●六阿弥陀を歩く -3-
    初版2016年11月5日  <V01L03> 暫定版

 六阿弥陀を順に回っています。前回は五番 下谷広小路 常楽院跡から四番 田端の与楽寺までを歩きました。今回は四番 田端の与楽寺から三番 西ケ原の無量寺まで歩きます。なかなか次に進みません。 


「荷風随筆集」
<「荷風随筆集(上)」 岩波文庫(前回と同じ)>
 永井荷風を続けて掲載しようとおもい、「放水路」を読み始めたところ、書き出しに”大正三年秋の彼岸に、わたくしは久しく廃していた六阿弥陀詣を試みたことがあった。”とあり、六阿弥陀詣という単語を初めて知ったので、興味を引かれ、少し調べて見ました。

 永井荷風の「放水路」から、書き出しです。
「 隅田川の両岸は、千住から永代の橋畔に至るまで、今はいずこも散策の興を催すには適しなくなった。やむことをえず、わたくしはこれに代るところを荒川放水路の堤に求めて、折々杖を曳くのである。
 荒川放水路は明治四十三年の八月、都下に未曾有の水害があったため、初めて計画せられたものであろう。しかしその工事がいつ頃起され、またいつ頃終ったか、わたくしはこれを詳にしない。
 大正三年秋の彼岸に、わたくしは久しく廃していた六阿弥陀詣を試みたことがあった。わたくしは千住の大橋をわたり、西北に連る長堤を行くこと二里あまり、南足立郡沼田村にある六阿弥陀第二番の恵明寺に至ろうとする途中、休茶屋の老婆が来年は春になっても荒川の桜はもう見られませんよと言って、悵然として人に語っているのを聞いた。…」

 ”六阿弥陀詣”については全く知識が無かったので、”南足立郡沼田村にある六阿弥陀第二番の恵明寺”とあるのですが、何の二番なのか、何の順番なのか、またきっと前後の番号のお寺があるのではないかとおもいました。

写真は岩波文庫の「荷風随筆集(上)」です。荷風全集を読むのは大変なので、一寸読むには丁度良い大きさで、読みやすいです。

「文がたみ」
<「永井荷風文がたみ」 近藤冨枝 宝文館(前回と同じ)>
 もう少し調べて見ようと思い、探したところ、荷風研究で有名な近藤富枝さんが「永井荷風 文がたみ」の中で、”六阿弥陀詣”について書かれていました。永井荷風と六阿弥陀詣の関係が分かるかとおもい読んでみました。

  近藤富枝さんの「永井荷風文がたみ」からです。
「     3 六阿彌陀詣
  (大正十三年九月廿二日 断腸亭日乗)
 微雨午に近く霽る。今年は是非にも六阿弥陀詣をなさむと思ひ居たりしが、雨後の泥濘をおそれて空しく家にとゞまりぬ。亡友唖々子と朝まだき家を出で、まづ亀戸村の常光寺に赴き、それより千住に出で、荒川堤を歩み、順次に六阿弥陀を巡拝せしは大正三年甲寅の秋なりき。荒川堤に狐の腰掛と俗にいふ赤き雑草の花おびたゞしく咲きたるさま今も猶目に残りたり。滝野川のとある人家に梯の老樹の枝も折れむばかり実を結びたる、又西ケ原無量寺の庭に雁来紅の燃るが如く生茂りたるさま、倶に記憶を去らず。次の年大正四年春の彼岸には病みて独り大久保の家に在り。其年の秋分には吾健かなりしが、唖々子病みて歩みがたしとの事に、独り築地一丁目の僑居を出で田端より西ヶ原まで歩みしが、唯一人にては興なくて王子より汽車に乗りて空しく帰り来りぬ。その後は数年にわたりて腹痛治せざりしため、遠く歩むこと能はず、病やゝ快くなりて後も年々何事にか妨げられて再遊の願は遂に果すの期なく今日に至れり。唖り子は既に世を去り、西ヶ原田端あたり近郊一帯の風景も塵土にまみれて、十年前の趣は再び尋るによしなし。曾て撮影せし写真去年の大火以後一層珍らしきものになりぬ。

