●魯山人の金沢を歩く
    初版2016年5月28日 <V01L03> 暫定版

 「北大路魯山人を歩く」の続編です。今回は石川県金沢市を歩いてきました。大正4年夏、魯山人は金沢の細野燕台氏を訪ねます。事前に鯖江の窪田卜了軒宅で細野燕台氏と会っていました。


「陶説 86号」
<「陶説 北大路魯山人伝」 吉田耕三>
 白崎秀雄氏の「北大路魯山人」と山田和氏の「知られざる魯山人」だけではよく分からないところがあるので、最初に戻って、「陶説」の昭和35年(1960)5月 86号から1年半掲載された吉田耕三氏の「北大路魯山人伝」を新たに掲載します(これが魯山人の経歴について書かれた最初の評伝です)。住所等が記載されたハガキや封筒が残っていれば正確な場所がわかるのですが、人からの伝聞のみで書いているケースがほとんどで何方のが正しいのかよく分かりません。困ったものです。

 「陶説」に1年半掲載された吉田耕三氏の「北大路魯山人伝」から、金沢に現れたころです。
「… 現在、細野燕台老(九十才 神奈川県鎌倉市山内明月谷在住)の日記によると、大正四年八月三十日福田大観が金沢にはじめて現われたことが明確に記されている。
 其の時の房次郎は、窪田ト了の処で会つたと同じ白絣の木綿の着物に例の羊糞色の呂羽織、履き古した草履を素足に履いて、手垢で薄よごれたカンカン帽をかぶつていた。卜ランク一つ持たず、風呂敷包に身の廻りの品をくるんで、殿町の骨董屋兼セメント屋の店に現われた。そしてこの日から当分、細野家の居候に納まることとなつたのである。
 燕台氏は早速、知人の間を廻つて福田大観に印章を刻らせて貰うよう頼んで歩いたが、印章なら桑名鉄城に刻らせるよと誰も注文してくれず、やむなく看板の注文をとつて彼に仕事を与えた。房次郎にとつては、それからと云うもの毎日楠の板をカンカン刻つてばかりいる日課が続き、瞬く間に一ヶ月が経過した。…」

 下記にある2名の評伝も含めて比較すると、一番詳細に書かれているようにおもえます。ただ、最初にも書きましたが、内容は人伝えの伝聞がほとんどです。ただ魯山人から直接聞くことができた唯一の人です。下記の二人の評伝はこの吉田耕三氏の「北大路魯山人伝」が元になっていることは確かです。ただ、この魯山人伝は裏付け調査をほとんどしていないようで、間違いも多そうです。

【北大路魯山人(きたおおじ ろさんじん 1883年(明治16年)3月23日 - 1959年(昭和34年)12月21日)は、日本の芸術家。本名は北大路 房次郎(きたおおじ ふさじろう)】
 晩年まで、篆刻家・画家・陶芸家・書道家・漆芸家・料理家・美食家などの様々な顔を持っていた。
 明治16年(1883)、京都市上賀茂(現在の京都市北区)北大路町に、上賀茂神社の社家・北大路清操、とめ(社家・西池家の出身)の次男として生まれる。生活は貧しく、魯山人の上に夫の連れ子が一人いた。魯山人が生まれる前に父親が自殺、母親も失踪したため親戚をたらい回しにされる。一度農家に養子に出されるが、6歳の時に竹屋町の木版師・福田武造の養子となり、10歳の時に梅屋尋常小学校を卒業。烏丸二条の千坂和薬屋に丁稚奉公に出された。明治36年(1903)、書家になることを志して上京。翌年の日本美術展覧会で一等賞を受賞し、頭角を現す。明治38年(1905)、町書家・岡本可亭の内弟子となり、明治41年から中国北部を旅行し、書道や篆刻を学んだ。大正4年(1915)、福田家の家督を長男に譲り、自身は北大路姓に復帰。その後も長浜をはじめ京都・金沢の素封家の食客として転々と生活することで食器と美食に対する見識を深めていった。大正6年(1917)便利堂の中村竹四郎と知り合い交友を深め、その後、古美術店の大雅堂を共同経営することになる。大雅堂では、古美術品の陶器に高級食材を使った料理を常連客に出すようになり大正10年(1921)会員制食堂・「美食倶楽部」を発足。自ら厨房に立ち料理を振舞う一方、使用する食器を自ら創作していた。大正14年(1925)には東京・永田町に「星岡茶寮(ほしがおかさりょう)」を中村とともに借り受け、中村が社長、魯山人が顧問となり、会員制高級料亭を始めた。昭和2年(1927)には宮永東山窯から荒川豊蔵を鎌倉山崎に招き、魯山人窯芸研究所・星岡窯(せいこうよう)を設立して本格的な作陶活動を開始する。1928年(昭和3年)には日本橋三越にて星岡窯魯山人陶磁器展を行う。魯山人の横暴さや出費の多さから、昭和11年(1936)星岡茶寮の経営者・中村竹四郎からの内容証明郵便で解雇通知を言い渡され、魯山人は星岡茶寮を追放、同茶寮は昭和20年の空襲により焼失した。戦後は経済的に困窮し不遇な生活を過ごすが、昭和21年(1946)には銀座に自作の直売店「火土火土美房(かどかどびぼう)」を開店し、在日欧米人からも好評を博す。昭和29年(1954)にロックフェラー財団の招聘で欧米各地で展覧会と講演会が開催され、その際にパブロ・ピカソ、マルク・シャガールを訪問。昭和30年には織部焼の重要無形文化財保持者(人間国宝)に指定されるも辞退。昭和34年(1959)に肝吸虫(古くは「肝臓ジストマ」と呼ばれた寄生虫)による肝硬変のため横浜医科大学病院で死去。平成10年、管理人の放火と焼身自殺により、魯山人の終の棲家であった星岡窯内の家屋が焼失した。(ウイキペディア参照)

