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最終更新日:2006年3月7日


●江戸川乱歩を歩く 東京編 -5-
  初版2006年3月4日
 <V01L01>

 今週は「江戸川乱歩を歩く」掲載の十週目で最終回となります。下宿屋を経営しますが結局上手くいきません。住いも芝区車町から池袋と転居しますが、池袋の立教大学正門前の小道を入った先に落ち着きます。



<江戸川乱歩のお墓>
 江戸川乱歩(平井太郎)は昭和40年(1965)7月28日、脳出血のため享年70歳で亡くなります。冨田均さんの「乱歩東京地図」の最後の文を読むと、「…さて、この本も終わりに近づいた。乱歩の戦後はほとんどが二十面相ものに費やされ、昭和初期の純粋創作に近い作品としては短篇の「防空壕」 (昭和30)、掌篇コント「指」 (昭和35)、連作長篇「奇形の天女」 (昭28)などが残っている程度で、さすがの乱歩も創作力が衰えたと言わざるを得ない。一方、名士としての活動が増え始め、「江戸川乱歩賞」 の設定、各種団体の会長、理事長職への就任、合わせてマスコミ・イベント類への登場も頻繁となった。作品の映画化・ラジオドラマ化も続き、ようやく土蔵のある西池袋の自宅で悠々自適の晩年を迎えるに至った。亡くなったのは昭和四〇年(一九六五) 七月二八日。脳内出血だった。戒名は智勝院幻城乱歩居士。墓所は多磨霊園にある。」。とあります。時代と共に生きた文士だったようです。


左上の写真は多磨霊園にある平井家のお墓です。お墓の右側に少し小さい「江戸川乱歩」と書かれた墓標が建てられていました。江戸川乱歩のお墓は多磨霊園の正門から少し遠いところにあるので、分かりにくいとおもいますので事務所で地図を買われた方がいいとおもいます(26区1種17側6番です)。道から少し離れていますので探すのが大変です。

【江戸川乱歩】
探偵小説家。本名平井太郎。三重県生れ。早大政経科卒業後、十数種の職業を転々、大正二一年四月「二銭銅貨」を発表し、衝撃的デビューを果す。筆名は推理小説の始祖エドガー・アラン・ポーからとっている。代表作「パノラマ島奇讃」、「陰獣」、少年探偵団ものなどで圧倒的な人気を博し、一時代を築く。(河出書房新社「乱歩 打明け話」より)


江戸川乱歩の東京年表

和 暦

西暦

年  表

年齢

江戸川乱歩の足跡

昭和2年
1927
金融恐慌
芥川龍之介自殺
地下鉄開通

33
3月 戸塚町下戸塚62 築陽館で下宿屋を始める
11月 京都に滞在
昭和3年
1928
最初の衆議院選挙
張作霖爆死
34
3月 戸塚町下諏訪115の借家に転居
4月 戸塚町源兵衛179 緑館で下宿屋を始める
昭和6年
1931
ロシア革命
34
11月 下宿屋を廃業
昭和8年
1933
ナチス政権誕生
国際連盟脱退
39
4月 芝区車町に転居
昭和9年
1934
丹那トンネル開通
40
1月 麻布区の「張ホテル」に長期滞在
7月 池袋三丁目に転居(この後は転居せず)


旅館下宿、緑舘>
 早稲田大学正門前の下宿 筑陽館を売却し、規模の大きい下宿屋経営を目指します。「…この年三月に早大前の下宿屋の権利を売り、一時戸山ケ原に近い諏訪町に小さい家を借りて住み、平凡社の全集の印税で、大きい下宿屋を物色、当時の町名で戸塚町源兵衛に、福助足袋の会社の寮が売りものに出ているのを知って、私自身福助足袋の本社へ出かけ、多くの競争者を排して、その家屋を割合廉く手に入れることが出来た。百七十坪の土地一杯に建った二階家で、二十一室ほどあったが、そのままでは下宿にならないので、田舎から親戚の大工さんを呼んで、玄関を造って外廻りの板張りを新らしくし、全部の部屋に長押をつけたり、壁を塗り更えたり、ガラス障子や襖を入れたりして、一見新らしい家のように改造した。…」。下宿経営にやりがいを見いだしたのでしょう。福助の本社まで訪ねて、建物を手に入れ本格的な下宿屋を経営し始めます。