 六阿弥陀めぐりは、春秋の彼岸に
      一番 豊島村 (北区)   西福寺
      二番 下沼田村(足立区) 延命院
      三番 西ケ原 (北区)   無量寺
      四番 田端村 (北区)   與楽寺
      五番 下谷広小路(台東区)常楽院
      六番 亀 戸 (江東区)  常光寺
 の六寺を徒歩で参詣して廻ることをいう。五番の広小路常楽院だけが市内で、あとは郡部に属している。常楽院は今の広小路赤札堂がその跡だそうだ。…」

 上記の断腸亭日乗の部分に関しては、近藤富枝さんの原文そのままでは無く、岩波書店の新版 断腸亭日乗 第一巻から少し長く引用しています。ここで、六阿弥陀とは六つの寺からなっていて、春秋の彼岸に順に参拝することが分かります。”二番 下沼田村(足立区) 延命院”と書いていますが、このお寺は明治初期に無くなって、直ぐ近くの恵明寺に移っています。荷風は大正3年秋に唖々子と亀戸の常光寺から順に回ったようです。

写真は近藤富枝さんの「永井荷風文がたみ」 です。宝文館の発行です。荷風研究には、必須です。 残念ながら近藤富枝さんは今年の7月に亡くなられました。ご冥福をお祈りします。

「東京人」
<「東京人 花と水に遊ぶ 江戸の六阿弥陀詣で」 山本容朗 宝文館(前回と同じ)>
 実際に”六阿弥陀詣”に行かれた方の書いた本がないか探したのですが、平成3年(1991)6月発行の「東京人」に記載があるのを見つけました。表紙には記載が無く、探すのに苦労しました。

  山本容朗さんの「花と水に遊ぶ 江戸の六阿弥陀詣で」からです。
「東京人 平成3年6月 

花と水に遊ぶ江戸の六阿彌陀′wで
●荒川堤の桜と音無川の紅葉
 「江戸六阿彌陀」詣でに興味を持ったのは、永井荷風の「放水路」という一文を読んで以来だから、かなりの昔である。
 この荷風の随筆は、「鐘の聲」、「寺じまの記」とあわせて三篇、「残春雑記」というタイトルで昭和十一年(一九三六)六月、『中央公論』に発表となった。…」

 内容を読むと、動機は私と全く同じで、ビックリしました。永井荷風の「放水路」からです、他の本で”六阿弥陀詣”について書いた本が無いので、なかなか”六阿弥陀詣”にたどり着かないのです。有名な文壇の方が書かれれば少しは表にでるとおもいます。

写真は平成3年(1991)6月発行の「東京人」です。P105から7ページほど書かれています。山本容朗さんは残念ながら平成25年に亡くなられています。

「調査報告 第5号」
<「北区立郷土資料館 調査報告 第5号」 塚田芳雄 北区教育委員会(前回と同じ)>
 六阿弥陀とは六つの寺からなっていて、春秋の彼岸に順に参拝することは分かったのですが、六阿弥陀が出来た縁起や、時期等がまだよく分かっていないので、もう少し調べてみました。東京都立図書館で調べたところ、数冊の本が検索できました。その中で、一番詳しそうだったのが「六阿弥陀の研究 上 下(昭和54年発行)」でした。この本は手書きのコピーに表紙を付けて綴じてあるだけの本で、見にくいところもあり、困っていたところ、「六阿弥陀の研究 上 下(昭和54年発行)」を纏めて、「北区立郷土資料館 調査報告 第5号」として発行しているのをみつけました。この本の発行日は平成3年(1991)年で、執筆者は塚田芳雄とあり、「六阿弥陀の研究 上 下(昭和54年発行)」と同じ方でした。

  塚田芳雄さんの「北区立郷土資料館 調査報告 第5号」から、”目次”です。
「北区立郷土資料館 調査報告書 第5号 六阿弥陀

          目   次

      無量寺縁起 ………… 1
       付、六阿弥陀伝記 … 2
      与楽寺縁起 ………… 3
      常光寺縁起 ………… 4
      常楽院縁起 ………… 5
       付、西福寺のこと … 6
      六阿弥陀の案内 …… 7
      末木の観音 ………… 13
      六阿弥陀詣 ………… 14
       付、ひいもと草 …… 15
      六あみだの標石 …… 16
       付、阿弥陀伝記 …… 19
      六あみだと川柳 ……… 20
      六阿弥陀御詠歌と和讃 … 23
      六阿弥陀の縁組 ……… 24
      六阿弥陀と六地蔵 …… 26
      木余り如来 …………… 28
      終わりに ……………… 30    …」