写真は「陶説」の昭和35年(1960)5月発行の86号です。ここから1年半、吉田耕三氏の「北大路魯山人伝」が掲載されます。ただ、きっちり毎月掲載された訳では無く、途中、2回休んでいますから、18回掲載で昭和36年12月まで掛かっています。昭和36年12月号を見ると、最後に”つづく”と記載があるのですが、その後の号を見ても”つづき”がありません。突然掲載がとり止めになったという感じです。中止になった理由がよく分かりません。

【吉田 耕三(よしだ こうぞう、1915年 - )】
 神奈川県横浜市出身の美術評論家。日本画家の速水御舟の甥。御舟から日本画を学び、御舟の日本画の鑑定人を務める。現代陶芸の旗手といわれた加守田章二の才能を認める。陶芸の公募展・日本陶芸展創設を企画する。東京美術学校(現・東京藝術大学)日本画科卒業。復員後、世界的な陶磁学者で陶芸家・小山冨士夫の助手となり、その後、東京帝室博物館(現・東京国立博物館)陶磁器主任で、陶磁器の批評と収集の天才といわれる北原大輔、人間国宝・荒川豊蔵、百五銀行頭取で陶芸作家・川喜田半泥子から焼き物に関する学問と技術を学ぶ。北大路魯山人の弟子でもある。東京国立近代美術館の創立時から勤務して日本画と工芸を担当し、総括主任研究官などを歴任。日本伝統工芸展鑑査委員、日本陶芸展運営委員・審査員を務める。(ウイキペディア参照)

「北大路魯山人」
<「北大路魯山人」 白崎秀雄(前回と同じ)>
 魯山人の伝記としては吉田耕三氏の次に書かれた本で、白崎秀雄氏が昭和46年(1971)に文藝春秋社より出版したものです。白崎秀雄氏はその後何度か加筆修正し、昭和60年(1885)に新潮社より再度出版されています。最初は吉田耕三氏の「北大路魯山人伝」を鵜呑みにして書いていたようですが、間違いに気づき、修正を加えたようです。文庫本化は平成9年(1997)、中央公論社より、続いて平成25年(2013)ちくま文庫として最新版が出版されています。

