●六阿弥陀を歩く -5-
    初版2016年12月10日  <V01L03> 暫定版

 六阿弥陀巡りです。今回は豊島の一番 西福寺から二番 恵明寺(元は延命寺) 足立区江北までを歩きます。このルートは荒川放水路が出来で大きくルートが変ったり、戦後、隅田川、荒川放水路に架かっていた橋の場所が変ったりして、大きく変貌しています。 


「荷風随筆集」
<「荷風随筆集(上)」 岩波文庫(前回と同じ)>
 永井荷風を続けて掲載しようとおもい、「放水路」を読み始めたところ、書き出しに”大正三年秋の彼岸に、わたくしは久しく廃していた六阿弥陀詣を試みたことがあった。”とあり、六阿弥陀詣という単語を初めて知ったので、興味を引かれ、少し調べて見ました。

 永井荷風の「放水路」から、書き出しです。
「 隅田川の両岸は、千住から永代の橋畔に至るまで、今はいずこも散策の興を催すには適しなくなった。やむことをえず、わたくしはこれに代るところを荒川放水路の堤に求めて、折々杖を曳くのである。
 荒川放水路は明治四十三年の八月、都下に未曾有の水害があったため、初めて計画せられたものであろう。しかしその工事がいつ頃起され、またいつ頃終ったか、わたくしはこれを詳にしない。
 大正三年秋の彼岸に、わたくしは久しく廃していた六阿弥陀詣を試みたことがあった。わたくしは千住の大橋をわたり、西北に連る長堤を行くこと二里あまり、南足立郡沼田村にある六阿弥陀第二番の恵明寺に至ろうとする途中、休茶屋の老婆が来年は春になっても荒川の桜はもう見られませんよと言って、悵然として人に語っているのを聞いた。…」

 ”六阿弥陀詣”については全く知識が無かったので、”南足立郡沼田村にある六阿弥陀第二番の恵明寺”とあるのですが、何の二番なのか、何の順番なのか、またきっと前後の番号のお寺があるのではないかとおもいました。

写真は岩波文庫の「荷風随筆集(上)」です。荷風全集を読むのは大変なので、一寸読むには丁度良い大きさで、読みやすいです。

「文がたみ」
<「永井荷風文がたみ」 近藤冨枝 宝文館(前回と同じ)>
 もう少し調べて見ようと思い、探したところ、荷風研究で有名な近藤富枝さんが「永井荷風 文がたみ」の中で、”六阿弥陀詣”について書かれていました。永井荷風と六阿弥陀詣の関係が分かるかとおもい読んでみました。

  近藤富枝さんの「永井荷風文がたみ」からです。
「     3 六阿彌陀詣
  (大正十三年九月廿二日 断腸亭日乗)
 微雨午に近く霽る。今年は是非にも六阿弥陀詣をなさむと思ひ居たりしが、雨後の泥濘をおそれて空しく家にとゞまりぬ。亡友唖々子と朝まだき家を出で、まづ亀戸村の常光寺に赴き、それより千住に出で、荒川堤を歩み、順次に六阿弥陀を巡拝せしは大正三年甲寅の秋なりき。荒川堤に狐の腰掛と俗にいふ赤き雑草の花おびたゞしく咲きたるさま今も猶目に残りたり。滝野川のとある人家に梯の老樹の枝も折れむばかり実を結びたる、又西ケ原無量寺の庭に雁来紅の燃るが如く生茂りたるさま、倶に記憶を去らず。次の年大正四年春の彼岸には病みて独り大久保の家に在り。其年の秋分には吾健かなりしが、唖々子病みて歩みがたしとの事に、独り築地一丁目の僑居を出で田端より西ヶ原まで歩みしが、唯一人にては興なくて王子より汽車に乗りて空しく帰り来りぬ。その後は数年にわたりて腹痛治せざりしため、遠く歩むこと能はず、病やゝ快くなりて後も年々何事にか妨げられて再遊の願は遂に果すの期なく今日に至れり。唖り子は既に世を去り、西ヶ原田端あたり近郊一帯の風景も塵土にまみれて、十年前の趣は再び尋るによしなし。曾て撮影せし写真去年の大火以後一層珍らしきものになりぬ。

