●六阿弥陀を歩く -6-
    初版2017年1月7日  <V01L01> 暫定版

 遅くなりましたが、今年もよろしくお願いいたします。「六阿弥陀を歩く -6-」は六番 亀戸 常光寺のみなのですが、歩く距離が長く、撮影が大変でした。特に地図は荒川放水路や千住の操車場のおかげで大きく道が変っていました。一応、今回で「六阿弥陀を歩く」は終了しますが、逆回りも掲載する予定です。 


「荷風随筆集」
<「荷風随筆集(上)」 岩波文庫(前回と同じ)>
 永井荷風を続けて掲載しようとおもい、「放水路」を読み始めたところ、書き出しに”大正三年秋の彼岸に、わたくしは久しく廃していた六阿弥陀詣を試みたことがあった。”とあり、六阿弥陀詣という単語を初めて知ったので、興味を引かれ、少し調べて見ました。

 永井荷風の「放水路」から、書き出しです。
「 隅田川の両岸は、千住から永代の橋畔に至るまで、今はいずこも散策の興を催すには適しなくなった。やむことをえず、わたくしはこれに代るところを荒川放水路の堤に求めて、折々杖を曳くのである。
 荒川放水路は明治四十三年の八月、都下に未曾有の水害があったため、初めて計画せられたものであろう。しかしその工事がいつ頃起され、またいつ頃終ったか、わたくしはこれを詳にしない。
 大正三年秋の彼岸に、わたくしは久しく廃していた六阿弥陀詣を試みたことがあった。わたくしは千住の大橋をわたり、西北に連る長堤を行くこと二里あまり、南足立郡沼田村にある六阿弥陀第二番の恵明寺に至ろうとする途中、休茶屋の老婆が来年は春になっても荒川の桜はもう見られませんよと言って、悵然として人に語っているのを聞いた。…」

 ”六阿弥陀詣”については全く知識が無かったので、”南足立郡沼田村にある六阿弥陀第二番の恵明寺”とあるのですが、何の二番なのか、何の順番なのか、またきっと前後の番号のお寺があるのではないかとおもいました。

写真は岩波文庫の「荷風随筆集(上)」です。荷風全集を読むのは大変なので、一寸読むには丁度良い大きさで、読みやすいです。

「文がたみ」
<「永井荷風文がたみ」 近藤冨枝 宝文館(前回と同じ)>
 もう少し調べて見ようと思い、探したところ、荷風研究で有名な近藤富枝さんが「永井荷風 文がたみ」の中で、”六阿弥陀詣”について書かれていました。永井荷風と六阿弥陀詣の関係が分かるかとおもい読んでみました。

  近藤富枝さんの「永井荷風文がたみ」からです。
「     3 六阿彌陀詣
  (大正十三年九月廿二日 断腸亭日乗)
 微雨午に近く霽る。今年は是非にも六阿弥陀詣をなさむと思ひ居たりしが、雨後の泥濘をおそれて空しく家にとゞまりぬ。亡友唖々子と朝まだき家を出で、まづ亀戸村の常光寺に赴き、それより千住に出で、荒川堤を歩み、順次に六阿弥陀を巡拝せしは大正三年甲寅の秋なりき。荒川堤に狐の腰掛と俗にいふ赤き雑草の花おびたゞしく咲きたるさま今も猶目に残りたり。滝野川のとある人家に梯の老樹の枝も折れむばかり実を結びたる、又西ケ原無量寺の庭に雁来紅の燃るが如く生茂りたるさま、倶に記憶を去らず。次の年大正四年春の彼岸には病みて独り大久保の家に在り。其年の秋分には吾健かなりしが、唖々子病みて歩みがたしとの事に、独り築地一丁目の僑居を出で田端より西ヶ原まで歩みしが、唯一人にては興なくて王子より汽車に乗りて空しく帰り来りぬ。その後は数年にわたりて腹痛治せざりしため、遠く歩むこと能はず、病やゝ快くなりて後も年々何事にか妨げられて再遊の願は遂に果すの期なく今日に至れり。唖り子は既に世を去り、西ヶ原田端あたり近郊一帯の風景も塵土にまみれて、十年前の趣は再び尋るによしなし。曾て撮影せし写真去年の大火以後一層珍らしきものになりぬ。

 六阿弥陀めぐりは、春秋の彼岸に
      一番 豊島村 (北区)   西福寺
      二番 下沼田村(足立区) 延命院
      三番 西ケ原 (北区)   無量寺
      四番 田端村 (北区)   與楽寺
      五番 下谷広小路(台東区)常楽院
      六番 亀 戸 (江東区)  常光寺
 の六寺を徒歩で参詣して廻ることをいう。五番の広小路常楽院だけが市内で、あとは郡部に属している。常楽院は今の広小路赤札堂がその跡だそうだ。…」