 白崎秀雄氏の「北大路魯山人」から金沢について書かれた項です。
「… 細野燕台は、昭和三十六年九十を以て終った。その晩年、魯山人との交遊についてきく人があると、この最初のめぐり逢いの模様を、なつかしそうに語った。
 彼は、金沢大樋町の油商細野屋の長男に生れ、申三と名づけられた。後に酒屋も営んだ彼の父は当徹と号して漢文を教えていた。厳格な人で申三を雇人同様に使い、樽拾いなどもさせた。それを嫌った申三は、同市常福寺へもっぱら習字に通った。同寺の住職北方心泉は、明治期を通じて傑出した書家である。父はそこへ行っている間だけは、使役を免じた。
 漢文の素養を積み、煎茶をたしなみ、隷書を能くした申三は、金沢の古名燕台を号とする。やがて、年中酒気を帯びて好んで支那の軟文学を語り、骨董を弄び、かつこの方面の種々の周旋をするようになった。…」

 最初、出版されたのは昭和46年、魯山人が無くなったのが昭和34年ですから、無くなってから12年で伝記を書いたわけです。まだ魯山人の関係者の方々がご存命のころだったとおもいます。死去から10年以上経過しており、言えなかったことも語れるようになる時期になったころです。叉、関係者に実際にヒヤリングして書けるわけですから一番いいころだとおもいます。

写真はちくま文庫の白崎秀雄著「北大路魯山人」です。平成25年(2013)発行です。

【白崎 秀雄(しらさき ひでお、1920年-1992年)作家、美術評論家、福井市出身】
 伝記小説に新境地を開き、骨董、書画、日本絵画、篆刻などの関連著作が多い。北大路魯山人研究で著名で、魯山人を世に広めた人物としても知られる。魯山人の芸術性・技術的な特異性を鋭く評価した。(ウイキペディア参照)

「知られざる魯山人」
<「知られざる魯山人」 山田和(前回と同じ)>
 山田和の「知られざる魯山人」は 北大路魯山人の関する伝記物で一番新しく書かれたものです。平成15年(2003)から「諸君!」に連載され、平成19年(2007)10月に「知られざる魯山人」として出版されています。昭和60年(1885)に白崎秀雄氏が書かれた「北大路魯山人」に対抗するものとして云われていますが、読んでみるとそうでもないようです。魯山人の死去から相当経って、関係者もほとんどいない中で”よく調べて書かれている”とおもいました。山田氏の父親が地元の新聞記者だったころ魯山人と親しかったのがきっかけのようです。

 山田和氏の「知られざる魯山人」から金沢について書かれた項です。
「… 細野家は代々加賀藩(前田家)御用達の油商「細野屋」を営んでいたが、父親の代になって市内の山の上町に移り、燕臺十四歳のときに酒造業をはじめ、のちに市内材木町に移転した。しかし子の燕臺は親の商売を嫌って三十二歳のときに市内殿町にセメント販売業(「愛知セメント金沢支社しと骨董屋(「清国磁器雑貨しを店先を左右に分けて開き、大正十三年(一九二四年)、同市九人橋に居を移して骨董商と煎茶趣味と漢学と書に没頭して暮らす。魯山人と出会ったあと昭和三年(一九二八年)十一月、五十五歳のときに魯山人の勧めで老母・須恵を伴い、一家で北鎌倉の明月院前に引っ越し、星岡茶寮の顧問として月々五十円の給料を受けつつ(但し晩年は辞退)悠々閑日月の生涯を送る。…

 房次郎が訪れたとき、愛知セメント金沢支社兼清国磁器雑貨「細野屋」は殿町に店を構えていた。間口五、六間(約十メートル)の豪壮な店内にはそのころまだ珍しかった自転車が置かれ、店頭にはひときわ目立つ大甕が二つ置かれていた。甕は清国雑貨の運搬用の荷箱代わりで、中に商品を詰めて甕を剥き出しのまま送ると運送人たちが割れるのを惧れて丁寧に扱う、その結果、中に詰めた商品が損傷なく運送できるというのであったが、こういう発想をするところに燕臺の性格、巧知と才覚とが窺える。セメントは当時珍しく、燕臺が商売をはじめたときは知らぬ者ばかりで、虫下しの薬「セメン円」(横浜で幕末に病院を開いた宣教師シモンズが作った薬)と名が似ていたためにまちがえられ、最初の年はほとんど売れなかったという。やむなく多角経営ではじめたのが支那雑貨の販売業であった。
 その細野屋の店先に房次郎が立ったのは、先に述べたように大正四年(一九一五年)八月三十日、燕臺は意外に早く現われた房次郎を自宅に上げて一室をあてがう。…」

