●六阿弥陀を歩く -4-
    初版2016年12月3日  <V01L02> 暫定版

 六阿弥陀巡りを再開します。内容が濃いいので事前調査と写真撮影が大変です。かなりの距離を毎回歩いていますので、良い運動になります。今回は三番 西ケ原の無量寺から豊島の一番西福寺までを歩きます。本当に次になかなか進みません。 


「荷風随筆集」
<「荷風随筆集(上)」 岩波文庫(前回と同じ)>
 永井荷風を続けて掲載しようとおもい、「放水路」を読み始めたところ、書き出しに”大正三年秋の彼岸に、わたくしは久しく廃していた六阿弥陀詣を試みたことがあった。”とあり、六阿弥陀詣という単語を初めて知ったので、興味を引かれ、少し調べて見ました。

 永井荷風の「放水路」から、書き出しです。
「 隅田川の両岸は、千住から永代の橋畔に至るまで、今はいずこも散策の興を催すには適しなくなった。やむことをえず、わたくしはこれに代るところを荒川放水路の堤に求めて、折々杖を曳くのである。
 荒川放水路は明治四十三年の八月、都下に未曾有の水害があったため、初めて計画せられたものであろう。しかしその工事がいつ頃起され、またいつ頃終ったか、わたくしはこれを詳にしない。
 大正三年秋の彼岸に、わたくしは久しく廃していた六阿弥陀詣を試みたことがあった。わたくしは千住の大橋をわたり、西北に連る長堤を行くこと二里あまり、南足立郡沼田村にある六阿弥陀第二番の恵明寺に至ろうとする途中、休茶屋の老婆が来年は春になっても荒川の桜はもう見られませんよと言って、悵然として人に語っているのを聞いた。…」

 ”六阿弥陀詣”については全く知識が無かったので、”南足立郡沼田村にある六阿弥陀第二番の恵明寺”とあるのですが、何の二番なのか、何の順番なのか、またきっと前後の番号のお寺があるのではないかとおもいました。

写真は岩波文庫の「荷風随筆集(上)」です。荷風全集を読むのは大変なので、一寸読むには丁度良い大きさで、読みやすいです。

「文がたみ」
<「永井荷風文がたみ」 近藤冨枝 宝文館(前回と同じ)>
 もう少し調べて見ようと思い、探したところ、荷風研究で有名な近藤富枝さんが「永井荷風 文がたみ」の中で、”六阿弥陀詣”について書かれていました。永井荷風と六阿弥陀詣の関係が分かるかとおもい読んでみました。

  近藤富枝さんの「永井荷風文がたみ」からです。
「     3 六阿彌陀詣
  (大正十三年九月廿二日 断腸亭日乗)
 微雨午に近く霽る。今年は是非にも六阿弥陀詣をなさむと思ひ居たりしが、雨後の泥濘をおそれて空しく家にとゞまりぬ。亡友唖々子と朝まだき家を出で、まづ亀戸村の常光寺に赴き、それより千住に出で、荒川堤を歩み、順次に六阿弥陀を巡拝せしは大正三年甲寅の秋なりき。荒川堤に狐の腰掛と俗にいふ赤き雑草の花おびたゞしく咲きたるさま今も猶目に残りたり。滝野川のとある人家に梯の老樹の枝も折れむばかり実を結びたる、又西ケ原無量寺の庭に雁来紅の燃るが如く生茂りたるさま、倶に記憶を去らず。次の年大正四年春の彼岸には病みて独り大久保の家に在り。其年の秋分には吾健かなりしが、唖々子病みて歩みがたしとの事に、独り築地一丁目の僑居を出で田端より西ヶ原まで歩みしが、唯一人にては興なくて王子より汽車に乗りて空しく帰り来りぬ。その後は数年にわたりて腹痛治せざりしため、遠く歩むこと能はず、病やゝ快くなりて後も年々何事にか妨げられて再遊の願は遂に果すの期なく今日に至れり。唖り子は既に世を去り、西ヶ原田端あたり近郊一帯の風景も塵土にまみれて、十年前の趣は再び尋るによしなし。曾て撮影せし写真去年の大火以後一層珍らしきものになりぬ。

