kurenaidan30.gif kurenaidan-11.gif
 ▲トップページ著作権とリンクについてメール

最終更新日:2007年1月21日


●江戸川乱歩を歩く -大阪編-
  初版2006年1月8日
  二版2007年1月21日 
<V01L01> 加藤洋行の写真を入替

 今週は「江戸川乱歩を歩く」掲載の六週目です。早稲田大学卒業後初めて大阪に向かいます。大阪の商社、加藤洋行に就職しますが、長くは続きませんでした。



<北河内とその周辺の地域情報誌 まんだ>
 大阪府の北河内地区(北河内地区とは大阪府の北部、淀川東側地区のことです)の情報誌「まんだ」を参考にして江戸川乱歩の大阪を歩いてみました。大野正義さんが「江戸川乱歩と守口・門真」として書いておられます。掲載の時期が昭和60年12月とかなり古く、現場がかなり変わってしまっていましたが、かなり正確に調査されたようで、私でもすぐに場所がわかりました。ただ、町名・番地が大正時代から二度変わっており、大野正義さんが書かれた地番からも変わっていました。「…乱歩長男の平井隆太郎氏に特にお願いし、格別の御好意で守口・門真時代の該当箇所のコピーを送ってもらい、それをもとに旧宅跡の現地調査を開始した。……守口での乱歩の旧宅(跡)は『貼雑年譜』の旧地番をもとに古い地籍図と照合でき、若干の証人も得られたので調査は進んだが、門真村一番地だけは門真市役所に勤務する私にとっても地籍図だけではさっぱり判らなかった。…」。筆者の大野正義さんは門真市役所にお勤めだったようです。よく調べられるわけです。私もよく調べますが地元の人にはかないません。

左の写真は大阪府の北河内地区(北河内地区とは大阪府の北部、淀川東側地区のことです)の情報誌「まんだ」、第二十六号、昭和60年12月刊行されたものです。2002年の74号以降は発行されていないようです。

【江戸川乱歩】
探偵小説家。本名平井太郎。三重県生れ。早大政経科卒業後、十数種の職業を転々、大正二一年四月「二銭銅貨」を発表し、衝撃的デビューを果す。筆名は推理小説の始祖エドガー・アラン・ポーからとっている。代表作「パノラマ島奇讃」、「陰獣」、少年探偵団ものなどで圧倒的な人気を博し、一時代を築く。(河出書房新社「乱歩 打明け話」より)


江戸川乱歩の大阪年表

和 暦

西暦

年  表

年齢

江戸川乱歩の足跡

大正5年
1916
世界恐慌始まる
22
1月 牛込区新小川町で叔父の岩田一家と同居
7月 早稲田大学を卒業
8月 大阪靱中通二丁目の加藤洋行に就職
大正6年
1917
ロシア革命
23
5月 加藤洋行を出奔
7月 大阪市亀甲町にあった父の家へ連れ戻される
11月 鳥羽造船所電機部に入所
大正8年
1919
松井須磨子自殺
25
1月 鳥羽造船所を退社し上京
大正9年
1920
国際連盟成立
26
10月 大阪府北河内郡守口町801−1の父の家に転居し大阪時事新報に就職
大正10年
1921
日英米仏4国条約調印
27
2月 長男生まれる
4月 上京、日本工人倶楽部に就職
大正11年
1922
ワシントン条約調印
28
7月 大阪府北河内郡守口町字守口689−3の父の家に転居
大正12年
1923
関東大震災
29
3月 「二銭銅貨」掲載の「新青年」4月号発行
5月 妻・隆子が腹膜炎で大阪赤十字病院に入院
6月 大阪府北河内郡門真村一番地の借家に転居
7月 大阪毎日新聞広告部に入社
9月 関東大震災
大正13年
1924
中国で第一次国共合作
30
4月 大阪府守口町二六六に転居
9月 守口町外島六九四の父の家に同居
11月 30日 大阪毎日新聞を退社
大正15年
1926
蒋介石北伐を開始
NHK設立
32
1月 上京