 六阿弥陀めぐりは、春秋の彼岸に
      一番 豊島村 (北区)   西福寺
      二番 下沼田村(足立区) 延命院
      三番 西ケ原 (北区)   無量寺
      四番 田端村 (北区)   與楽寺
      五番 下谷広小路(台東区)常楽院
      六番 亀 戸 (江東区)  常光寺
 の六寺を徒歩で参詣して廻ることをいう。五番の広小路常楽院だけが市内で、あとは郡部に属している。常楽院は今の広小路赤札堂がその跡だそうだ。…」

 上記の断腸亭日乗の部分に関しては、近藤富枝さんの原文そのままでは無く、岩波書店の新版 断腸亭日乗 第一巻から少し長く引用しています。ここで、六阿弥陀とは六つの寺からなっていて、春秋の彼岸に順に参拝することが分かります。”二番 下沼田村(足立区) 延命院”と書いていますが、このお寺は明治初期に無くなって、直ぐ近くの恵明寺に移っています。荷風は大正3年秋に唖々子と亀戸の常光寺から順に回ったようです。

写真は近藤富枝さんの「永井荷風文がたみ」 です。宝文館の発行です。荷風研究には、必須です。 残念ながら近藤富枝さんは今年の7月に亡くなられました。ご冥福をお祈りします。

「東京人」
<「東京人 花と水に遊ぶ 江戸の六阿弥陀詣で」 山本容朗 宝文館(前回と同じ)>
 実際に”六阿弥陀詣”に行かれた方の書いた本がないか探したのですが、平成3年(1991)6月発行の「東京人」に記載があるのを見つけました。表紙には記載が無く、探すのに苦労しました。

  山本容朗さんの「花と水に遊ぶ 江戸の六阿弥陀詣で」からです。
「東京人 平成3年6月 

花と水に遊ぶ江戸の六阿彌陀′wで
●荒川堤の桜と音無川の紅葉
 「江戸六阿彌陀」詣でに興味を持ったのは、永井荷風の「放水路」という一文を読んで以来だから、かなりの昔である。
 この荷風の随筆は、「鐘の聲」、「寺じまの記」とあわせて三篇、「残春雑記」というタイトルで昭和十一年(一九三六)六月、『中央公論』に発表となった。…」

 内容を読むと、動機は私と全く同じで、ビックリしました。永井荷風の「放水路」からです、他の本で”六阿弥陀詣”について書いた本が無いので、なかなか”六阿弥陀詣”にたどり着かないのです。有名な文壇の方が書かれれば少しは表にでるとおもいます。

写真は平成3年(1991)6月発行の「東京人」です。P105から7ページほど書かれています。山本容朗さんは残念ながら平成25年に亡くなられています。

「調査報告 第5号」
<「北区立郷土資料館 調査報告 第5号」 塚田芳雄 北区教育委員会(前回と同じ)>
 六阿弥陀とは六つの寺からなっていて、春秋の彼岸に順に参拝することは分かったのですが、六阿弥陀が出来た縁起や、時期等がまだよく分かっていないので、もう少し調べてみました。東京都立図書館で調べたところ、数冊の本が検索できました。その中で、一番詳しそうだったのが「六阿弥陀の研究 上 下(昭和54年発行)」でした。この本は手書きのコピーに表紙を付けて綴じてあるだけの本で、見にくいところもあり、困っていたところ、「六阿弥陀の研究 上 下(昭和54年発行)」を纏めて、「北区立郷土資料館 調査報告 第5号」として発行しているのをみつけました。この本の発行日は平成3年(1991)年で、執筆者は塚田芳雄とあり、「六阿弥陀の研究 上 下(昭和54年発行)」と同じ方でした。

  塚田芳雄さんの「北区立郷土資料館 調査報告 第5号」から、”目次”です。
「北区立郷土資料館 調査報告書 第5号 六阿弥陀

          目   次

      無量寺縁起 ………… 1
       付、六阿弥陀伝記 … 2
      与楽寺縁起 ………… 3
      常光寺縁起 ………… 4
      常楽院縁起 ………… 5
       付、西福寺のこと … 6
      六阿弥陀の案内 …… 7
      末木の観音 ………… 13
      六阿弥陀詣 ………… 14
       付、ひいもと草 …… 15
      六あみだの標石 …… 16
       付、阿弥陀伝記 …… 19
      六あみだと川柳 ……… 20
      六阿弥陀御詠歌と和讃 … 23
      六阿弥陀の縁組 ……… 24
      六阿弥陀と六地蔵 …… 26
      木余り如来 …………… 28
      終わりに ……………… 30    …」