 六阿弥陀めぐりは、春秋の彼岸に
      一番 豊島村 (北区)   西福寺
      二番 下沼田村(足立区) 延命院
      三番 西ケ原 (北区)   無量寺
      四番 田端村 (北区)   與楽寺
      五番 下谷広小路(台東区)常楽院
      六番 亀 戸 (江東区)  常光寺
 の六寺を徒歩で参詣して廻ることをいう。五番の広小路常楽院だけが市内で、あとは郡部に属している。常楽院は今の広小路赤札堂がその跡だそうだ。…」

 上記の断腸亭日乗の部分に関しては、近藤富枝さんの原文そのままでは無く、岩波書店の新版 断腸亭日乗 第一巻から少し長く引用しています。ここで、六阿弥陀とは六つの寺からなっていて、春秋の彼岸に順に参拝することが分かります。”二番 下沼田村(足立区) 延命院”と書いていますが、このお寺は明治初期に無くなって、直ぐ近くの恵明寺に移っています。荷風は大正3年秋に唖々子と亀戸の常光寺から順に回ったようです。

写真は近藤富枝さんの「永井荷風文がたみ」 です。宝文館の発行です。荷風研究には、必須です。 残念ながら近藤富枝さんは今年の7月に亡くなられました。ご冥福をお祈りします。

「東京人」
<「東京人 花と水に遊ぶ 江戸の六阿弥陀詣で」 山本容朗 宝文館(前回と同じ)>
 実際に”六阿弥陀詣”に行かれた方の書いた本がないか探したのですが、平成3年(1991)6月発行の「東京人」に記載があるのを見つけました。表紙には記載が無く、探すのに苦労しました。

  山本容朗さんの「花と水に遊ぶ 江戸の六阿弥陀詣で」からです。
「東京人 平成3年6月 

花と水に遊ぶ江戸の六阿彌陀′wで
●荒川堤の桜と音無川の紅葉
 「江戸六阿彌陀」詣でに興味を持ったのは、永井荷風の「放水路」という一文を読んで以来だから、かなりの昔である。
 この荷風の随筆は、「鐘の聲」、「寺じまの記」とあわせて三篇、「残春雑記」というタイトルで昭和十一年(一九三六)六月、『中央公論』に発表となった。…」

 内容を読むと、動機は私と全く同じで、ビックリしました。永井荷風の「放水路」からです、他の本で”六阿弥陀詣”について書いた本が無いので、なかなか”六阿弥陀詣”にたどり着かないのです。有名な文壇の方が書かれれば少しは表にでるとおもいます。

写真は平成3年(1991)6月発行の「東京人」です。P105から7ページほど書かれています。山本容朗さんは残念ながら平成25年に亡くなられています。

「調査報告 第5号」
<「北区立郷土資料館 調査報告 第5号」 塚田芳雄 北区教育委員会(前回と同じ)>
 六阿弥陀とは六つの寺からなっていて、春秋の彼岸に順に参拝することは分かったのですが、六阿弥陀が出来た縁起や、時期等がまだよく分かっていないので、もう少し調べてみました。東京都立図書館で調べたところ、数冊の本が検索できました。その中で、一番詳しそうだったのが「六阿弥陀の研究 上 下(昭和54年発行)」でした。この本は手書きのコピーに表紙を付けて綴じてあるだけの本で、見にくいところもあり、困っていたところ、「六阿弥陀の研究 上 下(昭和54年発行)」を纏めて、「北区立郷土資料館 調査報告 第5号」として発行しているのをみつけました。この本の発行日は平成3年(1991)年で、執筆者は塚田芳雄とあり、「六阿弥陀の研究 上 下(昭和54年発行)」と同じ方でした。

  塚田芳雄さんの「北区立郷土資料館 調査報告 第5号」から、”目次”です。
「北区立郷土資料館 調査報告書 第5号 六阿弥陀

          目   次

      無量寺縁起 ………… 1
       付、六阿弥陀伝記 … 2
      与楽寺縁起 ………… 3
      常光寺縁起 ………… 4
      常楽院縁起 ………… 5
       付、西福寺のこと … 6
      六阿弥陀の案内 …… 7
      末木の観音 ………… 13
      六阿弥陀詣 ………… 14
       付、ひいもと草 …… 15
      六あみだの標石 …… 16
       付、阿弥陀伝記 …… 19
      六あみだと川柳 ……… 20
      六阿弥陀御詠歌と和讃 … 23
      六阿弥陀の縁組 ……… 24
      六阿弥陀と六地蔵 …… 26
      木余り如来 …………… 28
      終わりに ……………… 30    …」