大阪靱中通二丁目19の加藤洋行>
  
2007年1月21日 加藤洋行の写真を入替
 平井太郎(江戸川乱歩)は早稲田大学卒業後、川崎氏の紹介で大阪の加藤洋行に勤めます。「貼雑年譜」の”大阪 加藤洋行店員”の所を読むと、「早大卒業後、結局、川崎克氏ノ紹介デ当時代議士デアッタ加藤定吉氏ノ大阪ノ店ニ勤メルコトニシタ。木綿結城縞ノ一衣ニ綿ノ角帯ヲシテ赴任 …… 大阪ハコレガ初メテ毎晩店ノ同僚ニ盛リ場ナドヲ案内シテ貰ッタ。ソシテ、イツトハナク大阪ノ遊蕩的ナ雰囲気ニ親ンデ行ッタワケデアル。」。と書いています。初めて給料を貰って、大阪で遊びを覚えた訳です。加藤洋行は現在でもありますが、本社の場所は変わってしまっています。遊びすぎたため一年も経たずに加藤洋行を出奔します。

左の写真の手前から70m先の右側(当時の住所で靱中通二丁目19、現在の公社靱ハークサイドコーポの向い側)です。靱公園は戦後に米軍が飛行場を作った跡で、戦前は公園はありませんでした。ですからこの付近は全く変わってしまっています。

守口町八○一番地の一>
 加藤洋行を出奔後、一時東京に戻りますが、父親に見つかり大阪に連れ戻されます。結局、鳥羽の造船所に再就職させられますが長く続かず、大正9年10月大阪の父親の基に戻り、大阪時事新報に勤めます。ここからは「まんだ」で歩いてみました。「…乱歩が最初にこの北河内に居住したのは大正九年十月、父平井繁男の住む守口町八〇一〜一の家である。昭和二十四年八月一日の改正で現在の地番は来迎町四十二となっている。…… この家は玄関や二階の一部を増改築して現在も残っている。昔は水道も外にあり二軒に一栓であったが、今では各戸の内水道となっている。借家人の××氏は永年○○産業に勤めて退職された建築の専門家であり、家屋の平面図に増築部分を朱記入して頂戴したことがある。…」。上記にはこの守口町八〇一〜一の家が現存しているとかかれていましたが、私が尋ねたときにはマンションになっていました。また住所も現在は新住居表示になって変わっていました。

右の写真の右側マンションの先の所が守口町八〇一〜一となります。現在の住所で守口市来迎町6です。この細い道はなんと旧奈良街道でこ先に旧京街道(大阪街道)があります。昔は栄えた町並みだったとおもいます。大阪時事新報は当時大阪市北区曽根崎上四丁目にありましたので、現在の梅田一丁目駅前第二ビル付近、曽根崎通り(国道2号線)の大阪駅側になります。

守口六八九番地の三>
 平井太郎(江戸川乱歩)は大阪時事新報社も長く続かず、また上京します。東京で勤めますが、大阪に残してきた妻が体調を崩したため大阪に戻ります。「…乱歩が守口に再び戻って来たのは大正十一年七月である。やはり父幸男の家であるが、住所は守口町字守口六八九番地の三、現在の八島町三十三に移住している。乱歩は「三十年」の中で「私の弟妹三人がまだ子供で、父の世話になっている中へ、長男の私が妻子をつれてころがり込んだのだから、父母に対しても実に申訳ない話(中略)父の世話で弁護士の事務所に勤めて、月給を取るようになるまでの四、五カ月、実に居たたまらぬ思いをして、小さくなっていた」という。しかしこの時期こそは乱歩の業績を語るうえで最も記念すべき時期であった。……『二銭銅貨』 と『一枚の切符』 は守口六八九〜三の家での失業時代に執筆されている。…」。父親は守口付近で転居をくりかしていたようです。

左の写真の空き地の所が守口町字守口六八九番地の三です。現在の八島町5番地となります。当時の家が少し前まで現存していました。少し前の写真かありますので掲載しておきます。