 やっぱり、山田和氏の「知られざる魯山人」が一番まとまっています。読んでいて良く理解できます。

写真は文藝春秋社版、平成19年(2007)発行の「知られざる魯山人」です。魯山人の伝記としては最後の出版となるのではないかとおもいます。関係者も少なくなった今となってはこれより詳しい伝記は出てこないとおもいます。参考図書を比較して矛盾が無いか検証し、裏付けを取って書かれています。一番正しいとおもうのですが、完璧ではないようです。

【山田 和(やまだ かず、男性、1946年 - )ノンフィクション作家】
 富山県砺波市生まれ。1973年より福音館書店勤務。1993年退社しノンフィクション作家となる。1996年『インド ミニアチュール幻想』を刊行し、講談社ノンフィクション賞受賞。2008年『知られざる魯山人』で大宅壮一ノンフィクション賞受賞。地元の新聞記者だった父親が魯山人と親しかった。(ウイキペディア参照)


「金沢駅」
<金沢駅>
 魯山人が金沢駅に降り立ったのは大正4年8月30日です。大正4年7月に鯖江の料亭「東屋」で窪田卜了軒から細野燕台氏を紹介されての訪問でした。訪問先の細野燕台氏が日記を付けていたため、詳細の日時が分かっています。

<北陸本線>
・明治29年(1896)北陸線 敦賀駅 - 福井駅間が開業
・明治30年(1897)福井駅 - 小松駅間が延伸開業
・明治31年(1898)小松駅 - 金沢駅間が延伸開業
・明治32年(1899)高岡駅 - 富山駅間が延伸開業
(ウイキペディア参照)
 金沢駅開業は明治31年4月1日ですから、かなり早くから鉄道が引かれていたことになります。

 吉田耕三氏の「北大路魯山人伝」からです。
「… 暇さえあれば竹内栖鳳の印を刻つていた房次郎は、細野氏に会つてから金沢行きの決心をし、鯖江に見きりをつけて一先ず京都に戻ることにした。
 房次郎の鯖江滞在は、わずか一ヶ月足らずの期間であつだが、この間に金沢の細野燕台氏を知つたと云うことが、彼のこれからの人生行路を彼自身全く予期しえない方向に展開させて行くことになつたのだ。
 燕台氏四十四才、房次郎三十三才の時のことである。
 現在、鯖江には房次郎の足跡を探ぐるべき何ものもない。東屋もなし、女将のつるも既にこの世になく、窪田ト了が昭和二十年死歿後は、何でも息子さんが沼津の駅前で写真屋を営んでいると云う話を聞いているにすぎない。
 扨で京都に戻つた房次郎は、刻りためた印を竹内栖鳳の許に届け、又内貴清兵衛にも会つて金沢行の当座の旅費を工面すると細野燕台氏を頼つて金沢に出発した。
 現在、細野燕台老(九十才 神奈川県鎌倉市山内明月谷在住)の日記によると、大正四年八月三十日福田大観が金沢にはじめて現われたことが明確に記されている。…」

 鯖江から一度京都に戻って金沢に向ったと書かれています。。

 <大正4年3月の時刻表>
京都発(528):5時→米原発:7時30分→金沢着15時13分
京都発(530):8時15分→米原着:10時44分→米原発(530):11時6分→金沢着:19時
 京都発528列車は直江津行、京都発530列車は沼津/富山行です。魯山人の行動から考えると、京都発(530):8時15分に乗ったのではないかとおもわれます。金沢着は夜の7時ですが、平然と細野燕台宅を訪ねたのではないでしょうか!

写真は現在の金沢駅です。新幹線が開業してから立派な駅になりました。ウイキペディアに戦前の駅舎の写真が掲載されていました。明治時代の駅舎昭和3年の駅舎

「金沢市殿町十番地」
<金沢市殿町十番地>
 魯山人は大正4年8月30日、金沢の殿町にあった細野燕台宅を訪ねます。細野燕台氏については伝記本も出版されており、詳細が分かりました。