左上の写真の右側のマンションの所が「旅館下宿 緑館」跡です。明治通りと早稲田通りの交差点(馬場口)から早稲田方面に30m、すぐに左に曲がった先の右側です。

芝区車町>
 江戸川乱歩は翌年、緑館を増築し下宿を大きくしていきますが、下宿人達に待遇改善の争議を起こされます。下宿人が増えるとやはりいろいろ問題が起きますね。結局、嫌気が差して下宿屋を廃業し、引っ越します。「…芝区(今の港区)車町八番地に、ちょっと気に入った家を見つけた。元は質屋だったらしく、玄関を入ると土蔵があり、これが二階の床を取り去って天井の高い洋室に改造されていた。十坪ほどの洋室である。天井がバカに高いのと、土蔵のことだから壁の厚いのが、私の気に入った。この土蔵洋室のほかは普通の日本建て二階家で八、八、六、六、六、三、三、二の八室に湯殿と物置がついていた。家賃は一年千円であった。ここに私と母と妻と子供(十三歳)と女中との五人で住んだわけである。…」。昔の東海道、今の第一京浜国道沿いです。

右の写真の右側の路地を入った左側二軒目です。角地は地下鉄都営浅草線「泉岳寺駅」のA3の出入口ですから、その先の左側となります。現在の住所で港区高輪二丁目17−3付近となります。

豊島区池袋>
 芝区車町は第一京浜国道沿いで当時は都電が走っており、相当うるさかったのでしょう。すぐに引っ越します。「…芝区車町の家は高輪の大木戸あとに近く、京浜国道と東海道線からすぐの場所にあったので、土蔵の洋室が気に入って住みついては見たものの、汽車と電車と自動車の騒音が、だんだん耐え難くなって来た。汽車はときたまだけれども、電車と自動車はひっきりなしに走っているので、特にに自動車のクラクションの音が、神経衰弱になるほど、身にこたえた。一年ほどは何とか辛抱したが、もう我慢ができなくなって、二カ月ばかり借家を物色したあとで、池袋三丁目の今の住居を見つけて、七月に引越しをした。 池袋の家にも昔風の土蔵がついていた。実はそれが気に入ったのである。地面も広く三百五十坪あり、平家建てで、八、六、六、四半、四半、四、三、三、三、二の十室に湯殿。土蔵は二階建てで延坪十五坪であった。家賃は月九十円、大きな門がついていて見かけもなかなか立派であった(但しこの門は後に戦災で焼失した)。…」。この池袋の立教大学正門前の路地をはいった先の家が、江戸川乱歩最後の家となります。空襲にも耐えて、現在も残っています。

左上の写真が江戸川乱歩邸の全景です。数年前に乱歩展が池袋東武百貨店?で開催されたおりに一般公開されていました(写真はそれ以前の撮影です)。正面の写真も掲載しておきます。


京都 丸太町橋西詰 山水館旅館>
 江戸川乱歩は暇に任せてぶらぶらといろいろな土地を歩いています。「…私はやっぱり関西人であったのであるか。私は春団治を、そのとき彼がちょうど大阪の席に出ていなかったので、京都まで聴きに行って、山下利三郎君の案内で、一夜を京に過してから、急に京都に住んでみたくなって、鴨川べりの宿屋に腰を据えてしまったのであるが、それが妙なきっかけになって、書く方の仲間の人達にも会うような旅になってしまったのである。そこで私は一カ月、その半ばは病気をして寝ていたのだけれど、鴨川を眺め暮らしたのであったが、…」。春団治というと、大正から昭和にかけて一世を風靡した上方落語のスーパースターでした。飲む打つ買うの三拍子揃った遊び人で、質草に自分の持ちネタをいれて借金が出来るほどでした。高座で客からその質草のネタをせがまれると「質草に入れたので噺せない」と言いいます。すると客が質草代を出して、ネタを受け出して噺させたという話が残っています。

右の写真の正面付近の川べりに山水館がありました。戦後も暫くはあったようです。前の通りは丸太町通りで、川は鴨川です。場所は下記の地図を参照してください。

今回で「江戸川乱歩を歩く」を一様終了します。「貼雑年譜」に書かれている所は全て網羅したとおもいます。

乱歩 東京地図 -1-


乱歩 京都地図 -1-


江戸川乱歩の参考図書(お問い合わせが多いのでAmazonにリンクしました)






【その他参考文献】
・私の履歴書:江戸川乱歩、日本経済新聞社
・まんだ:まんだ編集部
 


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