 上記の断腸亭日乗の部分に関しては、近藤富枝さんの原文そのままでは無く、岩波書店の新版 断腸亭日乗 第一巻から少し長く引用しています。ここで、六阿弥陀とは六つの寺からなっていて、春秋の彼岸に順に参拝することが分かります。”二番 下沼田村(足立区) 延命院”と書いていますが、このお寺は明治初期に無くなって、直ぐ近くの恵明寺に移っています。荷風は大正3年秋に唖々子と亀戸の常光寺から順に回ったようです。

写真は近藤富枝さんの「永井荷風文がたみ」 です。宝文館の発行です。荷風研究には、必須です。 残念ながら近藤富枝さんは今年の7月に亡くなられました。ご冥福をお祈りします。

「東京人」
<「東京人 花と水に遊ぶ 江戸の六阿弥陀詣で」 山本容朗 宝文館(前回と同じ)>
 実際に”六阿弥陀詣”に行かれた方の書いた本がないか探したのですが、平成3年(1991)6月発行の「東京人」に記載があるのを見つけました。表紙には記載が無く、探すのに苦労しました。

  山本容朗さんの「花と水に遊ぶ 江戸の六阿弥陀詣で」からです。
「東京人 平成3年6月 

花と水に遊ぶ江戸の六阿彌陀′wで
●荒川堤の桜と音無川の紅葉
 「江戸六阿彌陀」詣でに興味を持ったのは、永井荷風の「放水路」という一文を読んで以来だから、かなりの昔である。
 この荷風の随筆は、「鐘の聲」、「寺じまの記」とあわせて三篇、「残春雑記」というタイトルで昭和十一年(一九三六)六月、『中央公論』に発表となった。…」

 内容を読むと、動機は私と全く同じで、ビックリしました。永井荷風の「放水路」からです、他の本で”六阿弥陀詣”について書いた本が無いので、なかなか”六阿弥陀詣”にたどり着かないのです。有名な文壇の方が書かれれば少しは表にでるとおもいます。

写真は平成3年(1991)6月発行の「東京人」です。P105から7ページほど書かれています。山本容朗さんは残念ながら平成25年に亡くなられています。

「調査報告 第5号」
<「北区立郷土資料館 調査報告 第5号」 塚田芳雄 北区教育委員会(前回と同じ)>
 六阿弥陀とは六つの寺からなっていて、春秋の彼岸に順に参拝することは分かったのですが、六阿弥陀が出来た縁起や、時期等がまだよく分かっていないので、もう少し調べてみました。東京都立図書館で調べたところ、数冊の本が検索できました。その中で、一番詳しそうだったのが「六阿弥陀の研究 上 下(昭和54年発行)」でした。この本は手書きのコピーに表紙を付けて綴じてあるだけの本で、見にくいところもあり、困っていたところ、「六阿弥陀の研究 上 下(昭和54年発行)」を纏めて、「北区立郷土資料館 調査報告 第5号」として発行しているのをみつけました。この本の発行日は平成3年(1991)年で、執筆者は塚田芳雄とあり、「六阿弥陀の研究 上 下(昭和54年発行)」と同じ方でした。

  塚田芳雄さんの「北区立郷土資料館 調査報告 第5号」から、”目次”です。
「北区立郷土資料館 調査報告書 第5号 六阿弥陀

          目   次

      無量寺縁起 ………… 1
       付、六阿弥陀伝記 … 2
      与楽寺縁起 ………… 3
      常光寺縁起 ………… 4
      常楽院縁起 ………… 5
       付、西福寺のこと … 6
      六阿弥陀の案内 …… 7
      末木の観音 ………… 13
      六阿弥陀詣 ………… 14
       付、ひいもと草 …… 15
      六あみだの標石 …… 16
       付、阿弥陀伝記 …… 19
      六あみだと川柳 ……… 20
      六阿弥陀御詠歌と和讃 … 23
      六阿弥陀の縁組 ……… 24
      六阿弥陀と六地蔵 …… 26
      木余り如来 …………… 28
      終わりに ……………… 30    …」

 この本は六阿弥陀について現在分かる内容が全て網羅されているとおもいます。非常に参考になる本です。

写真は北区教育委員会発行の「北区立郷土資料館 調査報告 第5号」です。この一冊全てが六阿弥陀について書かれています。執筆者は塚田芳雄さんです。残念ながらこの本は在庫がなく新たに入手することはできません。図書館等で見るか、一部分をコピー出来るだけです。