 吉田耕三氏の「北大路魯山人伝」からです。
「… 大正に人つてからは、横浜の高島嘉右衛門、熱田の服部小十郎が材木業から愛知セメント会社を創立したのに目をつけ、セメントの将来性を見込んで早速七噸貨車一車分を取り寄せた。当時汽車はまだ敦賀までしか通じていなかつたので、敦賀からは陸路を運んだそうである。そこで新たにセメント屋兼シナ骨董の店を現在の金沢市殿町十番地の場所に出し(写真(一)参照今は北陸栄養食品株式会社で石川県学校給食会斡旋物資取扱店カレー・ホワイト・ハヤシロークス石川県代理店を兼ね、右三分の一は金沢和裁学園になつている。)かたわら加賀に美術家を招聘してはその作品を斡旋していた。…

 金沢に戻った房次郎は、山代で聊が纒った金を手に入れたことから、そういつまでも燕台氏の厄介にもなっていてはと思ったらしく、細野屋のすぐ近くで、同じ殿町にあった石黒と云う下宿屋に移った。…」

 吉田耕三氏の「北大路魯山人伝」が書かれたのが昭和35年からですから、一番近い昭和34年の住宅地図を参照しました。当時は南西の角から、赤座産業、宇野印刷所(殿町9番地)、同じ建物に金沢栄養食品、金沢和裁学院、東亜興信所となっています。現在はNTT西日本、空き地、宇野家、大手町ハイムとなっています。ということは、大手町ハイムのところが旧金沢市殿町十番地となります。又、”同じ殿町にあった石黒と云う下宿屋”については、昭和32年の住宅地図で探したところ、一筋南西の博労町に石黒という家を見つけました。他に見つけることはできませんでした。正解かどうかは分かりません。

 白崎秀雄氏の「北大路魯山人」からです。
「… 明治の末近くなって細野屋は殿町へ移り、セメントの代理店になって倉庫は駅前にあったが、時として店にもセメントの樽を山のように積むことがあった。セメント、支那舶載の植木鉢などもわきに並べてあるような店になった。。…」
 吉田耕三氏の「北大路魯山人伝」と同じです。

 山田和氏の「知られざる魯山人」からです。
「… 房次郎が訪れたとき、愛知セメント金沢支社兼清国磁器雑貨「細野屋」は殿町に店を構えていた。間口五、六間(約十メートル)の豪壮な店内にはそのころまだ珍しかった自転車が置かれ、店頭にはひときわ目立つ大甕が二つ置かれていた。甕は清国雑貨の運搬用の荷箱代わりで、中に商品を詰めて甕を剥き出しのまま送ると運送人たちが割れるのを惧れて丁寧に扱う、その結果、中に詰めた商品が損傷なく運送できるというのであったが、こういう発想をするところに燕臺の性格、巧知と才覚とが窺える。セメントは当時珍しく、燕臺が商売をはじめたときは知らぬ者ばかりで、虫下しの薬「セメン円」(横浜で幕末に病院を開いた宣教師シモンズが作った薬)と名が似ていたためにまちがえられ、最初の年はほとんど売れなかったという。やむなく多角経営ではじめたのが支那雑貨の販売業であった。…」
 吉田耕三氏の「北大路魯山人伝」と同じです。

 もう一冊、北室南苑さんが書かれた「雅遊人 細野燕台」を参照します。
「…   2 支援者燕台の奮闘

 大正四年八月三十日、福田大観は約束通り金沢の「細野屋」に姿を現わした。店の前の愛知セメントの暖簾と清国磁器及雑貨の暖簾が風でピラピラ揺れてはいるものの、残暑の厳しい日であった。店先につり下げてある鳥籠の九官鳥だけが元気そうに遊んでいた。
 この日から当分の間、福田大観は細野家の居候としての生活が始まった。
 当時細野家には、燕台のほかにぼんさんおばば(その頃、未亡人になると坊主のように頭髪をそるのでそのような呼び方をした)の母のすえ(六十二歳)、妻の曽登(三十八歳)、長男の兼(十三歳)、長女の真子(四歳)、次女の玉映(八ヵ月)、それに下男一人下女一人がいて、大観を加えると総勢九人の大家族であった。…」

 吉田耕三氏の「北大路魯山人伝」と同じです。

写真正面が旧金沢市殿町十番地となります。金沢は空襲にあっていませんので古い建物が残っています。

「近江町市場」
<青草辻近江町市場>
 魯山人が食材を探すのに通った市場です。有名なので皆さんご存知だとおもいます。魯山人が食客として居候していたのは金沢市殿町の細野燕台宅ですので、ここから近江町市場までは道なりで500m程です。食材は豊富だったとおもいます。