 この本は六阿弥陀について現在分かる内容が全て網羅されているとおもいます。非常に参考になる本です。

写真は北区教育委員会発行の「北区立郷土資料館 調査報告 第5号」です。この一冊全てが六阿弥陀について書かれています。執筆者は塚田芳雄さんです。残念ながらこの本は在庫がなく新たに入手することはできません。図書館等で見るか、一部分をコピー出来るだけです。

「谷中根津千駄木」
<「谷中・根津・千駄木 其の六十五」 谷根千工房(前回と同じ)>
 現在の六阿弥陀を実際に歩いて回って書いている本がありました。地域雑誌としてはとても有名な谷根千工房発行の「谷中・根津・千駄木」です。掲載されたのは六十五(平成13年(2001))で少し古いですが、谷中、千駄木界隈は変っていませんので十分に楽しめます。又、六阿弥陀から六地蔵まで書かれていますので、次は六地蔵回りでもしようかなとおもっています。

  「谷中・根津・千駄木 其の六十五」からです。
「  六阿弥陀詣

 土地の古老から六阿弥陀詣の話をよく聞かされた。春秋の彼岸に、たんぽの真ん中の道を、お遍路さんの白装束、鈴を鳴らして通る。巡礼者の巡る道を六阿弥陀道という。谷中コミュニティセンターの前の道がそれである。
 調べてみると六阿弥陀の由来は古く、第四十五代聖武天皇のころ、つまり奈良時代にあってもっとも仏教が尊ばれ、広まっていたころにさかのぼる。
 では正岡子規  野の道や梅から梅へ六阿弥陀の句に誘われ、私たちも歩いてみよう。…」

 六阿弥陀を回るときは”お遍路さんの白装束、鈴を鳴らして通る”だったのですね、四国のお遍路さんと同じです。もっと気楽に、行楽に行くときのカッコかなとおもっていたのですが、信心深いです。

写真は谷根千工房発行の「谷中・根津・千駄木 其の六十五」です。平成13年(2001)発行で、古いのですが在庫があり、通販で購入できます。

「北区の古い道…」
<「北区の古い道と道しるべ」 北区教育委員会(前回と同じ)>
 北区の資料としては「北区立郷土資料館 調査報告 第5号」が六阿弥陀について細かく書かれていたのですが、関連資料として「北区の古い道と道しるべ」が六阿弥陀について少し書かれていました。江戸時代から明治の初め頃は、地図がいい加減(下記の項の地図参照)で、地図のみでは歩けなかったとおもわれ、道標が頼りではなかったかとおもいます。当時の道標で、僅かに残ったものを解説しているのが北区教育委員会発行の「北区の古い道と道しるべ」です。

  「北区の古い道と道しるべ」からです。
「六阿弥陀道
   六阿弥陀
 南無阿弥陀仏の六字の名号にちなんで、六ヶ所の阿弥陀像を巡拝する「六阿弥陀詣」は各地に見られるが、この北区を中心にした六阿弥陀は特に武州(武蔵国)六阿弥陀とも呼ばれ、江戸時代はその巡拝が春秋彼岸の行事として盛んに行なわれていた。…」

 この本は六阿弥陀について現在分かる内容が全て網羅されているとおもいます。非常に参考になる本です。

写真は北区教育委員会発行の「北区の古い道と道しるべ」です。北区に現存する道標について解説しています。この道標を参考にすると、当時の道が蘇ってきます。これで、当時の人達が六阿弥陀詣に歩いた道が分かるはずです。

 まだまだ”六阿弥陀”について紹介したい本があるのですが、本の紹介だけで終ってしまいそうなので、順に紹介していきたいとおもいます。



六阿弥陀詣全体地図



「霜降銀座」
<霜降銀座>
 先週は上野広小路から不忍池の東側を通って谷中から田端の四番 與楽寺までを歩きました。今回は一番 西福寺(北区豊島)まで歩きたかったのですが残念ながらたどり着けませんでした。今回は三番 無量寺(北区西ケ原)迄です。先ず「谷中・根津・千駄木 其の六十五」に沿って歩きます。四番与楽寺(北区田端)を出発、東覚寺(赤紙仁王)の前を通って田端銀座へ向います。東覚寺(赤紙仁王)は下記の項に記載しています。

