●六阿弥陀を歩く -1-
    初版2016年10月22日  <V01L02> 暫定版

 永井荷風の「放水路」の書き出しに”六阿弥陀詣”という記述があり、気になって少し調べてみました。調べるほどに興味が湧いてきたので、少し歩いてみることにしました。六阿弥陀詣は六地蔵や五色不動と同じ江戸時代の行楽の一つだったようです。


「荷風随筆集」
<「荷風随筆集(上)」 岩波文庫>
 永井荷風を続けて掲載しようとおもい、「放水路」を読み始めたところ、書き出しに”大正三年秋の彼岸に、わたくしは久しく廃していた六阿弥陀詣を試みたことがあった。”とあり、六阿弥陀詣という単語を初めて知ったので、興味を引かれ、少し調べて見ました。

 永井荷風の「放水路」から、書き出しです。
「 隅田川の両岸は、千住から永代の橋畔に至るまで、今はいずこも散策の興を催すには適しなくなった。やむことをえず、わたくしはこれに代るところを荒川放水路の堤に求めて、折々杖を曳くのである。
 荒川放水路は明治四十三年の八月、都下に未曾有の水害があったため、初めて計画せられたものであろう。しかしその工事がいつ頃起され、またいつ頃終ったか、わたくしはこれを詳にしない。
 大正三年秋の彼岸に、わたくしは久しく廃していた六阿弥陀詣を試みたことがあった。わたくしは千住の大橋をわたり、西北に連る長堤を行くこと二里あまり、南足立郡沼田村にある六阿弥陀第二番の恵明寺に至ろうとする途中、休茶屋の老婆が来年は春になっても荒川の桜はもう見られませんよと言って、悵然として人に語っているのを聞いた。…」

 ”六阿弥陀詣”については全く知識が無かったので、”南足立郡沼田村にある六阿弥陀第二番の恵明寺”とあるのですが、何の二番なのか、何の順番なのか、またきっと前後の番号のお寺があるのではないかとおもいました。

写真は岩波文庫の「荷風随筆集(上)」です。荷風全集を読むのは大変なので、一寸読むには丁度良い大きさで、読みやすいです。

「文がたみ」
<「永井荷風文がたみ」 近藤冨枝 宝文館>
 もう少し調べて見ようと思い、探したところ、荷風研究で有名な近藤富枝さんが「永井荷風 文がたみ」の中で、”六阿弥陀詣”について書かれていました。永井荷風と六阿弥陀詣の関係が分かるかとおもい読んでみました。

  近藤富枝さんの「永井荷風文がたみ」からです。
「     3 六阿彌陀詣
  (大正十三年九月廿二日 断腸亭日乗)
 微雨午に近く霽る。今年は是非にも六阿弥陀詣をなさむと思ひ居たりしが、雨後の泥濘をおそれて空しく家にとゞまりぬ。亡友唖々子と朝まだき家を出で、まづ亀戸村の常光寺に赴き、それより千住に出で、荒川堤を歩み、順次に六阿弥陀を巡拝せしは大正三年甲寅の秋なりき。荒川堤に狐の腰掛と俗にいふ赤き雑草の花おびたゞしく咲きたるさま今も猶目に残りたり。滝野川のとある人家に梯の老樹の枝も折れむばかり実を結びたる、又西ケ原無量寺の庭に雁来紅の燃るが如く生茂りたるさま、倶に記憶を去らず。次の年大正四年春の彼岸には病みて独り大久保の家に在り。其年の秋分には吾健かなりしが、唖々子病みて歩みがたしとの事に、独り築地一丁目の僑居を出で田端より西ヶ原まで歩みしが、唯一人にては興なくて王子より汽車に乗りて空しく帰り来りぬ。その後は数年にわたりて腹痛治せざりしため、遠く歩むこと能はず、病やゝ快くなりて後も年々何事にか妨げられて再遊の願は遂に果すの期なく今日に至れり。唖り子は既に世を去り、西ヶ原田端あたり近郊一帯の風景も塵土にまみれて、十年前の趣は再び尋るによしなし。曾て撮影せし写真去年の大火以後一層珍らしきものになりぬ。

