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最終更新日:2006年2月22日


●江戸川乱歩を歩く -名張編-
  初版2005年11月12日 
<V01L01>

 やっと今週から「江戸川乱歩を歩く」の掲載を始められます。江戸川乱歩は三重県で生まれ、愛知、東京、大阪、再び三重、そして東京とかなり転々としています。全て掲載するには来年までかかるのではないかとおもいます。



二銭銅貨>
 二銭銅貨と言うと、江戸川乱歩の処女作「二銭銅貨」をすぐにおもい出しますが、ここでは二銭銅貨の瓦煎餅を紹介します。「…名張市の菓子屋さんが「乱歩せんべい」というものを売り出した。私の処女作「二銭銅貨」にちなんで、昔の二銭銅貨の紋章を焼きつけた丸い瓦せんべいである。駅の売店などにも出していると聞いた。…」。と江戸川乱歩が自ら紹介しています。一袋買って私一人で全部食べてしまいました。神戸名物の瓦煎餅とほとんど同じでした。形が丸いだけです。

左の写真が二銭銅貨の瓦煎餅です。江戸川乱歩の記念碑が建てられた昭和30年に発売されたようです。私は「山本松寿堂」さんで購入しましたが、当時と同じかどうかは分かりません。

【江戸川乱歩】
探偵小説家。本名平井太郎。三重県生れ。早大政経科卒業後、十数種の職業を転々、大正二一年四月「二銭銅貨」を発表し、衝撃的デビューを果す。筆名は推理小説の始祖エドガー・アラン・ポーからとっている。代表作「パノラマ島奇讃」、「陰獣」、少年探偵団ものなどで圧倒的な人気を博し、一時代を築く。(河出書房新社「乱歩 打明け話」より)

近畿日本鉄道 名張駅>
 JR関西本線(湊町−名古屋)は当初は私鉄の関西鉄道として誕生します。名古屋〜大仏〜湊町間が開通したのが明治33年(1900)です。残念なことに名張は通らず北側の伊賀上野を通っています。そのため私鉄の伊賀軌道が大正11年(1922)伊賀上野〜名張間を開通させています。「…名張町は万葉集にも詠まれている古い土地だが、徳川期には藤堂領に属し、伊賀の国では上野市と別に、ここにも出城があり、城下町の古風を今も残している。参勤交代や関西方面からの伊勢参宮の道に当り、本陣などもあり、遊女屋も多く、明治初期までは大いに賑わったが、鉄道が引かれてからは、名張町は沿線から遠くなったために一時さびれたけれども、昭和になって名古屋大阪間の急行電鉄の駅となり、ふたたび遊覧地として人に知られるようになった。…」。江戸川乱歩が名張で生まれた明治27年頃は伊賀上野も鉄道はまだ開通していませんでした。近畿日本鉄道の前身 大阪電気軌道と参宮急行電鉄が昭和5年(1930)大阪〜伊勢を全通させ、名張にも鉄道の駅がやっとできました。

右の写真は現在の近畿日本鉄道名張駅です。駅舎は古そうなので当時のままかも知れません。

江戸川乱歩の名張、亀山年表

和 暦

西暦

年  表

年齢

江戸川乱歩の足跡

明治27年
1894
日清戦争
0
10月21日 父平井繁男、母きくの長男として三重県名張郡名張町新町で生まれる
明治28年
1895
日清講和条約
三国干渉
1
6月 三重県亀山町市ヶ坂に転居
10月 亀山町内で転居
明治30年
1897
金本位制実施
3
7月 愛知県名古屋市に転居


宇流富志禰神社>
 江戸川乱歩(本名 平井太郎)は生まれ故郷の名張に選挙応援演説に出かけます。「…秀二君から、今度の選挙には一つ応援演説に来てくれと頼まれると、政治には全く門外漢の私も、つい行ってみる気になり、実は生れてはじめて選挙演説というものをやったのだが、その演説地の一つに名張町があったという次第である。私が名張町で生れたということは、随筆などにも書いているので、名張町の人はそれを知っていて、大いに歓迎してくれた。演説会は町で一ばん大きい神社の三百人は坐れる広い部屋で開かれたのだが、会衆は場に溢れ、神社の境内まで一杯になって千人に近いかと思われるほどであった…」。60年ぶりの故郷訪問ですから昭和27年です。

