●六阿弥陀を歩く -2-
    初版2016年10月29日
  二版2016年11月6日  <V01L02> 與楽寺の昔の写真を追加 暫定版

 今週から”六阿弥陀”を順に回って行きたいとおもいます。前回は”五番 下谷広小路 常楽院(つつじヶ丘に移転、現在は東天紅裏に別院)”を歩きましたが、今回は”四番 田端の与楽寺”までを歩きます。”三番 西ケ原の無量寺”まではたどり着けませんでした。 


「荷風随筆集」
<「荷風随筆集(上)」 岩波文庫(前回と同じ)>
 永井荷風を続けて掲載しようとおもい、「放水路」を読み始めたところ、書き出しに”大正三年秋の彼岸に、わたくしは久しく廃していた六阿弥陀詣を試みたことがあった。”とあり、六阿弥陀詣という単語を初めて知ったので、興味を引かれ、少し調べて見ました。

 永井荷風の「放水路」から、書き出しです。
「 隅田川の両岸は、千住から永代の橋畔に至るまで、今はいずこも散策の興を催すには適しなくなった。やむことをえず、わたくしはこれに代るところを荒川放水路の堤に求めて、折々杖を曳くのである。
 荒川放水路は明治四十三年の八月、都下に未曾有の水害があったため、初めて計画せられたものであろう。しかしその工事がいつ頃起され、またいつ頃終ったか、わたくしはこれを詳にしない。
 大正三年秋の彼岸に、わたくしは久しく廃していた六阿弥陀詣を試みたことがあった。わたくしは千住の大橋をわたり、西北に連る長堤を行くこと二里あまり、南足立郡沼田村にある六阿弥陀第二番の恵明寺に至ろうとする途中、休茶屋の老婆が来年は春になっても荒川の桜はもう見られませんよと言って、悵然として人に語っているのを聞いた。…」

 ”六阿弥陀詣”については全く知識が無かったので、”南足立郡沼田村にある六阿弥陀第二番の恵明寺”とあるのですが、何の二番なのか、何の順番なのか、またきっと前後の番号のお寺があるのではないかとおもいました。

写真は岩波文庫の「荷風随筆集(上)」です。荷風全集を読むのは大変なので、一寸読むには丁度良い大きさで、読みやすいです。

「文がたみ」
<「永井荷風文がたみ」 近藤冨枝 宝文館(前回と同じ)>
 もう少し調べて見ようと思い、探したところ、荷風研究で有名な近藤富枝さんが「永井荷風 文がたみ」の中で、”六阿弥陀詣”について書かれていました。永井荷風と六阿弥陀詣の関係が分かるかとおもい読んでみました。

  近藤富枝さんの「永井荷風文がたみ」からです。
「     3 六阿彌陀詣
  (大正十三年九月廿二日 断腸亭日乗)
 微雨午に近く霽る。今年は是非にも六阿弥陀詣をなさむと思ひ居たりしが、雨後の泥濘をおそれて空しく家にとゞまりぬ。亡友唖々子と朝まだき家を出で、まづ亀戸村の常光寺に赴き、それより千住に出で、荒川堤を歩み、順次に六阿弥陀を巡拝せしは大正三年甲寅の秋なりき。荒川堤に狐の腰掛と俗にいふ赤き雑草の花おびたゞしく咲きたるさま今も猶目に残りたり。滝野川のとある人家に梯の老樹の枝も折れむばかり実を結びたる、又西ケ原無量寺の庭に雁来紅の燃るが如く生茂りたるさま、倶に記憶を去らず。次の年大正四年春の彼岸には病みて独り大久保の家に在り。其年の秋分には吾健かなりしが、唖々子病みて歩みがたしとの事に、独り築地一丁目の僑居を出で田端より西ヶ原まで歩みしが、唯一人にては興なくて王子より汽車に乗りて空しく帰り来りぬ。その後は数年にわたりて腹痛治せざりしため、遠く歩むこと能はず、病やゝ快くなりて後も年々何事にか妨げられて再遊の願は遂に果すの期なく今日に至れり。唖り子は既に世を去り、西ヶ原田端あたり近郊一帯の風景も塵土にまみれて、十年前の趣は再び尋るによしなし。曾て撮影せし写真去年の大火以後一層珍らしきものになりぬ。