 六阿弥陀めぐりは、春秋の彼岸に
      一番 豊島村 (北区)   西福寺
      二番 下沼田村(足立区) 延命院
      三番 西ケ原 (北区)   無量寺
      四番 田端村 (北区)   與楽寺
      五番 下谷広小路(台東区)常楽院
      六番 亀 戸 (江東区)  常光寺
 の六寺を徒歩で参詣して廻ることをいう。五番の広小路常楽院だけが市内で、あとは郡部に属している。常楽院は今の広小路赤札堂がその跡だそうだ。…」

 上記の断腸亭日乗の部分に関しては、近藤富枝さんの原文そのままでは無く、岩波書店の新版 断腸亭日乗 第一巻から少し長く引用しています。ここで、六阿弥陀とは六つの寺からなっていて、春秋の彼岸に順に参拝することが分かります。”二番 下沼田村(足立区) 延命院”と書いていますが、このお寺は明治初期に無くなって、直ぐ近くの恵明寺に移っています。荷風は大正3年秋に唖々子と亀戸の常光寺から順に回ったようです。

写真は近藤富枝さんの「永井荷風文がたみ」 です。宝文館の発行です。荷風研究には、必須です。 残念ながら近藤富枝さんは今年の7月に亡くなられました。ご冥福をお祈りします。

「東京人」
<「東京人 花と水に遊ぶ 江戸の六阿弥陀詣で」 山本容朗 宝文館>
 実際に”六阿弥陀詣”に行かれた方の書いた本がないか探したのですが、平成3年(1991)6月発行の「東京人」に記載があるのを見つけました。表紙には記載が無く、探すのに苦労しました。

  山本容朗さんの「花と水に遊ぶ 江戸の六阿弥陀詣で」からです。
「東京人 平成3年6月 

花と水に遊ぶ江戸の六阿彌陀′wで
●荒川堤の桜と音無川の紅葉
 「江戸六阿彌陀」詣でに興味を持ったのは、永井荷風の「放水路」という一文を読んで以来だから、かなりの昔である。
 この荷風の随筆は、「鐘の聲」、「寺じまの記」とあわせて三篇、「残春雑記」というタイトルで昭和十一年(一九三六)六月、『中央公論』に発表となった。…」

 内容を読むと、動機は私と全く同じで、ビックリしました。永井荷風の「放水路」からです、他の本で”六阿弥陀詣”について書いた本が無いので、なかなか”六阿弥陀詣”にたどり着かないのです。有名な文壇の方が書かれれば少しは表にでるとおもいます。

写真は平成3年(1991)6月発行の「東京人」です。P105から7ページほど書かれています。山本容朗さんは残念ながら平成25年に亡くなられています。

「調査報告 第5号」
<「北区立郷土資料館 調査報告 第5号」 塚田芳雄 北区教育委員会>
 六阿弥陀とは六つの寺からなっていて、春秋の彼岸に順に参拝することは分かったのですが、六阿弥陀が出来た縁起や、時期等がまだよく分かっていないので、もう少し調べてみました。東京都立図書館で調べたところ、数冊の本が検索できました。その中で、一番詳しそうだったのが「六阿弥陀の研究 上 下(昭和54年発行)」でした。この本は手書きのコピーに表紙を付けて綴じてあるだけの本で、見にくいところもあり、困っていたところ、「六阿弥陀の研究 上 下(昭和54年発行)」を纏めて、「北区立郷土資料館 調査報告 第5号」として発行しているのをみつけました。この本の発行日は平成3年(1991)年で、執筆者は塚田芳雄とあり、「六阿弥陀の研究 上 下(昭和54年発行)」と同じ方でした。

  塚田芳雄さんの「北区立郷土資料館 調査報告 第5号」から、”目次”です。
「北区立郷土資料館 調査報告書 第5号 六阿弥陀

          目   次

      無量寺縁起 ………… 1
       付、六阿弥陀伝記 … 2
      与楽寺縁起 ………… 3
      常光寺縁起 ………… 4
      常楽院縁起 ………… 5
       付、西福寺のこと … 6
      六阿弥陀の案内 …… 7
      末木の観音 ………… 13
      六阿弥陀詣 ………… 14
       付、ひいもと草 …… 15
      六あみだの標石 …… 16
       付、阿弥陀伝記 …… 19
      六あみだと川柳 ……… 20
      六阿弥陀御詠歌と和讃 … 23
      六阿弥陀の縁組 ……… 24
      六阿弥陀と六地蔵 …… 26
      木余り如来 …………… 28
      終わりに ……………… 30    …」

