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最終更新日:2013年08月30日


●江戸川乱歩を歩く 東京編 -4-
  初版2006年2月25日
 <V01L02>

 今週は「江戸川乱歩を歩く」掲載の九週目です。ポマード製造の手伝いが上手くいかず一時大阪に戻りますが昭和2年、今度は江戸川乱歩として再度上京します。



探偵小説四十年 江戸川乱歩>
 江戸川乱歩の自叙伝としては「貼雑年譜」が有名ですが、探偵小説を書き出した大正十二年以降はこの「探偵小説○×年」が小説家としての自叙伝となります。「…今年、昭和二十四年の夏で満二十七年になる。三十年には少し足りないが、この稿を終るころには、一層そこへ近づくのだから、あらかた三十年というわけで、「探偵小説三十年」という表題をつけた。平凡社版「江戸川乱歩全集」の最終第十三巻(昭和七年五月)に「探偵小説十年」という回顧随筆を書き、新潮社版「江戸川乱歩選集」十巻(自昭和十三年九月、至十四年九月)の各巻末に続きもので「探偵小説十五年」を書いたが、いずれも正確に十年、十五年であったわけではない。新潮社本の場合は、本当は十六、七年に当るのを、それでは口調が悪いので十五年と縮めたが、この稿はそれとは逆に、二年余り延ばして、三十年と口調よくしたわけである。…」。「探偵小説○×年」は上記に書かれているように時の経過と共に十年→十五年→三十年と書き加えられてきています。この「探偵小説三十年」の続編は昭和三十一年に「探偵小説三十五年」として継続します。「…掲載誌「新青年」は編集方針の手直しが手遅れで、翌二十五年七月に、三十一年にわたる歴史を閉じることになり、乱歩の本稿も中絶した。ライバル誌「宝石」は、構溝の「八つ墓村」と、本稿を引き継ぐこととし、二十六年三月号から続稿を載せた。それは三十一年一月、五十一回で一段落を告げた。その続きは「探偵小説三十五年」と改題され、同年四月号から始まった。…」。この「探偵小説三十五年」の再度の続編としての「探偵小説四十年」は昭和三十六年に発刊されます。「…乱歩は丹念な性癖を発揮して、筆をとめた三十一年度のあとに、追記として三十二年以降の新稿七、八十枚をつけ加え、写真百七十枚余を集め、説明文を書き、割付け用紙に写真の位置、大きさを指定する作業を厭わなかった。刊行は三十六年七月、千部限定出版で、「探偵小説四十年」と改題した。桃源社の出版である。…」。となり、この「探偵小説四十年」が最後となります。


左上の写真は桃源社版として発刊された「探偵小説四十年」の沖積社版の新装復刻版です。定価が9800円で非常に高価です。現在は光文社文庫の江戸川乱歩全集の中に「探偵小説四十年」が入っています。第28巻と第29巻で1200円と1260円でお安くなっています。

【江戸川乱歩】
探偵小説家。本名平井太郎。三重県生れ。早大政経科卒業後、十数種の職業を転々、大正二一年四月「二銭銅貨」を発表し、衝撃的デビューを果す。筆名は推理小説の始祖エドガー・アラン・ポーからとっている。代表作「パノラマ島奇讃」、「陰獣」、少年探偵団ものなどで圧倒的な人気を博し、一時代を築く。(河出書房新社「乱歩 打明け話」より)


江戸川乱歩の東京年表

和 暦

西暦

年  表

年齢

江戸川乱歩の足跡

大正11年
1922
ワシントン条約調印
森鴎外死去
28
2月 池袋866に転居
6月 神田区錦町3-3 東岳館に下宿、続いて神田区錦町3-5 向上館に下宿
7月 大阪府北河内郡守口町字守口689−3の父の家に転居
大正12年
1923
関東大震災
29
3月 「二銭銅貨」掲載の「新青年」4月号発行
5月 妻・隆子が腹膜炎で大阪赤十字病院に入院
6月 大阪府北河内郡門真村一番地の借家に転居
7月 大阪毎日新聞広告部に入社
9月 関東大震災
大正13年
1924
中国で第一次国共合作
30
4月 大阪府守口町二六六に転居
9月 守口町外島六九四の父の家に同居
11月 30日 大阪毎日新聞を退社
大正15年
昭和元年
1926
蒋介石北伐を開始
NHK設立
32
1月 上京し牛込区築土八幡町32に転居
昭和2年
1927
金融恐慌
芥川龍之介自殺
地下鉄開通

33
3月 戸塚町下戸塚62 築陽館で下宿屋を始める
昭和3年
1928
最初の衆議院選挙
張作霖爆死
34
3月 戸塚町下諏訪115の借家に転居
4月 戸塚町源兵衛179 緑館で下宿屋を始める