 六阿弥陀めぐりは、春秋の彼岸に
      一番 豊島村 (北区)   西福寺
      二番 下沼田村(足立区) 延命院
      三番 西ケ原 (北区)   無量寺
      四番 田端村 (北区)   與楽寺
      五番 下谷広小路(台東区)常楽院
      六番 亀 戸 (江東区)  常光寺
 の六寺を徒歩で参詣して廻ることをいう。五番の広小路常楽院だけが市内で、あとは郡部に属している。常楽院は今の広小路赤札堂がその跡だそうだ。…」

 上記の断腸亭日乗の部分に関しては、近藤富枝さんの原文そのままでは無く、岩波書店の新版 断腸亭日乗 第一巻から少し長く引用しています。ここで、六阿弥陀とは六つの寺からなっていて、春秋の彼岸に順に参拝することが分かります。”二番 下沼田村(足立区) 延命院”と書いていますが、このお寺は明治初期に無くなって、直ぐ近くの恵明寺に移っています。荷風は大正3年秋に唖々子と亀戸の常光寺から順に回ったようです。

写真は近藤富枝さんの「永井荷風文がたみ」 です。宝文館の発行です。荷風研究には、必須です。 残念ながら近藤富枝さんは今年の7月に亡くなられました。ご冥福をお祈りします。

「東京人」
<「東京人 花と水に遊ぶ 江戸の六阿弥陀詣で」 山本容朗 宝文館(前回と同じ)>
 実際に”六阿弥陀詣”に行かれた方の書いた本がないか探したのですが、平成3年(1991)6月発行の「東京人」に記載があるのを見つけました。表紙には記載が無く、探すのに苦労しました。

  山本容朗さんの「花と水に遊ぶ 江戸の六阿弥陀詣で」からです。
「東京人 平成3年6月 

花と水に遊ぶ江戸の六阿彌陀′wで
●荒川堤の桜と音無川の紅葉
 「江戸六阿彌陀」詣でに興味を持ったのは、永井荷風の「放水路」という一文を読んで以来だから、かなりの昔である。
 この荷風の随筆は、「鐘の聲」、「寺じまの記」とあわせて三篇、「残春雑記」というタイトルで昭和十一年(一九三六)六月、『中央公論』に発表となった。…」

 内容を読むと、動機は私と全く同じで、ビックリしました。永井荷風の「放水路」からです、他の本で”六阿弥陀詣”について書いた本が無いので、なかなか”六阿弥陀詣”にたどり着かないのです。有名な文壇の方が書かれれば少しは表にでるとおもいます。

写真は平成3年(1991)6月発行の「東京人」です。P105から7ページほど書かれています。山本容朗さんは残念ながら平成25年に亡くなられています。

「調査報告 第5号」
<「北区立郷土資料館 調査報告 第5号」 塚田芳雄 北区教育委員会(前回と同じ)>
 六阿弥陀とは六つの寺からなっていて、春秋の彼岸に順に参拝することは分かったのですが、六阿弥陀が出来た縁起や、時期等がまだよく分かっていないので、もう少し調べてみました。東京都立図書館で調べたところ、数冊の本が検索できました。その中で、一番詳しそうだったのが「六阿弥陀の研究 上 下(昭和54年発行)」でした。この本は手書きのコピーに表紙を付けて綴じてあるだけの本で、見にくいところもあり、困っていたところ、「六阿弥陀の研究 上 下(昭和54年発行)」を纏めて、「北区立郷土資料館 調査報告 第5号」として発行しているのをみつけました。この本の発行日は平成3年(1991)年で、執筆者は塚田芳雄とあり、「六阿弥陀の研究 上 下(昭和54年発行)」と同じ方でした。

  塚田芳雄さんの「北区立郷土資料館 調査報告 第5号」から、”目次”です。
「北区立郷土資料館 調査報告書 第5号 六阿弥陀

          目   次

      無量寺縁起 ………… 1
       付、六阿弥陀伝記 … 2
      与楽寺縁起 ………… 3
      常光寺縁起 ………… 4
      常楽院縁起 ………… 5
       付、西福寺のこと … 6
      六阿弥陀の案内 …… 7
      末木の観音 ………… 13
      六阿弥陀詣 ………… 14
       付、ひいもと草 …… 15
      六あみだの標石 …… 16
       付、阿弥陀伝記 …… 19
      六あみだと川柳 ……… 20
      六阿弥陀御詠歌と和讃 … 23
      六阿弥陀の縁組 ……… 24
      六阿弥陀と六地蔵 …… 26
      木余り如来 …………… 28
      終わりに ……………… 30    …」

