<下沼田の二番 延命寺と阿弥陀堂を探す> どうやら隅田川と荒川を渡ることができましたので、明治初期に廃寺になったという下沼田の二番
延命寺と阿弥陀堂を探してみます。探すと言っても書き物としては「足立風土記 3 江北地区 六阿弥陀伝説」他を元にして探してみました。
「足立風土記 3 江北地区 六阿弥陀伝説」からです。
「… 足立区には、六阿弥陀第二番恵明寺と木余如来性翁寺があります。本来の第二番は、小台村の阿弥陀堂(江北2-46、清水酒店西側荒川土手付近)でしたが、そこを管理していた近くの延命寺という寺が明治初期に廃寺となり、管理は沼田村の恵明寺(江北2丁目)に引き継がれました。さらに、大正期の荒川放水路開削工事で、河川敷地内に入ったため堂は廃止、阿弥陀仏は恵明寺に移され現在に至っています…」
”本来の第二番は、小台村の阿弥陀堂(江北2-46、清水酒店西側荒川土手付近)”と記載があります。清水酒店で当初探したのですが見つかりません。住宅地図をよく見ると、写真に写っている東屋本店が清水さんのようです。ですから、この
裏手の荒川の土手の辺りに”小台村の阿弥陀堂”があったようです。では延命寺は何処でしょうか、上記には”そこを管理していた近くの延命寺”と書いてあり、阿弥陀堂と延命寺は離れているような書き方です。
「足立史談 昭和24年6月15日発行 556号 六阿弥陀巡拝路 二」からです。
「… 性翁寺から西南に行くと荒川堤に出る。そこから西北に少し行くと堤の下に六阿弥陀二番目延命寺があった。現在の江北二丁目四六先の首都高速川口線高架下付近にあたるが、明治初めに廃寺となり、管理は近くの恵明寺(江北二ー四ー三)に引き継がれた。阿弥陀如来は平安末期から鎌倉時代初期の作で、現在足立区の登録文化財となっている。…」
と書いてあり、阿弥陀堂と延命寺が同じ場所に合ったかのように書かれています。
もう一度「谷中・根津・千駄木 其の六十五」を参照すると…
「… 隅田川の豊島橋、荒川の江北橋を渡り六阿弥陀二番霊場の恵明寺へ向かう。じつは二番の甘露山延命院応味寺は廃寺となり、明治七年に真言宗で阿弥陀堂の別当であった恵明寺に合併されている。場所は同じ下沼田村。寺から五百メートルほど行った荒川上流は「熊野木」と呼ばれ、そこに熊野からの霊木が流れついたとされている。…」
”寺から五百メートルほど荒川上流は「熊野木」”は東屋本店の少し先に
記念碑が建てられていました。ただ、記念碑から少し先に
足立区教育委員会の説明看板もありました。ただ、”寺(延命寺)から500m”はもう少し先になり、堀之内一丁目3附近になります。
仕方がないので「新編武蔵風土記稿」で調べて見ました。
「阿彌陀堂 六阿彌陀ト穪スル其第二番ナリ沼田村ノ接地ニアル以テ人多ク沼田ノ六阿彌陀トイヘリ其濫膓ヲ尊ルニ人王四十五代聖武帝ノ御宇豊嶋郡沼田村ニ庄司ト云モノ一人ノ女子アリ隣村ニ嫁スイカナル故ニヤ其家ノ婢女ト共ニ沼田川ニ身ヲ投シテ死セリ父ノ庄司悲ノ餘彼等追cm為ニトテ所々ノ霊場ヲ巡拝シ紀州熊野山ニ詣デシ時山下ニテ一株ノ霊木ヲ得タリシカハ即仏像ヲ彫刻シテカノ冥福ヲ祈ラント本国ニ歸リテ後僧行基ニ託シテ六躰の彌陀ヲ刻シ分テ此邊六ヶ寺ニ安置セシ其一ナルヨシ縁起ニ載ス尤ウケカタキ説ナリ聖武帝ノ頃庄司ト云モノアルヘキ名ニアラズ且沼田村ハ豊島郡ニハアラテ本郡ノ地ナリカカル社撰ノ寺傳取ヘキニアラズマタ隣村宮城村性翁寺ノ傳ニハ足立ノ庄司宮城宰相ノ女子豊嶋左衛門尉ニ嫁セシカ故アリテ神龜二年六月朔日侍女ト共ニ荒川ニ投シテ死ス其追cm為ニカノ熊野山ノ霊木ヲ以テ行基ニ託シ彫刻シテ此邊ノ寺院六ヶ寺ニ安スト云神龜ハ聖武帝ノ年號ニテ少シクタカヒアント同シ傳ヘナリ是ヲ以テ姑年代ノ誤リトセンニモ足立庄司ト云モノハ他ノ所見ナシ豊嶋左衛門は東鑑ニモ見エタリ又宮城家譜ヲ見ルニカノ家ハ豊嶋次郎吉國ガ子六郎政業太山三楽ニ仕ヘ宮城ヲ領セシヨリ氏トセリト戯タリサシハカレヲ取リ是ヲ附會シ又行基菩薩ノ名ヲ假リテカカル妄説ヲ作リシモノナルヘシサレト此六阿彌陀ノコトハ世ノ人信スルコトニテ其造立ヲマツ近キ頃ノコトトモ思ハレス
