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最終更新日:2006年11月26日


●江戸川乱歩を歩く 東京編 -1-
  初版2005年12月17日

  二版2005年12月24日 
<V01L03> 春日町の写真を入替

 今週は「江戸川乱歩を歩く」掲載の四週目です。名古屋から朝鮮に渡りますが、学業忘れがたく早稲田大学に入学するため上京します。大正元年から大正3年春までを歩きました。



<乱歩 打明け話>
 江戸川乱歩の自伝については様々な本に書かれていますが、今回は河出文庫の「乱歩 打明け話」を中心にして歩いています。「本書は、このように自身を詳しく語ってきた江戸川乱歩の生涯を、随筆の再構成で通観した一冊である。コンパクトにまとまっている「私の履歴書」と、かなり緻密に自己分析 した「彼」や「活字と僕と」を中心に、単行本未収録のものもできるだけとって新たに編集した。本人によってあまりにも完壁に語られてしまった印象があるだけに、作品研究に比べて、江戸川乱歩もしくは平井太郎という人物そのものについての研究が、これまで十分になされていなかったのは否めない。平成六年の生誕百年は大きな話題になっているが、さまざまな視点から江戸川乱歩の生涯を検討していくことが今後の課題となる。」。と、この本の解説として山前譲さんが書いています。

左の写真は河出文庫の「乱歩 打明け話」です。乱歩がいろいろな本や雑誌に書いたものをほぼ年代順に纏めています。この本と「貼雑年譜」があれば乱歩散歩はOKですね!

【江戸川乱歩】
探偵小説家。本名平井太郎。三重県生れ。早大政経科卒業後、十数種の職業を転々、大正二一年四月「二銭銅貨」を発表し、衝撃的デビューを果す。筆名は推理小説の始祖エドガー・アラン・ポーからとっている。代表作「パノラマ島奇讃」、「陰獣」、少年探偵団ものなどで圧倒的な人気を博し、一時代を築く。(河出書房新社「乱歩 打明け話」より)


江戸川乱歩の東京年表

和 暦

西暦

年  表

年齢

江戸川乱歩の足跡

大正元年
1912
中華民国成立
タイタニック号沈没
18
3月 愛知県立第五中学校卒業
6月 父経営の平井商店が破産し朝鮮に渡る
8月 単身上京し麻布区一ノ橋付近に住む父の旧友・菅生辰次郎の家に居候
9月 早稲田大学政治経済学部予科に入学。下谷区湯島天神町の雲山堂に住み込む
12月 小石川区春日町の下駄屋の二階に転居
大正2年
1913
島崎藤村、フランスへ出発
19
3月 母方の祖母本堂つまが上京し弟と三人で喜久井町に住む
9月 早稲田大学経済学部一年に進学
大正3年
1914
第一次世界大戦始まる
20
5月 叔父一家が上京し牛込区西江戸川町で同居
8月 母が朝鮮から上京し早大野球場裏で素人下宿を開業
11月 牛込区喜久井町に転居
大正4年
1915
対華21ヶ条、排日運動
21
2月 一家で牛込区赤城下町に転居
4月 丸之内三菱ビルの地下に転居
10月 牛込区新小川町に転居
大正5年
1916
世界恐慌始まる
22
1月 牛込区新小川町で叔父の岩田一家と同居
7月 早稲田大学を卒業
8月 大阪靱中通二丁目の加藤洋行に就職


麻布区一ノ橋付近>
 江戸川乱歩(平井太郎)は学業忘れがたく朝鮮から単身戻り早稲田大学政治経済学部予科を受験します。「…名古屋の中学を卒業した年に、父の諸機械輸入商が破産して、僕は八高の入学試験が受けられなくなった。いちどは父に連れられて、父の再挙の朝鮮の開墾事業に同行したが、やっぱり学校がなつかしくて、というようなわけで、ひどく柄にない話だが「武侠世界」流の政治家的野心に燃えていて、政治の勉強をするために、そしてまた、「武侠世界」流の苦学力行をするために、単身内地にもどって上京…」。麻布区一ノ橋付近に住む父の友人である菅生辰次郎の家に居候して早稲田を受験したようです。