 この本は六阿弥陀について現在分かる内容が全て網羅されているとおもいます。非常に参考になる本です。

写真は北区教育委員会発行の「北区立郷土資料館 調査報告 第5号」です。この一冊全てが六阿弥陀について書かれています。執筆者は塚田芳雄さんです。残念ながらこの本は在庫がなく新たに入手することはできません。図書館等で見るか、一部分をコピー出来るだけです。

「谷中根津千駄木」
<「谷中・根津・千駄木 其の六十五」 谷根千工房>
 現在の六阿弥陀を実際に歩いて回って書いている本がありました。地域雑誌としてはとても有名な谷根千工房発行の「谷中・根津・千駄木」です。掲載されたのは六十五(平成13年(2001))で少し古いですが、谷中、千駄木界隈は変っていませんので十分に楽しめます。又、六阿弥陀から六地蔵まで書かれていますので、次は六地蔵回りでもしようかなとおもっています。

  「谷中・根津・千駄木 其の六十五」からです。
「  六阿弥陀詣

 土地の古老から六阿弥陀詣の話をよく聞かされた。春秋の彼岸に、たんぽの真ん中の道を、お遍路さんの白装束、鈴を鳴らして通る。巡礼者の巡る道を六阿弥陀道という。谷中コミュニティセンターの前の道がそれである。
 調べてみると六阿弥陀の由来は古く、第四十五代聖武天皇のころ、つまり奈良時代にあってもっとも仏教が尊ばれ、広まっていたころにさかのぼる。
 では正岡子規  野の道や梅から梅へ六阿弥陀の句に誘われ、私たちも歩いてみよう。…」

 六阿弥陀を回るときは”お遍路さんの白装束、鈴を鳴らして通る”だったのですね、四国のお遍路さんと同じです。もっと気楽に、行楽に行くときのカッコかなとおもっていたのですが、信心深いです。

写真は谷根千工房発行の「谷中・根津・千駄木 其の六十五」です。平成13年(2001)発行で、古いのですが在庫があり、通販で購入できます。

「北区の古い道…」
<「北区の古い道と道しるべ」 北区教育委員会>
 北区の資料としては「北区立郷土資料館 調査報告 第5号」が六阿弥陀について細かく書かれていたのですが、関連資料として「北区の古い道と道しるべ」が六阿弥陀について少し書かれていました。江戸時代から明治の初め頃は、地図がいい加減(下記の項の地図参照)で、地図のみでは歩けなかったとおもわれ、道標が頼りではなかったかとおもいます。当時の道標で、僅かに残ったものを解説しているのが北区教育委員会発行の「北区の古い道と道しるべ」です。

  「北区の古い道と道しるべ」からです。
「六阿弥陀道
   六阿弥陀
 南無阿弥陀仏の六字の名号にちなんで、六ヶ所の阿弥陀像を巡拝する「六阿弥陀詣」は各地に見られるが、この北区を中心にした六阿弥陀は特に武州(武蔵国)六阿弥陀とも呼ばれ、江戸時代はその巡拝が春秋彼岸の行事として盛んに行なわれていた。…」

 この本は六阿弥陀について現在分かる内容が全て網羅されているとおもいます。非常に参考になる本です。

写真は北区教育委員会発行の「北区の古い道と道しるべ」です。北区に現存する道標について解説しています。この道標を参考にすると、当時の道が蘇ってきます。これで、当時の人達が六阿弥陀詣に歩いた道が分かるはずです。

 まだまだ”六阿弥陀”について紹介したい本があるのですが、本の紹介だけで終ってしまいそうなので、順に紹介していきたいとおもいます。



六阿弥陀詣全体地図



「古い石碑」
<伊藤医院の前に「六阿弥陀道」の古い石碑>
 六阿弥陀詣は前回も書きましたが、大きくは、亀戸の六番 常光寺から二番 恵明寺、隅田川を渡って一番 西福寺、三番 無量寺、四番 與楽寺、五番 常楽院の順に左回りで回るのと、一般的な回り方である、下谷広小路の五番 常楽院から四番 與楽寺、三番 無量寺、一番 西福寺、二番 恵明寺、六番 常光寺と回る二通りの回り方があります。今回は一般的な回り方である、下谷広小路の五番 常楽院から四番 與楽寺を回っていきたいとおもいます。