「谷中根津千駄木」
<「谷中・根津・千駄木 其の六十五」 谷根千工房(前回と同じ)>
 現在の六阿弥陀を実際に歩いて回って書いている本がありました。地域雑誌としてはとても有名な谷根千工房発行の「谷中・根津・千駄木」です。掲載されたのは六十五(平成13年(2001))で少し古いですが、谷中、千駄木界隈は変っていませんので十分に楽しめます。又、六阿弥陀から六地蔵まで書かれていますので、次は六地蔵回りでもしようかなとおもっています。

  「谷中・根津・千駄木 其の六十五」からです。
「  六阿弥陀詣

 土地の古老から六阿弥陀詣の話をよく聞かされた。春秋の彼岸に、たんぽの真ん中の道を、お遍路さんの白装束、鈴を鳴らして通る。巡礼者の巡る道を六阿弥陀道という。谷中コミュニティセンターの前の道がそれである。
 調べてみると六阿弥陀の由来は古く、第四十五代聖武天皇のころ、つまり奈良時代にあってもっとも仏教が尊ばれ、広まっていたころにさかのぼる。
 では正岡子規  野の道や梅から梅へ六阿弥陀の句に誘われ、私たちも歩いてみよう。…」

 六阿弥陀を回るときは”お遍路さんの白装束、鈴を鳴らして通る”だったのですね、四国のお遍路さんと同じです。もっと気楽に、行楽に行くときのカッコかなとおもっていたのですが、信心深いです。

写真は谷根千工房発行の「谷中・根津・千駄木 其の六十五」です。平成13年(2001)発行で、古いのですが在庫があり、通販で購入できます。

「道しるべ」
<「道しるべ」 足立区教育委員会(前回と同じ)>
 北区の資料として「北区の古い道と道しるべ」があったので、足立区も同じ出版物がないかと探したらありました。足立区教育委員会発行の「道しるべ」です。一つずつ写真入で紹介していますので非常に参考になります。ただ発行日が12年前の平成6年と古くて、現在もそのままかどうかは現地を訪ねて確認するしかありません。こういう本は印刷すると時間と費用がかかりますので、Web掲載にして常に最新データに更新していただくと有難いのですが、どうでしょうか?

  「北区の古い道と道しるべ」からです。
「 道しるべについて
    一、はじめに
 道標(道しるべ)は、その昔、旅行者、社寺詣で、時には物見遊山などの道案内として、主として道の岐かれ目などに建てられた石標である。また巡拝標は寺院札所の名称や、次の札所を案内した石標で、寺院の門前などに建てられていた。
 このたび、区内の道標四十三基、道標を兼ねた庚申塔、馬頭尊、拱養塔、記念碑など十二基、巡拝標四十六基を調査した。しかし本区には、大師道、成田道、王子道など主要街道から岐れての古道が数多くあったので、道標もかなりあったのではないかと考えられる。けれども本区の道路は、戦後水路の暗渠化による新設、舗装拡張等の改良、耕地整理による旧道路から新設道路への統合など、さまざまな工事によって大きく変えられ、古道ぎわ、水路わきなどに建てられていた道標は、かなりその姿を消したのではないかと思われる。…」

 この本は足立区の現存する道標について現在分かる内容が全て網羅されているとおもいます。非常に参考になる本です。

写真は足立区教育委員会発行の「道しるべ」です。足立区にに現存する道標、巡拝標、道しるべについて解説しています。この道標を参考にすると、当時の道が蘇ってきます。

「足立風土記」
<「足立風土記」 足立区教育委員会(前回と同じ)>
 足立区では一般向けに「足立風土記」が作られています。上記の「道しるべ」の一部も書かれて居ます。私としては少し物足りない資料なのですが、一般の方には丁度良いのかもしれません。改版されており、最後が三版で平成20年発行となっています。