左の写真は現在の六本木五丁目の鳥居坂下交差点付近です。一の橋からの少し離れているのですが、「新潮日本文学アルバム 江戸川乱歩」に平井太郎の早稲田大学学籍簿が掲載されているのですが、その中の保証人欄に菅生辰次郎の名前と住所が書かれていました。その毛筆で書かれていた住所が麻布区鳥居坂町一四(一が曲者)です。ただ、当時の地図を見ると鳥居坂町には四番地までで十四番地ははなく、隣の東鳥居坂町には十四番地がありました。四は読めたのですが、一を単につなぎの印として読むのが正しいと解釈しました。そうすると、鳥居坂の交差点を少し登った左側にある秀和鳥居坂マンション辺りだとおもわれます。

下谷区湯島天神町の雲山堂>
 早稲田大学に入学するとアルバイトのため湯島天神前のある活版屋に住み込みます。「…湯島天神前のある小活版屋の小僧をしながら、早稲田大学へ通いはじめた。無論政治家志願である。 ここで僕は再度活字に当面した。昼間学校へやってもらうのだから、夜は十二時一時まで夜なべをしなければならなかった。…… その家には、活字ケースの中に、ウジャウジャ南京虫が巣くっていて、身体中がおできのようにはれ上がったし、奥さんが居ないものだから、僕ともう一人の住込職工とが交替の炊事係りで、米と麦と半々のご飯を炊かなければならなかったし、そして、その黒いご飯と黄色い沢庵ばかりのおかずを、自分で弁当箱にっめて、学校へ通わなければならなかったけれど、ただ活字の魅力が、僕をしばらくのあいだその家に我慢させた。…」。南京虫だらけとは大変です。早稲田までは少し遠いですが、歩いて通学していたのでしょうか?

右の写真は本郷通り切通坂の湯島天神入口から天神下を撮影したものです。右側が湯島天神で、活版屋の雲山堂は左側になります。”湯島天神前のある小活版屋”と書いてありますので゛本来からいうと湯島中坂上の方になるはずなのですが、「貼雑年譜」の地図では本郷通り切通坂の左側(写真の左側)にあるように書かれていましたので、写真もそのようにしました。

小石川区春日町の下駄屋の二階>
 
2005年12月17日 春日町の写真を入替
 あまりの南京虫に閉口したのでしょう。すぐに転居します。「…印刷所を出てからは、三人の苦学生といっしょに、春日町辺のある下駄屋の二階の四畳半を住居として、自炊生活をはじめたが、僕は雑誌発行のことをあきらめなかった。虫のよいことには、子供相手の娯楽雑誌を出して、お金儲けをして、それを学費にあてようと考えた。…」。此方の方が早稲田には近いですね。

左の写真は白山通り春日町交差点から飯田橋方面を撮影したものです。当時と比べると白山通りの道幅が大きくなっており、この写真に映っている道路の辺りに在ったのではないでしょうか。(写真正面の白山通りの左側が春日町です)

牛込区喜久井町>
 平井太郎の窮状を見るに見かねて母方の祖母つまが上京し、牛込喜久井町で一緒に住むようになります。「…大正二年の春ごろから、例の母方の祖母が牛込喜久井町にささやかな家を借りて、私と二人で暮らすことにしてくれたので、しばらく自分で稼ぐ必要がなくなり、そのころやはり喜久井町にあった貸本屋から、また涙香本を借り出して、すっかり再読したことがある。…」。この場所については「貼雑年譜」に住所も牛込区喜久井町五番地と詳細に書かれていました。

右の写真が夏目坂です。右側のビルの左隣の空き地付近が喜久井町五番地付近です。当時と町名番地が変わっていないようです。


牛込区西江戸川町>
 叔父の一家が横浜から牛込区西江戸川町に転居してきたため、喜久井町から祖母と一緒に移ります。「…牛込区東五軒町電車停留所前ソバノ江戸川ベリニ家ヲ借リタノデ、祖母ト私ハ一時ソコヘ同居スルコトニナッタ。…」、と「貼雑年譜」には書いています。僅か数カ月の居住でした。

左の写真は江戸川の小桜橋から西方面を撮影したものです。”東五軒町電車停留所”とは早稲田に向かう都電の停留所が小桜橋の所にあり、この右側辺りが牛込区西江戸川町になります。現在の水道一丁目4番から水道二丁目一番辺りになります。