 この本は六阿弥陀について現在分かる内容が全て網羅されているとおもいます。非常に参考になる本です。

写真は北区教育委員会発行の「北区立郷土資料館 調査報告 第5号」です。この一冊全てが六阿弥陀について書かれています。執筆者は塚田芳雄さんです。残念ながらこの本は在庫がなく新たに入手することはできません。図書館等で見るか、一部分をコピー出来るだけです。

「谷中根津千駄木」
<「谷中・根津・千駄木 其の六十五」 谷根千工房(前回と同じ)>
 現在の六阿弥陀を実際に歩いて回って書いている本がありました。地域雑誌としてはとても有名な谷根千工房発行の「谷中・根津・千駄木」です。掲載されたのは六十五(平成13年(2001))で少し古いですが、谷中、千駄木界隈は変っていませんので十分に楽しめます。又、六阿弥陀から六地蔵まで書かれていますので、次は六地蔵回りでもしようかなとおもっています。

  「谷中・根津・千駄木 其の六十五」からです。
「  六阿弥陀詣

 土地の古老から六阿弥陀詣の話をよく聞かされた。春秋の彼岸に、たんぽの真ん中の道を、お遍路さんの白装束、鈴を鳴らして通る。巡礼者の巡る道を六阿弥陀道という。谷中コミュニティセンターの前の道がそれである。
 調べてみると六阿弥陀の由来は古く、第四十五代聖武天皇のころ、つまり奈良時代にあってもっとも仏教が尊ばれ、広まっていたころにさかのぼる。
 では正岡子規  野の道や梅から梅へ六阿弥陀の句に誘われ、私たちも歩いてみよう。…」

 六阿弥陀を回るときは”お遍路さんの白装束、鈴を鳴らして通る”だったのですね、四国のお遍路さんと同じです。もっと気楽に、行楽に行くときのカッコかなとおもっていたのですが、信心深いです。

写真は谷根千工房発行の「谷中・根津・千駄木 其の六十五」です。平成13年(2001)発行で、古いのですが在庫があり、通販で購入できます。

「道しるべ」
<「道しるべ」 足立区教育委員会>
 北区の資料として「北区の古い道と道しるべ」があったので、足立区も同じ出版物がないかと探したらありました。足立区教育委員会発行の「道しるべ」です。一つずつ写真入で紹介していますので非常に参考になります。ただ発行日が12年前の平成6年と古くて、現在もそのままかどうかは現地を訪ねて確認するしかありません。こういう本は印刷すると時間と費用がかかりますので、Web掲載にして常に最新データに更新していただくと有難いのですが、どうでしょうか?

  「北区の古い道と道しるべ」からです。
「 道しるべについて
    一、はじめに
 道標(道しるべ)は、その昔、旅行者、社寺詣で、時には物見遊山などの道案内として、主として道の岐かれ目などに建てられた石標である。また巡拝標は寺院札所の名称や、次の札所を案内した石標で、寺院の門前などに建てられていた。
 このたび、区内の道標四十三基、道標を兼ねた庚申塔、馬頭尊、拱養塔、記念碑など十二基、巡拝標四十六基を調査した。しかし本区には、大師道、成田道、王子道など主要街道から岐れての古道が数多くあったので、道標もかなりあったのではないかと考えられる。けれども本区の道路は、戦後水路の暗渠化による新設、舗装拡張等の改良、耕地整理による旧道路から新設道路への統合など、さまざまな工事によって大きく変えられ、古道ぎわ、水路わきなどに建てられていた道標は、かなりその姿を消したのではないかと思われる。…」

 この本は足立区の現存する道標について現在分かる内容が全て網羅されているとおもいます。非常に参考になる本です。

写真は足立区教育委員会発行の「道しるべ」です。足立区にに現存する道標、巡拝標、道しるべについて解説しています。この道標を参考にすると、当時の道が蘇ってきます。

「足立風土記」
<「足立風土記」 足立区教育委員会>
 足立区では一般向けに「足立風土記」が作られています。上記の「道しるべ」の一部も書かれて居ます。私としては少し物足りない資料なのですが、一般の方には丁度良いのかもしれません。改版されており、最後が三版で平成20年発行となっています。