別當延命寺 新義真言宗沼田村恵明寺ノ末甘露山應身院ト號ス寛永廿一年三月十三日大猷院殿御放鷹アリシ時當寺ヘ成ヲセラレ御膳所トナレリ則客殿ノ背後小キ所ヘ其蹟ナリトイフ
薬師堂 天神社稻荷清瀧ノ二神ヲ合祀セリ」 六阿彌陀伝説について書かれていますので参考になります。延命寺に関しては”別當延命寺”と書かれており、別當とは管理・監督するという意味がありますので、延命寺が阿彌陀堂(阿弥陀堂)を管理していたことがわかります。又、”沼田村恵明寺ノ末”とも書かれていますので、恵明寺の末寺だったことも分かります。
上記でも、阿弥陀堂と延命寺が同じ所にあったかは分かりません。ただ下記の江戸切絵図(根岸谷中日暮里豊島邊図より抜粋)を見ると同じ場所です。しかしながら、「北区の六阿弥陀絵巻」に掲載されている
江戸時代の阿弥陀堂の絵を見ると阿弥陀堂の絵の記載はありますが、お寺は名前のみで、記載がありません(甘露山延命院応味寺と記載があります)。
最後に「六阿弥陀の研究 上 下」からです。
「延命寺について
仝寺の旧位置は現在の地番で、江北二丁目四六の東屋酒店付近同四五あたりが阿弥陀堂といわれる、お寺とお堂には若干の距離があり、同一の敷地内にあったとは考えられない、180頁と201頁の挿絵には阿弥陀堂しか書かれていない、又本号までの記事をみても延命寺持となっている、「持」とは所有権もさりながら管轄権を表わし場所が同一でない事をも示す、延命寺への道は王子方面から来ると豊嶋の渡し(大阿弥陀の渡しとも)を使って堤へ上がって左へ二町ばかりと記されている、豊嶋の渡しは現在のバス停荒川土手の内側近くまで旧荒川がせり出していたのを半分に切断して放水路を作ったために今では水路の中に没してしまった、大正十四年に豊島橋完工、十二年四月には江北橋が、更に江北橋は昭和四十七年に全面改修となりその位置は旧橋よりずっと下流になり、為に恵明寺は旧橋の時は右に行っていたのが今では左手進行方向へと変っている、豊嶋の渡しは恵明寺と荒川土手停の中間あたりにあったものであろうか」
豊嶋の渡しの東側は恵明寺の一つ北側の道を西にいった土手のところですので、ここから北に二町(220m)歩くと、丁度西新井警察署江北交番から西の土手のところ附近に延命寺があったとおもわれます。下記の地図の”(3)下谷
五番 常楽院から四番
与楽寺まで(拡大図)”を見ると、氷川神社の入口附近が延命寺の入口になっており、西新井警察署江北交番附近とも合致します。阿弥陀堂はここから少し先の東屋酒店の土手のところですから、180m位先になります。これはあくまで私個人の推定です。
★写真は現在の東屋本店(清水酒店)です。この
裏手の荒川の土手の辺りに”小台村の阿弥陀堂”があったことは確かのようです。
昔の隅田川の豊島の渡しを東に渡って堤(土手)の上(この辺りの堤(土手)の位置は今の荒川と旧隅田川とで変らない)に上がったところから北を見た写真を掲載しておきます。阿弥陀堂跡、延命寺跡のだいたいの場所を印しておきました。又、現在の荒川土手のバス停の写真も掲載しておきます。