  「足立風土記 3 江北地区」からです。
「六阿弥陀伝説 -川底が秘めた伝説-
 六阿弥陀伝説
昔、足立庄司宮城宰相という名家の娘・足立姫が、豊島左衛門尉清光という豪家に嫁ぎました。しかし、姫は引出物が粗末とそしりを受け、里帰りの際に、12人の侍女だちとともに、荒川(現在の隅田川)に身を投げて命を絶ってしまいました。父・宮城宰相は、悲しみの余り、諸国の霊場巡りに出発しました。紀伊国熊野権現で1本の霊木を得て、それを熊野灘へ流すと、やがて国元の熊野木という所に流れ着きました。折しも諸国行脚中の行基が通りかかり、宮城宰相が霊木のことを話すと、行基は六体の阿弥陀仏を彫刻し、余り木からもう一体造りました。これらの阿弥陀仏は後に、六阿弥陀として近隣の寺院にまつられ、女人成仏の阿弥陀として崇められたといいます。
 これは「六阿弥陀伝説」として、足立区(足立郡)・北区(豊島郡)に伝わっている話です。ここに紹介したのは、木余如来性翁寺に伝わる話を基にしたものですが、六阿弥陀をまつった各寺院によって、話の内容や登場人物名が異ったり、豊島左衛門尉の娘が、足立の方に嫁ぎ、そこでそしりを受けたという、婚姻関係が逆になっている話もあります。六阿弥陀とは下表に記した寺院で、その余り木から造ったというのが、性翁寺に伝わる木余如来こと、木造阿弥陀如来坐像です。
 足立区には、六阿弥陀第二番恵明寺と木余如来性翁寺があります。本来の第二番は、小台村の阿弥陀堂(江北2-46、清水酒店西側荒川土手付近)でしたが、そこを管理していた近くの延命寺という寺が明治初期に廃寺となり、管理は沼田村の恵明寺(江北2丁目)に引き継がれました。さらに、大正期の荒川放水路開削工事で、河川敷地内に入ったため堂は廃止、阿弥陀仏は恵明寺に移され現在に至っています…」

 昔の二番 延命寺についてかかれた本はこの本しか無く非常に参考になりました。

写真は足立区教育委員会発行の「足立風土記 3 江北地区です。最後の改版が8年前なので、在庫があるかもしれませんがそろそろ改版をお願いしたいです。

「足立史談」
<「足立史談」 足立区教育委員会(前回と同じ)>
 もう一つ、足立区教育委員会発行の「足立史談」という資料を見つけました。正式には足立区教育委員会足立史談編集局足立区立郷土博物館内といわれるところが発行元です。六阿弥陀詣でについて書かれているのは、昭和24年5月15日発行の555号から558号までに”六阿弥陀巡拝路”というタイトルで地図付で書かれています。

  「足立史談 昭和24年5月15日発行 555号 六阿弥陀巡拝路」からです。
「江戸六阿弥陀巡拝路 一
          本間 孝夫
■六阿弥陀の由来 六阿弥陀については、江戸北郊の荒川沿岸地域に次のような伝承があった。『ある豪族が、川の対岸の豪族に娘を嫁にやった。娘は舅姑から引出物が粗末であるとなじられたので川に身を投げ、娘に従う侍女も続いて身を投げた。娘の父親は非常に悲しんで、紀州高野山に登り、那智権現に詣でて娘の菩提を弔ったところ、光明木という一本の霊木を得た。行基に頼んで、この木で六体の阿弥陀仏を造ってもらい、娘の菩提寺と侍女の出生地の寺院に安置し、彼女らの追善をした。』
 六阿弥陀に関する寺院の縁起や新編武蔵風土記では、一入娘の父方の出身地と嫁ぎ先が豊島郡と足立郡で入れ替っていたり、入水した侍女の数々入水の動機にも違いがみられるが、骨格は共通している。…」

 掲載の地図は明治初期のもので、私が掲載しているものと同じとおもわれます。当時の道が現在のどの道に当たるのか書かれているので分かりやすいです。

写真は足立区教育委員会足立史談編集局発行の「足立史談」です。昭和24年8月15日発行の558号です。



六阿弥陀詣全体地図



「木余性翁寺」
<木余性翁寺>
 六阿弥陀の六つのお寺からは外れていますが、六体の阿弥陀様を彫った残りの神木でもう一つ阿弥陀様が彫られていました。木余りの阿弥陀様と言うそうですが、本当に神話か伝説のお話しですね。その上、この木余りの阿弥陀様があるお寺には、隅田川に身を投げたという伝説の”足立姫一の墓所”もありました。

 「谷中・根津・千駄木 其の六十五」からです。
「… 六阿弥陀は名の通り六体の阿弥陀様なのだが、実はそのほかに神木の余りで彫られた阿弥陀如来像が「木余り」として近くの性翁寺に安置されている。そこは六阿弥陀の由来となった足立姫一の墓所でもある。恵明寺から五分ほどのところに性翁寺を見つけたが警備がすぎて中に入れない。ともかく手を合わせお参りをした。…」
 ”警備がすぎて中に入れない”と書いてありますが、入口が自動ドアで入りにくく、”警備中”という看板もあるためとおもいます。私は自動ドアを入り、お寺の庫裏のインターホーンで見学のお願いをしました。快く承諾して頂きました。足立姫一の墓所は綺麗になっていました。