  「足立風土記 3 江北地区」からです。
「六阿弥陀伝説 -川底が秘めた伝説-
 六阿弥陀伝説
昔、足立庄司宮城宰相という名家の娘・足立姫が、豊島左衛門尉清光という豪家に嫁ぎました。しかし、姫は引出物が粗末とそしりを受け、里帰りの際に、12人の侍女だちとともに、荒川(現在の隅田川)に身を投げて命を絶ってしまいました。父・宮城宰相は、悲しみの余り、諸国の霊場巡りに出発しました。紀伊国熊野権現で1本の霊木を得て、それを熊野灘へ流すと、やがて国元の熊野木という所に流れ着きました。折しも諸国行脚中の行基が通りかかり、宮城宰相が霊木のことを話すと、行基は六体の阿弥陀仏を彫刻し、余り木からもう一体造りました。これらの阿弥陀仏は後に、六阿弥陀として近隣の寺院にまつられ、女人成仏の阿弥陀として崇められたといいます。
 これは「六阿弥陀伝説」として、足立区(足立郡)・北区(豊島郡)に伝わっている話です。ここに紹介したのは、木余如来性翁寺に伝わる話を基にしたものですが、六阿弥陀をまつった各寺院によって、話の内容や登場人物名が異ったり、豊島左衛門尉の娘が、足立の方に嫁ぎ、そこでそしりを受けたという、婚姻関係が逆になっている話もあります。六阿弥陀とは下表に記した寺院で、その余り木から造ったというのが、性翁寺に伝わる木余如来こと、木造阿弥陀如来坐像です。
 足立区には、六阿弥陀第二番恵明寺と木余如来性翁寺があります。本来の第二番は、小台村の阿弥陀堂(江北2-46、清水酒店西側荒川土手付近)でしたが、そこを管理していた近くの延命寺という寺が明治初期に廃寺となり、管理は沼田村の恵明寺(江北2丁目)に引き継がれました。さらに、大正期の荒川放水路開削工事で、河川敷地内に入ったため堂は廃止、阿弥陀仏は恵明寺に移され現在に至っています…」

 昔の二番 延命寺についてかかれた本はこの本しか無く非常に参考になりました。

写真は足立区教育委員会発行の「足立風土記 3 江北地区です。最後の改版が8年前なので、在庫があるかもしれませんがそろそろ改版をお願いしたいです。

「足立史談」
<「足立史談」 足立区教育委員会>
 もう一つ、足立区教育委員会発行の「足立史談」という資料を見つけました。正式には足立区教育委員会足立史談編集局足立区立郷土博物館内といわれるところが発行元です。六阿弥陀詣でについて書かれているのは、昭和24年5月15日発行の555号から558号までに”六阿弥陀巡拝路”というタイトルで地図付で書かれています。

  「足立史談 昭和24年5月15日発行 555号 六阿弥陀巡拝路」からです。
「江戸六阿弥陀巡拝路 一
          本間 孝夫
■六阿弥陀の由来 六阿弥陀については、江戸北郊の荒川沿岸地域に次のような伝承があった。『ある豪族が、川の対岸の豪族に娘を嫁にやった。娘は舅姑から引出物が粗末であるとなじられたので川に身を投げ、娘に従う侍女も続いて身を投げた。娘の父親は非常に悲しんで、紀州高野山に登り、那智権現に詣でて娘の菩提を弔ったところ、光明木という一本の霊木を得た。行基に頼んで、この木で六体の阿弥陀仏を造ってもらい、娘の菩提寺と侍女の出生地の寺院に安置し、彼女らの追善をした。』
 六阿弥陀に関する寺院の縁起や新編武蔵風土記では、一入娘の父方の出身地と嫁ぎ先が豊島郡と足立郡で入れ替っていたり、入水した侍女の数々入水の動機にも違いがみられるが、骨格は共通している。…」

 掲載の地図は明治初期のもので、私が掲載しているものと同じとおもわれます。当時の道が現在のどの道に当たるのか書かれているので分かりやすいです。

写真は足立区教育委員会足立史談編集局発行の「足立史談」です。昭和24年8月15日発行の558号です。



六阿弥陀詣全体地図



「旧豊島橋跡」
<隅田川の豊島橋>
 今回も先ず「谷中・根津・千駄木 其の六十五」に沿って、一番 西福寺(北区豊島)から二番 恵明寺(足立区江北)までを歩きます。ただ、この辺りは大正時代まで”豊島の渡し(説明看板が荒川の土手にあります)”があったのですが荒川放水路(荒川)が出来てすっかり様子が変ってしまっています。又、江戸時代には二番は延命寺(下沼田)であったものが、明治初期にに廃寺になり、現在の恵明寺(足立区江北)が引き継いでいます。