 先ず、上野広小路から不忍池の東側を通って谷中から田端の”四番 與楽寺”を目指します。谷中の歩き方としては幾通りかあり、一番西側は藍染川跡なのですが、当時は川があり、道も狭かったとおもわれますので、先ずは一本東側、谷中小学校の東側の道から、大圓寺を通り、西日暮里四丁目の交差点経由、四番 與楽寺へ行く道筋です。

 「谷中・根津・千駄木 其の六十五」からです。
「…この先、巡礼者は藍染川沿いを歩いたのか、あるいは坂を上り一乗寺の角を入ったのか。
 三崎坂を横切り谷中大円寺の塀に沿って歩いてゆくと、左手伊藤医院の前に「六阿弥陀道」の古い石碑が見えてくる。医院改装のさい、庭にあった石碑を道端に移した。
南側の壁面には
  是より下谷五番へ十八町 北側には
  是より田畑四番へ八町
とある。四番の田端与楽寺まであと九百メートル、ここがいにしえの巡礼道、谷中道である。
 まっすぐ歩く。夕焼けだんだん下を過ぎ、修性院、青雲寺とゆく。南泉寺の前に新しく作られた「ろくあみだみち」の碑があった。道灌山下通りを渡り宝珠山与楽寺に到着。…」

 今回最初に見える道標が伊藤歯科(上記には伊藤医院)近くにある六阿弥陀道の道標です。道標の字はほとんど読み取れないのですが、上記に書かれているので参考になります。この道をもう少し歩くと、南泉寺前に”ろくあみだみち”と書かれた道標があります。この道標は新しく作られたもので、古いものではありません。

写真が伊藤歯科近くの「六阿弥陀道」の古い石碑”です。置かれている場所が少し変っていました。伊藤歯科を過ぎた少し先の駐車場の入口にありました(探しました)。”下谷五番へ十八町”で、下谷五番は常楽院なので、Google Mapで距離を測ってみました。2.2Kmで、十八町は約19.6Km(109m換算)、当時とは道が違うとおもいますので誤差の範囲かなと考えます。”田畑(田端?) 四番(与楽寺)へ八町”はGoogle Mapで1.3Km、八町は872mなので、此方は誤差がおおきいです。



谷中・上野付近地図



六阿弥陀獨案内



「浄光寺と諏方神社」
<浄光寺と諏方神社>
 六阿弥陀詣の地図がないかと探したら、上記の内の三冊の本の中に同じ地図が掲載されていました。その地図が上記の地図です。六阿弥陀獨案内と書かれています。赤印、青印等と書かれていますので、本物はカラーだったようです。オリジナルが見たいのですが何処にあるのかよく分かりません。又、この地図は距離や方向は全く無視して書かれていますので、単純に見ると、現在の地図と比べようがありません。ただ、固有名詞である寺の名前等が書かれており、現在の寺の場所と見比べていけば、道筋が分かる可能性があります。

 下谷 五番 常楽院から四番 与楽寺までを拡大した地図を下記に掲示しておきます。字が少し読めるようになりました。
 下谷 長福寺と書いてありますが、「北区立郷土資料館 調査報告 第5号」によると、常楽院は元々は長福寺で、正宗が享保元年に八代将軍に就任し、長男長福丸(正徳元年生)若君様と称せられるようになったことで、長福寺号を持つ寺院は何れも享保元年中に改号することになっていました。ただ、なかなか改号しなかったようで、その後もそのまま使われていたようです。地図上で字が判読できるものは下記に赤字で記載しておきます。

 <下記の地図の補説>
・谷中門:寛永寺の裏門で台東区谷中六丁目の妙雲寺附近にあった。
・三崎(さんさき)道:谷中霊園から団子阪下への道

 <谷中の六阿弥陀道>
・下谷 五番 常楽院→不忍池東側or寛永寺の黒門→寛永寺谷中門(妙雲寺前)→三崎道
・三崎道から先は
 案1→初音の道→諏訪台通り(養福寺浄光寺諏方神社)→四番 与楽寺
 案2→三崎道から谷中小前を右→伊藤医院傍にある六阿弥陀道の道標→南泉寺前の道標→四番 与楽寺
となります。案1は上記の地図からで、案2が「谷中・根津・千駄木 其の六十五」の道筋です。案1はお寺の位置関係からなのですが、地図上で道とお寺が少し離れていると解釈すれば案2になります。地図の見方が難しいところです。