 「谷中・根津・千駄木 其の六十五」からです。
「… 三番西ヶ原無量寺へ向かう。田端銀座、駒込銀座、そして霜降銀座はすべて昔の藍染川(上流では谷田川)のあとである。途中、霜降銀座にあるハーブティの店「オレンジペコ」で休憩、紅茶もケーキもおいしい。
 茶店の主人に教わった道をゆくと、「六阿弥陀三番目西ケ原無量寺」の碑にあたった。ここは実に境内の美しい寺だった。本尊は不動明王、恵心の作。阿弥陀様は平安時代後期の秘仏とされ、公開されていない。西国三十三観音霊場の第三番でもある。…」

 ”昔の藍染川(上流では谷田川)”沿は不忍池から田端までは何とか道はありましたが、田端から北はほとんど道はありませんでしした。ですから六阿弥陀詣でに使われた道ではありません。藍染川(上流では谷田川)が暗渠化されたのは大正から昭和初期で、場所によって時期がバラバラでだそうで、全て完成した時期ははっきりしません。

 ”田端銀座、駒込銀座”の写真も掲載しておきます。田端銀座の南側の端の写真、駒込銀座は今は南側(山手線駒込駅まで)はアザレア通り、北側(山手線駒込駅から)はさつき通りとなります。さつき通りに”KOMAGOME GINZA”と書いてある看板を見つけました。

写真は霜降商店街の南の端(本郷通りに面したところ)です。ここから北へ220mが北区の霜降商店街です。この先は豊島区の染井銀座商店街となります。霜降商店街と染井銀座商店街の境は鍵型になっていて、道路上のタイルを見ると分かるそうです(北区と文京区の区界になっているそうで、オレンジペコのご主人に教えてもらいました)。上記のオレンジペコで紅茶を頂きました。とても美味しかったです。おすすめします。



谷中・田端付近地図



西ヶ原、王子附近地図



「現在の東覚寺 赤仁王」
<東覚寺 赤仁王>
 四番与楽寺(北区田端)を出発、東覚寺(赤紙仁王)の前を通って三番 無量寺(北区西ケ原)へ向います。東覚寺前の広い道はつい最近にできたものです。その道路拡張に伴って東覚寺は後に後退しています(7m程)。後退以前の東覚寺の写真を掲載しておきます。

 <東京都北区教育委員会の赤紙仁王碑>
「 東京都北区指定有形民俗文化財
 赤紙仁王(石造金剛力士立像)  北区田端2-7-3 東 覚 寺
 参詣客が赤色の紙を貼るため‘赤紙仁王’の名で呼ばれるようになった東覚寺の金剛力士立像は、吽形像の背面にある銘文から、寛永18年(1641)8月21日、東覚寺住職賢盛の時代に、宗海という僧侶が願主となって造立されたことが分かります。一説によれば、当時は江戸市中で疫病が流行しており、宗海は、これを鎮めるために造立したのだそうです。
 参詣客が赤紙を貼る理由は、そのようにして祈願すれば病気が治ると信じられてきたからで、具合の悪い部位と同じ箇所に赤紙を貼るのが慣わしです。また、祈願成就の際には草鞋を奉納すべしとされています。ただし、赤紙仁王に固有のこうした習俗が発達したのは明治時代のことで、その背後には、仁王像を健脚や健康をかなえる尊格とみなす庶民独自の信仰があったと考えられます。なぜなら、かつて日本各地には病気平癒を祈願して行う類似の習俗があったからです。そのため、赤紙仁王は、文化形成における庶民の主体性や独自性を強く表現した作品でもあるのです。
 なお、赤紙仁王は、江戸時代の末までは田端村の鎮守である八幡神社の門前にありました(左図)。 しかし、明治初期の神仏分離を機に、かつて東覚寺にあった九品仏堂の前に移され、以後はそこで人びとのお参りをうけてきました。 また、平成20年10月には、道路拡張工事のために従来の位置から約7メートル後方に移動し、平成21年8月に竣工した新たな護摩堂とともに、今後の世の趨勢を見つめてゆくことになりました。
  平成21年9月                 東京都北区教育委員会」