 この本は六阿弥陀について現在分かる内容が全て網羅されているとおもいます。非常に参考になる本です。

写真は北区教育委員会発行の「北区立郷土資料館 調査報告 第5号」です。この一冊全てが六阿弥陀について書かれています。執筆者は塚田芳雄さんです。残念ながらこの本は在庫がなく新たに入手することはできません。図書館等で見るか、一部分をコピー出来るだけです。

 まだまだ”六阿弥陀”について紹介したい本があるのですが、本の紹介だけで終ってしまいそうなので、順に紹介していきたいとおもいます。



六阿弥陀詣全体地図



「常楽院跡」
<下谷広小路の常楽院跡>
 秋の彼岸も過ぎてしまいましたが、これから六阿弥陀詣をしていきたいとおもいます。永井荷風は大正3年秋に友人である唖々子といっしょに亀戸の六番 常光寺から二番 恵明寺、隅田川を渡って一番 西福寺、三番 無量寺、四番 與楽寺、五番 常楽院の順に左回りで回ったようです。今回は一般的な回り方である、下谷広小路の五番 常楽院から永井荷風とは逆になる右回りで回っていきたいとおもいます。先ずは上野駅で下車して、中央通りを上野広小路のAbAb上野店に向います。

 近藤富枝さんの「永井荷風文がたみ」からです。
「… 六阿弥陀めぐりは、春秋の彼岸に
      一番 豊島村 (北区) 西福寺
      二番 下沼田村(足立区)延命院(現在は恵明寺)
      三番 西ケ原 (北区) 無量寺
      四番 田端村 (北区) 與楽寺
      五番 下谷広小路(台東区)常楽院
      六番 亀 戸 (江東区)常光寺
 の六寺を徒歩で参詣して廻ることをいう。五番の広小路常楽院だけが市内で、あとは郡部に属している。常楽院は今の広小路赤札堂がその跡だそうだ。…」

 今回最初に訪ねる”五番 下谷広小路(台東区)常楽院”については現在の地図で探しても不明でした。もう少し探してみたところ、調布市西つつじヶ丘に移転されていました。昔の場所は何処かとおもったのですが、上記には”常楽院は今の広小路赤札堂(アブアブ)がその跡”と書かれています。そこで、古い地図で探してみました。明治17年と昭和15年の地図に記載がありました。元々の名称は宝王山常楽院長福寿寺となています。

写真の正面付近にあるのがAbAb上野店です。この辺りに常楽院があったようです。明治17年の地図によると、上野広小路側と南側の側道に入口があったようです。関東大震災で焼失したあとは、昭和15年の火保図に小さくなって掲載されていました。上野広小路側の入口は無くなって裏側が入口だったようです(裏側の路地は現在もあります。北側から撮影南側から撮影)。その後の空襲で再び焼けて、その後に調布に移っています。

「東天紅裏の常楽院別院」
<台東区池之端一丁目 東天紅裏の常楽院別院>
 常楽院は戦後、調布市西つつじヶ丘に移転していますが、参詣の便を図って縁のある上野池之端、東天紅の敷地の裏に別院を設け、模刻の阿弥陀さまをお祀りしています。

 東天紅裏の常楽院別院に掲げられている「江戸六阿弥陀縁起」より
「   江戸六阿弥陀縁起

 聖武天皇の項(七二四〜七四九)、武蔵国足立郡(今の東京都足立区)に沼田の長者とよばれる庄司(荘園を管理する人)従二位藤原正成という人がいて、多年子宝に恵まれずにいたが、ある時、熊野権現(和歌山県)に詣でて祈願したところご利益を得てようよう一女を授かった。この息女は足立姫と呼ばれた程にみめ美しく、仏を崇い、天質聡明であったが、隣りの郡に住む領主豊島左ヱ門尉清光に嫁がせると、領主の姑が事々に辛くあたり悲歎の日々を送ることになった。そしてある時、里帰りの折りに思い余って沼田川(現荒川)に身を投げ、五人の侍女もまた姫の後を追って川に身を投じたのであった。後日、息女らの供養に諸国巡礼の旅に出た長者が再び熊野権現に詣で たところ夢に権現(衆生を救うために日本の神の姿をとって現れる仏)が立ち一女を授けたのはそなたを仏道に導く方便であった、これより熊野山中にある霊木により六体の阿弥陀仏を彫み広く衆生を済度せよ、と申されたのであった。長者が熊野山中を探し歩くと果たして光り輝く霊木をみつけ、長者は念を込めてその霊木を海に流したのである。長者が帰国してみると霊木は沼田の入江に流れ着いており、間もなくこれも先の夢のお告げの通りに、諸国巡礼の途に沼田の地に立ち寄られた行基菩薩に乞うて六体の阿弥陀仏を彫り、六女ゆかりの地にそれぞれお堂を建ててこれを祀ったのである。江戸時代に入り、この六阿弥陀を巡拝し、極楽往生を願う信仰が行楽を伴って盛んになり、特に第五番常楽院は上野広小路の繁華街(現ABAB赤札堂地)にあったので両彼岸などは特に大いに賑わい、江戸名所図絵にも描かれている。広小路のお堂は、関東大震災と第二次大戦期の焼失を継て、ご本尊阿弥陀さまは調布市に移ったが、参詣の便を図って縁のある上野池之端、此東天紅の敷地を拝借して別院を設け、模刻の阿弥陀さまをお祀りしている。
      六阿弥陀第五番  常 楽 院        調布市西つつじヶ丘四の九の一」

