
大正3年 1914 第一次世界大戦始まる 31 6月前後 藤井せきと正式に見合いし婚約
11月 タミと離婚
大正5年 1916 世界恐慌始まる 33 1月 藤井せきと結婚、神田區駿河台紅梅町に転居
大正6年 1917 ロシア革命 34  
大正8年 1919 松井須磨子自殺 36 5月 京橋南鞘町に大雅堂芸術店を開業
大正10年 1921 日英米仏4国条約調印 38 2月 美食倶楽部を開業
大正11年 1922 ワシントン条約調印 39 7月 北大路家を相続して北大路魯山人を名のる
大正12年 1923 関東大震災 40 関東大震災後、芝公園内で美食倶楽部(花の茶屋)を再開
大正14年 1925 治安維持法
日ソ国交回復
42 3月 山王に会員制料亭 星岡茶寮を開始
         
昭和10年 1935 第1回芥川賞、直木賞 52 11月 大阪曽根に星岡茶寮を開業