左の写真は江戸川乱歩が応援演説を行った宇流富志禰神社です。千人も入ればいっぱいになるでしょう。

清風亭>
 応援演説の日に泊まった旅館が直ぐ近くの「清風亭」でした。「…料理旅館業「清風亭」の主婦と、町で一ぽん大きい本屋さん、岡村書店の主人であった。…… しかし、もう夜も更けていたので、それでは、私は今夜は清風亭に泊ることにするから、あすの午前中に、一つ案内して下さいと頼み、演説会の一行とともに、清風亭に入ったのだが、すると、そこへ土地の有力者や、新聞記者などが集まった中に、富森自転車店の主人がいて、この人がまた、私の母を見知っている老媼があるから、その人に会わせようというのである。その晩は、土地の人々から、色紙や、半折まで持ちこまれ、墨をすって筆を持たされたものだから、酔余、字ともいえないような字を、向こう見ずに書きとばしたりして、秀二君その他の一行が引き揚げたあと、ひとりその清風亭に一泊した…」。この「清風亭」も当時のままのようです。上記に書かれている岡村書店は廃業されたようです。富森自転車店は本町の「大五サイクル」ではないかとおもっています。

右の写真は現在の「清風亭」です。名張は空襲に遭わなかったようなので戦前の家屋がかなり残っています。

桝田医院>
 江戸川乱歩の生家がこの「桝田医院」の裏手になります。「…私の生れた家の跡は新町という大通りの裏手にあった。明治二十七年の昔、父が学校を出たばかりで郡役所に勤めたのだから、月給も十円前後、したがって仮住居の家賃も一円内外であったように聞いている。四間ぐらいの小さな借家だったという。家主は名張の城代の侍医であった横山文圭という人で、その医院の裏に幾軒かの貸家が建っていた、その一つを父が借りたのである。父と父の母と二人住まいのところへ、私の母が嫁入りし、私が生れて、家族は四人になったD私の生れたその家は、もう別の建物に変っていたが、家主の医院は昔のままで、ただ表に大きいガラス戸が入って、外見がいささか変っているだけであった。 横山氏の家族は他に移り、今は桝田敏明という医師が医院を開いている。裏に病室を増築したりして、なかなか盛んのように見受けられた。 私は岡村、宮森両氏の案内で、桝田医院を訪ね、おもてなしにあずかり、医院の裏手の私の生家の跡を見せてもらった。岡村、宮森両氏は、この辺に一つ記念の碑を建てましょうか、などと云った。…」。江戸川乱歩全集第30集「我が夢と真実」の中の江戸川乱歩が選挙の応援演説で訪ねた昭和27年当時の写真と比べてみると「桝田医院」は建て直されています。

左の写真の左側の大きな建物が現在の「桝田医院」です。正面右側に江戸川乱歩先生生誕地の記念碑が建っています。

江戸川乱歩生誕の碑>
 昭和30年、江戸川乱歩生誕の地に記念碑が建てられます。「…岡村さんをはじめ、そのとき案内して下さった人たちが発起人になって、桝田邸の庭にわたしの生誕碑を建てることになり、昭和三十年十一月三日、その除幕式が行われ、わたしも夫妻で列席した。碑は御影石の自然石、高さ台石とも六尺余、碑の上部にわたしの筆で「幻影城」と横に刻し、その下にたてに「江戸川乱歩生誕地」と、書家吉田松窓さんの字が浮きぼりになっている。裏面には「うつし世はゆめ、よるの夢こそまこと」という、わたしの言葉が刻んである。…」。記念碑にたどり着くには、上記の「桝田医院」の写真の道をぐるっと回って裏手の細い路地の「桝田医院」の真後ろにあります。記念碑の所も「桝田医院」の病棟になっていました。現在は使われていないようでした。

右の写真が江戸川乱歩生誕の碑です。後ろ側は「桝田医院」の病棟です。手前が細い路地になります。

名張市立図書館>
 名張で江戸川乱歩を語るには名張市立図書館を抜きにしては語れません。

右の写真が名張市立図書館内にある江戸川乱歩コーナーです。

次週は亀山を歩きます。

現在の名張地図


江戸川乱歩の参考図書(お問い合わせが多いのでAmazonにリンクしました)






【その他参考文献】
・私の履歴書:江戸川乱歩、日本経済新聞社
・まんだ:まんだ編集部
 


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