 この常楽院の「江戸六阿弥陀縁起」は現代語訳されたいますが、「北区立郷土資料館 調査報告 第5号」によると、元々は”明治四十三年大浜掬波著郊外散策六阿弥陀詣に載る縁起で常楽院所蔵のもの、文章より推して明治に作成のものとみる。これは又大正五年七月の南足立郡誌(一三四頁)にも載っている”とあります。

写真は上野池之端、東天紅の敷地の裏にある常楽院別院です。不忍池から見て、東天紅ビルの左側裏にあります。六阿弥陀専用の別院といっていいとおもいます。つつじヶ丘は遠すぎます。

「現在の常楽院」
<つつじヶ丘に移転した常楽院>
 終戦後、下谷広小路の常楽院は調布市西つつじヶ丘に移転しています。西つつじヶ丘にあった無住職の福増山延命院蓮蔵寺と合併し、福増山常楽院となっています。(ホームページより)

 元々の「常楽院縁起」の始めの部分を記載しておきます。
「 抑武蔵国六阿弥陀の縁起を原ぬるに、往古聖武天皇の頃、此国足立郡に足立の長者と云し豪族あり、家産豊饒にして何不足なき身なりしが宿因のなす所にや老年に及ぶまでいまだ一人を得ざりければ常に之を憂いて遥に紀伊国の熊野大神に祈請し、何とぞ一子を得せしめ給へと丹誠怠ることなかりけれ、其感応空しからずして、遂に玉の如き女子一人を得たり。長者の喜びいはんかたなく、之を足立姫と名づけて掌中の花の如く愛育したりしが、成長の後は世に比なき美人となり、絲竹の道文よむわざまで何秀でずといふことなかりければ、遠近之を聞きて誰愛敬せぬ者なく、妻にせん、嫁にせんと懇望する者引きもきらざりけりといふ。其比隣郡に豊島の長者とて此も世に名だたる富豪の名族あり。彼の足立姫の美艶にして、旦才女なる由を聞きて切に懇望せしかば、同じ豪族の事なれば、好き配偶なりとて速に嫁せしめたり。然るに如何なる宿世の因縁にや、足立姫いたく姑の悪みを受けて、世にも有られず歎き悲しみ居たりしが、或日親里へ帰らんと豊島の家を立出でけるが、いたくや思い迫りけむ、其道の沼田川といふに身を投げて没したり。之を見て姫に仕へ居たりし從婢ども、いと悲しき事に思ひ姫に追付きまいらせんと入水し、遂に五人までに及びたり。足立長者天に訴へ地に歎き悲嘆の涙に咽び、泣々その弔ひなどなしをへたれどやるかたなきの餘りせめては六女の菩提の為とて、遂に発心して家は親族の者に托しおきて諸国の霊場を参拝すと出で行きたり。…」
 上記の「常楽院縁起」を現代語訳して短くしたのが常楽院別院の項に掲載した「江戸六阿弥陀縁起」です。分かりやすくなっています。駄々、「六阿弥陀縁起」は各お寺で微妙に違うようです。

写真は現在の調布市西つつじヶ丘にある常楽院です。表札に”江戸 六阿弥陀 第五番 天台宗 常楽院”とありました。

 続きます。



明治17年地図



昭和15年の火保図