 「新編武蔵風土記稿」の”宮城村”の項からです。
「…性翁寺
浄土宗埼玉郡岩槻浄國寺ノ末龍燈山貞香院本尊阿彌陀行基ノ作ナリ昔此邊六阿彌陀の像彫刻ノ時根元ノ餘木ヲ以テ彫刻セシ像ナレハ根元阿彌陀ト稱スト云六阿彌陀ノ由来ハ小台村ノ條ニ出シタレハ合セ見ルヘシ寺領十石慶安元年御朱印ヲ賜フ開山行蓮社正誉龍香明慶七年二月十五日寂ス開基ハ足立庄司宮城宰相ト云傳フ此人宮城家譜及ヒ他ノ書ニモ所見ナシカノ家譜ヲ見ルニ豊島二郎吉國カ子六郎政業{又ノ譜ニハ宮城中務ト載セタリ}當所ヲ領シテヨリ宮城ヲ氏トセリト云トキハ此人の開基ナルニヤサレト天正十七年卒セシ人ナレハ開山ヨリ少シ時代オクレシ人ナリヨリテ思フニ中興ノ檀越ヲタゝチニ開基ト稱スルコト他ニモ基例アレハ是モ實ハ中興ノ開基ナルモ知ルヘカラス其後又阿出川封馬守藤原貞次ト云者中興開基セリ此人ハ北條氏ノ家人ナリシカ彼家没落ノ後當村ニ土着シ元和二年三月廿三日死ス法謚ヲ性翁院覺譽相圓ト云子孫今村内ニ住スレト家系及ヒ記録ナケレハ詳ナオス又云開闘ノ頃ハ荒川ノ水除堤ノ外ニアリシカ何ノ頃カ今ノ地ヘ移レリト云
古墳
境内ニアリ菩提樹ヲ植テシルシトセリ是ハ足立庄司ノ女足立姫ノ墓ナリトテ恵曜禅定門永禄十三年八月十五日ト彫ラル古碑ヲタツカノ女ノ碑ナオサルコトハ彫リシ法謚ニテモ知ルヘシ寺傳ニヨルコ足立姫ノ法謚ヲ蓮相浄地ト號シ卒年ハ詳ナヲス父庄司カ此女ノ為ニ六阿彌陀ヲ彫刻セシコトハ小臺村の條二出シタレハココニは客ス…」

 木余りは根元の餘木と書いてあります。又、”足立姫ノ墓”は”永禄十三年八月十五日ト彫ラル”は永禄13年/元亀元年、西暦で1570年となり、戦国時代、織田信長の時代となります。ここに書かれている石碑は見ることが出来ませんでした。現在の石碑は大正十年と書いてあるので比較的新しいとおもいます。性翁寺のホームページに明治時代の墓所の写真が小さく掲載されていて、石碑が見えます。この石碑はどこにあるのかなとおもいました。

写真は大正時代の木余性翁寺の絵葉書です。この絵葉書は私が所持しているのですが、全く同じ物が性翁寺のホームページに掲載されており、大正時代と書かれていました。空襲では焼けていないとおもうのですが本堂は新しくなっているようです。三門からの写真も掲載しておきます。



「北野神社」
<本木の善覚寺(廃寺)>
 木余性翁寺の近く(近くと言っても1.7Km程ある)にあるもう一つのお寺が六阿弥陀に関係してきます。当初、私はこのお寺を全く知らなかったのですが、足立区の関連資料の中に度々登場するので、興味を持ち少し調べてみました。

 「足立区における神社・寺院」からです。
「○ 善覚寺跡
 本木町三丁目二七〇八にあったという。もと西新井総持寺の末で、北野神社の別当であつたという。
 菅原山善覚寺(又は善学寺)と号す・真言宗で、江戸六阿弥陀一番、いわゆる元木の阿弥陀仏を安置していたので、本木の名はこれより起ったという。当寺は後、豊島郡の西福寺に移転し、今は廃寺となっている。…」

 ”善覚寺跡”と書いてあるとおり、お寺は相当昔(江戸時代?)に廃寺になって現存しません。場所は”本木町三丁目二七〇八”と書いてあり、現在の”足立区本木南町15”附近とおもわれます。北野神社のすぐ横で、人家になっていて詳細の場所は不明です。ここでは”江戸六阿弥陀一番、いわゆる元木の阿弥陀仏を安置していたので、本木の名はこれより起ったという。当寺は後、豊島郡の西福寺に移転”と書いています。