 ”赤紙仁王は、江戸時代の末までは田端村の鎮守である八幡神社の門前にありました(左図)”を掲載しておきます。

 <東京都北区教育委員会八幡神社碑>
「 田端八幡神社       北区田端ニー七ー二
 この八幡神社は、田端材の鎮守として崇拝された神社で、品陀和気命(応神天皇)を祭神としています。神社の伝承によれば、文治五年(一一八九)源頼朝が奥州征伐を終えて凱旋するときに鶴岡八幡宮を勧請して創建されたものとされています。別当寺は東覚寺でした。
 現在東覚寺の不動堂の前にたっている一対の仁王像(赤紙仁王)は、明治元年(一八六七)の神仏分離令の発令によって現在地へ移されるまでは、この神社の参道入口に立っていました。江戸時代には門が閉ざされていて、参詣者が本殿前まで進んで参拝することはできなかったらしく、仁王像のところから参拝するのが通例だったようです。
 参道の中程、一の鳥居の手前には石橋が埋められています。これは昭和初期の改修工事によって暗渠となった谷田川に架かっていたもので、記念保存のためにここへ移されました。
 社殿は何度も火災等に遭い、焼失と再建を繰り返しましたが、平成四年(一九九二)に氏子たちの協力のもとで再建さ
れ、翌年五月に遷座祭が行われて現在の形になりました。境内には、稲荷社のほかに田端冨士三峯講が奉祀する冨士浅間社と三峰社があり、冨士浅間社では毎年二月二十日に「冨士講の朷拝み」として祭事が行われています。
東京都北区教育委員会」

 ”参道の中程、一の鳥居の手前には石橋が埋められています。これは昭和初期の改修工事によって暗渠となった谷田川に架かっていたもので、記念保存のためにここへ移されました”で書かれている橋は余りに小さいので見過ごしていました。

写真は現在の東覚寺(赤紙仁王)です。昔はもっとたくさん赤紙が貼ってあったと記憶しているのですが、少なくなっているようです。この東覚寺(赤紙仁王)に行くには田端の切通しを渡っていくのですが、その角に福寿庵という蕎麦屋さんがあります。芥川龍之介が通ったという蕎麦屋さんです。切通しが出来たのは昭和初期ですから芥川龍之介は見ていないわけです。蕎麦屋は大正時代からあったわけです。

「大龍寺」
<光明寺と大龍寺>
 今回も「六阿弥陀獨案内」と書かれている江戸時代の地図を参考にします(前回と同じ地図です)。赤印、青印等と書かれていますので、本物はカラーだったようです。又、この地図は距離や方向は全く無視して書かれていますので、単純に見ると、現在の地図と比べようがありません。ただ、固有名詞である寺の名前等が書かれており、現在の寺の場所と見比べていけば、道筋が分かる可能性があります。今回、四番 与楽寺(北区田端)から三番 無量寺(北区西ケ原)までの間に地図上に書かれているお寺は東覚寺、西行アン、ヤクシ、光明寺、大龍寺です。

 下谷 五番 常楽院から四番 与楽寺までを拡大した地図(前回と同じ)と、四番 与楽寺(北区田端)から三番 無量寺(北区西ケ原)を拡大した地図を下記に掲示しておきます。
地図上で字が判読できるものは下記に赤字で記載しておきます。

 <下記の地図の補説>
・東覚寺 赤仁王:上記の項参照(江戸切絵図に記載ありA)
・西行アン:現在の田端三丁目にあった普門寺の西行庵のこと、明治に東覚寺へ移転(江戸切絵図に記載ありB)
・ヤクシ:光明寺内の薬師堂のこと(江戸切絵図に記載ありC)
・光明寺:現 光明寺(江戸切絵図に記載ありC)
・大龍寺:現 大龍寺(江戸切絵図に記載ありD)
・その他下記の江戸切絵図に記載分、@:四番 与楽寺、E:一番 西福寺、F:二番 延命寺

写真は田端の大龍寺です。少し手前に光明院(光明寺)があります。光明院は光明院幼稚園を経営されており、そのため院内に立ち入ることが出来ませんでした。ここに入口の写真のみを掲載しておきます。田端の大龍寺は正岡子規の墓があるので有名です。



下谷 五番 常楽院から四番 与楽寺まで(拡大図)



四番 与楽寺から三番 無量寺まで(拡大図)



(根岸谷中日暮里豊島邊図より抜粋)