 吉田耕三氏の「北大路魯山人伝」からです。
「… それもその筈、細野家にとつて、この風来坊の福田大観は、荷厄介どころが全く重宝な男であつたのだ。細野家のあつた殿町から三丁程西北には、魚と野菜の青草辻近江町市場(今日でも武蔵が辻電停の周辺にある)があり、この男に五十銭か一円程渡しておくと早朝からこまめに市場に出掛けては新鮮な材料を見立てて買い込んで来て一家中の料理を作つてくれた。しかも内貴家で苦労し修得した京都風の料理の腕を存分に発揮してくれるので、寧ろ大歓迎であつたのだ。或る時は市場から南京を買つて来て、大声で今日は精進だぞと台所に持込み総菜料理とは違つた風味で一家中を喜ばせたりした。…」
 吉田耕三氏の「北大路魯山人伝」かオリジナルのようです。

 山田和氏の「知られざる魯山人」からです。
「… 吉田はそれに続いて、燕臺一家が抱いた彼の逗留への印象をつぎのように伝えている。
  「それもその筈、細野家にとって、この風来坊の福田大観は、荷厄介どころか全く重宝な男であったのだ。細野家のあつた殿町から三丁程西北には、魚と野菜の青草辻近江町市場(今日でも武蔵が辻電停の周辺にある)があり、この男に五十銭か一円程(今でいう五千円程度)渡しておくと早朝からこまめに市場に出掛けては新鮮な材料を見立てて買い込んで来て一家中の料理を作ってくれた。しかも内貴家で苦労し修得した京都風の料理の腕を存分に発揮してくれるので、寧ろ大歓迎であったのだ。
 或る時は市場から南京(カボチャ)を買って来て、大声で今日は精進だぞと台所に持込み総菜料理とは違った風味で一家中を喜ばせたりした」(以上二文、前掲伝記『陶説』九十九号。ルビとカッコ内は筆者)…」

 吉田耕三氏の「北大路魯山人伝」を引用しています。

写真は平成15年(2003)の武蔵が辻からみた近江町市場入口です。まだ、ダイエー口と書かれています。

「犀川大橋」
<浅野川大橋>
 吉田耕三氏は「陶説」の「北大路魯山人伝 13」に掲載した”浅野川大橋”を次号で”犀川大橋(さいがわおおはし)”に修正しています。細野燕台氏に直接聞いて確認していますので間違いないとおもいます。

 吉田耕三氏の「北大路魯山人伝」からです。
「… 金沢に来て以来、房次郎は何時も手垢でよごれたカンカン帽をかぶり通しなのがどうも気になつてならない燕台氏は、或る日、帽子を新調してやろうと云うと、殿町の店から北東四丁程のところの、浅野川大橋の袂にある雑貨屋で売つている三円三十銭のソフト帽が気に人つたと云うことで、ではそれを買つて来いよと五円を渡した。
 房次郎は五円を持つて雑貨屋に入りかけたが、丁度その時、多勢の人々が大橋の方に駈けて行く。何事かと一緒に駈けて行つて見ると、河原の浅瀬では、漁夫の網に河をのぼつて来た鮭ががかつて、真昼の陽光に銀鱗を輝かせてばたばたと飛沫をあげている。生きている鮭を見るのは生れてはじめての房次郎はすつかり興奮してしまい、夢中になつて石垣を這いずり降りて水際まで駈けて行くと、正に見事な鮭が河原に投げ上げられたところだつた。鮮度こそ美食の真髄である。これをサシミで食べたらと思いはしめた途端、もうブレーキが利かなくなつた。
値段なぞ聞かばこそ、手に握つていた五円札を漁夫に渡すと、はむくり返える鮭の胴体を手拭でおさえながら、通り合せた人力車を呼びとめて細野家まで乗りつけ、「燕台さん、鮭を買つて来たぞ、まだ生きているんだ。今日はこれで御馳走だぞ。」と家に駈け込みざま、「人力車の代を済まんが払つてくれ」と何事が起きたのかと飛び出して来た燕台氏を唖然とさせた。
(当時、東京〜金沢間の往復汽車賃は七円であつたとか)そして燕台氏は、房次郎からソフト帽の代を改めて払わされたと云う話である。
 この春、金沢をたづね、往時とは似てもつかぬコンクリートの浅野川大橋の快で、当時のエピソードを思い出しながらシャッターをきつたのが写真(二)である。帽子を売つていた雑貨屋は、もうとうに無く、その場所には(現在、橋場町電停ぎわ)三和マーケットが建つていた。写真の中央正面にある建物の後方約二十米の位置にあたり、橋から真直な電車通りの左側にある。
 この鮭の話は、燕台老から既に耳だこが出来る程聞かされた方々も多いことと思う。ところが、同じ燕台氏から二十年程前この話を聞いた地元の金沢の人達の語るところによれば、はじめは何でも鰻だつたのが、何時の間にか鮭になつたとのことである。そうすると、或は鰻が本当なのかなとも思われるが、何ぼ何でも鰻に五円を払うわけがないと理屈をこねたら、それだからこそ魯山人らしいと云う意見も出て人笑いになつた。        (つづく)…」