 「足立風土記稿-地区編2_西新井」からです。
「… 六阿弥陀伝承による由来 「本木」村の名の起源にはいくつかの説が伝えられている。その一つが、足立区・北区などの隅田川沿岸に伝わる「六阿弥陀伝説」(「総説」参照)に基づくものである。『風土記』には、次の関連記述がある。
 「本木村」の項
 (前略)又村名ノ起コリハ、今宮城村性翁寺ノ本 尊本木弥陀卜云モノ、昔村内善覚寺二在テ名高カ リシユヘ、後村名ニナセシト云、本木弥陀卜称スル由来(性翁寺ノ条二記セリ。サレド永禄ノ頃ハ渕江卜唱ヘシコ下前二見エタレバ、其ノ後村名ヲ カヘシナラン。カノ一番ノ像ハ、今豊島郡豊島村 西福寺ニアリ。(後略)
「宮城村」の項
 性翁寺(中略)本尊弥陀行基ノ作ナリ。昔此辺六阿弥陀ノ像彫刻ノ時、根元ノ余木ヲ以テ彫刻セシ像ナレバ、根元阿弥陀卜称スト云。(後略)
 この記述は、『風土記』が編纂された文化文政年間(一八〇四〜三〇)ごろには、語り伝えられていたことになる。これによると、宮城村性翁寺(現扇二丁目)の本尊・本木弥陀という仏像が、昔は村内の善覚寺にあったために(現在は廃寺)、本木村と言ったという。しかし永禄年間(一五五八〜七〇)のころには、この辺りは「渕江」と呼ばれていたので、実際にはそれ以後にできた名前であろうとしている。性翁寺の本木弥陀については、宮城村の項に記され、行基(奈良時代の高僧)が、六体の阿弥陀仏を作った時に、その根元の余り木の部分で彫ったことに由来するものであるという。
 一方、『武蔵演路』 (一七八〇〈安永九〉年成立)という地誌には、
 ○元木村 千住通りより西 此処に善学寺と云真言寺院あり 本尊阿弥陀如来也 行基菩作此本尊今六あミた一番二あり 元来此所二あり故有て今の豊嶋へ移せしとぞ 故二元木の名。ここにおこれり
   (『足立風土記資料 地誌二『近世地誌資料集』)
とある。『風土記』と同じく、善学(覚)寺に阿弥陀仏があったことを元木(本木)の由来としているが、ここではその移動先は性翁寺ではなく、「六あミた一番」、つまり六阿弥陀詣の第一番目の参詣地・西福寺(北区豊島)になっている。…」

 ここでは二つの説を説明しています。
一、『風土記』:宮城村の項、性翁寺の本尊・本木弥陀という仏像が、昔は村内の善覚寺にあった
二、『武蔵演路』:善覚寺からの移動先は性翁寺ではなく、第一番目の西福寺になっている
 こうなるとよく分かりませんね!

 「新編武蔵風土記稿」の”宮城村”の項には
「…善覚寺
新義真言宗西新井總持寺門徒ナリ菅原山ト號ス本尊彌陀ヲ安ス…」

 としか書かれていませんでした。

写真は現在の北野神社です。善覚寺は”西新井総持寺の末で、北野神社の別当”ですので北野神社の傍にあったことが分かります。地番は「足立風土記稿-地区編2_西新井」によると”本木町三丁目二七〇八番地にあったという。現在の本木南町一五番地付近”とありますので、北野神社は本木南町17番地ですから、15番地は東側になります。現在は住宅街でお寺があったという面影は全くありあせん。

「熊野神社」
<本木町三丁目に熊野神社>
 もう一つ、お寺ではなくて、神社が関係してきます。行基が六阿弥陀様を彫刻したという場所が本木町三丁目に熊野神社のようです。

 「足立区における神社・寺院」からです。
「…本木町三丁目に熊野神社(俗にお・くまのさまという)がある。行基菩薩が霊木を彫刻した聖地という。…」
 ”熊野神社(俗にお・くまのさまという)”は呼び名としては普通は”お熊さま”なのですが、なんで、”お”と”く”の間に”・”が入っているのか分かりません。

 「新編武蔵風土記稿」の”元木村”の項には
「…熊野社 實壽院持ナリ…」
 これしか書かれていません。伝承のお話しですから何処まで真実かは分かりませんが、こういうお話しは夢を抱かせてくれます。