 この本は六阿弥陀について現在分かる内容が全て網羅されているとおもいます。非常に参考になる本です。

写真は北区教育委員会発行の「北区立郷土資料館 調査報告 第5号」です。この一冊全てが六阿弥陀について書かれています。執筆者は塚田芳雄さんです。残念ながらこの本は在庫がなく新たに入手することはできません。図書館等で見るか、一部分をコピー出来るだけです。

「谷中根津千駄木」
<「谷中・根津・千駄木 其の六十五」 谷根千工房(前回と同じ)>
 現在の六阿弥陀を実際に歩いて回って書いている本がありました。地域雑誌としてはとても有名な谷根千工房発行の「谷中・根津・千駄木」です。掲載されたのは六十五(平成13年(2001))で少し古いですが、谷中、千駄木界隈は変っていませんので十分に楽しめます。又、六阿弥陀から六地蔵まで書かれていますので、次は六地蔵回りでもしようかなとおもっています。

  「谷中・根津・千駄木 其の六十五」からです。
「  六阿弥陀詣

 土地の古老から六阿弥陀詣の話をよく聞かされた。春秋の彼岸に、たんぽの真ん中の道を、お遍路さんの白装束、鈴を鳴らして通る。巡礼者の巡る道を六阿弥陀道という。谷中コミュニティセンターの前の道がそれである。
 調べてみると六阿弥陀の由来は古く、第四十五代聖武天皇のころ、つまり奈良時代にあってもっとも仏教が尊ばれ、広まっていたころにさかのぼる。
 では正岡子規  野の道や梅から梅へ六阿弥陀の句に誘われ、私たちも歩いてみよう。…」

 六阿弥陀を回るときは”お遍路さんの白装束、鈴を鳴らして通る”だったのですね、四国のお遍路さんと同じです。もっと気楽に、行楽に行くときのカッコかなとおもっていたのですが、信心深いです。

写真は谷根千工房発行の「谷中・根津・千駄木 其の六十五」です。平成13年(2001)発行で、古いのですが在庫があり、通販で購入できます。

「北区の古い道…」
<「北区の古い道と道しるべ」 北区教育委員会(前回と同じ)>
 北区の資料としては「北区立郷土資料館 調査報告 第5号」が六阿弥陀について細かく書かれていたのですが、関連資料として「北区の古い道と道しるべ」が六阿弥陀について少し書かれていました。江戸時代から明治の初め頃は、地図がいい加減(下記の項の地図参照)で、地図のみでは歩けなかったとおもわれ、道標が頼りではなかったかとおもいます。当時の道標で、僅かに残ったものを解説しているのが北区教育委員会発行の「北区の古い道と道しるべ」です。

  「北区の古い道と道しるべ」からです。
「六阿弥陀道
   六阿弥陀
 南無阿弥陀仏の六字の名号にちなんで、六ヶ所の阿弥陀像を巡拝する「六阿弥陀詣」は各地に見られるが、この北区を中心にした六阿弥陀は特に武州(武蔵国)六阿弥陀とも呼ばれ、江戸時代はその巡拝が春秋彼岸の行事として盛んに行なわれていた。…」

 この本は六阿弥陀について現在分かる内容が全て網羅されているとおもいます。非常に参考になる本です。

写真は北区教育委員会発行の「北区の古い道と道しるべ」です。北区に現存する道標について解説しています。この道標を参考にすると、当時の道が蘇ってきます。これで、当時の人達が六阿弥陀詣に歩いた道が分かるはずです。

 まだまだ”六阿弥陀”について紹介したい本があるのですが、本の紹介だけで終ってしまいそうなので、順に紹介していきたいとおもいます。

「六阿弥陀絵巻」
<「北区の六阿弥陀絵巻」 北区教育委員会>
 一般向けと言うか、子供向けに書かれた六阿弥陀詣についての資料です。北区の資料としては「北区立郷土資料館 調査報告 第5号」が六阿弥陀について本格的に書かれていますが、分かりやすい資料としては此方のほうが参考になります。

  「北区の六阿弥陀絵巻」からです。
「    は じ め に
              郷土博物館建設準備室長
                  菅 野 和 昭
 六阿弥陀巡りは、江戸時代に始まるどされ、現在でも多くの人びとが参詣しております。
 六阿弥陀の由来にまつわる話は、さまざまな内容をもって伝えられていますが、北区の地が、深い関わりをもっていることはいうまでもありません。一番から六番までの寺院のうち、北区に三つの寺院があることからも想像できます。
 今回は、この六阿弥陀の話を絵巻風にまとめたものであります。さらに、六阿弥陀に関する解説も加えましたので、あわせてお読みいただきたいと思います。…」