まだ、東京が続きます。来週も東京を歩きます。

乱歩 東京地図 -1-


●江戸川乱歩を歩く 東京編 -2-
  初版2005年12月24日

  二版2006年1月4日 <V01L01> 牛込区新小川町の写真を入替

 今週も引き続き「江戸川乱歩を歩く」掲載します。五週目になります。早稲田大学に入学した後、家族が東京に揃った大正3年から大正5年春までを歩きました。



<わが夢と真実>
 江戸川乱歩の全集の中では一番最近発刊されたのがこの光文社文庫版の「江戸川乱歩全集」ではないかとおもいます。全30巻はかなりの量です。また一冊のページ数が1000ページ近くあって、電車の中で読むのも大変です。少し重たいですね。「…江戸川乱歩は、最初から詳細な自伝を書くことを計画していたかのように、じつに細かく資料を残している。小説、評論、随筆など自作の切り抜きや自著はもちろんだが、映画やテレビなどの自作をもとにした脚本、自作の評など関連する雑誌や新聞の記事、友人・知人からの手紙(カーボン紙コピーによる自分の出した手紙までも)、各種パーティの席次、写真……。さすがに「自分の書いたものは、どんな断片でも保存している」 (『わが夢と真実』 の「自序」) とはオーバーな表現だとしても、「探偵小説十年」 (昭和七年五月 平凡社版『江戸川乱歩全集』第十三巻)を見ると、デビュー当初から、作家としての歩みにかかわるものすべての蒐集を意識していたのは明らかだ。デビューして数年で、探偵小説界を代表する作家となった乱歩である。たとえ完璧な蒐集にならなかったとしても、関連資料は厖大な数だ。…」。前々回に紹介しました「貼雑年譜」はその代表ですね。ただ、全てが分かっているかというとそうでもありません。東京の住いで早稲田時代は詳細がなかなか分かりませんでした。特に早稲田時代の後半は「貼雑年譜」以外には書かれているものも殆どありませんでした。

左の写真は光文社文庫版の「江戸川乱歩全集」 第30巻です。「我が夢と真実」として、江戸川乱歩、また平井太郎の自叙伝として纏められています。つまり、29巻までが小説となるわけです。

【江戸川乱歩】
探偵小説家。本名平井太郎。三重県生れ。早大政経科卒業後、十数種の職業を転々、大正二一年四月「二銭銅貨」を発表し、衝撃的デビューを果す。筆名は推理小説の始祖エドガー・アラン・ポーからとっている。代表作「パノラマ島奇讃」、「陰獣」、少年探偵団ものなどで圧倒的な人気を博し、一時代を築く。(河出書房新社「乱歩 打明け話」より)


江戸川乱歩の東京年表

和 暦

西暦

年  表

年齢

江戸川乱歩の足跡

大正元年
1912
中華民国成立
タイタニック号沈没
18
3月 愛知県立第五中学校卒業
6月 父経営の平井商店が破産し朝鮮に渡る
8月 単身上京し麻布区一ノ橋付近に住む父の旧友・菅生辰次郎の家に居候
9月 早稲田大学政治経済学部予科に入学。下谷区湯島天神町の雲山堂に住み込む
12月 小石川区春日町の下駄屋の二階に転居
大正2年
1913
島崎藤村、フランスへ出発
19
3月 母方の祖母本堂つまが上京し弟と三人で喜久井町に住む
9月 早稲田大学経済学部一年に進学
大正3年
1914
第一次世界大戦始まる
20
5月 叔父一家が上京し牛込区西江戸川町で同居
8月 母が朝鮮から上京し早大野球場裏で素人下宿を開業
11月 牛込区喜久井町に転居
大正4年
1915
対華21ヶ条、排日運動
21
2月 一家で牛込区赤城下町に転居
4月 丸之内三菱ビルの地下に転居
10月 牛込区新小川町に転居
大正5年
1916
世界恐慌始まる
22
1月 牛込区新小川町で叔父の岩田一家と同居
7月 早稲田大学を卒業
8月 大阪靱中通二丁目の加藤洋行に就職