 「谷中・根津・千駄木 其の六十五」からです。
「… 隅田川の豊島橋、荒川の江北橋を渡り六阿弥陀二番霊場の恵明寺へ向かう。じつは二番の甘露山延命院応味寺は廃寺となり、明治七年に真言宗で阿弥陀堂の別当であった恵明寺に合併されている。場所は同じ下沼田村。寺から五百メートルほど行った荒川上流は「熊野木」と呼ばれ、そこに熊野からの霊木が流れついたとされている。…」

 北区豊島から足立区江北に向うには、隅田川、荒川を超えるため橋を二つ渡る必要があります。先ずは隅田川を越える豊島橋です。

【豊島橋】
 もともと現在の橋の上流300mほどの隅田川が大きく蛇行する「天狗の鼻」とよばれる場所に鎌倉時代から続くとされる「六阿弥陀の渡し」(豊島の渡しとも)があり、六阿弥陀詣の人々で賑わったと伝わる。大正14年(1925)、この場所に最初の豊島橋が木橋として架けられた。初代の豊島橋は荒川を渡る同じく木橋の旧江北橋と結ばれていたが、老朽化によって昭和35年(1960)に下流の現在の位置に両橋ともどもゲルバー式鋼製桁橋として改架された。なお旧江北橋はすぐに撤去されたが、旧豊島橋は昭和42年(1967)まで存在していた。2代目の鉄橋は平成7年(1995)に地盤沈下と老朽化によって再度改架されることとなり、7年の工事期間を経て平成13年(2001)に現在の橋となった。(ウイキペディア参照)

旧豊島橋は写真の一番左に少し写っている豊島五丁目団地12号棟の前付近から右に架かっていました(附近には隅田川旧防潮堤の記念碑があります)。記念碑もなにもありませんので、航空写真(戦後)と現在の地図を重ねた地図で場所を確認しました。現在の豊島橋の写真も掲載しておきます。

「旧江北橋跡」
<荒川の旧江北橋(こうほくばし)>
 もう一つの橋、荒川を超える江北橋です。荒川放水路(荒川と表記)が出来たため、新しく架けられた橋です。この橋については永井荷風が「放水路」で少し書かれています。

 永井荷風の「放水路」からです。
「…わたくしは今年昭和十一年の春、たまたま放水路に架せられた江北橋を渡るその日まで、指を屈すると実に二十有二年、一たびも曾遊の地を訪う機会がなかった。…
 江北橋の北詰には川口と北千住の間を往復する乗合自動車と、また西新井の大師と王子の間を往復する乗合自動車とが互に行き交っている。六阿弥陀と大師堂へ行く道しるべの古い石が残っている。葭簀張りの休茶屋もある。千住へ行く乗合自動車は北側の堤防の二段になった下なる道を走って行く。道は時々低く堤を下って、用水の流に沿い、また農家の垣外を過ぎて旧道に合している。ところどころ桜の若木が植え付けられている。やがて西新井橋に近づくに従って、旧道は再び放水路堤防の道と合し、橋際に至って全くその所在を失ってしまう。…」

 私もこの付近の撮影には王子駅から西新井駅行きのバスに乗ります。何回かは歩いたのですが、だんだん面倒くさくなってバスに乗っています。

 上記には”六阿弥陀と大師堂へ行く道しるべの古い石が残っている”と書かれいるのですが、現地で探したのですが見つける事ができません。上項の足立区教育委員会発行の「道しるべ」を見てみると、足立区郷土博物館展示道標一覧の中にそれらしきものが書かれています。元所在地は”江北2−9先 土手下(当時の江北橋から北に土手下に下ってきたところです)”と書かれています。それでは実物を見てこようと足立区立郷土博物館を訪ね、道標の写真(左側で”西新井大師道”と書かれている)を撮影してきました。荷風が見た道標と同じかどうかは不明ですが、可能性は高いとおもっています。

写真は旧江北橋が架かっていたとおもわれるところです。手前から向こう側に架かっていました。足立区側は高速道路の橋桁の色が青から赤に変っている附近になります。航空写真(戦後)と現在の地図を重ねた地図で場所を確認しました。この橋は荒川の完成とともに大正12年にできた橋です。その後の昭和47年に、新しい橋が下流300mで出来ています。現在の橋の写真を掲載しておきます。