写真は現在の熊野神社です。小さなお堂のみで、回りは駐車場になっています。前は千住と西新井大師を結ぶ旧道です。



(1)現在の足立区江北、元木附近地図



「橋場の渡し(梅若の渡し)の碑」
<橋場の渡し(梅若の渡し)>
 二番 恵明寺から亀戸の六番 常光寺まで行くのが大変です。六阿弥陀詣での中で最も距離があります。道も荒川放水路が出来たり、千住には大きな貨物の操車場が出来たりして大きく道を迂回しなければなりません。この項では二番 恵明寺から亀戸の六番 常光寺までの道を辿ります。参考にするのは、江戸時代の六阿弥陀獨案内、明治初期の地図、それに現在の地図です。

<二番 恵明寺から亀戸の六番 常光寺まで>
・二番 恵明寺
・宮城村 木余性翁寺
隅田川の左岸土手(今は千住新橋経由)
千住神社(旧称西森神社および千崎稲荷神社、六阿弥陀獨歩案内にはこの二社が書かれている)
千住大橋
素盞雄神社(千住天王)
石濱神明(石濱神社、真先神明(真先稲荷神社)も含む)
・橋場の渡し(梅若の渡し)
白鬚神明(白鬚神社、・諏訪神明(諏訪神社)も含む)
・蓮花寺(太子堂)
吾妻神社
・亀戸の六番 常光寺(下記の項参照)

写真は現在の白鬚橋北西側にある「橋場の渡し(梅若の渡し)」の説明看板です。この場所に橋場の渡し(梅若の渡し)があったとおもわれます。六阿弥陀の渡し(豊島の渡し)で足立側に移り、千住大橋で都心に戻り、この橋場の渡し(梅若の渡し)で再度足立側(墨田)に渡ったことになります。又、千住大橋から橋場の渡し(梅若の渡し)の旧道は大きな貨物の操車場があり、全て無くなっています。



(2)現在の足立区千住附近地図



(3)明治初期の地図と現在の地図を重ねた地図



(4)明治初期の地図



(5)六阿弥陀獨案内一部分(江戸時代)



「正福寺」
<正福寺>
 橋場の渡し(梅若の渡し)を渡って白鬚神社までたどり着きましたが、ここで、この近くのお寺を紹介します。伝説までは行かず、噂のお寺です。

 「江戸近郊道しるべ 六阿弥陀」からです。
「○隅田村霊眼寺末同所正福寺は、元六阿弥陀の六番目なりしを、いつの比にや、今の六番目亀戸常光寺へ弥陀の像を銭壱貫八百文の質物に入、終にこれを請もどす事あたはずして止、三十年斗以前、此事公訴せし事あり、書留今猶正福寺に伝、元より由緒ある事也といへども、年来今の亀戸常光寺に仏像安置し来るうへは、今更改めて正福寺にかへすべきにもあらぬよしにて、其まゝに成被置と云、この寺に古碑あり…」
 ”隅田村霊眼寺末同所正福寺は、元六阿弥陀の六番目なり”と記載があります。今の常光寺では無いということです。借金のカタに阿弥陀仏を質入れしたと書いてあります。”この寺に古碑あり”とありますが、正福寺を訪ねて探してみましたが石碑はあるのですがどの石碑かはわかりませんでした。

 「すみだの史跡文化財めぐり(改訂版)」からです。
「4 正福寺        墨田二丁目六番二〇号
 月光山薬王院と号し、真言宗智山派に属して、東向島蓮花寺の末寺となっています。開山は慶長七年(一六○二)、宥盛法印によると伝えられ、本尊は薬師如来を祀っています。また、一〇数代後の持住伝雅和尚は大の猫ずきで、寺内に数十匹の猫を飼っていたことから、以来「ねこ寺」の通称で呼ばれたともいいます。
1 「宝治二年」銘板碑<区登録文化財>
 本堂前に起立しています。ボリューム感のある青石(緑泥片岩)の塔婆(高一一六p)です。これは近くの御前栽畑から出土したものと伝えられています。
 弥陀の種子(梵字)を大きくおどらせて上部中央にすえ、その下に銘して「宝治二年(一二四八)戊申三月三日」としています。この武蔵型板碑は原石産地が埼玉県秩父方面であるだけに、荒川流域に多く、この「宝治二年」銘板碑は都内で最古のものであることが確認されています。
 板碑は鎌倉時代を中心にして流行した塔婆で、現在多くは仏寺・墓域で見られます。そして、弥陀・釈迦(図像や種子)を信仰し、願文・回行文・題目・讃などを表現もしています。中には、逆修(預修)と言って、生前に供養するものさえあります(法泉寺の「貞和三年」〈一三四七年〉銘板碑)。
 正福寺には、このほかに、年紀不明の弥陀三尊のもの二基(うち一基は鶴岡氏墓所内)が保管されています。…」