 最後に”記録に残る六阿弥陀”として昔(江戸時代?)のお寺の絵が掲載されています。このお寺の絵で、六阿弥陀詣の雰囲気がわかります。

写真は北区教育委員会発行の「北区の六阿弥陀絵巻」です六阿弥陀について絵巻物風に分かりやすく書かれています。

 まだまだ”六阿弥陀”について紹介したい本があるのですが、本の紹介だけで終ってしまいそうなので、順に紹介していきたいとおもいます。



六阿弥陀詣全体地図



「印刷局滝野川工場」
<印刷局滝野川工場>
 今回は、先ず「谷中・根津・千駄木 其の六十五」に沿って、三番 無量寺から一番 西福寺(北区豊島)までを歩きます。無量寺から本郷通りに出て、西ヶ原一里塚を通り、飛鳥山から王子駅のガードをくぐって印刷局前を過ぎて北区豊島の一番 西福寺に向います。

 「谷中・根津・千駄木 其の六十五」からです。
「… 日暮れと競争で西ヶ原一里塚をすぎ、王子駅のガードをくぐり、大蔵省から財務省に変わったばかりの印刷局滝野川工場の前に出る。ここは石井柏亭とその父鼎湖が紙幣の図案を描いていたところ。そして六阿弥陀仏第一番霊場の西福寺に到着した。

 ここで日が暮れた。西福寺の門はすでに閉じている。ぼうぼう寄り道したとはいえ、昔の人の健脚に比べ我が身の足弱を嘆き、王子駅前の韓国風居酒屋で煮込みを肴に熱燗を一杯。寒いので腹にしみる。

〈二日目〉
 今日は南北線本駒込駅から地下鉄を使って王子へ。前回挫折した西福寺から出発することにした。
 無量寿院三縁山西福寺と称し、真言宗豊山派の寺。この寺には上野戦争の折に敗走し、飛鳥山の石神井川畔で官
軍に切られた彰義隊士六人を弔う慰霊碑が立っているので、以前訪ねたことがあった。…」

 朝、上野を出発して取材をしながら五番 常楽院別院、四番 与楽寺、三番 無量寺と回ってくると、ほとんど夕方になります。上記に書かれている”王子駅前の韓国風居酒屋”を探したのですが、15年前なので残っていないのではないかとおもいましたが、王子駅の裏手に一軒ありました。この店かどうかは分かりません。

写真は現在の独立行政法人 国立印刷局 王子工場です。写真左側は”お札と切手の博物館”です。明治8年(1875)には抄紙局(現王子工場)が王子に設置されています。下記(6)の明治初期の地図には抄紙部として記載があります。

「扇子屋」
<扇子屋、海老屋>
 江戸時代の六阿弥陀詣では遊びの要素が多分にあったようです。この辺りでは王子稲荷神社、王子神社もあり人出も多かったようで、そのような場所には必ず遊び場所が出来ます。石神井川(この附近では音無川、王子川、滝野川とも呼ばれていた)沿にあった扇子屋、海老屋が有名です。

 「六阿弥陀詣、同御縁起略記、阿弥陀如来御伝記、永寿堂新刊」からです。
「…はや午時の鐘に驚きて急ぎけるまま無量寺に至り懇に称名して此寺の奥山より街道に出る。是板橋の駅の往還也。傍らの平塚明神を遥拝し飛鳥山を過ぎて王子の両社へ額突、かへるさに扇子屋海老屋と聞えし方に酒杯を巡らし、晝餉などしたためて立ち出しに、春の日の暮遅きを頼みに、人々に打群れ見上。峠にさしかかり(これより秋景をいふ)道もせき咲続きたる草の花を分けて虫の声に哀を催ふし、登伏したる田面に豊作を悦びて。猶疇を伝ひければ、梶原堀之内といふ村を過るに程なく沼田村に来る。爰は長福寺とて第一番の御佛なれば尊容も丈高くまします。参詣の輩いかめしく鉦鼓打鳴らし念佛す。倶に信を発して同意し賽す。黍禝をしおり行けば時ながら雲井を渡る初雁の羽うちかはし啼く声にいよいよ秋情膓を断つと云へるは是なるべし。…」
 ”はや午時の鐘に驚きて急ぎけるまま無量寺に至り”となれば、六阿弥陀詣でで今日中に回れるのは一番 西福寺までが限界です。何処かに宿泊しようとおもえば王子付近となります。”王子の両社”とは上記にも書きましたが、王子稲荷神社、王子神社です。”扇子屋海老屋”は料亭で、下記の(5)江戸切絵図にも記載があります。