【江北橋】
 橋は大正12年(1923)4月にRC(鉄筋コンクリート)製の橋脚を持つ木桁橋として開通した。橋長434.5メートル、幅員5.4メートル。直後の9月1日の関東大震災で損傷したために、大正14年(1925)5月に同じ形式の橋に架け替えられている。橋長441.5メートル、幅員7.2メートル。現在の橋は昭和47年(1972)、300m下流に架け替えられたものである。(ウイキペディア参照)



(1)現在の豊島(北区)、江北(足立区)附近地図



(1)航空写真(戦後)と現在の地図を重ねた地図



「東屋本店附近」
<下沼田の二番 延命寺と阿弥陀堂を探す>
 どうやら隅田川と荒川を渡ることができましたので、明治初期に廃寺になったという下沼田の二番 延命寺と阿弥陀堂を探してみます。探すと言っても書き物としては「足立風土記 3 江北地区 六阿弥陀伝説」他を元にして探してみました。

 「足立風土記 3 江北地区 六阿弥陀伝説」からです。
「… 足立区には、六阿弥陀第二番恵明寺と木余如来性翁寺があります。本来の第二番は、小台村の阿弥陀堂(江北2-46、清水酒店西側荒川土手付近)でしたが、そこを管理していた近くの延命寺という寺が明治初期に廃寺となり、管理は沼田村の恵明寺(江北2丁目)に引き継がれました。さらに、大正期の荒川放水路開削工事で、河川敷地内に入ったため堂は廃止、阿弥陀仏は恵明寺に移され現在に至っています…」
 ”本来の第二番は、小台村の阿弥陀堂(江北2-46、清水酒店西側荒川土手付近)”と記載があります。清水酒店で当初探したのですが見つかりません。住宅地図をよく見ると、写真に写っている東屋本店が清水さんのようです。ですから、この裏手の荒川の土手の辺りに”小台村の阿弥陀堂”があったようです。では延命寺は何処でしょうか、上記には”そこを管理していた近くの延命寺”と書いてあり、阿弥陀堂と延命寺は離れているような書き方です。

「足立史談 昭和24年6月15日発行 556号 六阿弥陀巡拝路 二」からです。
「… 性翁寺から西南に行くと荒川堤に出る。そこから西北に少し行くと堤の下に六阿弥陀二番目延命寺があった。現在の江北二丁目四六先の首都高速川口線高架下付近にあたるが、明治初めに廃寺となり、管理は近くの恵明寺(江北二ー四ー三)に引き継がれた。阿弥陀如来は平安末期から鎌倉時代初期の作で、現在足立区の登録文化財となっている。…」
 と書いてあり、阿弥陀堂と延命寺が同じ場所に合ったかのように書かれています。

 もう一度「谷中・根津・千駄木 其の六十五」を参照すると…
「… 隅田川の豊島橋、荒川の江北橋を渡り六阿弥陀二番霊場の恵明寺へ向かう。じつは二番の甘露山延命院応味寺は廃寺となり、明治七年に真言宗で阿弥陀堂の別当であった恵明寺に合併されている。場所は同じ下沼田村。寺から五百メートルほど行った荒川上流は「熊野木」と呼ばれ、そこに熊野からの霊木が流れついたとされている。…」
 ”寺から五百メートルほど荒川上流は「熊野木」”は東屋本店の少し先に記念碑が建てられていました。ただ、記念碑から少し先に足立区教育委員会の説明看板もありました。ただ、”寺(延命寺)から500m”はもう少し先になり、堀之内一丁目3附近になります。

