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最終更新日:2006年2月22日


●江戸川乱歩を歩く -鳥羽編-
  初版2006年2月4日 
<V01L01> 暫定版

 今週は「江戸川乱歩を歩く」掲載の七週目です。大正6年11月、三重県鳥羽の造船所に就職します。しかしここも長くは続きませんでした。ただここで人生で一番大切な人であった妻 隆子さんを見つけます。



妻 隆子さんの実家>
 江戸川乱歩の妻 隆子さんは鳥羽の坂手島の出身でした。「…妻は村山隆子といって、今は三重県鳥羽市に編入された坂手という島の米穀、酒、雑貨商(田舎によくある「よろず屋」である)の娘であった。当時は坂手村といい、漁師ばかりの島で、隆子の父は雑貨商は人まかせで、村に一つの小学校の先生をしていたという。この父は早く歿して、私は会っていないが、そういう田舎にしては好学の人であったようだ。 母がしっかりもので、父の穀後、隆子の兄の年少の間は、一人で店を切りまわしていた。村山家は代々万右衛門を名乗り、そういう商売をしている家は、ほかに一軒しかなかったので、まず村での資産家であった。今は隆子の兄も半ば隠退して、その長男が店をやっている。…」。これが書かれたのが昭和32年ですから、もう当時の家はないかとおもっていましたら、まだそのままでした。お店もそのまま営まれていました。隆子さんが勤めていた坂手小学校は島の丘の上です。桟橋から実家まで5分、実家から坂手小学校まで5分、坂道なので少々疲れます。

左の写真は鳥羽市坂手町の隆子さんの実家です。この島は戦前の建物がたくさん残っていました。

坂手島>
 坂手島を訪ねるには鳥羽中之郷乗り場から市営定期船に乗ります。5〜6分で着きます。220円です。「…鳥羽造船所の旧友から手紙が来た。村山隆子が病気をして死にかけているというのである。狭い村のことだから、私としきりに文通していたことは、村中に知れわたっていた。隆子は私のラブレターによって、結婚におちつくものと信じていた。その相手の私が夜逃げをして、音信をたってしまったのだから、彼女にしては村に顔むけができない。つい気病みが昂じて入院まですることになったのである。……その隆子が瀕死の病気ときいて、私は独身主義をなげうつ決心をした。そして、求婚の手紙を出した。…」。大正時代で田舎の鳥羽ですから男性から女性への手紙は島中の評判になったのでしょう(やっぱり噂の元は郵便配達人?)。

右の写真は市営定期船の桟橋から島の中心部を撮影したものです。やや左側の白い建物の先に隆子さんの実家があります。鉄塔の建っている丘の所に坂手小学校があります。市営定期船の写真も掲載しておきます。

【江戸川乱歩】
探偵小説家。本名平井太郎。三重県生れ。早大政経科卒業後、十数種の職業を転々、大正二一年四月「二銭銅貨」を発表し、衝撃的デビューを果す。筆名は推理小説の始祖エドガー・アラン・ポーからとっている。代表作「パノラマ島奇讃」、「陰獣」、少年探偵団ものなどで圧倒的な人気を博し、一時代を築く。(河出書房新社「乱歩 打明け話」より)


江戸川乱歩の鳥羽地図 -1-


江戸川乱歩の鳥羽年表

和 暦

西暦

年  表

年齢

江戸川乱歩の足跡

大正6年
1917
ロシア革命
23
5月 加藤洋行を出奔
7月 大阪市亀甲町にあった父の家へ連れ戻される
11月 鳥羽造船所電機部に入所、当初社員クラブに宿泊
12月 鳥羽町本町稲垣氏へ下宿
大正7年
1918
米騒動
パリ講和会議
24
春 城山 清美寮に転居
11月 鳥羽町岩崎 花田氏別宅に転居
大正8年
1919
松井須磨子自殺
25
1月 鳥羽造船所を退社し上京


鳥羽造船所 社員クラブ>
 平井太郎(江戸川乱歩)は大阪の加藤洋行でサラリーマンが勤まりませんでしたが、再び鳥羽の造船所でサラリーマン生活に入ります。「大正六年十一月十一日、父の知人ノ世話デ私ハ鳥羽造船所電気部ヘ入所赴任シタ。庶務カ係、月給二十円、食事ハ会社持デアッタ。風光明媚、暖ハ南ノ国、好景気襲来間際、非常ニノンビリシタ遊ンデイルヤウナ勤メデアッタ。マダ独身社員ノ寮ガ出来テイナイノデ、私ハ一時社員クラブノ二階ニ泊ッテイタ。…」。その当時、鳥羽造船所は神戸の鈴木商店配下の造船所でした。神戸の鈴木商店は今の三菱商事や三井物産と同等の商社でしたが、米騒動で焼き討ち似合い、昭和2年の金融恐慌であえなく倒産します。