 ”此寺の奥山より街道に出る。是板橋の駅の往還也”の街道とは現在の本郷通り、旧日光御成街道(岩槻街道)です。本郷通りは東大農学部前で国道17号(中山道)と分かれて、都道455号(日光御成街道(岩槻街道))となります。

写真は明治時代後期から大正時代にかけての扇屋の絵葉書です(現在の写真)。出典は東京都立中央図書館所蔵資料です。お借りしています。手前が石神井川です。扇屋さんはつい先頃まで営業(平成12年(2000)の営業をされていた頃の写真)をされていましたが現在は廃業されて玉子のみの販売をされているようで、玉子の販売も予約販売のようです(平日の午後、何度か訪ねましたがお店は開いていませんでした)。昔購入した玉子焼きの写真を掲載しておきます。

 <玉子と卵について>
 よくご存知とはおもいますが、玉子と卵について説明します。生のままを卵といい、加熱処理したものを玉子といいます。ですから、焼いたものは玉子焼きが正解です。卵焼きと書くのは良くありません。



(1)西ヶ原、王子附近地図



「上中里 城官寺」
<上中里 城官寺>
 王子付近を寄らずに真っ直ぐ三番 無量寺(北区西ケ原)から一番 西福寺(北区豊島)へ向います(この道が本筋)。無量寺参拝後、門前に戻り(昔は無量寺の中を抜けられた)旧古河庭園沿に北に上がります。そのまま上がるのではなく、途中で左に折れます(昔の無量寺裏の道に戻ります)。その道を道なりに行くと、本郷通り手前で、無量寺の道標があり、昔の道であることがわかります。本郷通りを渡ると、平塚神社の入口があり、その左に浅見光彦で有名な平塚亭があります。ここでは団子休憩です(残念ながらお店の中では食べられません)。平塚神社の本殿はここからかなり先にあり、その手前の右側に城官寺への入口があります。

 「北区の古い道と道しるべ」からです。
「… 上中里の城官寺では春秋の彼岸に六阿弥陀詣での人々へ茶を接待したという。…」
 明治初期の地図を見ると、無量寺の中を抜け真っ直ぐに平塚神社へ向うか、右寄りの道を通って城官寺を抜けて行く道筋があったようです。下記の(6)、(7)の明治初期の地図を参照して下さい。平塚神社の本殿の写真も掲載しておきます。

写真は現在の城官寺です。昔はもっと大きかったのではないかとおもいますが、現在はこじんまりとしたお寺です。空襲では焼けていない地域ですから建物は昔のままとおもいます。

「福性寺門前の道標」
<福性寺門前の道標>
 今回も「六阿弥陀獨案内案内」と書かれている江戸時代の地図を参考にします(前回と同じ地図です)。赤印、青印等と書かれていますので、本物はカラーだったようです。又、この地図は距離や方向は全く無視して書かれていますので、単純に見ると、現在の地図と比べようがありません。ただ、固有名詞である寺の名前等が書かれており、現在の寺の場所と見比べていけば、道筋が分かる可能性があります。今回、三番 無量寺(北区西ケ原)から一番 西福寺(北区豊島)までの間に地図上に書かれている神社、お寺他は、平塚明神(神社)、城官寺、中里村、梶原?です。

 山本容朗さんの「花と水に遊ぶ 江戸の六阿弥陀詣で」からです。
「… 無量寺を出て平塚神社、上中里駅横で鉄道線路にかかる橋を渡り、いかにも下町の商店街らしい町中を通り、尾久駅構内に近い踏切りを越す。やがて、三ノ輪へ通じるバス道路と都電荒川線の「梶原」という駅を左手に見ながら過ぎると、梶原商店街。なお、隅田川へ出るつもりで歩くと、福性寺が見える。その前に、道しるべが刻まれた地蔵がある。これは珍らしい。川を右手に感じながら歩いて行くと、豊石橋に出る。一番はもう目前である。
 日が暮れてきた。Yさんと私は王子の扇屋へ足を向けた。とおわりたい、ところだが、二人は豊島二丁目の豊島橋へ通じる道路沿いにある「手打ち砂場」というそぱ屋へ入った。…」

 山本容朗さんは江戸時代の六阿弥陀詣での道を辿っています。「六阿弥陀獨案内案内」と同じ道筋とおもわれます。上記の「手打ち砂場」とはこのお店ではないでしょうか?