 上記は「北大路魯山人伝 13」です。どうも勘違いがあり、次号で修正しています。

 「北大路魯山人伝 14」で一部修正しています。
「…修正 次号より
 前号の「ソフト帽子と鮭の逸話」も、浅野川大橋がその舞台とばかり信じていたので写真まで撮つて御紹介したが、其の後、燕台氏にお会いして聞いたところでは実は犀川大橋が本当の場所であるとのことである。真説によると、現在の片町にある大和デパートの処に宮市と云う雑貨屋があつて其処でソフト帽を買つたのだそうだ。浅野川大橋の手前右側に三和デパートがあり、あまりにも似かよつた地理的一致で間違つてしまつたことをお詑びしなければならない。…」

 修正していますので凄いです!!

写真は現在の犀川大橋です。魯山人が滞在していた大正4年頃は下記により木造の橋だったようです。金沢河川国道事務所のホームページに木造時代の犀川大橋の絵が掲載されています。大正7年まで木造だったようです。”片町にある大和デパート”は現在は「片町きらら」になっていました。上記に書かれている”宮市と云う雑貨屋”は明治36年に創設された「宮市洋品店」の事で、現在の香林坊にある「大和百貨店」の前身です。

<犀川大橋>
文禄3年(1594)加賀藩主前田利家のころに木造の大橋が架かる
明治31年(1898)最後の木造橋に架け替え
大正8年(1919)北陸鉄道金沢市内線敷設のため、鉄筋コンクリート橋に架け替え
大正11年(1922)豪雨により犀川が増水、橋が流失
大正13年(1924)日本橋梁技術の先駆者である関場茂樹が設計を手掛けた現在のワーレントラス形式の鉄骨トラス橋

「斎藤旅館跡」
<旅館斎藤>
 魯山人の金沢での宿泊先であった細野燕台氏は、大正13年には隠居しています。その後の昭和に入って魯山人の勧めにより鎌倉の明月院前に転居しています 。

 吉田耕三氏の「北大路魯山人伝」からです。
「… 前号(六月号)六六頁 写真‐で紹介した北陸栄養食品株式会社の看板のががつた家の場所は、かつて大正四年八月三十日、房次郎が細野燕台氏を頼つて、はじめて金沢に来て身を寄せた殿町の細野屋の在つた処であるが、細野屋の建物は、大正十三年二月一日に裁判所前の九人橋の隠居所(現在は旅館斎藤となつている)に燕台氏が移り住んだあとは一時桜井表具店となつた。…」
 実際に見てみないと良さは分かりませんね、相当迫力があったものとおもいます。

 北室南苑さんが書かれた「雅遊人 細野燕台」からです。
「… 昭和二年四月三日、燕台は出来上がったという星岡窯を見に鎌倉へ出掛けて行った。その時、魯山人はしきりに勧めた。
 「鎌倉は本当に良い所でしょう。燕台さんも鎌倉に来たらどうですか」
 一方、燕台自身はこれまでの殿町の家を引き払い、大正十三年二月一日、九人橋通りに移り住んだ。現在裁判所前の第一ホテルになっている場所である。いろいろ斬新な商売に手を染めて行った燕台であったが、人の世話は実に巧みにこなすにもかかわらず、ここへ来て自らの商売の方ははかばかしくなくなって来ていた。事実、外見からしてもセメントの方も骨董の方もそれほど繁昌しているようには見えなかった。九人橋通りに移ったきっかけは、商売を止めたところにあった。しかし、燕台の様子からすれば、実に悠々と優雅な素振りで暮らしているように世間には映っていた。町の人々は異口同音にこう言っていた。
 「燕台さんか。ありあ、何ちゅうか正体不明の怪物みたいな人や」…」