左の写真の海辺の辺りに鳥羽造船所がありました。今の鳥羽水族館付近りです。現在は跡形もありませんが近くにある鳥羽神鋼電機の工場が鳥羽造船所の系列でした。

鳥羽町本町 稲垣氏下宿>
 この鳥羽町本町の稲垣氏下宿については「貼雑年譜」では「別ニ記スナシ」と書かれていました。つまり、なんにも書いていないとのことでした。ただ、この下宿の前に友人の岩田氏のお宅があります。このお宅は現在「鳥羽みなとまち文学館」になっています。江戸川乱歩の鳥羽時代について展示さています。

右の写真の左側二軒目が「鳥羽みなとまち文学館」で、その向かい側、写真の右側二軒目が鳥羽町本町 稲垣氏宅となります。建物も当時のままでした。

城山 清美寮>
 平井太郎(江戸川乱歩)は鳥羽造船所の寮に入ります。「…ソレカラ城山ノ上ノ済美寮。ソコデ私ハ深夜付近ノ禅寺ヘタダ一人座禅ヲ組ミニ行ッタリ、会社ヲ休ンデ自室ノ押入ノ中ニ寝テイタリシタ。…」。この清美寮の場所については正確には分かりませんでした。多分、現在の鳥羽市立鳥羽小学校の辺りではないかと推定しています。鳥羽小学校は城山の上にあります。禅寺については光岳寺です。

左の写真が城山の鳥羽小学校です。平井太郎(江戸川乱歩)が鳥羽にいた大正6年頃は鳥羽小学校は現在のNTTビルのところにありました(「貼雑年譜」にも書かれており、城山の上にはなかった)。以前、梶井基次郎の所でも紹介しています。梶井基次郎が鳥羽小学校に通っていた時代は明治44年ですから、平井太郎よりも早かった訳です。

鳥羽町岩崎 松田氏別宅>
 平井太郎(江戸川乱歩)の鳥羽での最後の下宿は松井氏別宅でした。「…大正七年ノ秋デアッタカ、物価騰貴ノタメ月給ガ一躍三倍程ニ上ッタコトガアル。ソコデ私ノ収入ハボーナスヲ加算スルト百円程ニナッタ。ソンナコトカラデアロウ、同年十一月ニ鳥羽町ノ松田トイウ金持医者ノ別荘ヲ二十円ホドノ家賃デ借リ受ケ、一人デソコニ住ムコトニシタ。食事ハ仕出シ屋カラ運バセタノデアル。…」。この場所については鈴木商店の鳥羽造船所と関係があった神鋼電機のホームページにも書かれていました。「…岩崎の、現在『牛銀』さんの隣にあった松田医院の前の路地を入って、山に上るところにあった借家で、自炊生活をしていた。…」。『牛銀』も松田医院も現在はありませんでした。牛銀は三重では有名なしゃぶしゃぶ、すき焼きのお店です。

右の写真の正面、右辺りではないかと推測しています。調査不足で正確な場所が分かりませんでした。

その他では「貼雑年譜」に”キンポカン”と”自動車墜落のケ所”が書かれていましたので掲載しておきます。
・”キンポカン”ついては、現在の錦浦館の写真を掲載しておきます。
・”自動車墜落のケ所”については、「…コノ寮ニイルコロ悪友共ト深夜山田市ヘ遊ビニ行クタメニ自動車デ峠越エヲシテ崖カラ轉落シ、車体ガ崖ノ中途ニ生エテイル松ノ木数本ニ支エラレテ、横倒シノママユラユラシテイタトイウ事件ガアル。下ハ底モ見エナイ深サデアル。私達ハ一人ヅツヤットノ思ヒデ上ノ峠道ヘ這ヒ上ガッタガ、モウ少シドウカシテイレバ死ンデイルトコロデアッタ。…」。と書かれていましたので、推定でJR参宮線の陸橋の手前写真を掲載しておきます。

この後、平井太郎(江戸川乱歩)は東京に向かいます。

江戸川乱歩の鳥羽地図 -2-


江戸川乱歩の参考図書(お問い合わせが多いのでAmazonにリンクしました)






【その他参考文献】
・私の履歴書:江戸川乱歩、日本経済新聞社
・まんだ:まんだ編集部
 


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