 仕方がないので「新編武蔵風土記稿」で調べて見ました。
阿彌陀堂 六阿彌陀ト穪スル其第二番ナリ沼田村ノ接地ニアル以テ人多ク沼田ノ六阿彌陀トイヘリ其濫膓ヲ尊ルニ人王四十五代聖武帝ノ御宇豊嶋郡沼田村ニ庄司ト云モノ一人ノ女子アリ隣村ニ嫁スイカナル故ニヤ其家ノ婢女ト共ニ沼田川ニ身ヲ投シテ死セリ父ノ庄司悲ノ餘彼等追cm為ニトテ所々ノ霊場ヲ巡拝シ紀州熊野山ニ詣デシ時山下ニテ一株ノ霊木ヲ得タリシカハ即仏像ヲ彫刻シテカノ冥福ヲ祈ラント本国ニ歸リテ後僧行基ニ託シテ六躰の彌陀ヲ刻シ分テ此邊六ヶ寺ニ安置セシ其一ナルヨシ縁起ニ載ス尤ウケカタキ説ナリ聖武帝ノ頃庄司ト云モノアルヘキ名ニアラズ且沼田村ハ豊島郡ニハアラテ本郡ノ地ナリカカル社撰ノ寺傳取ヘキニアラズマタ隣村宮城村性翁寺ノ傳ニハ足立ノ庄司宮城宰相ノ女子豊嶋左衛門尉ニ嫁セシカ故アリテ神龜二年六月朔日侍女ト共ニ荒川ニ投シテ死ス其追cm為ニカノ熊野山ノ霊木ヲ以テ行基ニ託シ彫刻シテ此邊ノ寺院六ヶ寺ニ安スト云神龜ハ聖武帝ノ年號ニテ少シクタカヒアント同シ傳ヘナリ是ヲ以テ姑年代ノ誤リトセンニモ足立庄司ト云モノハ他ノ所見ナシ豊嶋左衛門は東鑑ニモ見エタリ又宮城家譜ヲ見ルニカノ家ハ豊嶋次郎吉國ガ子六郎政業太山三楽ニ仕ヘ宮城ヲ領セシヨリ氏トセリト戯タリサシハカレヲ取リ是ヲ附會シ又行基菩薩ノ名ヲ假リテカカル妄説ヲ作リシモノナルヘシサレト此六阿彌陀ノコトハ世ノ人信スルコトニテ其造立ヲマツ近キ頃ノコトトモ思ハレス
別當延命寺 新義真言宗沼田村恵明寺ノ末甘露山應身院ト號ス寛永廿一年三月十三日大猷院殿御放鷹アリシ時當寺ヘ成ヲセラレ御膳所トナレリ則客殿ノ背後小キ所ヘ其蹟ナリトイフ
薬師堂 天神社稻荷清瀧ノ二神ヲ合祀セリ」

 六阿彌陀伝説について書かれていますので参考になります。延命寺に関しては”別當延命寺”と書かれており、別當とは管理・監督するという意味がありますので、延命寺が阿彌陀堂(阿弥陀堂)を管理していたことがわかります。又、”沼田村恵明寺ノ末”とも書かれていますので、恵明寺の末寺だったことも分かります。

 上記でも、阿弥陀堂と延命寺が同じ所にあったかは分かりません。ただ下記の江戸切絵図(根岸谷中日暮里豊島邊図より抜粋)を見ると同じ場所です。しかしながら、「北区の六阿弥陀絵巻」に掲載されている江戸時代の阿弥陀堂の絵を見ると阿弥陀堂の絵の記載はありますが、お寺は名前のみで、記載がありません(甘露山延命院応味寺と記載があります)。

 最後に「六阿弥陀の研究 上 下」からです。
「延命寺について
 仝寺の旧位置は現在の地番で、江北二丁目四六の東屋酒店付近同四五あたりが阿弥陀堂といわれる、お寺とお堂には若干の距離があり、同一の敷地内にあったとは考えられない、180頁と201頁の挿絵には阿弥陀堂しか書かれていない、又本号までの記事をみても延命寺持となっている、「持」とは所有権もさりながら管轄権を表わし場所が同一でない事をも示す、延命寺への道は王子方面から来ると豊嶋の渡し(大阿弥陀の渡しとも)を使って堤へ上がって左へ二町ばかりと記されている、豊嶋の渡しは現在のバス停荒川土手の内側近くまで旧荒川がせり出していたのを半分に切断して放水路を作ったために今では水路の中に没してしまった、大正十四年に豊島橋完工、十二年四月には江北橋が、更に江北橋は昭和四十七年に全面改修となりその位置は旧橋よりずっと下流になり、為に恵明寺は旧橋の時は右に行っていたのが今では左手進行方向へと変っている、豊嶋の渡しは恵明寺と荒川土手停の中間あたりにあったものであろうか」

 豊嶋の渡しの東側は恵明寺の一つ北側の道を西にいった土手のところですので、ここから北に二町(220m)歩くと、丁度西新井警察署江北交番から西の土手のところ附近に延命寺があったとおもわれます。下記の地図の”(3)下谷 五番 常楽院から四番 与楽寺まで(拡大図)”を見ると、氷川神社の入口附近が延命寺の入口になっており、西新井警察署江北交番附近とも合致します。阿弥陀堂はここから少し先の東屋酒店の土手のところですから、180m位先になります。これはあくまで私個人の推定です。