 当時は魯山と細野燕台氏は仲が良かったようです。鎌倉に移ってからしばらくして険悪な仲になります。

写真の左端、金沢市中央消防所味噌蔵出張所のところが”裁判所前の九人橋の隠居所(現在は旅館斎藤となつている)”のところです。”裁判所前の第一ホテルになっている場所”も同じところを示しています。



魯山人の金沢市地図



北大路魯山人年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 北大路魯山人の足跡
明治16年
1883 日本銀行開業
鹿鳴館落成
岩倉具視死去
0  3月23日 北大路魯山人は上賀茂神社の社家 北大路清操の次男として京都府愛宕郡上賀茂村第百六十六番戸で生まれます。 (本名:房次郎)
 9月 服部良知方に養子として入籍
明治20年 1887 長崎造船所が三菱に払い下げられる 4   やすは、房次郎伴い実家一瀬時敏方に戻る
明治22年 1889 大日本帝国憲法発布
衆議院議員選挙法公布
東海道線が全線開通
6  4月4日 服部家を離縁される
6月23日 福田武造の養子として入籍
9月 梅屋尋常小学校に入学
明治26年 1893 大本営条例公布
10 7月 梅屋尋常小学校を卒業
 烏丸二条、千坂わやくやへ丁稚奉公に入る
明治29年 1896 明治三陸地震津波
樋口一葉死去
13 1月 千坂わやくやをやめ、養家へ戻る
明治31年 1898 九竜租借条約
西太后が光緒帝を幽閉
15 習字の懸賞一字書きに応募、天位地位等の賞を受ける
         
         
明治36年 1903 小等学校の教科書国定化 20 秋 上京 京橋高代町3番地 丹羽茂正宅に間借
  実母の登女が住み込んでいる四条男爵邸を訪ねる
  日下部鳴鶴と巌谷一六を訪問
  菓子屋の二階に転居
年末 近くの福田印刷屋の二階に転居
明治37年 1904 日露戦争 21 11月 日本美術展覧会で一等賞を受賞
年末 京橋元嶋町の佐野印刷店方に転居
明治38年 1905 ポーツマス条約 22   岡本可亭に師事、転居(京橋区南伝馬町二丁目一番地)
 後に京橋区南鞘町
明治40年 1907 義務教育6年制 24   書道教授として独立(京橋区中橋泉町1〜2附近
明治41年 1908 中国革命同盟会蜂起
西太后没
25 2月 安見タミを入籍
         
大正元年 1912 中華民国成立
タイタニック号沈没
29 初夏 日本に戻る
大正2年 1913 島崎藤村フランスへ 30 夏 鯖江の窪田朴了軒宅に滞在
冬 長浜に滞在
大正3年 1914 第一次世界大戦始まる 31 6月前後 藤井せきと正式に見合いし婚約
11月 タミと離婚
大正4年 1915 対華21ヶ条、排日運動 32 8月 金沢の細野燕台宅に滞在
大正5年 1916 世界恐慌始まる 33 1月 藤井せきと結婚、神田區駿河台紅梅町に転居
大正6年 1917 ロシア革命 34  
大正8年 1919 松井須磨子自殺 36 5月 京橋南鞘町に大雅堂芸術店を開業
大正10年 1921 日英米仏4国条約調印 38 2月 美食倶楽部を開業
大正11年 1922 ワシントン条約調印 39 7月 北大路家を相続して北大路魯山人を名のる
大正12年 1923 関東大震災 40 関東大震災後、芝公園内で美食倶楽部(花の茶屋)を再開
大正14年 1925 治安維持法
日ソ国交回復
42 3月 山王に会員制料亭 星岡茶寮を開始
         
昭和10年 1935 第1回芥川賞、直木賞 52 11月 大阪曽根に星岡茶寮を開業