 <三番 無量寺(北区西ケ原)から一番 西福寺(北区豊島)までの道筋>
・無量寺(北区西ケ原)→平塚神社の入口→城官寺→上中里駅横の陸橋上中里駅陸橋の降り口尾久の操車場(昔の道は操車場で途切れているので踏切を回る)→上中銀座都電梶原駅都電最中お店)→梶原商店街地蔵の道しるべ福性寺豊石橋昔は川に真っ直ぐに橋が架かっていた跡があります)→一番 西福寺(北区豊島)
 
写真は福性寺門前の道標です。福性寺門前からは数十メートル手前にあります。右側の地蔵が道標で、この地蔵の左側に”六阿弥陀左一番目道”と書かれています。左側の道を道なりに(左右に曲がります)行くと豊石橋から一番 西福寺(北区豊島)にたどり着きます。昔は畑の中の道だったので、分かりやすかったのだとおもいますが、下町の中の道は分り難いです。

 <下記の江戸切絵図の補説>
・東覚寺 赤仁王:(江戸切絵図に記載ありA)
・西行アン:現在の田端三丁目にあった普門寺の西行庵のこと、明治に東覚寺へ移転(江戸切絵図に記載ありB)
・ヤクシ:光明寺内の薬師堂のこと(江戸切絵図に記載ありC)
・光明寺(江戸切絵図に記載ありC)
・大龍寺(江戸切絵図に記載ありD)
・四番 与楽寺(江戸切絵図に記載あり@)
・一番 西福寺(江戸切絵図に記載ありE)
・二番 延命寺(江戸切絵図に記載ありF)
・三番 無量寺(江戸切絵図に記載ありG)
・平塚社:平塚神社(江戸切絵図に記載ありH)
・城官寺(江戸切絵図に記載ありI)
・昌林寺(江戸切絵図に記載ありJ)
・扇屋(江戸切絵図に記載ありK)

 <明治初期の地図の間違い>
・無量寺と不動院が逆に書かれています。赤字が正しい。



(2)六阿弥陀獨案内(江戸時代)



(3)下谷 五番 常楽院から四番 与楽寺まで(拡大図)



(4)江戸切絵図(根岸谷中日暮里豊島邊図より抜粋)



(5)江戸切絵図(染井王子巣鴨邊絵図より一部抜粋)



「一番 西福寺」
<一番 西福寺 北区豊島>
 やっと一番 西福寺(北区豊島)にたどり着きました。道としては王子駅経由での道筋と、上中里駅から福性寺経由の道筋の二つがありますが、本来は上中里駅から福性寺経由だとおもいます。

塚田芳雄さんの「北区立郷土資料館 調査報告 第5号」からです。
     西福寺のこと
  西福寺は六ヶ寺の中では表記等について混同が多くみられる。西福寺は当初禅宗長福寺であり、享保初めに西福寺と改称するが、禅宗から真言宗に改宗した時期については不明である。
 地名については、元木、本木を使用するが、元木本木は地名を意味したものではなく、木材の部分の名称、即ち木の元の方、又は本の方であって西福寺の一番の冠称として使用したものが地名と混同されたかの如くである。
 道のりについては當初は全く不統一であったが、歩くという経験の積重ねと道筋の確立によって実測に近い数字となってくる。…」

 三番 無量寺(北区西ケ原)から一番 西福寺(北区豊島)への距離を考えてみます。Gooogle Mapで測ってみると、2.45Km程です。「六阿弥陀獨案内案内」では25丁と書かれていますので、109m換算で2.7Kmとなります。上中里の跨線橋等で近くなっていることを考えると、100m位の誤差とおもえます。まあまあです。

