<一番 西福寺 北区豊島> やっと一番
西福寺(北区豊島)にたどり着きました。道としては王子駅経由での道筋と、上中里駅から福性寺経由の道筋の二つがありますが、本来は上中里駅から福性寺経由だとおもいます。
塚田芳雄さんの「北区立郷土資料館 調査報告 第5号」からです。
「
西福寺のこと
西福寺は六ヶ寺の中では表記等について混同が多くみられる。西福寺は当初禅宗長福寺であり、享保初めに西福寺と改称するが、禅宗から真言宗に改宗した時期については不明である。
地名については、元木、本木を使用するが、元木本木は地名を意味したものではなく、木材の部分の名称、即ち木の元の方、又は本の方であって西福寺の一番の冠称として使用したものが地名と混同されたかの如くである。
道のりについては當初は全く不統一であったが、歩くという経験の積重ねと道筋の確立によって実測に近い数字となってくる。…」
三番 無量寺(北区西ケ原)から一番 西福寺(北区豊島)への距離を考えてみます。Gooogle
Mapで測ってみると、2.45Km程です。「六阿弥陀獨案内案内」では25丁と書かれていますので、109m換算で2.7Kmとなります。上中里の跨線橋等で近くなっていることを考えると、100m位の誤差とおもえます。まあまあです。
「一番 西福寺」の縁起が「北区立郷土資料館 調査報告 第5号」に無いため、「
新編武蔵風土記稿 巻之17」から記載しておきます。
「西福寺 新義真言宗足立郡沼田村恵明寺末三縁山無量壽院と稱す本尊阿弥陀を置是世に所謂六阿弥陀の一なり縁起を閲するに聖武帝御宇當國の住人豊嶋左衛門清光紀伊國熊野権現を信し其霊夢に因て一社を王子村に建立し王子権現と崇め祀れり然るに清光子なきを憂ひ彼社に祈願せしに一人の女子を産す成長の後足立少輔某に嫁せしか舊具の備はらさるを以少輔に辱しめられしかは彼女私に逃れ荒川に身を投て死す父清光悲に堪す是より佛教に心を委ねしか或夜霊夢に因て異木を得たり折しも行基當國に来りし故清光其事を告しに行基即ちかの異木を以て六體の阿弥陀を彫刻し近郷六ヶ所に安置して彼女の追福とせり故に是を女人成佛の本尊と稱す當寺の本尊は其第一なり次は足立郡小臺村第三は當郡西ヶ原第四は田畑村第五は江戸下谷第六は葛飾郡亀戸村なりと云此説もとより妄誕にして信用すへきにあらされと當寺のみにあらす残る五ヶ所とともに、少の異同はあれと皆縁起なとありて世人の口碑に傳る所なれは其略を記しおきぬ且清光は権頭と稱し治承の頃の人なれは行基とは時代遥に後れたり中興の僧宥海延享三年六月八日寂す境内に延慶三年の古碑あり
鐘楼
寳暦七年鋳造の鐘をかく
地蔵堂
寛永年中江戸駒込に住する向西と云者相模國鎌倉延命寺の裸地蔵に志願ありて参祷せしに既に願望成就し且霊夢を蒙りて帰国の後彼像を模刻して爰に安置すと云」
「新編武蔵風土記稿
巻之17(明治17年に内務省地理局より発行されたものを参照)」は読みにくく苦労しました。何とか上記のように写すことができました。
【新編武蔵風土記稿(しんぺんむさしふどきこう)】
文化・文政期(1804年から1829年、化政文化の時期)に編まれた武蔵国の地誌で昌平坂学問所地理局による事業(林述斎・間宮士信ら)。1810年起稿。1830年完成。全266巻。地誌取調書上を各村に提出させたうえ、実地に出向いて調査した。調査内容は自然、歴史、農地、産品、神社、寺院、名所、旧跡、人物、旧家、習俗など、およそ土地・地域についての全ての事柄に渡る。新編とは、古風土記に対して新しいという意味で付けられている。洋装活字本としては、内務省地理局が編纂した物を全8冊にまとめて1969年(昭和44年)に歴史図書出版社が発行したものの他に、大日本地誌体系刊行の一環として雄山閣から1957年(昭和32年)に全13巻で発行された物、この地域を東京都区部・三多摩・埼玉等の地区別に分けて1981年(昭和57年)に千秋社から発行されたものがある。(ウイキペディア参照)
「谷中・根津・千駄木 其の六十五」からです。
「…〈二日目〉
今日は南北線本駒込駅から地下鉄を使って王子へ。前回挫折した西福寺から出発することにした。
無量寿院三縁山西福寺と称し、真言宗豊山派の寺。この寺には上野戦争の折に敗走し、飛鳥山の石神井川畔で官
軍に切られた彰義隊士六人を弔う慰霊碑が立っているので、以前訪ねたことがあった。…」
”
彰義隊士六人を弔う慰霊碑”はお寺を入って少し先の右側にありました。この六地蔵の左側に
慰霊碑があり、
「明治元年五月十五日彰義隊上野東叡山に?て破るるや其の内隊士六名飛鳥山石神河畔に到り戦歿す鎗溝の住人之を憐れみ一基を建立し其の霊を弔ひたるもの即ち是なり後昭和十一年道路改整のため當寺に移轉せるものなり
昭和十一年秋彼岸
堀船町 石神與八」
と書かれていました。六阿弥陀詣でには関係ないようです。
★写真は現在の一番 西福寺です。西福寺は昭和20年4月13日の赤羽の陸軍造兵廠を狙った空襲で焼けていますので現在の六阿弥陀はその後に作られたものです。一番
西福寺の門を入ると
三門です。その先に
本堂があります。本堂の中に入った左側に
石清水六阿弥陀が作られており、ここで全ての六阿弥陀詣でが出来るようになっています。
続きます。