戸塚町早稲田グランド側>
 大正3年の8月になると母が朝鮮から上京し早稲田大学のグランド横に素人下宿を開業します。「…子供達ノ教育ノコトヲ考エタタメデアロウ、母ガ朝鮮カラ通、敏男ノ二人ノ弟ヲツレテ、父ヲ残シテ上京シテ来タ。祖母ト私ハソノ方ヘ移ッタワケデアル。大正三年八、九月頃カラ同年十一、ニ月頃マデ、ニ三ケ月ノ間デアッタガ、早稲田野球場ノスグ傍ノ二階家ヲ借リテ、母ト祖母トデ素人下宿ヲハジメタ。併シコレハ間モナク素人下宿屋組合ノ抗議ヲ受ケテ中止シナケレバナラナカッタ…」。勝手に下宿屋を始めたので組合から抗議を受けたのでしょう。下宿代にも問題があったのかもしれません。

左の写真は西早稲田交差点から北側を撮影したものです。正面左の道は昔は細い道だったのですが、今を拡張しています。当時はやや右側のグランド坂の道が中心でした。早稲田グランド傍の素人下宿屋の番地は下戸塚352なので、写真の正面白いビルの向こう側辺りです。

牛込区赤城下町>
 早稲田大学グランド脇から再び牛込区喜久井町に転居します。朝鮮から父が帰国し一家が揃います。「…大正三年十一、二月頃、私達一家ハ又牛込喜久井町にへ移ッタガ(前ノ五番地ノ家トハ別、モット廣イ借家)ソコヘ朝鮮ノ父モ引上ゲテ来テ、一家全部ガ揃ッタワケデアル。…」。この家の詳細の場所は分かりません。ここも三カ月程で転居します。「…次ニ牛込区赤坂下の二階家へ引越シタ。コノ頃私ノ一家ハ最モ困難ヲ極メタ時代…」。この牛込区赤城下町の住所も詳細が不明です。

右の写真は新宿区赤城下町付近を撮影したものです。地下鉄東西線の直ぐ近くなのですが細い路地が密集した下町の雰囲気がある町並みでした。

丸の内三菱ビル奥田商店地下室>
 本当によく転居する一家です。よほど貧しかったのではないでしょうか。「…丸ノ内三菱何号館カノ赤煉瓦洋館ノ地下室ヘ移ッタ。ソコハ奥田商店ガ事務所ヲ借リテイテ、奥田氏ノ好意デ父ノ一家ヲソコヘ呼ンデクレタノデアル。…」。家賃はタダだったようです。この場所は最初は丸ビルがとおもったのですが、どうも違うようです。丸ノ内の西側は三菱の赤煉瓦街でしたから、場所の詳細が分かりません。

左の写真は戦前の東京駅から丸ビル付近を撮影したものです。航空写真ですので当時としては珍しい写真だったとおもいます。

牛込区新小川町2-8> 2006年1月4日 写真を入替
 またまた転居します。「…同ジ年九月カ十月ニ一家ハ牛込区新小川町ヘ移転シタ、ソノ理由ハ今ヨクワカラナイ。コノ家ノ頃カラ、ヤハリ川崎氏ノ世話デ天野トイウ株式仲買人ノ宅ヘ家庭教師トシテ、一週間ニ二晩カ三晩通ウコトニナッタ。…」。この場所については詳細の番地がわかっています。の東江戸川町の直ぐ傍で、よくまあ同じような場所で転居するものです。

右の写真の右側角が牛込区新小川町2−8番地です。現在の新小川町6−12付近です。


牛込区新小川町3-19> 2006年1月4日 写真を入替
 新小川町の道を挟んだ西側に転居します。「…大正五年一月二十二日、大学時代最後ノ家同ジ新小川町三ノ一九ヘ引移ッタ岩田叔父ノ一家ト共住デ、家賃ノ負担ハ岩田家ノ方ガ多ク、ヨイ部屋ヲ多ク占領シテイタ。…」。江戸川乱歩、平井太郎の早稲田大学時代最後の住いになります。

左の写真の左側辺りが牛込区新小川町3−19です。現在の新小川町7−7付近です。「貼雑年譜」の見取り図によると百坪で入り口は東側と書いてありましたので、写真の左側付近に入り口がありました。


この後、乱歩は大阪に向かいます。

乱歩 東京地図 -1-


江戸川乱歩の参考図書(お問い合わせが多いのでAmazonにリンクしました)






【その他参考文献】
・私の履歴書:江戸川乱歩、日本経済新聞社
・まんだ:まんだ編集部
 


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