「三番 無量寺」
<三番 無量寺>
 四番 田端の与楽寺から三番 西が丘の無量寺までは丁度2.0Kmとなります(Google Map)。歩いて約30分の距離です。与楽寺からの道は一本道ではなく、何回か曲がりますので注意して歩かないと間違えます。又、山の手線で唯一の踏切も渡ります。

【無量寺(むりょうじ)】
東京都北区西ケ原一丁目にある真言宗豊山派の寺院。同寺の創建年代は不詳なものの、平安時代後期から同地に寺院があったことが分かっている。境内には、14世紀頃に作られた板碑が多数あることが確認されている。江戸時代の慶安元年(1648年)に、江戸幕府から8石5斗余の朱印地を授かったと言われている。さらに元禄14年(1701年)には、5代将軍徳川綱吉の母・桂昌院が参詣した。なお、創建当時から長い間、寺号は長福寺であったが、9代将軍徳川家重の幼名・長福丸と同じであるため、これを避けて現在の無量寺にしたと言われている。本堂には本尊の不動明王像を安置する。ある夜当寺に盗賊が忍び込んだが、この不動明王の前で動けなくなり捕まったことから、同像は「足止め不動」として信仰されるようになった。本尊の隣には平安時代後期に作られたといわれる阿弥陀如来坐像があり、江戸六阿弥陀の一つとして古来より親しまれている。また、大師堂には「雷除けの本尊」とされる聖観音像(伝・恵心作)が安置されている。(ウイキペディア参照)

 「無量寺縁起」の始めの部分を記載しておきます。
「無量寺縁起
    武州豊嶋郡西ヶ原村佛宝山西光院無量寺
 抑六阿弥陀如来は、行基菩薩の御作にして霊験あらたかなる尊像なり。其来由を尋奉るに人皇四十五代聖武帝の御宇足立庄司從二位宰相藤原正成という探題あり。如何なる因縁にや老年に及ぶまで一子なき事を患い、常々熊野権現を信じ毎年参詣し一子を乞奉る。
 或夜権現より女子一人を授玉ふと夢みる。程なく女子を出生す。其子容顔玉の如く、年月積行くほど親愛浅からず、則足立姫と名づく。爰に豊島左衛門尉清光とて文武に名を得し郷主あり。彼方より所望により婚姻をとり結ぽんとせしに、此姫平生佛神のみ信じ世に交る事を愁、親人種々に気をいため押て婚姻をなせり。
 程過て舅の謗をうけ此儀を深く患、其後里帰りの節、荒川へ飛入り水死す。附從侍女主人を失しゆへ追々に身をしづめ、一時に十三人むなしく水死す。神亀二年丑六月朔日なり。即日死骸を尋るに侍女十二人の死骸は尋得たれども、則、十二天とて宮城村荒川の淵に勧請す。姫の死骸ほ尋あたらず。二番目より六丁程川下に浅間と勧請す。今浅間が淵といふ。…」

 神亀二年は725年ですから奈良時代になります。各寺の「縁起」の違いについてはもう少し先で説明したいとおもっています。

写真は現在の無量寺の三門です。この先にもう一つ門があり、その先に本堂があります。昔はこのまま右側にでて、裏門から平塚神社方向に出られたようです。今は、一度入口まで戻って、旧古河庭園沿に平塚神社方向に出られるのですが、途中で、細い道を西に曲がり、道なりに行くと、平塚神社交差点手前で無量寺の道標を見ることができます。表から見た道標の写真も掲載しておきます。

「無量寺の入口」
<無量寺の石碑、道標>
 無量寺の入口右側に二本の石柱があり、その右側は”六阿弥陀三番目 無量寺 西ヶ原”の記載があります。左側は”六阿弥陀すゑ木のくわんをん江 是より左江一町 補陀山昌林寺”の記載があります。又、三門の先にある門の右側にも”六阿弥陀三番目 無量寺”の石碑があります。

 塚田芳雄さんの「北区立郷土資料館 調査報告 第5号」からです。
「1、標石 西ケ原一丁目三四、無量寺へ入る道路上にある
   表 六阿弥陀すゑ木のくわんをん江
      是より左江一町 補陀山昌林寺
   右 享保十一丙午年十月十八日(一七二六)
   左 昌林禅寺八世陽信和尚代」