門真村一番地>
 大正12年5月、妻・隆子が腹膜炎で大阪赤十字病院に入院します。6月の退院と同時に、親元から離れて大阪府北河内郡門真村一番地の借家に転居します。「…乱歩が門真村一番地の借家に転居してきたのは大正十二年六月二十一日のことで、以前から腹膜炎で赤十字病院に入院していた妻の隆の退院のタイミングに合せた。……『貼雑年譜』 のコピーに「守口附近拡大図」なる略図があったのでようやく現在の門真市本町八番六号喫茶ファファ、その隣の本町八番五号山岸カメラ店のあたりと推定できた次第。…」。門真村一番地は守口から駅一つ離れます。京阪電車が明治43年(1910)に天満橋−五条間が開通していますので、当時は既に京阪電車の守口駅(現在の守口市駅)がありましたが、西三荘駅、門真市駅はまだなく、西三荘駅、門真市駅の間に門真駅がありました。ですから当時の門真駅から京阪電車に乗っていたのでしょう。

右の写真の正面が喫茶ファファ跡、右隣が山岸カメラ店です。現在は両店とも廃業されていました。

守口町ニ六六>
 平井太郎(江戸川乱歩)は大正12年7月、大阪毎日新聞社に勤めます。「…乱歩の門真居住時代は彼の大阪毎日新聞営業部員時代でもあった。毎日新聞大阪本社人事課に問い合せたところ、乱歩は大正十二年七月四日入社、同年十二月十八日社員入社、大正十三年十一月三十日退社という。『貼雑年譜』 によれば「大毎ノ月給ハ八十円デアッタガ、外ニソノ月二取ッタ広告料金ノ五分(デアッタト思フ) ノ手数料ガ貰ヘルノデ収入ハコレマデニナイ豊カサデアッタ」とある。…… 新居守口町二六六は現在では来迎町十四となっている。ここに乱歩は大正十三年の九月まで住んでいる。毎日新聞を退社するのはもう少し先になる。該当地番には大正時代からの古い四軒長屋が残っていたのですぐに判ったが、四軒の内真中の二軒が乱歩の旧宅らしい。…」。ここでも、書かれたときは旧宅が残っていたようですが現在は建て直されていました。

左の写真の正面辺りが守口町二六六です。四軒長屋は写真の左側の家から右側の家辺りに建っていたようです。ですから真ん中付近が平井太郎が住んでいた所になります。大阪毎日新聞社は現在の堂島一丁目6番、堂島アバンザの所にありました。

守口町外島六九四>
 大阪最後の住いがこの守口町外島六九四です。「…父繁男の留守宅はその頃守口町外島六九四に移住している。現在の地番は八島町九である。この古い家は今も同所に住む××氏の持家として残存している。…… この頃、第五作『双生児』 が大正十三年十月、『新青年』 に発表。この家に乱歩は大正十三年九月から十五年一月まで居住する。しばらくは毎日新聞社に通勤していたが、やがて職業作家専従を決意し大正十三年十一月三十日付で退職する。父が療養先の関から帰宅後は二戸一棟の隣の空屋の二階のみを借り書斎としてそこで執筆している。『貼雑年譜』 によれば「『心理試験』『屋根裏の散歩者』 ヲハジメ初期ノ短篇小説ハ大部分コノ家又ハ隣家ノ空屋ノ二階デ執筆シタ。『心理試験』ヲ書イタ時、愈々作家専業ニナル決心ヲシテ大毎ヲ退社シタ」 とある。隣家には○○氏(明治三十四年生) が昭和三年頃から住んでおられる。ただし現在の地番は八島町十番地であり××氏宅の九番地とは一つだけ異なる。…」。××氏の持家は建て直されていました。隣は建て直されていませんでしたが、外観は直されているようです。○○氏宅の玄関横に江戸川乱歩の記念碑が埋め込まれていました。

右の写真の正面が守口町外島六九四、現在の八島町一番地です。写真の正面右が××氏宅、左隣が○○氏宅となります。

次週は鳥羽を歩きます。

大阪 守口地図


江戸川乱歩の参考図書(お問い合わせが多いのでAmazonにリンクしました)






【その他参考文献】
・私の履歴書:江戸川乱歩、日本経済新聞社
・まんだ:まんだ編集部
 


 ▲トップページページ先頭 著作権とリンクについてメール