 ここには六阿弥陀についての記述はありませんでした。これも逸話なのかもしれません。

 「新編武蔵風土記稿」の”隅田村”の項には
「正福寺 同末月光薬王院ト號ス慶長七年起立シ本尊薬師別ニ兩大師ヲ安ス…」
 前項は多聞寺なのでその末寺だとおもわれます。ここでも借金のことは書かれて居ません。

写真は現在の正福寺です。現在の本堂は鉄筋コンクリートですが、この辺りは空襲で焼けていますので、建て直されたとおもわれます。



(6)現在の千住附近地図



(7)明治初期の地図と現在の地図を重ねた地図



(8)明治初期の地図



(9)六阿弥陀獨案内一部分(江戸時代)



「六番 亀戸 常光寺」
<六番 亀戸 常光寺>
 やっと六番 亀戸 常光寺にたどり着きました。足立区江北の恵明寺から荒川の土手を歩き、千住新橋、千住大橋を渡って、白鬚橋から旧道を通って六番 亀戸 常光寺まで、11.6Km(約2時間半)の距離です(Google Mapによる)。途中、木余性翁寺や西新井大師等を回れば更に時間が掛ります。

 「新編武蔵風土記稿」の”亀戸村”の項より
「常光寺 禅宗曹洞派豊嶋郡橋場村総泉寺末西蹄山ト號ス本尊彌陀行基ノ作ニシテ長六寸許脇立ニ観音勢至ヲ安スコレ六阿彌陀第六番目ニシテ春秋彼岸ハ殊ニ参詣ノモノ多シ縁起アレト世ノ知ル所ニシテ外ニ事實カハラサレハ畧ス當寺ハ行基草創ノ地ナリト云傳ヘ又中興ヲ勝庵最和尚ト云天文十三年七月十五日寂ス
観音堂 準定観音安セリ
衆寮 鐘樓 鐘は正徳四年鋳造ナリ
山門 樓上ニ六羅漢ヲ安シ下ニ仁王ヲ置リ
來迎松 中古堂宇回禄ノトキ本尊コノ松ニ飛移リシト云
龍燈松 昔龍燈カカリシト云傳フ…」

 山門等もあったようですが、空襲で焼けてなにも残っていません。残念です。何か残っていないかと探したら、残っていたのは六阿弥陀の道標でした。

 江東区教育委員会の説明看板がありました。
「六阿弥陀道道標 延宝七年在銘
 本道標は江戸六阿弥陀詣の巡拝路である六阿弥陀道を示すものです。
 江戸六阿弥陀詣とは、江戸時代、春秋の彼岸に六ヶ寺の阿弥陀仏を巡拝するもので、その巡拝地は順に上豊島村西福寺(北区)、下沼田村延命院(足立区)、西ヶ原無量寺(北区)、田端村与楽寺(北区)、下谷広小路常楽院(調布市に移転)、亀戸村常光寺となっていました。
 江戸六阿弥陀には奈良時代を発祥とする伝承がありますが、文献上の初見は明暦年間(一六五五〜五八)であることから、六阿弥陀詣は明暦大火後の江戸市中拡大、江戸町方住民の定着にともなう江戸町人の行楽行動を示すものといえます。
 本道標は、塔身・基礎より構成され、塔身の正面に「南無阿弥陀佛」、左側面に「自是右六阿弥陀道」と陰刻があります。
 また、右側面の刻銘から、延宝七年(一六七九)二月一五日、江戸新材木町(現中央区日本橋堀留町一丁目)の「同行六十人」により建てられたものとわかります。
 本道標は、江戸六阿弥陀詣に関する最古の道標であるとともに、区内に現存する道標としても最古のものです。また、江戸で広まり亀戸にも札所のあった六阿弥陀信仰とその札所巡礼といった地域的特色を示すものとしても貴重な道標といえます。
 平成一五年三月              江東区教育委員会」


写真は現在の六番 常光寺です。この辺りは空襲ですっかり焼けてしまっていますので、戦後建て直されています。入口の右側に「六阿弥陀 六番」と書かれていました。

 時間が取れなくて書ききれていませんので、順次改版していく予定です。



(10)現在の墨田区地図



(11)現在の亀戸周辺地図



(12)明治初期の地図と現在の地図を重ねた地図



(13)明治初期の地図



(14)(9)六阿弥陀獨案内一部分(江戸時代)