写真は現在の東屋本店(清水酒店)です。この裏手の荒川の土手の辺りに”小台村の阿弥陀堂”があったことは確かのようです。昔の隅田川の豊島の渡しを東に渡って堤(土手)の上(この辺りの堤(土手)の位置は今の荒川と旧隅田川とで変らない)に上がったところから北を見た写真を掲載しておきます。阿弥陀堂跡、延命寺跡のだいたいの場所を印しておきました。又、現在の荒川土手のバス停の写真も掲載しておきます。




(1)明治初期の地図と現在の地図を重ねた地図



「二番 恵明寺」
<二番 恵明寺 足立区江北>
 明治7年に廃寺した延命寺を引き継いだのが足立区江北の恵明寺です。明治7年と書きましたが、これは「谷中・根津・千駄木 其の六十五」に記載されていたものですが、ウイキペディアの”恵明寺”には明治9年と書かれています。又、足立区教育委員会の資料も明治9年です。

 門前の足立区教育委員会の看板より
「恵明寺(えみょうじ)
 真言宗、宮城山円明院恵明寺と称す。本尊阿弥陀如来坐像は、造像の技法がきわめてすすんだころの等身大の寄木造りである。この阿弥陀如来は、江戸六阿弥陀二番の札所として、古くは小台の延命寺にあったものを明治九年の合併の際移したものである。六阿弥陀信仰は、平安後期以降に発生したものと思われる。
 当時に伝わる六阿弥陀縁起、足立姫の伝説は広くしられており、江戸時代の天野信景の随筆「塩尻」にもその巡礼の様子がみられ、この地の人々の信仰を集めていたことが分かる。
 平成元年一月
                                東京都足立区教育委員会」

 明治9年と書かれています。

 「新編武蔵風土記稿 足立郡」より
恵明寺 新義真言宗山城国醍醐三實院末寺領廿石ハ慶安元年九月十一日御朱印ヲ賜ヘリ宮城山延命院ト號ス開山亮尊寂年ヲ傳ヘス今二到ルマデ廿町世ニ及フト云リ本尊不動ヲ安ス
清瀧権現社弁財天ヲ合祀ス」

 恵明寺に関しては六阿弥陀について一切書かれていません。書かれたのは江戸時代ですから当然かもしてません。

 この附近で道標が残っているのはこの恵明寺の門前の道標です。足立区教育委員会発行の「道しるべ」によると、”従是西六阿弥陀あミた”と書かれているそうです。削れてしまって現在は全く読み取れませんでした(写真の一番左にある石柱です)。

写真は二番 恵明寺です。右側の石柱に江戸六阿弥陀第二番 宮城山恵明寺と書かれています。道標は左側、看板の後に3個ある道標の一番左にあります。門は閉まっていますが右側から回って中にはいれます。本堂の写真も掲載しておきます。

 【恵明寺】
 恵明寺は、平安時代に亮尊により開山されたとも言われているが、実証性に乏しい。江戸時代には、京都の醍醐寺三宝院の末寺として、周辺各地の真言宗の寺院を門末に持った中本寺格の寺院となった。末寺は最大で36寺を擁していたと言われている。1648年には徳川将軍家から朱印地20石を拝領した。その後、明治時代になると明治9年(1876)に近隣の現在の足立区小台にあった延命寺を合併し、同寺で祀っていた江戸六阿弥陀の一つの阿弥陀如来も恵明寺に祀るようになった。長い間本尊は不動明王であったが、大正時代までにこの六阿弥陀の阿弥陀如来像に取って代わられた。第二次世界大戦により本堂等は焼失してしまったが、本尊は焼失を免れた。また戦前まで長く真言宗豊山派に属していたが、戦後1953年に独立し単立系の真言宗の寺となった。
江戸六阿弥陀
明治9年(1876)に延命寺が恵明寺に合併した後も、境外仏堂として旧地に安置されていたが、1910年に荒川放水路が作られると、仏堂がその河川の敷地にあたることになり、現在地に移転したと言われている。阿弥陀像は高さは87cmで行基作とも伝わるが、その特徴から鎌倉時代以降の作とされる。1982年に足立区有形文化財に指定された。(ウイキペディア参照)




(2)六阿弥陀獨案内(江戸時代)



(3)下谷 五番 常楽院から四番 与楽寺まで(拡大図)



(4)江戸切絵図(根岸谷中日暮里豊島邊図より抜粋)



(6)豊島・沼田(明治初期の地図)