 この道標の旧所在は「北区立郷土資料館 調査報告 第5号」によると西ヶ原1−48とあり、無量寺の入口を南に下った(73m)T字路にあったものとおもわれます。

写真は三番 無量寺の入り口です。三門はこの先で、さらに先に門があり、その先が本堂となります。

「昌林寺」
<木残昌林寺>
 無量寺の入口右側に”六阿弥陀すゑ木のくわんをん江 是より左江一町 補陀山昌林寺”とある道標がありました。上記の項でも書きましたが、無量寺の入口を南に下った(73m)T字路にあったものとおもわれます。ここに無量寺を背にして建っていれば、左は西になりますので、ここから西に一丁(約109m)で昌林寺にたどり着くはずです。

【昌林寺(しょうりんじ)】
 東京都北区西ヶ原にある曹洞宗の寺院である。曹洞宗の昌林寺は、補陀山と号し、創建年代は奈良時代と思われるが、一時廃寺同然になった。室町時代には、応永8年(1401)に鎌倉公方足利持氏が再建し、大永5年(1522)に現在の寺号補陀山に改めた。 1590年、豊臣秀吉による、関東の覇者、相模国小田原城の北条氏政、北条氏直親子の滅亡、徳川家康の関東移封と江戸入国によって、多くの徳川譜代の直参旗本・御家人が移って来た時に、武蔵国豊嶋郡も江戸幕府の天領となり、武蔵国荏原郡、豊嶋郡などを知行地に持った用水奉行小泉次大夫吉次など旗本代官が支配した。江戸時代には、徳川将軍家のお膝元として、江戸幕府の寺社奉行による監督の下、江戸六阿弥陀巡礼の木残、北豊嶋三十三ヶ所霊場19番札所、上野王子駒込三十三ヶ所観音霊場5番札所であった。幕末、明治維新後、新政府による廃仏稀釈によって寺は荒廃し、多くの貴重な宝物、過去帳なども消失したが、太平洋戦争の戦火も潜り抜けて、戦後は復興している。 境内には西ヶ原貝塚があり、東京都下の寺院の中でも屈指の古刹である。(ウイキペディア参照)

 私も無量寺から昌林寺までの距離を測ってみました。450m、四丁少しあります(Google Map)。道標には一丁と書いてありますが、実際の距離は四倍以上です。如何に短く見せて参拝客を呼ぼうとしたか分かります。

 昌林寺門前にある石碑について塚田芳雄さんの「北区立郷土資料館 調査報告 第5号」を参照します。
「2、標石 昌林寺門前入口にある(安永三年頃)
   表 西国第五番河内国藤井寺写
   左 江戸下谷上野町講中
   右 末木観世音、六阿弥陀の末木を以、行基菩薩彫刻し給ふ尊像なり。…

4、江戸名所図会
 補陀山昌林寺、同所西の方にあり。曹洞の禅宗にして、本尊末木観世音は開山行基菩薩の作なり。往古六阿弥陀彫刻の折から末木を以て作りたまひしとぞ、むかしは補陀落寿院と号く以上六阿弥陀の末木観音の資料である。享保十一年に標石として初めて末木の文字が現れるが、活字となるのは明和九年のことでこれは四十五年後のことになる。標右が何故、無量寺へ入る公道上に建てられたのかは興味ある事柄である。この標石は六阿弥陀へ来る人の目にはいやでも入る位置である。他寺の入口の前に案内の石を建てるのは参詣客を我が寺へも来て戴くことを願っているのである。
 春秋彼岸には元禄から享保にかけては参詣人が引きもきらずで大繁昌をみた六阿弥陀は、寺院にとってはその「オサイセン」は、正に宝の山であった。無量寺の表門より入って裏門へと抜けて行く参拝者を引き入れる為の標石であった。是れより一町は偽りで三町はあるのである。享保十七年の砂子や、江府名勝志の作者はこの標石をみている筈である。然しこの二作にはこの事が全く紹介されていないのは、この事柄を一切無視したものと理解できるのである。…」
 先ずは昌林寺門前入口にある標柱ですが、北区の保護樹木の看板が建てられていて、標柱がよく見えません。
 表 西国第五番河内国藤井寺写
 左 江戸下谷上野町講中
 右 末木観世音、六阿弥陀の末木を以、行基菩薩彫刻し給ふ尊像なり
のようです。

写真は昌林寺です。余り六阿弥陀を表に出していないお寺のようでした。

 続きます。



上中里・西ヶ原(明治初期の地図)



上野・谷中(明治初期の地図)