写真は諏訪台通りにある浄光寺と諏方神社です。下記の六阿弥陀□案内に書かれているお寺と神社です。左側が諏方神社入口で、右側が浄光寺です。地図とは逆になっています。元々は一体で、明治の神仏分離で分かれたのではないかと推測しています。



下谷 五番 常楽院から四番 与楽寺まで(拡大図)



「四番 与楽寺 阿弥陀堂」
<四番 与楽寺(與楽寺)>
 2016年11月6日 與楽寺の15年前の写真を追加
 下谷 五番 常楽院からは先程の六阿弥陀道(案2)で3.7Kmとなります。ノンビリ歩いて約1時間の距離です。現在、与楽寺(與楽寺)は三門が工事中のようです。常楽院の本尊は地蔵菩薩で、本堂とは別に阿弥陀堂があります。

【与楽寺】
 創建は不明であるものの、寺伝によれば弘法大師(空海)によって当地に創建されたという。本尊は地蔵菩薩で、弘法大師の作と伝えられている。この地蔵菩薩は、別名として賊除地蔵といわれ、これには以下のようないわれがあると伝わっている。「ある時代の夜、盗賊が当与楽寺に入ろうとしたところ、寺から多数の僧が現れ、盗賊と対決、遂には盗賊を追い出した。どこからそんな僧が現れたのか不思議がっていたが、その翌朝与楽寺の本尊の地蔵菩薩の足に泥がついているのが発見された。それから人々は、この地蔵菩薩が僧に変身して盗賊を追い出したのだと信じるようになり、賊除地蔵としてなお一層の信仰を得るようになったと言われている。」江戸時代の慶安2年(1649年)、江戸幕府より20石の朱印を受けて格式のある寺院になった。そして、当寺院は京都の仁和寺の関東末寺の取締役寺にもなった。その他に当寺院は、江戸六阿弥陀のひとつの阿弥陀如来でも知られている。(ウイキペディア参照)

 「与楽寺縁起」の始めの部分を記載しておきます。
「与楽寺縁起
    六阿弥陀第四番目略縁起・與楽寺
 抑六阿弥陀の濫觴は、人王四十五代聖武皇帝の御宇豊島の郡主に荘司左衛門清光とて文武に富し雄士あり。多年紀州熊野権現を信じ奉りけるに、或夜の夢に権現告て曰く、吾久しく東国に鎮座して国家を守らん事を思ふ。汝が本国に一宇の祠を造営して勧請すべしとの勅夢に任せて、新に神社僧坊を建て信仰浅からず。今の王子の社是なり。然るに荘司老年に及ぶまで一子もなき事を憂ふ。彼の神殿に通夜して一子を祈るに程なく一人の女子を儲けて、隣郡足立の豪家沼田治部少輔に嫁せしに、此娘聊の述懐に逼りて婢女五人を伴ひて沼田川に溺死す。父の荘司悲嘆のあまり彼の亡女等が為に、諸国の霊場を巡拝して紀州熊野山登詣せし道路に一樹の霊木ありて光明を放つを見る。荘司思ふて是偏に當山権現の本地阿弥陀如来の影向し給ふならんと、則此霊木をもって弥陀の尊像を彫刻せんと願心を発し、願くは當山権現ならびに、本地阿弥陀如来我願心を哀愍納受し給はば、此霊木百有余里の滄海を流れて我本国沼田浦に着せし給へと海中に投じけるに不思議や、彼霊木本国沼田浦に着て夜毎に光を放つ。荘司本国に帰り此奇瑞を拝して感涙袖を浸し則所の民族を招きて其旨趣を語り、彼の霊木を敬納なし置ぬ。…」

 各寺の「縁起」の違いについてはもう少し先で説明したいとおもっています。

写真は現在の与楽寺(與楽寺)六阿弥陀堂です。本堂は別にあります。とても綺麗なお寺です。四番 与楽寺(與楽寺)の15年前の昔の門前の写真を追加しておきます(2001年撮影)。現在の門前の写真と比較してください。