 「一番 西福寺」の縁起が「北区立郷土資料館 調査報告 第5号」に無いため、「新編武蔵風土記稿 巻之17」から記載しておきます。
「西福寺 新義真言宗足立郡沼田村恵明寺末三縁山無量壽院と稱す本尊阿弥陀を置是世に所謂六阿弥陀の一なり縁起を閲するに聖武帝御宇當國の住人豊嶋左衛門清光紀伊國熊野権現を信し其霊夢に因て一社を王子村に建立し王子権現と崇め祀れり然るに清光子なきを憂ひ彼社に祈願せしに一人の女子を産す成長の後足立少輔某に嫁せしか舊具の備はらさるを以少輔に辱しめられしかは彼女私に逃れ荒川に身を投て死す父清光悲に堪す是より佛教に心を委ねしか或夜霊夢に因て異木を得たり折しも行基當國に来りし故清光其事を告しに行基即ちかの異木を以て六體の阿弥陀を彫刻し近郷六ヶ所に安置して彼女の追福とせり故に是を女人成佛の本尊と稱す當寺の本尊は其第一なり次は足立郡小臺村第三は當郡西ヶ原第四は田畑村第五は江戸下谷第六は葛飾郡亀戸村なりと云此説もとより妄誕にして信用すへきにあらされと當寺のみにあらす残る五ヶ所とともに、少の異同はあれと皆縁起なとありて世人の口碑に傳る所なれは其略を記しおきぬ且清光は権頭と稱し治承の頃の人なれは行基とは時代遥に後れたり中興の僧宥海延享三年六月八日寂す境内に延慶三年の古碑あり
鐘楼
寳暦七年鋳造の鐘をかく
地蔵堂
寛永年中江戸駒込に住する向西と云者相模國鎌倉延命寺の裸地蔵に志願ありて参祷せしに既に願望成就し且霊夢を蒙りて帰国の後彼像を模刻して爰に安置すと云」

 「新編武蔵風土記稿 巻之17(明治17年に内務省地理局より発行されたものを参照)」は読みにくく苦労しました。何とか上記のように写すことができました。

【新編武蔵風土記稿(しんぺんむさしふどきこう)】
 文化・文政期(1804年から1829年、化政文化の時期)に編まれた武蔵国の地誌で昌平坂学問所地理局による事業(林述斎・間宮士信ら)。1810年起稿。1830年完成。全266巻。地誌取調書上を各村に提出させたうえ、実地に出向いて調査した。調査内容は自然、歴史、農地、産品、神社、寺院、名所、旧跡、人物、旧家、習俗など、およそ土地・地域についての全ての事柄に渡る。新編とは、古風土記に対して新しいという意味で付けられている。洋装活字本としては、内務省地理局が編纂した物を全8冊にまとめて1969年(昭和44年)に歴史図書出版社が発行したものの他に、大日本地誌体系刊行の一環として雄山閣から1957年(昭和32年)に全13巻で発行された物、この地域を東京都区部・三多摩・埼玉等の地区別に分けて1981年(昭和57年)に千秋社から発行されたものがある。(ウイキペディア参照)

「谷中・根津・千駄木 其の六十五」からです。
「…〈二日目〉
 今日は南北線本駒込駅から地下鉄を使って王子へ。前回挫折した西福寺から出発することにした。
 無量寿院三縁山西福寺と称し、真言宗豊山派の寺。この寺には上野戦争の折に敗走し、飛鳥山の石神井川畔で官
軍に切られた彰義隊士六人を弔う慰霊碑が立っているので、以前訪ねたことがあった。…」

 ”彰義隊士六人を弔う慰霊碑”はお寺を入って少し先の右側にありました。この六地蔵の左側に慰霊碑があり、
「明治元年五月十五日彰義隊上野東叡山に?て破るるや其の内隊士六名飛鳥山石神河畔に到り戦歿す鎗溝の住人之を憐れみ一基を建立し其の霊を弔ひたるもの即ち是なり後昭和十一年道路改整のため當寺に移轉せるものなり
昭和十一年秋彼岸
                   堀船町 石神與八」
と書かれていました。六阿弥陀詣でには関係ないようです。

写真は現在の一番 西福寺です。西福寺は昭和20年4月13日の赤羽の陸軍造兵廠を狙った空襲で焼けていますので現在の六阿弥陀はその後に作られたものです。一番 西福寺の門を入ると三門です。その先に本堂があります。本堂の中に入った左側に石清水六阿弥陀が作られており、ここで全ての六阿弥陀詣でが出来るようになっています。


 続きます。


(6)上中里・西ヶ原(明治初期の地図)



(7)上野・谷中(明治初期の地図)