神田区錦町 東岳館>
 先々週からの続きですが、池袋のポマード製造の手伝いが上手くいかず、平井太郎(江戸川乱歩)は家族を大阪の父親の家に預けて、自分自身は神田の神保町傍の錦町に下宿します。「…私ハ松村家武君ノ世話デ、神田区錦町三ノ三東岳館ニ下宿シ、十日程デソコカラ松村君ト同ジ下宿、同町三ノ五ノ向上館ニ変ワリ、ソコカラ時々庄司氏ノ家ニ顔出シシテイタノデアルガ、庄司氏ハ一向約束ノ棒給ヲクレナイノデ困ッテイル所ヘ、七月ニナッテ、大阪ノ隆子ガ病気ニナリ、結局私モ東京ヲ引上ゲテ大阪ヘ行ク外ハナクナッタノデアル。…」。神田区錦町三ノ三東岳館については場所が確認できましたが向上館については場所が確認できませんでした。

左の写真の右側に平井太郎が下宿した東岳館がありました。現在の住所で神田錦町三丁目6−8付近です。向上館については神田錦町三ノ五付近の写真を掲載しておきます。

牛込区築土八幡町>
 平井太郎(江戸川乱歩)は生活に困窮し、結局東京を離れ、大阪の父親を頼ります。「…そのころ私はちょうど失業時代であった。先に列記した職業のうち、化粧品製造業の支配人をやめ、妻と赤ん坊をつれて、大阪の父の家にころがりこんでいたのである。…」。この後の大阪については「江戸川乱歩の大阪を歩く」を参照してください。昭和二年一月、平井太郎は江戸川乱歩として再度上京します。「…十五年の一月に大阪市外守口町から東京市牛込区築土八幡町三二に移転した。…… 今とちがって、貸家はいくらでもあったころだから、間もなく築土八幡町の高台の家にきめて、通知してくれたので、年末から正月にかけて引越しを終った。築土八幡町三二の家が、戦災にあったかどうか、まだ確めてもいないが、そのころでも、もう相当古くなった家で、下が八、六、三畳、二階が、六、三、二畳、合せて六間の二階家、玄関の一坪の土間の正面の壁に大きな丸窓が切ってあるという掠えで、家賃は一カ月四十八円であった。神楽坂上の牛込肴町の電車停留所に近く、あの電車通りを半丁ほど飯田橋の方へ寄ったところから、急な坂を上るとすぐの場所。むろん八幡神社にも近かった。…」 。大正時代初期に住んでいた牛込区新小川町の少し神楽坂方面に坂を登った八幡神社の丁度裏手のところになります。

右の写真の右側先を右に曲がった先になります(直接の写真は控えさせていただきました)。今の住所で筑土八幡町4−6付近になります。当時の地番入りの地図を見ると、八幡神社の裏の道から細い路地を入った先になります。上記の写真の道は当時はありませんでした。

下戸塚 築陽館>
 本が売れだした江戸川乱歩は、儲かったお金で商売を始めます。「…そして、愈々「一寸法師」を切上げた三月上旬には、予定通り二千円余りの貯えができていたので、これを元手にして、何か家内で出来るような商売をはじめよう、おでんやがいいか、鯛焼き屋か、それとも撞球屋かと、いろいろ考えた。そして、結局下宿屋ということに落ちついたのである。そこで、新聞の三行広告をたよりに、忘れもしない本郷区弓町辺の周旋屋へ行って、下宿屋の権利の売りものを探し、早大正門前の一軒の下宿屋を手に入れたのである。権利金は二千二百円、家賃は九十五円。そとから見ると洋風の三階建てで、中は全部畳敷きの和室都合十五室の下宿屋向きに建てた家であった。チャチな建物なので、余り上等の下宿屋ではないが、正門前という地の利を得ていたので、開業すると、たちまち満員になった。田舎から女中を呼んで、家内が采配をふったのである。下宿の名前は、「筑陽館」という前経営者からのものを踏襲した。…」。以前、下宿屋で失敗しているので今回は十分注意したようです。

左上の写真の右側のビル辺りです(現在の住所で戸塚町一丁目−15〜16付近です)。この地区は区画整理されており、当時は写真正面の道はありませんでした。この付近から馬場下町に抜けるには早稲田大学傍の道を行くしかありませんでした。

戸塚町下諏訪百十五>
 江戸川乱歩は下戸塚の築陽館よりも大きな下宿屋を始めるため、一時借家に引っ越します。「…早大前の下宿屋の権利を売却、一時戸塚町下諏訪一一五の借家に移る。…」。下宿屋の儲かるコツを掴んだのでしょう。さらに大きな下宿屋にチャレンジしようとします。

右の写真の左端のビルから右側が戸塚町下諏訪百十五です(現在の住所で高田馬場一丁目12付近)。早稲田大学正門からはかなり遠いですが、新しい下宿屋がある戸塚町源兵衛からはかなり近くなります。ここに約一カ月住むことになります。

来週は「江戸川乱歩を歩く」の最終回です。

乱歩 東京地図 -1-


江戸川乱歩の参考図書(お問い合わせが多いのでAmazonにリンクしました)






【その他参考文献】
・私の履歴書:江戸川乱歩、日本経済新聞社
・まんだ:まんだ編集部
 


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