「与楽寺の道標」
<四番 与楽寺(與楽寺)の道標>
 与楽寺(與楽寺)の門前左側に道標があります。左側から二つ目は”六阿弥陀第四番與楽寺”と書かれています。左から四つ目が六阿弥陀の巡拝塔です。この巡拝塔は何処かにあったものを与楽寺(與楽寺)に持ってきたものとおもわれます(「北区の古い道と道しるべ」にも旧所在は不明となっています)。

<与楽寺(與楽寺)の六阿弥陀巡拝塔>
 右ハ江戸駒込道
 左ハ王子道道灌山道
 右ハ六阿弥陀三番目道
 左ハ六阿弥陀一番目道
 「北区の古い道と道しるべ」からです。
 上記の行先から考えると、与楽寺(與楽寺)門前附近にあったのではないかと推測しています。

 「北区の古い道と道しるべ」からです。
「    北区内の六阿弥陀道
 北区内には六阿弥陀の内三体まであり、六阿弥陀道を示す道標は、田端与楽寺門前と東田端のJR機関区角(前記)とそれに続く道で田端新町の明治通り沿い(戦後復興)、堀船の福性寺脇(石仏道標銘)、国道十七号沿いの滝野川六丁目重吉稲荷境内(前記)である。ほか、他に例のない「六阿弥陀」の巡拝銘のある石仏も志茂に立っている。…」


写真は与楽寺(與楽寺)の門前左側にある道標等です。綺麗に一ヶ所に纏められていました。

「東田端のJR機関区角の道標」
<東田端のJR機関区角の道標>
 この附近では六阿弥陀詣の道標は与楽寺(與楽寺)の門前の他に東田端のJR機関区角にあります。

 「北区の古い道と道しるべ」からです。
「… 東田端のJR機関区の角に「左 王子道」と大書された道標がある、文政十一年(一八二八)に造立された、西新井大師・六阿弥陀への道標であるが、この石神井川下郷用水(二十三ヵ村用水・音無川)に沿った道は浅草、三輪方面を経ての江戸からの王子道であった、道標には千住、小台□、入谷村、芝神明、駒込、外神田の町人名に交り八丁堀の綿?氏という武士銘も見られる。…」
 ”東田端のJR機関区角”の道標は、田端駅で北側に降りて陸橋を東に越えた先のT字路を左に曲がった少し先にあります。(地図参照)
 この道標は
 右 六阿弥陀 西新井大師道 □先船わたし場十一丁
 左 王子道
 と書かれています。ここを右に踏切を越えて進むと明治通りに突き当たります。そのまま明治通りを超えると、”田端新町の明治通り沿い(戦後復興)”に新たに作られた道標があります(作り直した)。この先を進むと、旧小台通りで、小台の渡し(尾久の渡し)にたどり着きます(Google Mapでは1.55Kmですが十一丁は1.2Km)。昭和8年に小台橋が架かられ、渡し船はその後廃止されています。少し前まで小台の渡しの碑があったのですが、碑があった場所に家が建ち、撤去されたままのようです。小台の渡しの横には有名な料亭”清水滝”があったのですが、現在は更地になっています。マンションが建つみたいです。

【小台の渡し】
「尾久の渡し」とも称された。現在の小台橋付近にあったもので、江戸時代より江北・西新井・草加方面への交通の要所として賑わっていた。西新井大師や六阿弥陀のひとつである沼田の恵明寺に詣でる人々も多く利用した。江戸期は両岸の農民が半月交代の当番制で渡していたという。明治期以降は東京府が運営していたが、交通量の増大に伴い昭和8年(1933)に小台橋が架橋され、後に廃止された。小台橋のたもとに案内板が設置されている(現在は無い)。(ウイキペディア参照)

写真は東田端のJR機関区角にある道標です(写真の左側にEF65が見えます)。この道標は二ヶ所で折れているのをセメントでつけているので、字が読めません。「北区の古い道と道しるべ」を参照しています。又、「北区の古い道と道しるべ」には旧所在地は同じと書かれているのですが、明治初期の地図と重ねてみると、王子道はもっと西寄りにあり、100m程、東に移っているとおもわれます。

 続きます。



田端・上中里附近地図



明治初期の地図(鉄道が無い頃)